終 処刑
島は一度は弟たちと別れたが、諦めきれずに戻ってきた弟の嘆願に抗しきれなかった。結局、島も彼らと共に鹿児島へ下った。村山は島の邸を出て、後に小城に潜伏したが、密告により捕えられた。
鹿児島へ下った島ら一行は、島津久光宛に嘆願書をしたため、禁闕(皇居)へ謝罪したいと訴えた。だが久光は動かず、潜んでいた旅宿に派遣された邏卒により捕縛された。そこへ訪ねてきた島の弟、重松基吉も捕まった。
先に鹿児島へ向かっていた江藤新平は、鹿児島近郊の宇奈木温泉に逗留中の西郷隆盛に面会したが、やはり協力を得られず、宮崎を経て四国へ渡った。その後は東京へ戻るつてを求めて高知周辺を転々とするが、三月二十九日に逮捕された。
四月十二日、佐賀に開設された出張裁判所において、島、江藤らに刑が宣告される。島、江藤は斬首の上梟首(さらし首)。副島、重松他、憂国社・征韓社の幹部十一名が斬首とされた。
刑は翌十三日に執行された。
止戦に奔走した木原義四郎は、禁固百日に処せられた。出所後は、佐賀の役で罪を得た士族や遺族たちの生活の困窮を救うために奔走する傍ら、家塾を開いて子弟の教育に尽くした。明治十二年九月一日、五十三歳で病没。私財はそれまでの活動で使い果たしており、子弟百十七人が集い、その墓を建立した。彼らによる墓誌が、今も佐賀市伊勢町の大覚寺に残る。