エピローグ =前世の記憶=
――はぁ、やっぱり駄目だったか。
辺り一面真っ青で明媚な空の下、ある一人の少女がいた。
彼女は風を断ち切るかの如く下に下にへと、とてつもないスピードで落ちていく。
こんな明媚な空の下でスカイダイビングなんて本当に楽しそう―― と思うが、彼女の心境は全く持って違う。
その表情は暗く、右手で顔を隠し、涙を堪える様子も見れた。
「やっぱり… 私じゃなきゃダメだったの…… ね」
か細い声で解き放たれた一言は、悔いの発言。
自分は出来ない、自分はあの人を救うための重要な柱の役にはなれない。
そう思い相手の自分に対する信頼は少ないんだと、心に傷ができ痛い。
だけど…… 彼女は懸命に過去に囚われず、今を向き合おうと涙を振り切り唾を呑む。
「私は… 君と近い間柄にはいないと思います。
…けど、君を、君が助かるならば、私はそれでいい。だから… 待っててね 」
「木霊!!!」
〇
ランタンがオシャレに店内を映す『カフェテラス 幹』
ホテル内に建設されたカフェであり、丸テーブルの席がずらりと立ち並び、連日大人のお客で賑わうお店。
そんな中、ある一人の男が突如と椅子から転げ落ちたのだ。
ゆったりとしたバラード曲が流れていたカフェの中では、ドンッという椅子から崩れる音は非常に響き、店内はざわつく。
カフェテラス幹は連日お客で賑わってはいるが、お酒メインのバー的なお店なので、子供や家族連れの人はいない。
勿論お客全員の視線は、物音を出した本人にへと視線が集まるだろう。
降りかかる複数の眼が、己の体中をチクチクと棘のように降りかかる。
どうやら俺―― 柊木霊は、お客がいるカフェテラスの中で寝落ちをしてしまってたらしい。
そしてあろう事か、目覚めた方法が椅子から転げ落ちたからなんて……
しかも頭を床にぶつけた所為なのか、妙に頭痛が酷い。
何か重要な正夢でも見ていた気もするが、勿論そんなことは覚えておらず、急いで縮こまりながら椅子を定位置に直して席へ着く。
「ごめんな、比奈」
椅子に浅く座り、同席していた相手に軽く笑いながら謝罪をした。
「ううん、いいのいいの。 だって木霊君今日疲れてたでしょ?
朝目覚めるのもギリギリだったし、今日もずっと憔悴しきった顔で過ごしていたからね。」
ランタンの光で煌びやかに光った茶色いロングの髪をかきあげ、朗らかな表情をしたまま、同席していた彼女―― 比奈は俺の謝罪を快く受け入れる。
しかし口ではそう言って俺の機嫌を取ってくれたが、時間が少し経てば比奈も周りの視線は少し気になる様子だ。
辺りを少しキョロキョロと徘徊し、うーんと考えた後にこのお店に出ることに決めたようだ。
「ねえ木霊君、やっぱり出ない?」
「まあそうだよな、少し居づらい雰囲気醸し出してるしな…」
さっきも言ったが、このお店はお酒をメインで扱っている閑静なカフェテラス。
勿論小さな音とか喋り声とかは少し聞こえる。
だが他客が転げ落ちる光景を目の当たりにしたら、お客も少しは俺たちのことを注視するだろう。
この店から出て行け―― とは思っていないだろうが、お客の大半は男女1:1で向かい合って座っており、おそらくカップルか何かしら深い関係を持っている人たちが多い印象。
少しあの人たち気になるな… と、こちらをチラチラと様子を窺ってしまうかもしれない。
出来るだけデートの邪魔はしたくはないというのが本音なのだ。
ここはお店の雰囲気のために出るしかないな。
ちょうど今は午後8時ぐらいだし、部屋で少しはゲームをしていても、明日の結婚式には間に合う。
そう思った俺は席を立ち、比奈も察したのか、何も会話をすることなくスムーズに店へと出て行く。
出る途中、カウンターにいた店員は『全然いてもいいですよー』とテーブルに手を乗せ、こちらを気遣ってニコリと頷いたが、もちろんそんなのは無視だ。
席に立った俺らに心遣いは問答無用。
軽くその店員に目礼だけ済ませ、チリンチリンと現在春なのに、季節外れのクリスマスベルが鳴るガラス張りのドアを開けて店を後にした。
〇
――トコトコとホテルの廊下を会話無しでひたすら歩いていく。
カフェテリア幹がある7階は、部屋がカフェ以外全て客室なので、廊下が静まり返っており、コツンコツンと比奈の履くヒールの音がよく響く。
気まずい。何を話せばいいのか分からない。
澄まし顔をしているが、内心ドッキドキだ。
俺が取ってある客室は12階。
エレベーターはここから突き当りの奥にあるが、もちろん自分の客室まで行くのには数分しかかからないだろう。
だがその数分間に及ぶ沈黙が俺にとって少し気がかり… いや、あまり好きではないのだ。沈黙が。
1人でいるのが好きなタイプの俺だが、複数人と一緒に行動するとなると話は別になる。
この何とも言えない空気、それが本当に耐えられない。
しかも比奈とはここでお別れではない。
一緒に寝るんだ。一緒の部屋で、隣のベッドで。
その時もこの状態だったら… 勘弁だ。
だがそんな後々のことを考えても意味がないと思った俺は、すぐさまエレベーターの待合スペースに、自販機が設置されているのを思い出す。
ここでエレベーターを待つついでに、飲み物を買って、少し比奈と話す時間を設けよう。
「なあ比奈、エレベーターの待合スペースに自販機あるんだけど、そこで少し休憩しない?」
「何?疲れたの?」
「いや、そういう訳じゃなくて…… ただ単に、なんかこういう雰囲気ヤダなって…」
ここは本音で語ったほうが俺的には律儀だと思う。他人の意見なんぞ知らん。
そうすると比奈もこういう沈黙の雰囲気が、俺にとって好きじゃないことを知っててか、意外にもすぐに頷く。
ちょうどエレベーターが7階に止まっていたのにも関わらず、俺らは乗車せずに自販機へと寄っていった。
「ふぅ、 …疲れたな」
「ホントだね、お疲れ様。」
自販機で互いの飲み物を購入した後、ふかふかの革製ソファーに体を委ね、今日溜まった疲労をぶちまけた。
何故ホテルのソファーはこんなにも最高なのか。
あまりにもこのソファーが体にフィットしていて、まるで尻に根が生えている気分だ。
もうどこにも動きたくない。
「明日も早いから早めに寝ないとな。昨日はゲー… 緊張して寝れなかったから、今日はしっかりと10時までには寝ておきたいな。」
