第5話 狭く身近な世界
暮れ始めた空の下、リンは一人で歩く。
向かう先は自然公園ではなくガーネットの家。結局子供達を送った後、アルバと顔を合わせ辛いからと、リンは偶然にも出くわさないよう普段行かない場所へ適当に足を運んでいた。
どう考えても、完全な現実逃避。
初めての場所に続く、初めての道だ。だがリンの思考と薔薇の瞳は石造りの街並みを、そこを歩く人々を観ているようで、実際にはアルバがいないかどうかしか視ていない。
理由は単純。拘束の界法は十分程度で自動解除するようにしており、むしろ彼ならば自力で引き千切って脱出していてもおかしくない。そのうえこちらの逃げ先についても先回りされている可能性が高く、最早このランダムに思う歩みすら察して先回りされていそうな気がする。
「ま、美味しそうなパン屋さん見つけたからいっか」
小麦色の空を見上げ、抱える雲もまた同じ色と香り。
おかげかリンの不安は少し和らいで、手にした出来立てフワフワの食パンを界法器でもある三角帽子の穴へ近付ける。
瞬間、食パンは吸い込まれるように暗い影へと消えた。
(あ~あ、またやっちゃった気がする。流石にやり過ぎたと言うか……いやでも、アルバだって余計な事。子供達の前であんな……だからお互い様……でもなぁ)
帽子を被り直し、自らを改め考え直すも、根源的な悩み癖や子供っぽさは健在のまま。
そうして「うん」だとか「う~ん」だとか言っているうちに、気付けばガーネット花屋に着いてしまった。
「アルバ……流石に帰ったよね」
店前で静かに零すリンの、鼓動がうるさい。
キョロキョロと周囲を確認し彼がいないと分かった今、この胸の想いは果たして不安と期待なのか、それとも緊張緩和で自覚出来るようになった終わりかけの高鳴りなのか。
いずれにせよ奇抜で目立つ格好の自分が暗くなった大通りでソワソワキョロキョロしていては明らかに不審に思われる。リンは帽子に腕を入れて鍵を取り出し扉を開け、暗くなった一階の営業スペース奥の階段から上がって明かりの漏れている扉を開けた。
「ただいま戻りました」
「あらリン遅かったじゃない。アルバ君と最後まで一緒じゃなかったの?」
「あぃやっ、途中お互いに用事が出来ちゃって、それでバラバラに解散したというか」
思わず返答に焦るリン。リビングに入った直後、テーブルで一息ついていた様子のガーネットからそんな言葉が出るとは思っておらず、逆説的にここへアルバが来ていたのだと推測した。
「……アルバが来たんですか?」
「あ、その目と言い方。大丈夫、別に怒ったりなんてしないから。それで~? 聞いたわよ、また彼と喧嘩したんでしょう?」
「アハハ……」
笑って誤魔化そうとするリンだが、それ以上になんと話していいのか分からない。
彼に下着を見られたから、一度は事故だと落ち着けたのに子供達の前で細かく話そうとしたからついやってしまった、なんて正直に言えない。
だってリン自身、それが悪い事だと自覚している。
いくら恥ずかしくても、嫌だったとしても、当然あの界法に痛みが無く感じるのは鼻や口の異物感だけだったとしても、やった行為自体は界法での報復に違いない。
そんな風に思い俯くリンにガーネットは「全くこの子は」と漏らしながら立ち上がる。
「大丈夫。彼言ってたわよ? リンの界法は他の人より凄くて、痛くないって。抵抗が無いなんて、それだけ相手を知ってなくちゃ出来ないんでしょ?」
「……界法は実質相互干渉なので、こちらの強引さと相手の許容・拒絶で大きく変わります。別に、私が彼に詳しくなくても、想像とかで補えれば抵抗による痛みはかなり軽減できますよ」
「でも認識世界が一番重要、なんでしょ?」
「……? まぁはい、そうですけど」
アルバの話……かと思ったら何故か界法の話に。
若干察しの悪いリンにはガーネットの意図が分からない。
むしろ内心「ガーネットさんアルバよりちゃんと界法のこと覚えててくれてる」などと驚いているくらいだ。
「要はね、アルバ君は気にしてないんだから、リンも気にしすぎなくていいの。お互い次会ったら謝ろうって思ってるんでしょ?」
「そう、なんですか?」
「リンは違うの?」
「いえ、もちろんそのつもりですけど……」
「なら残りは明日の自分に任せて、今はお風呂入って着替えてきなさい。人間、お腹空いてる時に悩んだって大抵いいことないんだから」
そう言ってガーネットは豪快に笑い、苦笑いするリンに今日の夕食はミネストローネだと伝えてキッチンの方へ行ってしまう。
おかげで心がなんとなく取り残された気もするが、彼女の意図は伝わった。
リンは奥にある階段から三階へ上がり、元々物置部屋だった自分の部屋へ。
やはりガーネットと話していると心の奥があったかくなる。しかし同時に、それは自分がまだ彼女にとって必要だから言ってもらえてるんじゃないか、なんて不安もある。
正直、幼少期のメリュ師匠以外、人と暮らし言葉をここまで交わしたのはガーネットと出会ってからだ。外で出会った人間達は師匠の言う通り、何を考えているのか分からない人ばかりで、悪い人も怖い人も、優しさを使って騙そうとする人もいた。
