彼女が灰になっていく時間
私の親友が灰になっていく時間は一時間ほどらしい。私はしばらくぼんやりとしていた。
静かな時間だった。自分の腹が鳴った。空腹ではなく、消化の音だろう。生きている。
親友の彼女に目をやる。泣き腫らした目が痛々しい。
たどる君に由真と想を預けて、私は外に出た。外は2月の割に快晴で、気温こそ低いが日差しが私をほのかにあたためる。なんともまあ、うららかな気持ちのいい日だった。
火葬場を眺める。てっきり煙突があると思っていたのになかった。まあいいや。
深呼吸をした。
彼女だったものの一部でも取り込めるように。
あきれるほど全く意味のない行為とはもちろんわかっていた。
ただどうしてもそうしたかった。
***
「わたしねえ、ずっと早苗のことが好きだったんだよお。うう。ごめんねえ」
結婚式の3次会。史乃はへべれけに酔っていた。そんな史乃を送るために2人で駅まで歩いている最中だった。
「私もずっとこれからも史乃が好きだし!親友じゃん!てか何で謝るのさ」
そして私も史乃ほどではないが酔っていた。
「わたしのは、しんゆうって意味じゃなかったから」
先程とはちがう史乃の声色。私が意味を理解する前に
「結婚本当におめでとうねえ!」
いつもの史乃は走り去った。
酔っているのに大丈夫か。相変わらず足が速いなと思った。
「昨日変なこと言ってまじごめん!忘れて!」
史乃からのメッセージは翌日の早朝に来ていた。
「変な事ではないでしょ。気付かなくてごめんね」
「いやいや!わたしの中で気持ちの整理はとっくについてっから!本当に結婚おめでとうね!これからも仲良くしてほしい!」
「もち。こちらこそ」
ベッドの中から返信を送る。寝返りをうったたどる君がこちらに顔を向ける。あれだけ泥酔していたんだ。起きるのはまだ先になるだろう。
この人が、夫で、家族になったのか。改めて思い、頬に触れる。チクチクとヒゲをかんじる。
史乃は私の事を恋愛対象としてみていたのか。信頼している人からの好意。性欲の対象にもなっていたのかな。史乃が私に?いやそんな事を考えるのは失礼なのか?
実感がどうも伴わない。が、今のところは嫌悪感はない。
もし結婚前に史乃から告白されていたら私は応じたのだろうか。
そしたら今横で寝ていたのはたどる君ではなくて、史乃だったのだろうか。
二度寝に落ちる前にそんな突飛な事を考えていた。
「隣の家のお孫ちゃんが可愛くて可愛くて。ほんとバブちゃんって感じでね。おててなんか本当にもう、ちーっちゃっくって!たどるにもあんな時代があったなんて思い出してね。この間、断捨離ついでにアルバムなんか見返したりして。ホラ!持ってきたのよ。」
よくこんなデカくて重いもん持ってきたな。断捨離断捨離つってっけど、断捨離始めて3年くらい経ってないか。の割には家の中変わってる感じないけどな。
ニコニコしながらそんな事を考える。
カビ臭い、大きなアルバム。それが2冊。
写真中のたどる君は確かに可愛かった。おててなんてちーっちゃくって。
私の知らないたどる君の歴史。それが姑の長い音声ガイド付きで始まる。
初彼女は小五らしい。ませてんなあ。いやそんなものか?
