雪花の舞
どうして赤くないのでしょう。
天から地から、逆巻く真白な吹雪のさなかで、お冬は首を傾げます。
散る赤を知っているのです。よくよく覚えているのです。ぱっと散り、風を染め、地を塗りつぶした生命の赤を。
躯を投げ捨て顔を上げれば。
村ははや吹雪に沈み。風上側に分厚く雪をこびり付かせた椚の林が鳴くばかり。
ひょうるるる ひょうるるる
粉雪巻いた螺旋の風が、童子となって木立を駆ける。ひい、ふう、み……楽しげに笑う形に口を開けても出てくるのはただ風の音。半透明の哀しい子らに、お冬は黙ってついていきます。
行く当てなどはありません。
何かを探しているような。誰かを探しているような。痛くて痛くて堪らない。焦りにも似た凍てつく飢えは、たくさん積もれど雪のよう。つらくて、すかすかしていて、寒い。
螺旋の童子がいたずらに、お冬の袖を撥ねあげて。お冬はひらりと回りました。
袂をつかめば絹麻の、見たこともない白装束。
つやつや薄い着物地は、吹雪が凝って出来たものか。それともこの身が吹雪であるのか。天地を揉むよな嵐の中で、お冬はぼんやり考えます。
椚の林は枝の先まで、白と黒ずむ木肌の色に分かたれて、雪雲の下ではためく墨絵のよう。
お冬は辺りを見回して、右に左に首振り傾げ。そのうちに挙措は三つ振りとなり、ひとさしの舞いとなりました。
右の手をすらりと翳して重心は後ろ。なよやかに腰をそらして顎を伏せ。黒ぐろと流した眼の、睫毛の先にも雪がつもる。
思い起こしたは母上様に習った今様の踊りの一つ。
椚の木末の引き裂く風が笛に似た音で、ひょうるるる、と。
――しづやしづ
しづのおだまき
繰り返し
とん、と拍子を踏んだ足は、足袋を履いてはおりません。素足で追い回されたのです。
――昔を今に
なすよしもがな
雪中の花か。あやかしか。
お冬は墨絵の景色に咲き誇ります。
昔を今に、昔を今に、と白い素のつま先滑らせ振り向けば。墨汁をこぼしたような髪が肩に腕にたっぷりと添う。
その昔、お冬は村の、小さな姫でありました。
白拍子という美しい舞い手であった母上様には、ときおり立派な使者が来て、米や反物、きらきらとした都の品をたくさん置いていきました。
父上様は居なくとも、お冬は絹を着、貴重な宝に囲まれて、何不自由なく育ちました。畑仕事も霜焼けも知らず、謡いと舞いに専心しつつ。
しかしある秋をさかいに、ふつりと使者が途絶えます。
手紙も返らず母上様はだんだん萎れてゆきました。
ちやほやと丁重であった村人も、無遠慮な口をきくようになり。家財が二つ三つと消え。
そして。
お冬にはよく分かりません。飢饉の咎よ妖術よと喚く村人に引き立てられて、母上様は居なくなってしまわれました。家の宝物はみな、螺鈿の櫛も手鏡も、瑪瑙かざりの守り刀も、土足で上がった村人たちが残らず奪っていきました。
母上様の言いつけで土間の隠し場にいたお冬は、枝垂れ桜の舞扇を下品な男に踏みつけられて、思わず悲鳴を上げてしまい。
どうしてかはよく分かりません。小雪の中を追い回され、散々に囃し立てられて、痛くなって、暗くなって……目覚めて吹雪になってからは、何もかもが、いっそうよく分からぬのです。
その代わり、今までに見えないものが見え、聞こえないものが聞こえます。雪に埋もれた多くの躯も、それが発する悲嘆の声も。人にあらざる存在たちまでもが、当たり前のように鮮明に。
両手をあげて走りまわる風の童子を先駆けとして。するすると舞いながら流れ着いたは林の奥処。細枝叩いて狂うたような嵐の尖が千々に鳴く。
ひょうるるる ひょうるるる
「ひゃあ! ば、化け者っ!」
吹雪に混じってかすれた叫びが、かすかにお冬に届きました。するりとそちらに近付きます。目覚めてからは体が軽く、歩く必要もないのです。
尻餅ついて椚にすがって真っ青なのは、粗末な男でありました。
見覚えがある、気がします。きっと村の男でしょう。お冬を狩って殴って引き裂いた一人。
「わちゃ来なぁ! 来ながぁ!」
歯の根が合わない男を眺め、お冬は首を傾げます。
鄙びた言葉が口に染みては父上様に申し訳が立たぬと、村人からは遠ざけられて育ったのです。嗚咽混じりに続く叫びは、少しも意味が分かりません。
お冬は手を差し伸べました。もう一方の手でしとやかに褄を取り、膝を折ってのぞき込みます。
男は両目を見開いて、金切り声をあげました。
どうやら腰が抜けたのか。手を足をばたつかせ必死に逃げをうっていても、辺りの雪が跳ねるだけ。つぶれた小虫がもがくように、少しも居場所は動きません。
お冬のぱっくり割れた頭の脳漿も、半ばまで断ち切られた首も、お冬自身には見えぬこと。
わめく男はただ騒がしく、おかしな者よと思えます。
ふう、と息を吹きかければ。男は瞬間硬直し、末期の息を吐きました。青ざめた顔に霜が降って……これで良い。これでもう、おかしくはない。
螺旋の童子が周りを跳ねます。お冬の耳には、凍りついた男の口からいまだに悲鳴が聞こえるけれど、雪に埋まれば気になりません。親しい存在と思えてくるので、むしろ心がやわらぐのです。
そのうち迎えが。ああ貴い仕事ぶり。もう村中を巡り終え、林の方へやって来ます。
お冬以外の死人を乗せて。ありがたくも温かい、行方を導く金色の舟。
この墨絵の吹雪を渡り。七色の灯火も艶やかに。舟あし清らに迷いなく。
舳先に真珠の櫂を差した、やさしいお顔の船頭さまは、一度拒んでしまってからはお冬を乗せては下さらぬ。
どこへに行けばよいのやら。
確かな行方を知る舟は、眩いあまりに近寄れなくて。
止みようのない飢えはまだ、お冬の中に吹き荒れています。何かを探しているような。誰かを探しているような。痛くてつらくて堪りません。
お冬には、最早かえる村もなく。
村。
むら?
吹雪に道がかすむように、お冬の心もかすんでゆきます。
舞うがごとくに裾を捌いて、林の彼方、黒雲冠った双子の山を仰ぎました。
遠く遥かな木立の上から、雪蓑を着た呪いの鬼がざんばら白髪を突き出して、のっしのっしと歩いていきます。
椚の木よりも大きな鬼の掲げ持つ。抜き身の太刀が冷たくひかる、あの方角。二つの山の向こう側には大きなお城の都があって、徳高くやんごとなき父上様がいらっしゃると、母上様に聞いたのです。
心をそちらに向ければ、ふわ、と体は雪に巻き上がる。何かを忘れて。何かを探して。雪鬼の太刀よりなお高く。
ひとさし舞う間に着くでしょう。
木末の風が狂い吹く、乱序の笛が終わりの始まり。
ひょうるるる ひょうるるる ――――――