第1話 花屋ガーネット
春。三月。
世界は寒く厳しい冬から優しく暖かな季節へと移ろい始める。
微笑む日差し。鳴き出す小鳥。動き出す虫達。
春の訪れはこのガーデンと呼ばれる大陸世界の生命に活力を与え、緩やかな変化を強制する。もちろん、人間だって例外ではない。
季節の変わり目。新しい環境、あるいは進級。それに伴う心身の変化。
どれも世界にとっては小数点以下の些細な差だが、人間からすれば個人差はあれど大きな変化だ。同時に、その変化を過剰に重く感じてしまう人がいるのは、この『可憐王国フラワ』という国が、土地が、『セカイ』が平和だからとも言える。
「リン! 今日はもうお昼で営業終わりだから、もう上がっちゃいなさい!」
「えっ、なら式典用の花の準備とか……」
「だぁーい丈夫! そのくらい私一人で十分だから、若い子は外で遊んできなさい」
そんな平和と花を象徴とする、花の国フラワの王都にある一軒の花屋。
一階が殆どガラス張りの外装からは色鮮やかな花々がよく見えているが、客の姿は見受けられない。店の前は人通りの多い大通りで、今日は土曜の休日だというのに、中にいるのは腕っぷしの強そうな珍しい赤毛の女性店長と、女性にしてはかなり高身長な、明らかに不自然な薔薇色の瞳と、桜色の長髪をお花ハーフアップにしている若い店員の二人だけ。
「でも……」
というのも、フラワでは建国記念日の四月五日に行われる祝祭の『桜祭り』に際し、花を贈る習慣がある。それは一個人においてはもちろん、学校や企業、延いては国も花屋に予約するため、三月中旬の今は国中の花屋が忙しい。
加えて四月は始業式や入学式などもあり、人員の多い大手の花屋ならまだしも個人店である『花屋ガーネット』では式典などの準備の為、こうして営業時間を減らしているのだ。
「二人で準備した方が早く終わりますし! 手伝わせてください!」
だからこそ、リンと呼ばれていた少女は、店長であるガーネットの言葉に少し考えた後、思い付いた理由を口にする。しかしそれは決してブラックな環境だから、なんて思考によるものではない。
「あのねぇ……」
むしろ逆。ガーネットはリンに優しすぎるのだ。
今だってそう。明らかに大変な時期なのに、忙しいのに、それでも自分を気遣って遊びに行っておいでと。
リンからすれば初めて会った約四年前、異国から来た家出少女の自分をここまで育て、尽くしてくれた彼女に少しでも何か恩返しがしたいだけなのだ。故に、決して外に行っても鍛錬以外にすることがなく、友達も一人しかいないからなんて寂しい理由ではない。絶対に、だ。
「……いい? リン。いつも言ってるけど、若いのに遊びも楽しいことも知らずに働き詰めなんて不健全。せっかく自由に世界を見るって夢があるんだから、時間と心は大切にしなさい」
対してリンの言葉にガーネットは一度息を吐き、移動させていた大きな鉢植えを一旦床に置いて彼女と向き合う。
本心からの善意なのは分かる。彼女にとって自分が恩人なのも理解できる。だが、あまりにも事を大きく重く捉え過ぎている。囚われ過ぎている。
リンは少し……いやかなり、不器用なほど真面目だ。それは世間から『いい大人』なんて言われる歳になったガーネットからすると、息の抜き方も吐き方も知らない、脆く不安定な子供に思えて、何かと世話を焼きたくなる。
「分かったわね?」
それに、だ。そもそも居候云々の話だって、状況的に当然の行いをしたまで。
四年前の『桜祭り』。王城前の噴水の縁に一人でしょんぼりと座っていた少女に声をかけたのが最初の出会い。まさか、身寄りも無ければこの世界に居場所も無いと言ってきた時は流石に驚いたが、それでもガーネットは独りの子供を放っていられるような人間ではなく、色々あって一緒に暮らし始めた。
「うぅぅ……でも……」
「でもじゃないの。親御さん……じゃなくってメリュ師匠? とも約束したんでしょ?」
だが、世界に怯え、自身の外側にあるものへの触れ方を知らぬ当時十三歳の少女は警戒心の塊で、そこから打ち解けるのに一年。プライベートな話ができるようになるのに更に一年。