結婚して5年が経った。
一昨年あたりから、姑による遠回しの孫の顔がみたいというアピールが始まった。隣の家のお孫ちゃんの話はこれで13回目だ。語彙というかエピソード自体がないのか、いつも赤ん坊の手が小さい話をする。
子供は欲しくないわけではない。自然妊娠に任せているが、中々できないだけだ。
正直今は仕事が楽しいので出来なくてもいいか、くらいに私は思ってる。たどる君も不妊治療はまだ考えていないと言っていた。
なので、姑のこの、孫欲しいアピールに精神的に追い込まれたりはしなかった。
というか近距離と言えない場所のうちによくぞ度々訪れるものだなあ、根性あるなあ、足腰しばらく大丈夫そうだなあ、遠回しとは言え子作りをしろって言ってるのすげえなあ、くらいに聞き流せた。休みの日が潰れるので、たどる君の方が辟易していた。
「俺だって子供はすぐにでも欲しいけど、こういうのってその、授かりものだろ。もうちょっと待ってくれよ」
夫が姑をいなす。私の味方をしてくれている。
いやそれよりも。そうか。たどる君、子供、すぐにでも欲しかったのか。確かにたどる君子供好きだからな。それは知ってたけど。
私の仕事への熱意も知ってくれてるものだと思ってた。
突然史乃の顔が思い浮かぶ。
史乃と一緒になっていたら。
同性2人の遺伝子が混ざった子供は今の技術では作れない。
2人で生きていくのか、制度的に可能か知らないが養子とか取るのか、どちらかがどこかの男性の遺伝子を使って妊娠するのか。そんな問題というか将来設計に直面するのは異性間での結婚よりもよく話し合う必要があるだろう。
結婚直前に史乃に相談をした日があった。マリッジブルーというやつだったのか、私はその時期初めて自分というものをかえりみた気がする。
「私さあ、今までなんとなく生きてきてて。結婚もさ、そういうもんだと思って進んじゃって。別に彼氏にすごい不満があるってわけではないし、信頼できる人だって知っている、というか信じてるんだけど」
話途中で史乃は笑った。
「信頼できるって言い切らないところが早苗らしいよね」
「人間なんてそんなもんでしょ。というかさー、私らしいってなに?馬場早苗から嶋田早苗になる前に聞かせてよ」
「早苗らしさっていうのは…他人に寄り添えて、でも自分と他人の境目ははっきり決まってて、それが嫌味らしくなくて自然で…本当に優しい人だと思うよ」
「はいでましたー!”優しい“!!常套句!!没個性に使われがち単語!!」
「なに急にうっざ」
「はあ〜〜〜〜。流されるまま生きてくのさ。私はね」
「自分の弱さ由来の優しい、じゃなくて早苗のは強い人の優しいだとわたしは思ってるよ」
「ピンとこない」
これは照れ隠しの一言だった。
「喋りがいのないやつめ」
「編集者でしょー!わかるように説明しろー」
「鬱陶し!マリッジブルーだよ。結婚したら治る治る」
「雑にならないでよ〜。こんなこと史乃以外に相談出来ないんだから」
「流されて生きてきたって、いやわたしはそうは思わんけど、早苗が思うのであれば、これからなんか抵抗とかしてみたら?もっと意思をもって生きてみるとか」
「採用!」
「雑はどっちだよ…」
あれ以来、仕事中にもっと自分の意思で行動するようになったら任される業務が増えて、部下と呼べる人間まで出来たんだった。
史乃とだったら、将来設計についてもあんな感じでフラットに話せていたのだろうか。
いや、たどる君が悪いわけではない。思っていたより話し合いが出来ていなかっただけだ。不毛な妄想はやめよう。
よく話そう。たどる君と。
初産で死ぬような痛みを経験した。夜泣きの対応にもううんざりだと何度も思った。それらを忘れたわけではないのに、それでも2回繰り返したのはどうしてなんだろう。
由真という名前は夫がつけた。自由に、けれども芯のある真っ直ぐな子になってほしい。という由来だそうだ。もっと可愛いらしい名前をつけると思っていた。そう伝えた。
「将来、ゆまじゃなくて、ゆうまって響きにしたいってなった時、読みの変更だけなら手続きが簡単らしいから」
たどる君の背中に頭を預けた。この人と結婚してよかった。心からそう思えた。
想という名前は私がつけた。誰かにおもいやりを持てる人になって欲しかった。
子育ては日々闘いだ。ルーチンワークもこなせない。予想以上の事を子供はしでかす。バスタオルをトイレに突っ込む。壁紙をひっぺがし食べる。ドラム式洗濯機の中で醤油をぶちまける。少し目を離してしまえば簡単に死んでしまう。馬の赤ん坊は生まれてすぐに四足で立ち上がるというのに。人間はこの体たらくだ。
