友達を欲しがった花
神薙町の一角に、何の変哲もない病院がある。白い壁のちっぽけな病院で診察室は一つのみ。入口近くに病院の名前と営業時間が記された看板が付いている。遠山病院、それがこの病院の名前だ。医院長を務めるのは遠山 未来。医院長といっても、これといって専門にしている分野は無く、他の従業員は看護師が一人だけ、設備だって大して整っていない。中肉中背、黒髪に黒縁眼鏡。整った顔立ちではあるがイケメンというわけでもない。要するに、遠山 未来は何処にでもいるしがない町医者である。…はずだった。
五月末。もうすぐ梅雨だといるのに、この日は太陽がギラギラと照って、初夏の陽気であった。午後四時、ちょうど学校帰りの生徒が病院の前を通り始める頃。一人の少女が遠山病院を訪ねてきた。患者もいなかったため、欠伸をしながら診察室でウトウトしていた遠山は、少女を前に一瞬、言葉を失ってしまった。綺麗な長い銀髪、あどけない表情、透き通った瞳。どれをとっても、この子は、悪という概念を持ち合わせていのだろうなと思える。制服から察するに、この近くにある公立高校、神薙高校の生徒ようだ。こんなに純粋な瞳をした高校生がいることに遠山は驚愕していた。
ーさて、見たところこれといって悪いところがなさそうだな。
遠山に促されて椅子に座った少女は、深刻な面持ちで、少し俯きながらしゃべり始めた。
「先生。私…、猫さんとおしゃべりできるんです。でも…誰も信じてくれなくて。…ここの病院の先生は私みたいな特殊な患者の扱いに慣れているとお聞きしたんですが…。」
もう一度確認しておこう。遠山 未来は何処にでもいる、これといって優れたところのない、ただの町医者である。このことを頭に入れてよく考えて欲しい。遠山にこの少女をどうにかすることができるだろうか。答えはノーだ。そもそも、高校生にもなって「猫さん」なんて言葉を使う人間は、遠山にとっては異世界の住人であった。完全に専門外。
ーやれやれ、どうしたものかな。こんないたいけな少女の気持ちを踏みにじるのもなんだが。
と思いつつ、遠山は既に、いかにしてこの少女を傷つけずに帰ってもらうかを考えていた。
「それは大変だねお嬢さん。とりあえず、詳しく話を聴かせてもらおうかな。まずは自己紹介から。」
一応話を聞く態度だけを見せようと考えた遠山であったが、早くも選択を間違えたことに気が付いた。遠山が話を聞いてくれると知った少女が泣き始めたのだ。
「ど、ど、どどうしたの。」
突然のことで遠山はすっかり慌ててしまった。
「先生…。」
ゾクッ。背筋に悪寒が走るのを感じた。振り返ると、看護師の鈴木 菖蒲が熱湯さえも一瞬で凍りそうな冷たい視線を遠山に投げかけていた。
「ま、待ってくれ。俺は何も…。」
「グスッ…。す、すいません取り乱してしまって。」
少女の声に、菖蒲は遠山を睨むのをやめた。
「本当にすみません。今まで、色々な病院を回ってきたのですが。何処に行っても、からかっているのかとそれだけで…。話を聴くとおっしゃってくださったのは先生が始めてで。私、嬉しくて。」
ーしまった。これは…。むしろ断りづらくなってしまった。
心の中で大きなため息をついている遠山をよそに、少女は詳細を話し始めた。
「私、神薙高校1年の笹山 睡蓮といいます。」
ースイレン。花言葉は「清純な心」だったかな。鈴木さんと違って名前通りだな。
菖蒲の花言葉は「あなたを大切にします」である。
ー鈴木さんには俺のことをもう少し大切にしてもらいたいね。
「実は私、中学生のころは別のところに住んでいまして。親の仕事の関係で、こちらの高校に通うことになったのです。猫さんとお話できるようになったのも、こちらに引っ越してきてからです。最初に猫さんから話しかけられたときは訊き間違えだと思ったのですが…。」
「確かに猫言葉が聞こえることに気が付いたと。」
睡蓮はうなづくと、思わず吸い込まれてしまいそうな、透き通った瞳で遠山を見つめてきた。
「お願いします。遠山先生だけが頼りなんです。私はどうすれば良いのでしょうか?」