今日は明日挙げる結婚式の最終確認のために、朝早くから準備をしていた。
そう、俺たち二人は結婚しているのだ。
そして明日が本番当日。
しかし今日の挙式の最終確認の際に寝坊をしてしまい、遅刻ギリギリのタイミングで到着してしまった。
原因はもちろん明白。
昨夜のゲームのし過ぎ。
寝れないという言い訳をつき、比奈が寝た後の深夜までゲームをぶっ通し続け、最後には画面を付けたまま寝落ちをする様だった。
勿論比奈にはバレていないが、明日は絶対にそんな自堕落な行動をしてしまわないようにしないとごめんなさいじゃ許されない。
昨日の俺を反面教師にし、明日はきちんとするぞと自分に活を入れる。
「そうだけどさ…」
「うん? 何か用事あるの?」
無糖のコーヒーのキャップを閉め、顔を俯く比奈。
何か今から用事があるのではないのと、もぞもぞと浮き腰になる。
あからさまな行動なのでさすがの俺でも気づいた。
「実はさ… 木霊君と一緒に行きたいところがあるの。」
「俺と一緒に?今から? それが比奈が言ってる用事なの?」
「うん、そう。 私は、 ………木霊君とあの崖に行きたいの。」
比奈の発言を聞いてすぐ、驚きのあまりカフェラテのボトルを落としそうになったが、何とか両手で掴み、溢さずに死守できた。
久しぶりに聞いたな。……崖と言う言葉を。
変に冷汗をかいてしまった。
比奈の発言を介して自身の過去の記憶が浮き彫りになり、なんとか別途の話題でリセットしようとした。
だが、脳の収集ファイルは俺の意見などは意に返さず、柊木霊の過去の記憶が無差別で脳内に流れ込む。
〇
崖… 一没岳と言う山にあったんだよな。
中学生の頃、始めて比奈と出会った思い出の地。
だが、比奈との出会い方は最悪の限りだった。
当時の年齢は14、中学2年生も終わりに近づき季節は冬。2月28日だった。
普通の中学生は、少し受験のことを頭に入れている時期。
だが当時少しやんちゃだった俺は、毎晩と言っていいほど友達と学校終わりに遊び呆けており、自宅に帰るのは大体午後7時や8時ぐらいだった。
あの時も帰ってきたのは午後7時前。
ドアを開ける前に部屋のどこにも電気が付いていないことに気づいたが、馬鹿だった俺はそんなことには目もくれず家へと入った。
この時俺は何も分からなかった。 この後の惨状を。
冬の7時は本当に暗く、特に都会でもない地域に住んでいた俺にとっては、日照時間が少ない冬の時期が大嫌いだった。
早く帰ってゲームしようと思いドアを閉め、用心な性格でもなかったから鍵も閉めずに玄関の電気をつけて靴を脱いだ。
乱雑と置かれた靴、そんな中俺が出かける時用に履く別の靴の靴紐に、不自然とクローバーが挟まっていることに気が付く。
何だこれと靴を拾ってよく見ると挟まってたのは、引きちぎられ2つ葉になっているクローバーだった。
その瞬間怖気が走る。
何故か分からないが、背筋が凍るように震えた。
直ぐに気味が悪いクローバーを手で握り、葉を毟り取る。
「おい!! 早く声出せや!! 死んでるんのかよ!!」
冗談交じりにドア越しの暗闇のリビング目掛けて放つ。
だが返事は一向に帰ってこず、聞こえてくるのは階段で反響した自身の声。
額から汗がタラリと出る。
静かすぎて怖い。何も音が聞こえていない。
車はあったし、自転車もある。だが何も生活音は聞こえない。
二階にいる可能性も示唆したが、そうだとしたらなぜ電気は付けないのか。
何故音を出さないのか。
…本当に気味が悪い。
そう思った俺はその鬱憤を晴らすためなのか、はたまた家族の生命が心配だったのか、どっちか分からない複雑な心情のまま、リビングにへと足を踏み入れたのだ。
…本当に要らない回想だった。
冷静を装いカフェラテを飲むが、明らかに挙動がおかしくなっている。
それもそのはず、その後に俺が見た光景は 母、父、妹 の家族三人が、全員首を吊っている景色だったからな。
今でも鮮明に覚えている。
忘れたい思い出だが、脳内の片隅にへばり付いて離れてくれない。
家族の死に際、その光景を最後に当時の俺は憔悴しきっていた。
昔日の日々を思い出す度、家族のありがたみを感じ、そして自分がこれまでに犯してしまった誤った行動を悔いては呪った。
警察が現場検証していくと、テーブルの中心部に母親の筆跡が一致する遺書らしきものが残されており、極めつけは父親は2時に体調不良を理由に早期退社をしていた。
自宅には他人の指紋が一切検出されなく、地域住民の事情聴衆も全部当てにならず、最終的には自殺と判定された。
今考えるとおかしな点もあるが、当時の俺はそんなことはどうでもよかった。
生臭く、ぶらんぶらんと少し体が横に小刻みと揺れており、ギギーと鳴る綱とロフトの柵が擦れる音。
この世の絶望を肌身で感じた。
そこからの俺は何もやる気がなく、何もせず、ただ回復を装い早く病院から抜け出して、償いとして家族の後を絶つことしか頭になかった。
3カ月が過ぎた頃、病院を退院した。
同じ市に住む母方のおばあちゃんが、引き取ってお世話すると看護師の方に言われたが、厭世的な気分だった俺は聞く耳を立てず、右から左に聞き流した。
祖母の家に来て初日の深夜。6月11日。
おばあちゃんは深夜まで俺を見張っていたが、意表を突いて家を抜け出す。
そしてとある場所―― そう、比奈が言っていた思い出の崖へと向かったのだった。
「かなり忘れていたよ…。 記憶から消したくて、比奈と出会って救われた後も、今に至るまでそう思っていたけど、やっぱり違うよな」
過去の囚われていた記憶を今までの俺は忘れようとしていた。
だがそれじゃあ駄目だ。
記憶から消してはいけないもの。
これからも絶対に忘れちゃいけないもの。
そうだよ、行かないといけないんだ。
行かず嫌いしていたらダメなんだ。
この大切な日に、結婚式前に。
ちゃんと比奈と俺との記念場所へと行かないといけない。
「いや、やっぱり駄目だよね…。 ごめんね、やっぱり今日は――」
「行くよ。俺もあの崖に。 …今日行くしかないんだ」
「ホントに? ごめんね、わがまま言っちゃって。木霊君にとってのあの場所は私が感じている景色と全然違うもんね。」