時々、史乃が遊びに来た。遊びに来たというより即戦力になってくれた。史乃は年の離れた弟妹や甥姪の世話をこなしており、扱いに長けている。義実家から人間が来るよりもすごく助かったし、息抜きになった。
夫婦共有のカレンダーアプリに「ふみの」と書いてある日がある。心底参っていた時は、その文字だけがくっきりと見えていた。
子供たちも物事の分別が徐々につくようになった頃だった。
「私ね、彼女できたんだ。いや今までもちょくちょくは出来てたんだけど。」
史乃に彼女が。
ちょくちょくってなんだろう。私は何も知らない。
「でちょっと、その、なんていうか、今の人が束縛が強いっていうか」
「そうなんだ」
束縛なんて言葉を聞いたのは20代前半の時以来じゃないだろうか。
若い子と付き合っているのだろうか。
「んで浮気疑われちゃって…10分でいいから今度会ってくれないかな?」
受けて立とうじゃないか。いや受けて立つってなんだ。
私は何にショックを受けているんだ。
束縛してくるような女性と親友が付き合ってること?それは確かにそうだ。
史乃が純粋に心配になる。でも同性愛者の恋人が人妻の家に度々遊びに行ってたら疑って然るべき、なのかな。
いや、本当はそこじゃない。
史乃は、今までもずっとこれからも私のことが好きなんだと漠然と思っていたんだ。
その自意識の高さにびっくりする。史乃には史乃の人生があるのに。
束縛の強い彼女さんは同じ年頃らしい。にしてはずっと若く見えた。最初の挨拶以外無言で、私の質問には絶対答えなかった。私をしきりにずっと睨んでいた。
史乃は彼女さんの機嫌を取るのに必死だった。
中学生かよ。ロクな人間じゃないな。
いつもみたく目で史乃に訴えてみる。
けど、史乃と視線が交わることはなかった。
私だったら、あんな風に子供のように史乃を困らせたりしないのに。
ふざけた時に困らせはするだろうけど、お互いじゃれてるってわかってる。
でも史乃が本当に困った顔は初めて見た。あんな顔をするんだな。
「ふみの」
とくに意図もなく、呟くように名前を呼んでみる。
史乃の耳に届かないとわかっていたのに。
それから少し経ってから束縛彼女とは別れたらしい。
またしばらくして、新しい彼女と対面した。
とても気さくで華やかな雰囲気のとてもいい人だった。あまりにもお似合いのふたりだった。
「史乃ちゃんて、女のひとが好きなんだよね」
由真が無邪気に聞く。由真が幼稚園に通い出し、恋愛について興味を持つようになった時点で史乃が同性愛者だと教えていた。それから由真も色々考えていたらしい。私の腹で発生し、私がひり出した生命が私の意思ではない動きをしている。日々の生活の中で私以外からもあらゆることを吸収している。すごいな。
「そうだよ。よくおぼえてたね」
史乃が答える。
「想より、由真とママがすきってこと?」
「えー!」
想が拙く抗議する。
「えっとね、想ちゃんも由真ちゃんもママちゃんも同じ好きだよ。みんな大好きだよ。その好きと女の人が好きって、違う好きなんだ」
「ふうん」
急に興味を失ったような由真の返答。
想は無邪気に喜んで史乃に抱きついている。
2人とも、いや私を含めて3人とも史乃が大好きだった。
年齢が上がるにつれ、たどる君は激務になる一方だった。
それでも子煩悩で子供の行事にはなるべく来ていたが、日に日に顔色は悪くなり、眠れない日が続き、それでもいい父親で夫を辞めない彼を尊敬3割心配7割で見ていた。
私も復職し、辞めてもいいと何度もさとした。あなたが参ってしまう方が嫌だと。私が時短でなくなれば、職位も上がり、なんとか暮らしていけるだろうと。
たどる君はそれでも辞めなかった。逆に言うと家事育児の負担はほとんど私だった。
いい父親ではある。子供に自分のストレスをぶつけず、親として、激務の中で子供達と積極的に関わろうとしてくれている。
しかし、朝夕の送り迎えや、日々の些細なものも含めた家事はどうしても私の業務をおろそかにした。疲れているたどる君に気を使うのもうんざりだった。
たどる君は悪くない。ただ、部下だった人が上司になった時に、私はひどい屈辱感と無力感に襲われた。仕事に対して私はそこまで真剣だったのだと気付かされた。私は仕事がしたい。社会という大きなくくりで役立ちたい欲求が強かったのか。
一方でそれは、自ら産み育てている子供たちに失礼な気がした。
史乃に相談をしたかった。しかし彼女は同性愛者で恋人がいる。前の一件もある。そんな人に相談していいのだろうか。
私が史乃の彼女だったら良い気はしないだろう。いくら相手が子持ち既婚者とはいえ、多少の疑念の芽が絶対に生まれる。史乃の幸せを邪魔する人間には絶対なりたくない。