「ただいま~みんな」
もちろんガーネットやアルバは別だと、そう願っている。
だがそれ以上に自分自身、この世界も人々のことも知らなさすぎるのも事実。
世界に対する結論は、まだ先でいい。
リンは壁にある月の国製のスイッチを押して明かりを付け、部屋の植物達に声をかける。自然界に選ばれている彼女の力をもってすれば本当に彼らと会話も出来るが、今回は挨拶だけ。
「えへへ、仙人掌君は今日もふわふわだねぇ」
そう言いながらリンはタオルとパジャマを手に、部屋の状態と植物達の状態の変化をザッと観察し、白く柔らかな棘の仙人掌を軽く撫でて笑う。そして帽子は外さずに二階の浴室へ向かった。
「よいしょっと」
扉を閉め、着替えやタオルを濡れない場所へ置く。
丁寧に服を脱ぎ、髪のリボンを解き、心身を解放すべくそれらを籠へ入れ、しかし引き締まった肉体をさらけ出してなお、帽子だけは頭の上。
それからリンは自身の長い髪を洗う時も、自身の界法で薔薇を浮かべた湯船で四肢を伸ばしてリラックスしている間も帽子を肌身離さず、目の届く範囲に置いていた。物が防水とはいえ、流石に異様な愛着が伺えるが、実際リンの三角帽子に対する思いは多少歪んでいる。
たとえそうすることが、メリュ師匠との誓いだったとしても。
「はぁ~薔薇の良い香り。ホント、界法師でよかったぁ」
瞬間、リンは思い出す。
ゆったりと湯船の中で一日の反省会を巡らせ、そもそも何故アルバと一緒に公園へ行ったのか。
「あ、合否聞くの忘れてた!?」
ザバァっと音を立てて立ち上がったが、横にある小窓の向こうは夜。
いずれにせよ彼は明日来るらしいし、そうでなくとも自ら謝りついでに聞けばいい。
そう思い直したリンは手を目にやり息を吐いた後、湯船から出て界法を発動。浮かべていた薔薇を消し、体に付いた余分な水を一瞬で吸収させてからパジャマに着替え、ガーネットと夕食を楽しむ。
「ん~! すっごい美味しいです!」
「そう? なら良かった。でも本当はここにパンがあれば最高だったんだけどね」
「あ! そういえば帽子にパン入れてたんでした!」
食事の最中、ガーネットのふとした言葉にリンは椅子に掛けていた帽子の穴に手を入れ、先程買ってきたパンを取り出す。
「あら出来立て? 相変わらずリンの帽子は凄いわね」
「まぁ作った人が凄いので」
「それってメリュ師匠?」
「そうです! 防水防火防刃に加えて、条件付きですが異次元への収納機能! それにある程度離れた場所から呼べば手元に転移してくるので無くす心配もないんです! 普通ここまで多種多様で高水準な機能をこんな小さな界法器にまとめるなんて不可能ですよ!」
リンの力説を聞きながら、パンを千切ってスープに浸して食べるガーネットはつい思ってしまった。
(……リンも帽子としては大きいって分かってるのね)
対してリンの方は久しぶりに師匠であるメリュラントの凄さを力説できて嬉しく、勢い余って自分が何をどうして食べようとしていたのか忘れてしまう。
「あ、なんか変だと思ったら……あはは。私ずっとパンそのまま食べてました」
「ぷはは! もぉ~リン! 笑わせないで」
そうして平和な世界の、一部非日常な一日は幕を閉じる。
翌朝。
起きて早々リンのテンションは高く、休日の朝はガーネット自慢のパンケーキが待っている。故に彼女は髪をポニーテールで簡単にまとめ、服装も着やすさ重視のスポーティーなパンツスタイルに。
「わはー! スフレパンケーキですか!?」
「そ。運んでくれる?」
「もちろんです!」
キッチンから食卓までの道中、リンは皿を揺らし、そのプルンプルンの姿に目を輝かせて思わず話しかける。
ぷるぷるだねーとか、ぽわんぽわ~ん、と効果音まで。そこをガーネットに見られた時は思わず顔を真っ赤にして恥ずかしがったが、よく考えると普段から部屋で仙人掌に似たようなことをしている場面を彼女に見られ「ふふ、リンの子供らしい一面が見れて嬉しいわ」などと言われていた。
「ッッッ~~~!! いっ、いつから見てました!?」
「んー? リンが『簡単には食べられないプフ~』ってお皿をプルプルしてたとこからかしら?」
「それ全部じゃないですか!? あれですよ!? 絶対アルバには内緒にしてくださいね!?」
それから界法で食用花であるデンファレをパンケーキに添え、食後にはハーブティー。
優雅な朝食を終えたリンはその後、昨日果たせなかった目的を果たすべく一階と二階を繋ぐ階段の半分辺りで彼を待つ。出来るなら自らアルバを探しに行きたいが、彼の家がどこか知らないのだ。
故に、今日は大人しくガーネットの家で待っているのが得策。
だがそんな日に限って彼は来ない。昨日来た時間から三十分、一時間。待てど暮らせどアルバは来ず、リンの中で昨日の不安が再燃し始める。
(どうしよ、やっぱり私から行くべきだよね? いやでも、どこを探しに行こう。公園? でも居なかったら? そもそも合格してて今頃忙しいんじゃ……)
不安に思わず三角帽子の縁をギュっと握るリン。
すると一階から来客を知らせる鈴の音が聞こえ、俯いていた顔を上げて駆け下りるのだった。