「そんなこと気にしなくていいよ。 …正直俺のほうが行きたい気持ちが大きいかも。
自分の中で忘れたかったんだよ、家族っていう言葉を。でも今は変わった。この気持ちは剥がさないとって。過去を蔑ろにせず、向き合わないとって…」
ずっと俺は避けていたんだ。本能的に崖のことを、家族との過去を。
比奈に出会った時以来、俺はまだ崖にも一没岳にも行っていない。
10年以上は経っているだろう。
だが決めたんだ、過去と向き合わないといけないって。
家族の墓を半年に一度行き、手を合わせるだけで家族との交流をしたと勘違いしていた。
ちゃんと全部に向き合わないと。あの時の出来事を今の目で。
空になったボトルをゴミ箱に捨て、車のキーを取りに行くために一旦自室へと戻った。
比奈は先に車で待っとくと言い、別行動で下の階行きのエレベーターで降りる。
俺は急いで自室へと戻り、テーブルの上にあった車のキーを手に取ると、急ぎ足で下へ向かう。
現在午後8時31分。
平日の夜だが、ここから目的地までは車で走行しても往復1時間半は普通にかかってしまう。
10時に寝るのは諦め0時睡眠ルートにしたが、俺は寝付くのにかなりの時間が必要だ。最低でも11時半にはベッドに入りたい。
そんな事情があるので、一秒でも時間を無駄にしたくない。
意味がないが、エレベーターの下ボタンを連打し、少しでも早く来てくれることを願う。
…案の定エレベーターは一定の速度のまま12階へ到着し、人一人乗せて一階まで下降していく。
途中で誰も乗らなかったのが奇跡だったが、一階に降りて足早に歩こうとした途端、カーペットの少し浮かんでいたでこぼこにちょうど踵がフィットし、引っかかって転んでしまった。
エントランスの従業員の方が即座に来て申し訳ないです、すぐにお直ししますと謝られたが、謝りたいのはこっちのほうだ。
こんなカーペットのでこぼこ。子供でも転ばないよ。
しかしこんな大人が… 情けない。
羞恥心に駆られた俺は、ごめんなさいと捨て台詞を吐き、ホテルへと抜けだした。
「はぁ、はぁ、 疲れた。」
「何で走ったのよ」
「ここに来るまでちょっと少しな…」
ホテルから車がある駐車場まで逃げるように走ってきたせいか、どっと体が熱くなり汗が滲み出る。
たかが100mの距離だが、生憎と俺は運動音痴なもんでね、短距離でも疲れるんですよ。
さっきの状況を何か察したのか、比奈がスマホを触りながらフッと苦笑した。
「何をしたのか分からないし、言及もしたり咎めたりしないけどあんまり人様に迷惑かけないでよ。木霊君迷惑癖があるから」
「うっ! 言い返したいけどその通りなんだよな……」
まるで母親のような発言だが、今の俺には図星のほかなく、何も言い返せない。
自分でも何となく気づいていたが、やっぱり俺、他人に迷惑かけてたんだな。
「まあそんなことはいいから早く行こうよ。帰り遅くなっちゃう。」
「ああ、…そうだな」
多少のダメージを負ったが、そんな些細なことで意気消沈してどうするんだ。
今は時間がない、少しでも早く行かないと損。
すぐに車に乗りエンジンをかけた。
やはり椅子に座ると眠気がどっと押し寄せるな。
さっき寝落ちして寝たはずなのに。
「ふぁぁ、眠たいな」
「ごめんね、無茶言って」
「いいんだ、俺は俺のために行くんだから。比奈はもうそのことに言及しなくていい」
勿論比奈との思い出の為もあるが、やはり一番は自身の過去との共存のため。
暗い空気にならないため、意気揚々とエンジンを全開した俺は比奈に掛け声をした。
「よし!! 行くか比奈!!」
眠気覚ましにいいと大きい掛け声を出すが、肝心の比奈がノってくれない。
あれ?と思い横を振り向くと、笑顔でこちらを覗いていた。
「何?私からの返しがなかったから、少し心配してこっち見たの?」
「ち、ちげーし。た、ただ確認しただけだしよ。」
比奈は人の心を読み取るのが得意そうだ。
思っていたこと全部見透かされた。
臭い演技したけど無駄だったな。
なんか焦ってツンデレ口調っぽくなってしまったのは少し恥ずかしいが。
消沈している姿を見たのか比奈は、はぁーっと軽くため息をつく。
そして突然大声で応える。
「はいはいそうですか確認ですよね、分かりましたよ。 ……じゃあ早く崖に行って行こうか!!」
「行って行こうかってどういう意味だよ。」
ノってくれたはいいものの、肝心な場面で甘噛みしてしまったみたい。
だけど比奈は負けじと、その事実を容認したくないようだ。
「そのままの意味だよ」
「そのままの意味って、 分かんねーよ」
そんな他愛もないつまらない会話を喋りながら、俺たちは崖へと向かっていった。
〇
俺と比奈との出会いは、ホントにマンガのような展開だった。
崖で身投げしようとする俺。その瞬間、後ろから声を掛けられる。
「ちょっと待ってよ」
恐怖で瞬間的に後ろを振り返ると、切り倒された木の上に座っている少女に気が付く。
月光に照らされた髪は神々しくて、俺はもう死んでいて今神様と会っているんじゃないかと、一瞬勘違いするように少女自身は照らされていた。
「お前は… 誰だ」
来るはずがない場所に人がいて呆然と立ち竦むしかなかった俺は、ただ彼女の名前を聞く質問しかできなかった。
「名前を名乗らなくてもいいじゃない。もうすでに会っているんだから」
そう言われたが心当たりがなかった。
こんな目立つ顔をした人、どこにも会って… あっ
「お前って、あの転校生か?」
「ご名答」
家族が亡くなった2月28日。
朝っぱらから集会を開かれ、体育館で憂鬱な気分になっていた男子共に、元気を与えた転校生の豊島比奈の顔が浮かぶ。
だけどそれが何か? こいつとは一度も喋ったことがない。
クラスも別だし、顔も俺から一方的に見ていただけだろう。
「で、何か用なんですか?」
あくまでもこの場面をしらばくれる態度でいた俺。
正直何故豊島比奈がいるのかというよりも、来るはずもない場所に人がいたことが怖いという感情で溢れていた。
あの中学校付近に住んでいるのなら、ここまで来るのに歩きだと3時間以上、車でも30分はかかるだろう。
なのにこいつは今、俺の視界に映っている。
恐怖でしかない。
「そんなの分かってるでしょ、」
