場面一 訪問者
「………来たか」
廊下を進む気忙しげな足音に、島団右衛門は話をやめ、ぽつりと呟いた。相手も口をつぐむ。
時刻は深夜二時である。佐賀城のがらんとした板敷きの広間に、灯火の炎が二つ揺れている。今年数えで五十三歳になる島は、大柄ながら痩せた身体に夜着をまとい、その上からとりあえず羽織を引っかけただけの姿で、板の上に座していた。白髪交じりの豊かな髭が胸元まで伸びている。
その正面には、島の母方の従弟で、六歳年少の木原義四郎が腰を下ろしている。面長で色が白く、優しげな顔立ちをしているが、戊辰の戦では上野の戦いに参加した武人で、数多い島の親戚の中でもその気骨を知られている。和装に髷を結い、昔ながらの武士然とした姿である。この日の夕刻に佐賀に入ったばかりだ。
木原は早くに父を失い、島たち従兄弟や親戚と兄弟のように親しんで育った。東京にいる間は、島の邸に寄宿するのが常だった。
二月の終わりの冷えた空気が、重く、冷たく二人を包んでいる。
※
「義四郎!」
弾んだ声と共に、副島義高が姿を現した。副島は島の末の弟で、副島家へ養子に出た。島よりも五歳年少である。昼の戦闘で髪は乱れ、衣服も汚れたままで、どうやら着替える余力もなく寝入っていたらしい。夜九時近くまで戦ったのだから無理もない。
島にはもう一人、二つ年下の弟がいる。こちらも養子に出ており、重松基右衛門と名乗っている。通称は基吉だ。これも憂国社の幹部だが、島津久光に支援を求めるために鹿児島へ下っており、ここにはいない。
副島は木原に駆け寄ると、その前に両膝をついた。
「よう………よう来てくれた」
従弟の両肩に手を置き、抱きつかんばかりに身を寄せた副島は、掠れた声で言った。
「わさんな、おっとおらんとでは天地の違いじゃ。こがんいくさ場へ、ようもはるばる来てくんしゃった。おいはもう、そいだけで千人の味方を得た思いじゃ」
木原が一瞬眉を寄せ、唇を噛んだのが島には見えた。苦しみとも、悲しみともつかぬ切ない表情だった。だがすぐに笑顔を見せ、副島に顔を寄せ、その背を叩いて明るく笑う。
「おいもわさんが無事な姿ば見て、ようやっと安心したとじゃ」
「なんの、おいも兄じゃも、基ン兄じゃも、皆な闘志凜々じゃ。あがんクソ鎮の五万十万、物の数やなか。今日も散々蹴散らしてやったけんの。爽快この上なかぞ」
クソ鎮、とは、鎮台兵の蔑称である。
「謙三」
島が声を掛けた。「謙三」は副島の通称だ。副島は顔を上げる。
「ちかっと来い」
副島は顔を綻ばせたまま、島の傍らへやってくると、どさりと胡座をかいた。
「こがん夜中に、呼び立てて悪かったの」
「いんにゃあ、やっと義四郎ば来てくれたとに。むしろ起こしてくれんやったら朝に暴れっとこじゃ」
弟の屈託のない笑顔を、島はじっと見つめた。やや間を置いて尋ねた。
「服ば替えとらんと?」
「よか気分で、気ばついたら寝とったとじゃ。義四郎にゃごがん汗臭か出迎えで悪かった」
島はちらりと木原に目をやった。木原はどこか泣き笑いのような表情で小さく頷く。
島は長く伸びた髭を軽くしごいた。
「謙三」
重い口調で、弟の名を呼ぶ。
「義四郎はの、おいらに降伏ば勧めに来よったとじゃ」
副島の目が、信じられないというように見開かれた。
己れを振り返る副島の眼差しを、木原は静かに受けとめる。深く息を吸い、それでも言い出しかねた様子で一度ため息をついたが、ためらいを振り払うようにかぶりを振り、再び副島を見た。
「薩摩ん中山どのが、明日内務卿に面会される。おいは薩摩に下っとったけん、従二位様に頼み込んで同行さしてもろうたとじゃ」
従二位様、とは、日本中の守旧派が頼みとする島津久光公のことだ。中山とは中山中左衛門といい、久光の四天王とも言われる側近だ。
内務卿とは、この戦役の全権を託されて佐賀へ下ってきている、参議兼内務卿の大久保利通である。
「降を請うとは、今をおいてなか」
「わが―――」 (※わが:お前は)
腰を浮かせ、掴みかかろうとした副島の腕を、島はぐいと掴んで留めた。
「兄じゃ!」
「とにかく、義四郎の話ば聞け!」
副島は今度は島を睨みつけたが、再びどさりと腰を下ろす。やり場のない憤りを叩きつけるように、ドン、と拳で床を叩いてから、昂然と顔を上げて従兄を見た。木原は副島を見つめ、一つ息を吐き出してから、落ち着いた口調で話を続けた。
「従二位様は、佐賀の戦が薩摩に飛び火せんよう、政府の依頼で薩摩へ戻られた。おいはそれに従うて薩摩へ行っとったとじゃ」
