第35話 力の解放
同じ空、同じ世界の下、時間は雨のように平等に降り注ぐ。
その最後の一滴が『死』だとして、タイムの界法は『傘』と言っていい。定めた世界の一部に傘を置き、降り注ぐ『時間』という雨から対象を守る。
今、傘が『可憐王国フラワ』に置かれた。
時が止む。完全なる静寂が訪れる。唯一、雨雲すら届かぬ天上のヴァニタスだけが先の未来を知ってか知らずか、フラワ王城にて深い深い溜息を吐いた。
『発……件を、認。……起動式、法を……します。既、値を変更、ます……』
瞬間、リンの帽子から静寂を叩き割らんばかりの警報が鳴り響く。
それはあまりにデジタルで、あまりに途切れ途切れな警報だ。以前に発動した時とは違い、三角帽子から放たれている紫色の光は切れかけの電球のように明滅している。
「アハ。あれが教典に書いてあった邪魔する存在?」
「それか、制御装置の類か。まぁとりあえず、アレを破壊してから考えましょうか」
「そうね! 早くお姉様を楽にしてあげなくちゃ!」
光と音。それはタイムもアインソフ嬢も知らない情報だった。
しかしリンは暴走を始めつつある。なら、それで十分。力を制御できれば一番だが、アイン教の目的は現世界の破壊であり、楽園の再創生だ。故に制御できずに暴走させても、この世界のすべてを滅ぼしてくれるならば問題ない。
逆を言えば、力を抑制されては困る。例えばあの光る魔女の帽子。
破壊しなくては。アインソフ嬢は界法で自らの腕を文字通り伸ばして三角帽子に触れようとした。
「イギッ!?」
「……お、来ましたね」
だが直後、弾かれる。
帽子に付与されたメリュラントの界法にではない。目に見えない何かに弾かれたのだ。そして気付けば帽子から放たれていた音は絶え、紫の光も潰えている。ただでさえ全力の【華凛】の余波で壊れた界法器に、もはや止める力など僅かにしか残っていなかったのだ。
「どうなるかなぁ!? どうなると思う!? タイム君は! 今から愉快に死ぬかもって思ったら楽しくなれる!?」
「…………いいえ? 僕は楽園を見届けるまで死ねませんから」
「あっはは! そうね! ワタシは楽しみだわ!」
拒絶の意思に弾かれた手の痛みに笑うアインソフ嬢が、今度は目の前の光景に笑う。
倒れていたはずのリンがゆっくりと立ち上がり始めたのだ。手を使わず、足も使わずに、時の止まった世界で平然と、操り人形のように起き上がる。
事実、彼女を動かす何かはリンではない。
リンは自ら意識を断った。とすれば彼女の肉体を動かす力は一体何なのか。その正体を、相対する二人は知らない。ただあの力こそアイン教が求める『無限なる光』なのだと、教典にある教祖の言葉を信じて。
「お目覚めね! ごきげんよう、お姉様!」
項垂れた顔が、前を向く。
そして少女の呼びかけにボトリと光すら飲む黒い何かが零れた。
「【コ……くた、れ。みてぃ、ディ……げるな!】」
直後、言葉と共に放たれる敵意。黒い風。
リンの美しい薔薇色の瞳からは粘度の高い黒い淀みが溢れて濁り、徐々に彼女の身体を覆い始めている。そして溢れ落ちた方の淀みは体育館の床に触れると沸騰した水のようにブクブクと暴れ、自己増殖と共にアイン教の二人へ襲いかかった。
「【完全停止】……うおっ!?」
「あっはは! 触ったら死ぬ! ちゃぁ~んと私達を殺しに来てる!」
氾濫のような黒い淀みの奔流と、そこから伸びる触手のような黒い魔の手。
襲い来る二つの脅威にアインソフ嬢はほとんど対処せず受け、淀みに含まれる即死の効果を無数ある命で生き残る。対してタイムは界法で難を逃れようとするも効かず、すぐさまフラワを停止させている界法を解除し、代わりに自らの時間を加速させて避ける。
「わっ! ……あれ? リンお姉……さん?」
界法解除により、動き出す時間。人質達は虫の次は黒い波かと恐怖する。
だが直後に全員が気付く。この黒い何かは自分達を傷つけず、むしろ敵の二人に向かって伸び、広がりを見せている。
だからこそフランは黒い何かの発生源であるソレを見て困惑した。
(黒い……全部黒い。色も光も無い……あれが、リンお姉さんなの?)