だが少女は悩む様子もなく、間髪入れずにスパッと答えた。
「君を助けに来たからだよ――」
山を車で登って約5分。電灯の灯火が薄くなった山奥に存在する。
「懐かしいな…」
潮風がさらりと鼻を突き抜け、当時の気持ちを思い更ける。
あの時、この場所に到着した俺の心情は今とは全然違うんだよな。
目に映っているこの景色も、全て。
崖へと繋がる草道を遠い目で眺めていると、比奈が車へと降り、こちらへ向かう。
途中からぐったりと寝ていたので起き抜けの眼をしていたが、隣に立ちつくすと突然プレゼントすると言い出す。
「ねぇ木霊君、これどうぞ」
「うん?なんだこれ」
暗くてよく分からなかったが、直ぐにクローバーしかも四つ葉のクローバーだと分かる。
「凄いな、四つ葉のクローバーなんて全然見たことないよ」
形も綺麗に整っており、葉っぱもしなしなじゃなくてピシッと伸びている。
実物を見たのはあまりない… いや見たことないんじゃないかな。
四つ葉のクローバーをテレビとかスマホで確認し、それを恰も実物で見たと勘違いしていたのかもしれない。
だからちゃんとした四つ葉のクローバーは、俺が知っている記憶では見たことがない。
「そうなの?ちょっと前に見つけて取っておいたんだけど、そんなに喜んでもらえるのなら嬉しいな。」
「ホントにレアだよ、見たことない。凄い幸運だな」
「うん、それでね、なんで私がクローバーを取って置いていた理由があるんだ。 ……クローバーの花言葉がいいんだよ。」
花言葉か…。
普通はそういう占い系はあまり信じ込まないタイプ。
比奈も多分知っている気がする。
だってクローバーなんて、云わばそこらへん探し回ったら見つかるレベルの花だ。
そんな気軽に手に入る幸せの効果なんてこれっぽちのものだろう。
だから俺はそんな弱小効果なんぞ、大して価値がないと思っている。
だが、、 それでもいい。
数千万倍薄まっている効果でも、その花言葉が今の状況にピッタリだとしたら受け取るわけにはいかないだろう。
「そうなのか… 俺はあまりそう言うの好きじゃないタイプだけど、今は聞きたい気分かもしれないな。
で、花言葉はなんていうんだ?」
「それはね…… ○○――」
比奈が話すと同時のタイミングで、猛烈な風が吹き荒れる。
葉が揺れ、波打つ崖の音が鮮明に聞こえ、話し声が全くと言っていいほど聞き取れなかった。
「やばいな、なんか急に風強くなったぞ」
「えー、タイミング最悪じゃん」
「そうだな一瞬吹き荒れたな… でも今は治まってるからちゃんとまた聞かせてよ」
「うーん、 …やっぱ自分で調べて」
急に飽きてしまったのか、さっきのような真剣な表情から緩くなり始めた。
俺はもう一度訊こうとするが… どうやらここで追撃しても埒が明かない。
比奈がそう言うなら俺もまた後で調べればいい。
…今調べろ? めんどくさい。
挙式が終わった後にでも調べようかな。
そんな絶対にいつまで経っても調べないムーブを醸し出しながら、俺たちは暗闇に塗れる密林をせこせこと歩き出して行った。
〇
密林を歩き始めて10分が経とうとした頃だろうか。
一応崖に行くための道は舗装されているようだが、数年も放置されてれば自然と草も伸びてくる。
中には背丈が俺の腰以上の草も生えており、お陰でさっき左手の甲を擦り切ってしまった。痛い。
道も途中で草にまみれてしまい、どっちの方向にあるのか四苦八苦し、分からなくなってしまう現象にも陥った。
やはり10年もしたら行き場所なんてさっぱり忘れてしまうんだな。
しかも追い打ちで悪いが、この崖には下見でいっぱい行ったというわけではなく、下見と死ぬための本番の2回しかこの崖には来たことがない。
なので自分の勘を信じて突き進んでいくしか術はなかった。
そこから約数分が経過した。
疑心暗鬼の性格が功を奏したのか、真剣に悩み進めていくうちに着実と近づいている。
草の背丈もよく野原で見るような数センチサイズになり、砂石のじゃりじゃりとした音が静寂の夜に響き渡る。
一応懐中電灯を持参したが、木々の間から届く月明かりが明るく、ライトは必要なさそう。
「なあ比奈、大丈夫か?」
だいぶ後ろを確認していなくてさっき気づいたが、ずっとはぁはぁと息を荒げながら参っている比奈の姿が見えた。
かなり合わせてスピード調節したつもりだったが、それは比奈にとっては苦痛―― 速いとしか言いようがなかったのか。
「うん、結構へぇーき」
「いやそんな垂れたような口調でよく大丈夫っていうな。…ごめんな、比奈が疲れているのに気づかず進んじゃって。」
直ぐに比奈を座らせ、水分補給を取った。
おでこを触ったが少し熱が出ている。
風邪かと思い、明日の挙式を思い出して背筋がヒヤッとするが、本人は運動したからその熱だよ、そのうち体温は下がると言う。
「そんなことよりも早く行かないと…」
「おいちょっと待て、まだここで休んだほうがいい。運動して熱が出たとしてもだ。」
「じゃあ帰り遅くなるじゃん! 木霊君それで大丈夫なの?」
「それは困る。だから、」
俺は比奈に背を向けてしゃがむ。
「ほら、乗って」
「え、……肩車してくれるってこと」
「肩車じゃねーよ。誰がこんな場所で学芸団みたいなことするんだよ。…おんぶだよおんぶ」
誰かをおんぶしたことがなかったから、一回でいいからおんぶしてみたかった。
比奈にも前、おんぶしたいと懇願したことはあったが、
「いや、おんぶはNGなんで」
「なんでNGなんだよ。いっつもそう言うけど」
本人曰く、誰かに担がれてもらうことが嫌いなんだそうだ。
俺はカップルみたいじゃんと説得するが、その度にそんなバカップルじゃないよねうちら?と言われてしまい、黙ってハイと言うしかない状況だった。
だが、少し今は我慢してもらいたい。
「だけど今はそうするしか状況はないんだ。ここで比奈を置いて先に行くわけにはいかないし、ここで体調が回復するまで待っていたら時間が過ぎていって無駄になっちゃうだろ?だから今日は我慢してほしいんだけど大丈夫?」
ちゃんと顔を後ろに向けて比奈の顔を見ながら喋る。
数分で回復するほど軽傷ではなさそうだ。
息もさっきと同じぐらいに荒れているし、少し嫌な予感も過ってしまう。