後に、それら秘密主義や自己肯定感の低さなどが、彼女の育ての親である『メリュ師匠』なる人物の教育方針の結果だと知り、特に事実であろうと幼少期から自身を「血が繋がっていないから母親ではなく師匠と呼べ」などとリンに教えていたと聞いた時には、思わず声を荒げそうになった。
「まぁ、そうなんですけど……その、一応は分かっているつもりというか……」
「ほんとぉ? リンったら真面目過ぎて、目を離すとすぅーぐ仕事するんだから」
けれど、それも過去の話だ。
今となってはよく分かる。きっと、そのメリュ師匠も同じ気持ちだったのだろう。
大切なのはリンが今どう思っているか。ガーネットが聞く限り、メリュ師匠についての話はどれも愛に溢れていて、二人の関係性は言うまでもない。まぁ、だからこそガーネットは時折、未だに敬語で話すリンとの距離感に少し寂しく思ってしまうと同時に、自分のような他人が図々しいとも考えてしまう。
特段、無理に近付きたいとも思っていないのに。
「なっ! 最近はやってないですよ!?」
「最近ね~? じゃあ最後に隠れてやったのはいつ?」
もちろんリンは知らなくていいことだ。そう内心で思いながら、ガーネットは彼女の慌てた様子に悪戯な笑みを浮かべる。
もうすぐ十七歳になる彼女はもう、自分の知る少女ではなくその名と同じ美しさを放つ立派な女性だ。
「ふ、二日前……」
それなのに一転。店での凛とした佇まいからモジモジと、子供らしい一面を見せるリンにガーネットは耐えられぬ愛おしさを感じて豪快に笑う。
決して、自分が産み育てた訳でもないのに。
「も、もう! 正直に言ったじゃないですか!」
「そうね! でも、ルールはルール。ちゃんと罰として、今日は遊んでらっしゃい」
「うぅぅ。それって罰なんですか?」
そんなガーネットの複雑な感情など露知らず、リンは多少不服そうにしながらも店長命令に従い、着ているエプロンの結び目を解き始める。ただ一応まだ営業時間内のはずだ。と、念のためチラと壁の時計に目をやると、営業終了まで残り五分。流石にもう店を訪ねてくるお客もいないだろう。
リンは今回もまたガーネットさんの口車に乗せられたな、なんて思いつつ、その厚意に諦めて息を吐く。
(まぁ、今日は大人しくどこかへ散歩にでも……)
しかし直後、来店を知らせる鈴の音が爽やかに響いた。
「よっ! 遊び行こうぜ!」
「あっ、いらっしゃ……ぅわ。何しに来たのよアルバ」
思わぬ来客かと急いでエプロンを結び直そうとしたのも束の間。
扉を開けて入ってきたのは花を求める客ではなく、リンを訪ねてやってきた金髪碧眼の悪友アルバ。
「『うわ』っておいリン。友達兼カワイイ愛弟子が誘いに来たんだぞ? もっと喜ぶとか何するー? とか、色々あんだろ」
「まず大前提その一、まだアンタと一緒に行くなんて言ってない。その二、アンタは可愛くない」
「はーあ。ったく素直じゃねーの」
相も変わらず素っ気ないリンの対応にアルバは呆れて横を向く。
するとガーネットがこれはチャンスとばかりに手を叩いて、先程取り付けた約束を活かすべく二人に話しかける。
「あーら丁度いいじゃないリン。アルバ君と一緒に行ってきなさいよ。アルバ君も、こっちは大丈夫って言ってたところだから、ちゃっちゃか連れてっちゃって」
「お、分っかりました! よっしゃリン、店長命令だ。早く行こうぜ」
「ちょっ! もう分かったから、少しくらい待てないわけ?」
嬉しそうにグイグイと距離を詰めて催促してくるアルバに若干気圧されつつ、リンはエプロンを片付けてレジの内側にある椅子に置いていた一番大切な物を取る。
それは深い紫色の、幅広で大きな三角帽子。
両親を知らぬ彼女にとって、その帽子は親代わりの人からもらった唯一無二の、愛の証明だ。
「行ってきます! ガーネットさん」
「気を付けて。アルバ君も、あんまり悪さしないようにね」
「うっす! 気を付けます!」
そう言って出ていく若者二人の後ろ姿を眺め、ガーネットは少し自分が感傷的になっていると気付いた。
もし自分に子供がいたら……なんて幻想を、リンに抱いていたのかもしれない。
「全く、私もオバサンになっちゃったのね」
けれど、全部自分で選んだ人生だ。
後悔が無いと言えば嘘になるが、深く悩むような話でもない。そう気持ちを切り替えて、ガーネットは床に置いたままの鉢植えを再び掴んだ。