黒い淀みに飲まれたソレ。明らかに人の形をした何か。
黒い人型は淀みを全身に纏い、シルエットはどこか重厚なドレスのように見える。確か、そこに立っていたのはリンのはずだ。そう分かっていてもフランは信じられなかった。
『色の代行者』。色の無い世界で生きるフランに与えられた祝福であり、勝手に世界や人を色別し彩る呪い。
そんな彼女の目にすらソレは、真っ黒にしか見えなかった。
いつか見た白さや赤黒さも、心を映す形も無く。ただ世界を人型に切り抜いた結果残った虚空のような黒。きっと人型の頭に見知った大きくて幅広な三角帽子が無ければ、フランはソレをリンだとは思わなかっただろう。
「【ぐる、プンテ。レミ……が。ソライド!】」
人型が何かを訴える。誰も分からないその言葉。
しかし淀みは呼応し、周囲に向かって一気に広がる。
「わ~ん。タイムくーん、ワタシも連れてってぇ~」
「無理ですよ。加速してるだけで、力が上がってる訳じゃないから」
迫る淀みに体育館の外へ逃げるタイムと、黒い奔流に飲まれながらも肉体を変化させてなんとか外へ逃れるアインソフ嬢。
だが目的は達成しつつある。帽子は機能を停止し、力は解放された。
まずは全力で逃げ、そしてこの状態のリンを神に差し向ける。つまりは王城へ。
体感、黒い人型には恐らく倒れる前のリンの意思と意志が残っている。内容までは分からないが、自分達にだけ襲い掛かり周囲の人々には手を出さない辺りそうなのだろうと二人は解釈した。
好都合だ。無秩序な力でも良かったが、何かしらの意思があるのなら誘導できる。
「――【ガルソテュラ・メテ・フラティカ】」
と、タイムとアインソフ嬢が逃げながら不敵な笑みを浮かべた瞬間。
背後にあった体育館が内側から放たれた黒い波動と濁流によって弾け飛んだ。
「なっ!?」
「アッハハ! 止まっちゃだぁ~め、タイム君。とにかく逃げなきゃ死んじゃうよ~」
逃げる二人の遥か後方で、恐るべき魔女のような形となったソレがゆっくりと歩きだす。ソレにとってこの場に留まる理由は無くなった。
古代ガーデン語による詠唱は、逃げていた二人には聞こえていない。
しかしその場にいた人々には聞こえている。意味は分からないが、直後に起きた現象に恐怖と混乱を覚え、みな叫んだ。
怖い。殺される。死ぬ。嫌だ。
だが何よりも『分からない』という感情が、人々に不安と恐怖を抱かせた。
突如破壊された体育館。けれどソレは人々に降り注ぐ前に瓦礫を淀みで飲んだ。
溢れ出した濁流のような淀みも、人間は避けてくれている。守りたいのか。それとも壊したいのか。実際には両方であるなど、フランも含めて誰にも分からない。
だからこそ出来ることは一つ。
粘性の高い淀みの海に少し濡れながら、ただ耐える。
あの人型はゆっくりと敵に向かって歩き始めた。広がり続ける淀みの海は周囲の物を飲み込んでいる。すべてが黒く染まる。命以外、何も残さないつもりだろうか。すると、人々の中の誰かが祈り出した。畏怖。畏敬。救われたという事実。助かりたい。
その想いは純粋で、故に言葉より早く広まっていく。
人質だった人々に始まり、淀みの広がりと共に一人、また一人と――。




