雑記3 眼鏡っ子、世に憚る?
「眼鏡っ子」。それは、男女を問わず皆大好きなジャンルの一つである。
実際、二次元愛好家だろうが三次元充実人間だろうが、「眼鏡の似合う人」が好みという方は結構いるのではないだろうか……こんな話を持ち出している時点でばれてしまっているだろうが、私もその一員である。
そう言えば、内田百閒先生の随筆に、「髭を伸ばしても誰も何も言わないのに、剃り落とした途端、皆が口々に『間の抜けた顔』と言い出すのは納得いかない」という話があったが、眼鏡でもそれに似た現象が起こることがある。
私も日頃から眼鏡を愛用している身ではあるが、自分を眼鏡っ子にカウントする程には図々しくない。が、眼鏡を外した途端に「あれ、何か今日調子悪い……?」と心配されたりすると、何だか微妙な気持ちになるのだ。「調子悪い……?」の「……」の後に、(顔の)という声なき声が聞こえるのは、卑屈になり過ぎだろうか?
眼鏡を掛けている人に、「知的」で「真面目そう」と好感を抱く人は多いようで、そのことに異論はない。と言うか、同意しかない。だとすれば、眼鏡を外した私は「無知」で「不真面目そう」な印象に格下げになるということか。眼鏡が無いというだけでビジュアルの点数が下がるのは、やはり納得いかない。眼鏡を掛けてぎりぎり五十点の見た目だとしても、点数が十点下がったら、下手したら赤点である。百点が九十点になるのとは訳が違うのだ。
だが、一番腹立たしいのは、自分で自分の顔を見た際にもそう感じてしまったという事である。
先日の事だ。
近所のカフェの窓際席を陣取った私は、バッグから文庫本を取り出し、心躍る物語と穏やかな時間を心行くまで楽しんでいた。目の疲れを感じ、ページを繰っていた指がふと止まる。掛けていた眼鏡を外し、私は目頭を軽く揉み、すっかり温くなったコーヒーを一口啜り窓の外に目を遣れば、既に日は傾き、ガラスに反射した自分の姿と外の景色がうっすらと重なる。それを見て、こう思ったのだ。
「こりゃ酷い顔だ」
なんでだよ。
もうホント、我ながらなんでだよ。純度100%で驚いたわ。普通、ぼやけた視界なら何割増しかで見えるものでしょうが。
眼鏡のある顔も無い顔も見慣れた自分ですらそう思うのだ。ということは、素顔の私しか知らない人にとっては、そもそもが四十点の価値しかない顔という事では……悲しい現実を、ちょっと受け止めきれない。
取り敢えず、知りたくない現実から全力で目を背ける為に、理想の眼鏡っ子について少し深掘りしてみようと思う。
顏+眼鏡に対する印象は、「知的」「真面目そう」だけではない。「素顔とのギャップ」「おしゃれ」や「個性的」、反対に「ちょいダサ」という答える人も居るようだ。
おしゃれで個性的なのは、それはもう本人の持つ元々のセンスとスキルなので、眼鏡っ子としての魅力とはやや話が違う。
素顔とのギャップに関しては、「眼鏡を外した時の印象も変化があって良い」若しくは「眼鏡を外した時の印象の変化が酷い」か、「眼鏡によって違う魅力が引き出される」若しくは「眼鏡によってやぼったさが加わる」かで全く違うが、恐らく「眼鏡を外した時の印象も良い」「眼鏡を掛けても魅力的」と言う事なのだろう。これは地顔が良いと言う前提があって成立する話であり、そもそも眼鏡っ子ではなく、ギャップに重点を置いていると思われるので、眼鏡っ子とはまた少し別の話だと考えるべきだ。
眼鏡っ子とは、そういうことではない。
眼鏡が顔の一部どころか、顏の方が眼鏡の一部なんじゃないかというレベルで眼鏡と顔が一体化している、それが眼鏡っ子なのだ。知的で真面目そうで、ちょっと堅物っぽければなお良い。ちょいダサだって、「ちょい」なんだから全然有りだ。いや、寧ろそれが良い。コンタクトは体質的に合わないしレーシックとかは怖い、とか、直ぐ外せるから眼鏡のほうが楽じゃん、など、実用性だけで眼鏡をチョイスしていると更に良い。あー、もっと世の中に増えないかな、眼鏡っ子。
但し、これはあくまで私にとっての理想の「眼鏡っ子」であり、「眼鏡っ子」を愛する人の数だけオンリーワンの「眼鏡っ子」があるだろう。何より誤解しないで頂きたいのは、「眼鏡美人」や「おしゃれ眼鏡野郎」が嫌と言う事では全く無いということだ。「眼鏡を外した時とのギャップが堪らん」というタイプだって、無論それはそれで大好物なのである。
もしも、これを読んでくれている方で、「自分には似合わないから……」なんて理由で眼鏡を避けている紳士淑女がいらっしゃるなら、そんな勿体ないことを言わず、是非眼鏡にチャレンジして欲しい。屹度、誰かしらの心の琴線に触れること請け合いですよ。