「だったら今から帰るのも一つの案だが…」
「それはだめ!! ……折角来たんだから見に行かないと。でも、…だって木霊君疲れてるでしょ?体調優れないのにさらに私を担いでなんて無理だよ」
「そんなわけねーです。今も体はぴんぴんですよ! 比奈は俺の事貧相な体をしている弱い人だと勘違いしてるみたいだけど、実は結構最近鍛えているんだから!」
比奈の発言が図星だったのか、途端に自分運動できますよ?あなたぐらいの人なんて余裕で持てますよ?と比奈の目の前でスクワットを数回し、続けて狭い道の中を後ろ向きでダッシュし、駆け抜けようとする。
「危ない!!」
比奈が突然とそう叫ぶと同時に、背中に衝撃が走る。
前向きに倒れそうになったが、咄嗟に右足を踏み込み、倒れるのを回避した。
「あっぶねー。 なんだ?」
アキレス腱を伸ばす運動の格好をしたまま、後ろを振り返ると人影がいた。
幽霊だ!と驚き身を構えたが、そこに座って… 転んでいたのは小柄な少女の姿。
どーんとしりもちをついて明らかに痛そうな表情をしていた。
「お、 だ、 大丈夫か…」
明らかに比奈のほうを見ながら、後ろ向きで走ろうとした俺が悪いのを分かってか、素直に謝る。
だが中学生… いや高校生ぐらいの女の子に会う機会が滅多にないせいか、言葉が詰まる。
しかも傷を付けているかもしれない、それもあってか分かるように動揺する。
「大丈夫… です。」
すぐに近寄り手を貸そうとしたが、無情にも差し伸べる手には空気しか触れられず、少女は自力で立ち上がった。
「あ、そうか、うん、一人で立ち上がれるよね、うん、そうだよね」
何故だか分からないが心が泣いている。
別にこの子が好きっていう訳じゃないし、会って一分も経ってないような赤の他人だ。
だけど… 『年頃の女の子に嫌われた』という、お父さんが娘に「別で洗濯してよ」と言われたような寂しく、悲しい気持ちが心に染みわたる。
「すみません… 私帰ります」
「ああ、そうか、うん、一人でここに、気を付けて」
立ち上がりスカートについている砂埃をささっと手で払うと、そそくさと軽いお辞儀をし、崖とは反対方向の道へと小走りした。
「…なんだったんだろうね、あの子」
少し不思議な子だった。
高校一年生ぐらいの子っぽかったけどなんでここにいたのだろうか。
顔もわざと見えないように隠しているような気がして、まるで何かに逃げているような… そんな様子だった。
「怖いね、あの子中三ぐらいの子っぽかったでしょ?家出とかしてるのかな…」
「まあそれもあるけど、…なんでぶつかる前に足音が聞こえなかったんだろうって今気にしてる」
今通っている道の基盤は砂利だ。
茂みが深く、背丈が長い草の付近でもじゃりじゃりと砂利の音が聞こえていた。
だが少女とぶつかる直前、俺は何も背後から音は聞こえなかった。
ぶつかった時はまるで隕石でも降って来たのかと、SFチックなことを考えてしまうほど不思議な疑問だ。
「それもそうかもしれないよね。私もあの子の足跡聞こえてなかった」
「少し気になるところではあるが、それはそれこれはこれで、早く崖に行かないといけないぞ。体調はどうだ?」
「うん、そうだね… まああと少しぐらいは歩けるかな」
顔が泳いでいる気がするがここはもう信じるしかない。
「疲れたりしんどかったりしたらちゃんと声掛けてよな。俺だって男なんだし、運動面でも頼りにしてくれよ」
パソコン系とか勉強系とかを教えるインテリ系の男子ではない… いやあるけど、俺だって運動面で格好つけたいところもある。
「分かりましたよ。頼りますね木霊さん」
なんかふてぶてしい態度だが、頼ってくれるんだったらいい。
「じゃあ急ぐか!!」
そうして再び俺たちは、また遠い崖道まで歩いていった…。
――まあすぐそこに崖あったんだけどね。
なんか冒険気分で俺についてこい!!とか厨二発言しましたけど、あそこから歩いて1分で崖に着きました。
「…まじかよ、」
「ハハッ、 俺についてこい!!って木霊君が格好いい発言していたのに、すぐに到着してしまったんですけどー!!」
「うぅ、あんまりいじらないでくれ…」
ガクリと縮こまった俺に、比奈はいいじゃんすぐに着いてと笑いながら言ったが、それはもういじってるだろ。
完全に俺の発言を玩具のように扱っている。
やめてくれ… 俺だってすぐ崖があるとは思わなかったから、少し格好つけたかったのに… まさかこんなことに。
「!? ねぇ木霊君見て見て!!」
意気消沈と砂利の数を見ていた俺だったが、比奈のテンションが上がって景色見てと推奨されたので、仕方がなく見…
「………綺麗だ。」
呆気にとられた景色に足はあるがまま寄せられて、ボロボロの木の柵に手を置く。
瞠目した瞳に映るのはうん千万もの星明りと、半分に満ち欠けた半月。
神々しいほどに月は明かりを灯しており、海岸全体を金色に煌めかせていた。
この景色を具現化して正確に言葉を表すのは無理だろう。
だから感じるだけでいい。ただただ美しい。
そう感じていれば… 俺は幸せなのかもしれない。
「綺麗だね、」
「…そうだな」
会話が続かなくてもいい。
ただ今は、この景色を見て、過去の俺と話せればいい。
あの時の… 俺と、
『この崖を血で染めてやる』
その一心でここへ来たんだった。
でもただ死にたいという気持ちが全てではない。
少しでもいいから分かってほしかったのかもしれない、俺の本当の気持ちを。
『木霊君大丈夫?ご家族さんの事は可哀そうだけど、強く生きてて偉いねぇ』
俺を担当していた看護師の口癖。
ずっとそうだ、表面上でしか思っていない。
目を見れば分かる。こいつは心から心配してくれてないと。
ただ俺を癒すため… いや自分より下の奴を可哀そうがることで、自身の肯定感を上げる―― そう思っても仕方がないような気がした。
まあそらそうだよね。俺ら他人だもんな。俺も、お前も、全員が、
だから俺は、そんな奴らを見返したいという気持ちも隅にあったのかもしれない。
回復していると表面上の俺ではいっているが、精神的にはずっと消沈している。
でもあいつらは分からない。あいつらは俺のことを表面上でしか見ていないから、俺が今すぐに死にたいとかも考えてない。
だから俺は!!
