006 たどり着いた王宮と激情の姫君①
「つかまって」
「ん……」
「ぅおっと!」
「きゃ……」
祐人に腕を引かれて小川を飛び越えたアイリアが、そのままの勢いで祐人の胸に飛び込んだ。
「……」
「……ええと」
困ったような祐人の呟きに、アイリアは弾かれたように身を離す。
一夜を過ごした炭焼き小屋を出て山道を歩き始めてからというもの、アイリアはずっとこの調子だった。指先が少し触れただけで顔を赤くし、口ごもってしまう。それでいながら片時も祐人の傍を離れようとせず、ぴったりと寄り添うようにあとを着いて来る。
祐人にしてみれば目眩がするような可憐さであり、初々しさだった。ぼろぼろになった上着の代わりにアイリアが祐人のパーカーを着ていることも、その目眩を増幅させる原因となっていた。しかもアイリアがパーカーの下には何も着けていないことを、祐人は自分自身の目で確認しているのである。
そういった理由もあり、祐人もまた地に足が着いていなかったわけだが、自分以上に舞い上がっているアイリアを気遣い、積極的に手を繋いで山歩きをエスコートした。
山の匂いは、祐人がよく知っているそれと何も変わらなかった。陽の光を受けて輝く木々の緑も、さえずる鳥たちの声も、空の青さも。
初夏を思わせる穏やかな大気の中、アイリアと青い草を踏み分けてゆくのは楽しかった。
二人で山道を歩きながら、祐人は急速にアイリアに惹かれてゆく自分を感じていた。美人で好みのタイプというだけでなく、慣れないながらも恋人らしく振る舞おうとする様子がとにかく可愛いのだ。
木陰で休んでいるときふと目が合い、木漏れ日の中でキスしたのがひとつのクライマックスだった。唇を離したとき、顔を真っ赤にして目を逸らそうとしながら、目を逸らさず健気に微笑もうとするアイリアの顔を、祐人は一生忘れられないだろうと思った。
――あの契約の場で魅了値を上げたのは正解だったと、不覚にもそう思ってしまった。
俺がやりたかったのは古き良きウォーシミュレーションであって恋愛シミュレーションではない。……恋愛シミュレーションではないのだが、これはこれで悪くない。
そうして祐人はこれからのこと――アイリアとのことを、真剣に考え始めた。
アイリアがどういう境遇の女なのか、まだよくわからない。何か事情があるようだし、昨日の事件を思えばただの女というわけではないのかも知れない。
だがこの先、アイリアと付き合ってゆくのは悪くないことのように思えた。いきなり結婚となると話は別だが、恋人として付き合ってゆくのなら、きっと悪くない。
悪魔に限界まで引き上げられた魅了値の効果は、どうやら本物だったようだ。
だがその恩恵に預かるのも、これが最初で最後でいい。ハーレムは男の夢などと言うが、祐人にそんな大層な望みはない。ただ年頃の男として、好みの女と付き合いたいという願望は人並みにあった。その願望をこれ以上ないレベルで叶えてくれそうな女が、どうやら自分に本気の恋をしてくれているようなのだから、モテるモテないについてはもうそれでいい。
恋人としてアイリアと真面目に付き合いながら、自分が本来やりたかったゲームに取り組んでゆこう。
仮に悪魔が言っていたようにモテてモテて仕方がないというようなことになったとしても、そのときはアイリアの存在が良い意味でのストッパーになってくれるだろう。たとえば会う女が端から自分に惚れてくるような事態になっても、自分にはアイリアという恋人がいるときっぱりそう伝えれば、たいていの女はそれで引き下がってくれるはずだ。
そうすれば悪魔の言う女難など起こり得ない。俺は心置きなく、本来やるべきゲームに集中できる。アイリアと付き合うことで、すべてがうまくまわってゆくに違いない――などと、隣を歩くアイリアの美しい横顔を眺めながら、祐人はそんな甘い夢の中を漂っていた。
少なくとも、二人が目指す都の、まさしく中世を思わせる煉瓦造りの町並みが、遠目にもはっきりと見え始めるまでは。
「……で、いつまで待ってればいいんだろ」
荘厳――と言うよりほとんど禍々しい感じのする城壁をもう一度仰ぎ見て、祐人は一人溜息を吐いた。
ここで待っているようにと言い残してアイリアがいなくなってから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。城壁はのっぺりとしていて窓のひとつもなく、隅に穿たれた勝手口のような扉が、中と外とを行き来するための唯一の通路であるようだ。その扉の前に、祐人はわけもわからないまま立ち続けている。
……なぜアイリアは自分をここに連れてきたのか。なぜ誰にも咎められることなく城の中へ入っていけたのか。謎は深まるばかりだった。
◇ ◇ ◇
そもそも都に着く前かそのあたりから、アイリアは様子がおかしかった。
山道を歩いているときも会話は基本受け身で決して口数は多くなかったが、家並が近づくにつれて更に無口になり、祐人の問いかけにも短い答えしか返さなくなった。
いよいよ町に入ろうというとき、アイリアは祐人に、ここから先は従者のように扱ってほしいと言ってフードをすっぽりと被り、祐人の陰に隠れるようにその背中に着いた。
そんなアイリアを訝しく思いながらも祐人は、初めて目にするこの世界の町を興味深く観察しながら歩き出した。
人々の顔立ちはちょうどコーカソイドとモンゴロイドの中間といった感じだが、髪の色にはだいぶ幅がみられた。アイリアのようなブロンドもいれば、祐人のような黒髪もいて、更にその中間である茶髪や赤毛の人も多い。
だから祐人の黒髪が特に珍しいということはないはずなのだが、町を歩きながら祐人は、なぜか無遠慮な視線が自分に突き刺さるのを感じた。
最初は薄いTシャツにジーンズという自分の服装が珍しいのかと思った。町の人々はみなどこかの映画で観たようなチュニックにゆったりしたパンツ、あるいはワンピースといった格好をしており、祐人のような服を着ている者は一人もいなかったからだ。
けれどもそのうち、祐人は自分を見つめる視線が奇異の目ばかりではないことに気づいた。
とりわけ若い女性からの視線は、これまでに祐人が経験したことがない類のもので、うっとりと眺めてみたり、真剣な顔で二度見したりと、俳優か何かを見るような熱を帯びたものであることが多かった。
だがその一方で、祐人の目にも町の人々は普通とは映らなかった。
なにしろ町を行く人々が揃いも揃って目の覚めるような美男美女ばかりなのである。たまに自分と同じようなモブ顔とすれ違うこともあるが、大半は恋愛ヒエラルキーにおける頂点かその周辺に君臨するような顔立ちの人ばかりで、それが熱に浮かされたような羨望の眼差しで自分を見つめてくるのだから、さすがの祐人も面食らうものがあった。
『十人並みの旦那がその世界じゃ絶世の美男子』
などと言っていた悪魔の言葉は、案外本当だったのかも知れない。
背中に張りつくようにして着いてくるアイリアから行く先の指示を受けながら祐人は、何となくにわか有名人になった気分で、賑やかな露天が軒を連ねる都の大通りを歩いた。
――そして辿り着いたのがこの王城だったのである。