「何し、わァが薩摩へ―――」
「内務卿を―――あン大久保を掣肘出来くっとは、従二位様しかおられんとじゃろが。今ん太政官におる岩倉公や三条公なんぞに、あン男ば止められっか?」
太政官には、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視と公家出身者が並び、その下に参議兼内務卿大久保利通をはじめとして薩長土肥の旧藩士が並んでいる。だが薩長土肥と一口に言っても、その中でも大久保の持つ権力―――もしくは「政治力」は別格と言ってもよかった。
木原は膝を進めた。
「謙三。大久保は本気じゃぞ。ただでさえ士族の抵抗ば激しゅうて、政府が手ば焼いとっとがこん佐賀じゃ。こん機会に、佐賀ン不平士族ばまとめてぶっ潰す気で、戊辰の戦でもいっかな戦場に出やせんと工作に明け暮れとったあン陰気な男が、政府の全権ば握って、自ら乗り込んで来とっとじゃ。
鎮台兵二千、近衛兵千、それに福岡、小倉、長崎から何千人と動員されとっ。足らんじゃったら広島から大阪から、東北からでも送りこんできよっとじゃろう。そがん軍勢と、これ以上とがんして戦う気じゃ」
副島は反論しようとしたらしかったが、木原の気迫に気圧された様子で口をつぐんだ。
「戦が長引けば長引くほど、こん佐賀ン地は焦土となって荒れ果てる。ただでさえ昨年は大旱魃で農民ばかりか士卒も困窮しきって、あちこちで暴動が起きとっ有様じゃろうが。まさか知らん訳じゃなかろう。それを、おいたち佐賀ン武士もののふが、見込みンなか戦で、国の者ら更に困窮ばさせてどがんすっと?」
昨年は、未曾有と言われる旱魃が西日本で発生していた。税の軽減や藩政の復活を求める農民一揆が頻発し、福岡では最大三十万人が参加したとも言われている。
島は目を閉じた。副島も拳を握る。
父祖の地を守る。それが武士たる者の最大の務めだ。
「団にょん」
木原の切実な声に、島は目を開く。島の数多い従兄弟の中でも、学問・弁舌共に卓越していると昔から評されていた六歳年少の従弟は、両手を床につき、必死の眼差しで島を見つめていた。その目は赤かった。
「こん戦ば、団にょんらの本意でなかったことはよう判る。判っばってん、一旦干戈を交えた以上、今更そいを言うてもどうしようもなか。どうか、ここは堪こらえて引いてくんしゃい。おいが明日政府ん本陣へ行って、どうにか皆の気持ちば汲んで寛大な処置ばなされっよう、命がけで訴えてくっけん。今しかないとじゃ。―――こん通りじゃ」
深々と頭を下げた従弟の白髪交じりの髷を、島は黙って見つめた。
※
勝ち目は、もうない。木原に言われるまでもなく、それは判りきっていた。そうでなければ、弟を止戦の斡旋を求めて鹿児島へ派遣したりはしない。
そもそも、この戦に勝ったところでどうしようというのか。
正直、それさえも明確ではなかったのだ。
征韓の実行による国権の発揚を要求する征韓社と、封建制を復活させ、武士として天皇と旧藩を守ることを目指す憂国社では、目標とするところはまるで異なっている。この戦の直前まで、往来もろくになかった。
その二つが、現政府という共通の「敵」の攻撃に抗するために共闘した。この戦は、つきつめればそういうものでしかなかった。
降を乞うなら、今しかない。従弟は言った。
もう、潮時だ。
「判った」
目を開き、島は言った。
「義四郎の言う通りじゃ。まだまだ十日やそこら気張っこつば何でもなかばってん、御私邸(鍋島公)にも、国ン者にも、これ以上迷惑はかけられん」
「兄じゃ―――」
「戦ば始まっ前、おいは武雄や御私邸の御重役にも再三説いてはみたもんの、結局合力頂くこっば叶わんじゃった。おいらンやったこっば―――結局そがんこっじゃったとじゃろ」
確かに一部の家臣団は、島の呼びかけに応えて戦闘に参加している。だがそれは旧藩を挙げて、というものには遠かった。彼らが集ったのは、迫り来る政府軍への自衛意識であったり、あるいは征韓社・憂国社の勢いに押され渋々兵を差し出したという辺りがせいぜいだ。
副島は両の拳を握り、床へ叩きつける。そして、吼えるように泣いた。弟の泣き声を聞きながら、島は従弟に目を向ける。
「義四郎。謝罪の文ばしたためっけん、政府軍へ届けてくれっか」
床に両手をついたまま、おのれを見上げる木原の頬は涙に濡れている。
「意地を通して城下の盟ばすっようなことになってもの。こん辺りがしおじゃ」
政府軍は、もうすぐそこまで来ている。
島は泣き続ける弟の背に手を置いた。