数分間沈黙が経った。
お互い何も喋らず、ただ景観を眺めて過去に浸っているだけ。
最初に話を切り出したのは俺だった。
「比奈、本当にここに連れてきてくれてありがとうな」
「ちゃんと過去について考えれた?」
「うん、いい機会だった。実際の場所に来て、見て、感じて… 昔のことをたくさん思い返せたよ。」
「それを忘れないようにしないとね」
「また忘れたらまた戻ってこればいい、記念日とかに。次は… 赤ちゃんが生まれる時とか?」
「妊婦にこんな酷道を渡らす気か」
そんな他愛もない会話をして盛り上がっている時の事だった。
茂みの中から急に声が聞こえる。
「おーい! 兄ちゃんたち!!」
完全に気を緩めていたので突然他人の声が聞こえて驚き、前屈みで倒れそうになる。
しかしボロ柵に支えられ、何とか崖に落ちることは回避できた。ありがとうお柵さん。
すかさず比奈の安否を確認し無事だったので、後ろに隠れさせて、人物の正体を探りだす。
「なんですかあなたは。急に声を掛けて。俺たちが驚かないとでも思っていらっしゃったのですか?」
「ああ、それはごめんな。帰ってきたらこの崖に誰かの気配がしたから脅かそうとしてしまったんやで」
ゴリゴリの関西弁だ。
あんまり実物で聞いたことなかったから少し新鮮な気分…
だがこんな小さい崖で人を驚かすのはさすがにない。
万が一落ちたらどうするつもりだったんだよ。
警戒心はマックスだ。もしかしたら跡を付けてきたストーカー的な存在かもしれない。
「すみませんが崖で脅かすのは少し危ないですよね。万が一落ちていたらどう責任取るつもりだったんですか?」
「ガハハハ、 そうだな!! すまないな!!」
性格が明るいのか、話が噛み合わない。
ちゃんと俺の話聞いてるのか?この人。
月明かりのおかげか顔がよく見える。
オーソドックスな大阪のおじさんの顔だがその反面、首には似つかないほどに綺麗な紫の宝石のようなネックレスを掛けている。
だがそれ以外には何も特徴がなく、見るからに悪人顔ではなかった。
しかしまだ油断ならない。
この人がなぜここにいる理由を聞かないと。
「で、何故あなたはこんな閑散とした崖にいるのですか?」
鋭い口調で言ったつもりだったが、おじさんは何も動じずガハハハと笑う。
「ガハハハ、それは俺が聞きたいことなんだけどな。この崖は俺の住んでいる場所、云わば住居ってやつだぜ」
「す、住んでる?」
「そうだぞ、もう三年ぐらい経つんじゃないか。いつ見てもここからの眺めは最高だぞ!」
この発言から鑑みるに、このおじさんは世間的に言うとホームレスっていう事か?
俺は勇気を出しておじさんに訊ねた。
「そ、それは… 俗にいうホームレスと言う感じですか?」
「ガハハハ、まあそういう部類に入ってしまうのかな」
その発言を通して、俺のおじさんに対する警戒心が崩れたような気がした。
さっきまでは跡を付けてきた不審者だと思っていたが、どうやらこの人は違うらしい。
この場所を住居としているホームレスの方だと言うのが分かった。
すかさず俺は詫びを入れる。
「ホームレスの方だったんですね。最初不審者かと思ってしまい少し警戒してしまってました、本当に申し訳ないです。」
「ガハハハ、まあ疑うのも無理はないからな。兄ちゃんも言ってる通りここは人が誰一人としてこないスポットだから、最初は疑って無理もない。」
案外物分かりがいい人らしい。
ホームレスに対してあまりいい印象はないが、この人はかなり社交的でまるでホームレスには見えない。
するとおじさんはその場に胡坐をかいて座る。
「俺からも質問があるんだけどいいかな。兄ちゃんたちがこの崖に来たのにはなんか理由があるんかいな?」
「あぁー… そ、そうですね…」
どうしようか。
素直に「明日結婚式で今日思い出のこの場所に来たんです」と答えるのが筋だと思うが、やはりまだ赤の他人に自分のプライベートを話すのはすこし抵抗感があるような、無いような。
しばらく口が開いた状態で時が過ぎた。
するとおじさんは気まずい雰囲気になったためか話を切り出す。
「いやいややっぱりええよええよ、あんまりプライベートのこと話したくない人もおるからな。ごめんよ、あんま考えてなかったわ」
「いやすみません!少し考えていただけで、」
この時の発言を通し、俺は完全にこのおじさんを信じ切った。
だってこんな配慮善人にしかできない。
「おぉ、そうなんかいな。じゃあ教えてくれるんか?」
「はい言いますよ、俺たちがここに来た理由……」
そう言うと俺はおじさんに軽く近づき、この崖に俺たちが来た理由を丁寧に話した。
明日結婚式をし、その前日に思い出の場所に行こうとここへ来たと。
「へぇー 君たち明日結婚式するんか」
おじさんに説明したらだいぶ時間を食ってしまった。
まずいな、早く帰らないとホントに遅刻が現実になってしまう。
「はい、なのでここらへんで――」
「それじゃあ酒は必須だよな!!」
「はい?」
「祝い酒だよ祝い酒。結婚っていうめでたいことには酒が必要だろ?持ってくるから待ってろ!」
そうすると自前のビニールシートの上で胡坐をかいていた体を立ちあがらせ、急いで正規の道とは違う生い茂った密林の中へと消えていった。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
引き止めようとしたが、俺の声は無情にもおじさんの耳には届かなかったようで、草を掻き分けるガサガサとした音だけが耳に残った。
おい嘘だろ… 酒?