でも電話した。衝動的なものだった。
たどるさんとよく話し合った方がいいよ。
そんな正論に私はうちひしがれた。
私は史乃に何を求めていたんだろう。どんな答えを待っていたんだろう。
スマホを片手にその場に座り込んだ。
史乃が倒れた。そのまま緊急入院して、意識が戻らない。
史乃の彼女さんはわざわざうちにも連絡を下さった。
大きな病院。不安そうな子供たち。人間くささと消毒液が混じったような独特なにおい。
史乃はたくさんのくだに繋がれて眠っていた。結露して曇った窓ガラスが部屋をより無表情にさせている。想は史乃が起きないことを不思議がり、由真は状況を察して涙目になっている。
「よかったら、史乃に、声をかけてあげてください」
泣き腫らした目で彼女さんは言った。
「いっぱい、コードが、あるねえ。ふみのちゃん、おきたほうがいいよ」
想がやはり無邪気に言う。彼女さんは堪えきれなかったらしい。私たちから後ろを向き肩を震わす。由真は、状況に怖気付いてどうしたらいいかわからないようだった。私と同じだ。
「史乃。早苗だよ。」
なんて声を掛ければいいのか。
「史乃、おぼえてる?同期の中でも私たちが仲良すぎて、2人合わせて馬場岸って呼ばれるもんだから、林さんに馬場岸って同じ苗字だと思われてたよね」
史乃。ねえ史乃。いやそうか、私は。
「テニスしてたら、おじさんに絡まれたよね。あの時私すごいおならして撃退したじゃん?史乃、たまにアレ思い出して笑ってるって言ったとき、私なんか嬉しくて
、私はそれをたまに思い出してたんだよ」
今、自分の本心に気付いたよ。あまりにも今更すぎだったね。
「史乃んちの家具買いに行った時、2人して縦横間違って測ってタンス置けなかった時あったよね。あのタンス、まだあるって聞いて、なんか嬉しかったよ」
おもっていることを本当は全部吐き出してぶつけて楽になりたかった。
「史乃のクソ崎部長のモノマネまた聞きたいよ。ンハァ〜から絶対入るやつ。ンでェ、あるからしてっ!って、やっぱ私じゃ似ないね」
でもその選択肢は誰も幸せにならないから。私は一生口にしない。
「何だっけ、犬が死ぬ映画とか、じじいが死ぬ映画とか、ばばあが生まれ変わる小説とか、史乃がめっちゃ泣いてたやつ。いっぱいあったよね。アレらで泣けなかった私を冷血漢とか鉄面皮とか言ったよね。…あの時反論しなかったけど、史乃は泣きすぎだと思う。由真と想が赤ん坊のときはそれだけで泣いてたよね。可愛すぎるって。妹とか甥っ子の時も泣いてたの?」
これが最期になる。わかってる。史乃の血色は明らかに悪く、自発呼吸ができていない。お母さんの時と同じだ。
私にもう二度と関わらなくていいから、それでもどこかで生きててほしかったな。
「起きないと、桑原の送別会で鼻から口に紐通す芸に失敗してゲロ吐いたことみんなに言うからね。」
史乃、このくらいはいいよね。史乃の手に触れる。
「私はずっと史乃が大事だよ」
病室を出る前、彼女さんは私に言った。
「体調が悪いって、ずっと言ってたんです。史乃にもっと病院を勧めていたら…」
彼女を抱きしめる。あたたかく、やわらかい体。
「あなたのせいじゃない。史乃は、あなたのことが大好きでした。あなたと出会えて、史乃は本当に幸せそうでした。だから自分を責めないで。病院に勧めても史乃は病院嫌いだから行かなかったとおもう」
肩越しに嗚咽が聞こえる。本当にいい人と一緒にいれたんだね。
史乃を抱きしめているつもりで、彼女を抱きしめた。
数日後に亡くなったと連絡が来た。
***
ゆっくりと息を吸って吐く。それを何度も繰り返す。自分の鼓動を感じる。
たどる君が眠った想を抱き、由真と一緒にこちらへ来る。
想をたどる君から引き取り、抱きかかえる。また重くなったな。
寝息は穏やかで、呼吸のたびに動く腹部と体温から命をかんじる。
涙の跡が付いている。想なりに何かを理解したんだろう。泣き疲れて眠ったのかもしれない。由真はずっとしゃくりをあげて泣いている。たどる君も鼻を啜りながら優しくそれをぬぐい、抱きしめる。
私の家族が呼吸をするたびに史乃のかけらが取り込まれる。もちろん趣味のわるい妄想だ。
この3人を心から愛おしく思う。それはまぎれもない本心だ。
由真と想は運が良ければ大人になる。さらに運が良ければ幸せに生きられる。その運を出来るだけ上げさせたい。それが保護者の役割かと最近は考えている。
私は、家庭があり、親友があった。今のところ運のいい人生だといえる。
ただその運が少しでも違っていればと途方もないことを考える。それくらいはいいよね。
2021/04 頃書きました。