今から酒はまずいだろ。しかも俺運転するんだぞ?どうすればいいんだよ。
膝を崩して倒れ、どうしようもない状況に嘆いていると、後ろから声を掛けられる。
「私、帰り運転するよ」
後ろを振り向くと比奈がぎこちない様子でそう呟いた。
どうやら比奈はおじさんのことを怖がっていたらしい。
何も会話に入らなかったしな…。まあ怖いし分かる気持ちもある。
あんな関西弁ゴリゴリのおじさん、俺だって少し怖気づいてしまう。色んな意味で。
だが比奈が運転してくれるんだったら安心して……
「それならお願いしよ… っていうかお前ペーペーじゃんか」
少しほっと胸を撫で下ろした自分が馬鹿だった。
比奈は免許は取っているが、大体は俺が運転している。
比奈が運転しているところは… 見たことがない。
しかも免許取ったのも去年の秋だし。
半年のペーパードライバーに、この危ない夜の山道を運転させるのは危険なほかない。
「いやいや大丈夫だって!! 私も練習してるんだから!」
いやしかし、そんなドヤ顔で言われても…
よほどあのおじさんの会話に入れなかったのが嫌だったのか、喋れなくて溜まっていた鬱憤を晴らすか如く、俺に話を進めてくる。
だけど… 今の状況じゃそれが一番の手なのかもしれない。
おじさんは安全だし、ちゃんと勧められたものは断ったらだめだし。
…こういう時にきちんと断れる性格だったら、どれほどよかったのでしょうと改めて痛感する。
「猫の手も借りたい。こういう時に使うことわざなのか… まあよろしく頼むよ。」
不安要素しかないが頼れる相手がいないので、強制的に比奈を頼るしかなかった。
〇
「おーい!!」
おじさんが森の中へと入り10分ぐらい経った頃。
両方二人で座りながら帰りを待っていた時、大きい叫び声が聞こえる。
それと同時に比奈は俺の後ろに隠れ、シャツを軽く握った。
「いやーちょっと道に迷っててな、遅れちまってわ ガハハハ」
「俺も少し遅いかなと心配していた頃だったんですよね、」
迷子になってなくて本当に良かった。
このまま帰ってこなかったら、捜索や通報などしないといけないなと焦っていた頃だったからな。
さて、早く飲んでホテルに帰るか。
「俺、こういう誰かと杯を交わすのが久しぶりだからさ、高価なもん持ってきちゃった」
そう言い手に持っていた物はコンビニで売ってそうなワイン。
飲み口がコルクじゃなくてテープで張っていることから、もう開封済みだと分かる。
「兄ちゃんがどれぐらいの生活しよるか分かんねーけど、このワインは誰が飲んでもうめーぞ」
「そうですか、ありがとうございます」
注がれるグラスもかなり使い古した感じ。
飲み口に垢みたいなのが付着していることが気になってしょうがない。
まあホームレスだから仕方がないとは思うが、それでも少し抵抗感はある。
だって見知らぬ60近そうなおじさんの飲んでいたのかもしれないグラスで飲むのは、誰だって抵抗はするでしょ?
じょぼじょぼと乱雑に注がれていくワイン。かなりぬるそうだ。
「ほれほれ、飲んでみーや」
そう笑顔で言うおじさん。
苦笑いをしながら後ろの比奈へと訊ねると、安堵しながらもおじさんには無礼が無いようにニコニコとした表情を見せている。
おじさんは比奈にも飲むように勧めたが、車の運転があるので… もう旦那は運転できないからーと自慢げに話した。
何が運転できないからだ、さっきよりもいい気分しやがって。
くそー くよくよしてたら駄目だ、こうなりゃ一気飲みだ!!
「いただきます!!」
自分に活を入れるため声を上げて口に明一杯息を吸い込み、その勢いでワイングラスにぎりぎり口を付けなく飲む―― 所謂インド飲み方式でワインを飲んだ。
「おーー、 一気飲みや! ガハハハ、凄いな兄ちゃん」
そう喜んでいるおじさんとは尻目に、俺の口内では何とも言えない感覚に襲われていた。
勿論ぬるいのは重々承知だが、少しぬるっとしていて舌触りが最悪。
しかもお酒は大の苦手なんだよ。今にも吐きたい気分。
初めてビールを飲んだ時に、ホントに丸二日酔っ払った逸材の男なんだよ俺は。
ぬるい・ヌルッとしている・お酒嫌い
こんなにも揃っている三銃士は見たことない!!
そう思うが、勿論口ではそんなことは決して言えない。
「あ、おいしです」
鼻で息をして香りを嗅ぎたくないために、鼻呼吸を封じて発言したが、なんか変な日本語になってしまった。
そう言うとおじさんはニッコリと…… いや違う。
不気味な笑みを浮かべた。
「そうかそうか、美味しかったんやな」
さっきまで聞いていたおじさんらしい元気な声は消え、低音の薄気味悪い声で話す。
「え…… なんです―― か…」
少し不気味な雰囲気になった雰囲気。
だがおじさんのジョークだと思い、水に流そうと笑いながら別の話題に振り替わろうとした時だった。
脳みそが、ぐらっと衝撃を受けた。
続けて意識が飛びそうな目眩が起こる。
上半身がぐらぐらと揺れ、平衡感覚を失った。
そして… 音も聞こえなくなった俺はバタンと地面にあるがまま倒れこんだ。
〇
優しい人こそ気を付けろ、悪い奴より心情が読めないからな。
目を覚ました木霊の脳内に今の言葉が掠る。
どこだここは。目を開けたが瞳に映るのは青い空ではなく、コンクリート製の天井。
何も思い出せない、俺は何をしていたんだ。
体を起こそうにも手首に何かが引っ付いて、まともに起き上がれない。
体も重いし、記憶も曖昧だ。
何も現状は変わらぬままだが、見える範囲だけの状況は理解しようと頑張って起き上がる。
しかし、
「…くらくてあまりみえない」
記憶がボーっとしているせいか、ちゃんと物を判別することができない。
絶叫系が苦手な人が、世界最凶のジェットコースターに乗った後のような感覚だ。
全てがうねうねと動いているよう。
しかもなんだか臭いんだよなこの部屋。
嫌な臭い。
嫌いな臭い。
でもどこか懐かしい。
まるで…
「!?」
その瞬間、俺はあの時の風景が脳裏をよぎり意識が覚醒した。
家族全員が死んでいたあの部屋の匂いと同じ。
その当時の匂いが、俺の鼻を掠める。
意識がしっかりと戻り、物が判別できる状態になった俺は、その場を目で徘徊する。
すると、第一で見えたある者に対して絶句した。
「え……… ひ、な?」
茶色いロングの髪の毛。
俯せで顔は見えないが、比奈で間違いない。
俺が間違うはずがない。
比奈が… 倒れている。あの匂いを醸し出しながら。
「比奈ぁぁぁああ!!!」
状況が理解した。
俺たちはピンチを迎えていることに。
「おい比奈!! 返事してくれ!! たのむ!!!」
違う、違う、違う、違う、
これは死んでいる人の腐乱臭ではない。ただの硫黄臭なんだ。
ここでは温泉が流れているんだ。
「比奈ぁぁぁぁああああ!!!!」
あの時の当時の匂いが今、ここで。
もう一生嗅がないと思っていた匂いが今、ここで。
どうしてなんだよ!!!
意識は完全に取り戻し、過去の事も鮮明に思い出した。
あいつだ、あのクソジジイだ。
安心しきった所に漬け込んで、俺たちを攫ったんだ。
あの酒は多分睡眠薬入り… そうと考えていい。
でも何が目的なんだ、あいつとの関係性はない。確実にだ。
俺が睡眠薬のせいで意識が落ちてしまった時に、あいつは俺らを攫い… 比奈はその時に―― 何考えてんだよ俺!!!
「大丈夫だからな比奈、絶対助けてやるからな」
まだ死んだなんて確定しているわけじゃない。
人身売買するから生かしている… 今はそうであってほしい。
もし比奈が生きていれば、俺があのクソジジイを殺せばいいんだ。
そしたら助かって、結婚式が出来…
「おうおう、起きちゃったのか」
重い扉越しに聞こえてくるのは、おじさん特有の明るくガラガラな声。
「兄ちゃん大丈夫かー ガハハハ」
しかし今の状況にとってその声は、身の毛がよだつ他ない声だった。
落ち着け俺。
ブルブルと恐怖と殺気で武者震いしている体を、深呼吸で収めようとする。
『ガラガラガラ』
ゆっくりと開かれた鉄製の扉の先にいたのは、眩しい朝日とあのクソジジイだった。
キラリと首に掛かった紫色の宝石が入るネックレスをチラつかせ、ジジイはこちらを見つめて二ヤリとする。
「どないしたんや兄ちゃん、そんな格好して」
余裕の笑みと言うのだろうか。
手に縄が付いており、限られた身動きしかできない俺に対して、可哀そうと同情してくる。
そんな余裕そうなジジイだが、こんなのに屈したらこの場は絶対に乗り切れない。
「ふざけんなよ!!! この縄解け… 」
明らかに反抗したせいか、話している最中に頭に飛び蹴りを食らった。
「グハッ!!」
キーンと耳鳴りがするほどに強いキック。
血こそ出ないが、脳が震える感覚を覚え… 今にも気絶しそうだ。
「おいおいどうしたんだよ兄ちゃん、こんな挨拶交わしのキックに藻掻いて」
「ふざけんなよ… お前はいつから俺を狙ってたんだ。」
あんな煌びやかに光るネックレスを見てもなお、ホームレスと信じていた俺が馬鹿だった。
こんなにも的確された計画、前々から考えられていただろう。
『崖に来た人たちを無条件で襲う』、もしくは『俺らを事前に絞って襲う』確実にどちらかだろう。
しかしこの崖はさっきも言った通り、近隣住民でさえ知らない人がいるような場所。
だから本命は俺たちを襲うため… だろうか。
「いやいや、勘違いしてまへん?兄ちゃん。俺はそんな賢くないし、ホームレスやし」
「ざっけんな!! ホームレスがこんな強いわけ… 」
再び蹴りが、今度は鳩尾に入る。
さっきの顔面キックよりも威力が強く、昨日食べたものが全部吐き出しそうになる。
「往生際が悪いな兄ちゃん。もう一人だけやのにそんな態度が取れるなんて」
「は? なにいって…」
背筋に悪寒が感じた。
「あの姉ちゃんがああなってるのを見て分からんのかいな?」
ジジイは藻掻いている木霊の頭を強制的に起き上がらせ、比奈の方向を向かせて耳打ちでそっと言う。
「比奈ちゃんはもう…… 死んでるで――」
その言葉を発せられた後の記憶はあんまり覚えてない。
この言葉が聞きたくなくて、そうなってないと信じたくて。
そう願っていたが… 無駄だった。
〇
「ひ゛ な゛ 」
「ガハハハ どうしたんよ兄ちゃん、そんな口パンパンにして」
比奈が死んでいると耳打ちされてから約1時間。
その間俺はコンクリート製の小屋の中で、殴る蹴るなどの暴行が行われていた。
まるでストレスを発散しているように、そのジジイは笑顔で。
口はパンパンに膨れ上がり、左目は潰されていて、右目には光も見えなく涙しか出なかった。
「よいしょっと、これでええかな」
肩に木霊を担いだジジイが向かったのは崖だった。
そう、木霊が過去に命を絶とうとしたあの崖。
そこに向かおうとガサガサと木々をかき分けて歩き始めていた。
木霊はもう生きる気力を失っているのか『ひな』と言う言葉しか発さなくなった。
「着いたぞ兄ちゃん!! 海が綺麗だな!!」
森を歩き始めて15分。
草木を乗り越えて出てきた崖は、太陽が爛々と照らされ… 結婚式日和だった。
もちろん木霊はそんなこと思うはずはなく、只々何も考えず、涙を流すしかなかった。
「ガハハハ そんなに泣くなよ兄ちゃん、もうすぐあの世で比奈ちゃんと会えるんやから」
木霊を崖に建ててあるボロい柵格子の上に下したジジイは、見るも耐えない木霊の姿を見てもなお笑って話し掛けていた。
「ガハハハ ほらほら、兄ちゃん高いだろ」
「 ひ゛ な゛ 」
…ただ助けたかった。
自分はどうなってもいいから 比奈を 比奈を、
だったのに… だったのに!!!
「じゃあな… 柊木霊 」
そうして木霊はジジイに手を押され、崖から落ちた。
ビュービューと背中が風で覆い被さる。
『ああ、このまま マントのように、俺のことを優しく包んでくれれば―― いいのに』
「バッン!!!!」