ースイレンの別の花言葉は「信頼」か。俺のことを信頼されてもなあ。
「笹山さん。申し訳ないのだけれど。今の話を聞いた限りだと、うちでは扱えそうもない…」
丁重にお断りしようとした遠山は、背後から凄まじい殺気を感じた。
「…こともないかな。アハッ、あはは。」
一瞬不思議そうな顔をした睡蓮は、すぐに目を輝かせた。
「じゃあ。お力を貸していただけるのですか?」
純粋過ぎる少女に、冷徹な看護師。もう、遠山に逃れる方法はなかった。
ーしょうがないか。
「それでは診察を始めます。」
遠山は眼鏡をクイッと上げてカルテを手にした。
「まずは状況の整理しましょう。あなたは、今年この神薙町に引っ越してきた。そして、猫と話ができるようになった。」
遠山はやっくりと、一つ一つ確認するように近江に話しかけた。
「はい、その通りです。」
「始めて猫と話したのはいつかわかるかな?」
「えっと。正確にはわかりませんが、4月の後半だと思います。」
ー高校に入ってすぐか。
「この町は好きかい?」
「えっ?」
突然の問いに、睡蓮は言葉を詰まらせた。そして、完璧な純粋さを彷彿とさせていた睡蓮の顔に、翳りが見えた。遠山はそれを見逃さなかった。
「質問を変えようか。学校は楽しいかい?」
今度はハッキリと顔を歪めたのが見て取れた。。
ーなる程な。そういうことか。
遠山はカルテを置くと、睡蓮の顔を正面から見つめた。
「笹山さん。あなたの症状の原因は‘いじめ’です。」
背後で、菖蒲が息を飲む声がした。
「ここ神薙町は、それ程大きな町ではない。だから、高校にもなると大抵の生徒が顔見知りだ。そこへ、親の事情で他の地域にいた笹山さんがやってきた。君は可愛くて、純粋で弱々しい。名前の通り、花のような存在だ。花のように儚げな美少女。」
「私は、そんなんじゃありません。見た目は弱々しいかもしれませんが、運動は好きですし、体力にだって自身があります。儚げな花なんかじゃありません。」
睡蓮は少し怒ったように反論した。
「あくまで周りから見た君にのイメージを言ったまでだ。君が、違うというのなら違うのだろう。でも、重要なのはそこじゃない。問題は、そんな君を目障りに思った女子がいたことだ。きっかけは、きっと、くだらないことだったのだろう。あの子、少しウザくない?そんな感じだろう。」
遠山はそこで言葉を切って、ため息をついた。
「君は、いじめにあっている。間違いないかな?」
「…。間違いありません。でも、それと猫と話ができることと関係があるのですか?」
「信じられないかもしれないが。関係があるんだ。俺も詳しいことは知らないが。この町は変わってるんだ。」
「変わってる…?」
「実際に見せたほうが早いかな。」
そう言って、遠山は菖蒲に目くばせをした。菖蒲は小さくうなずくと、診察室にある脱脂綿の入った瓶を手にした。不思議そうにその瓶を見ている睡蓮の前で、菖蒲は突然その手を離した。
「あっ。」
瓶は、睡蓮の息を飲む声とともに落下し、地面に激突…。しなかった。睡蓮が目を凝らすと、驚いたことに、地面から少しだけ浮いて静止していた。
「これは…」
「この町では、こういった特殊な力を持った人間が最近増えているんだ。原理はわからない。ただ、力に目覚める人間には一つの共通点がある。何かを失い、そして、何かを強烈に求めていることだ。君は、この町に来て、いじめられ、友達を失った。そして、強烈に友達を欲しがった。だから、猫と話ができるようになったのだろう。」
「猫さんと友達になるために。」
睡蓮がつぶやいた。
「そして、現実から目を背けるために。」
遠山が付け加えた。少女は、その辛辣な言葉に、一瞬ビクッと体を震わせた。
「これで診察を終わります。」
そう言って、遠山はカルテを机に置いた。
「あれでよかったんですか?」
菖蒲はカルテを整理しながら遠山に尋ねた。
あの後、結局、遠山は一言もアドバイスすることなく睡蓮を帰した。
「いいんだよ。俺は、彼女に現実を見せてあげた。この後、どうするかは、あの娘次第だよ。」
「私が言いたいのは、そういうことではありません。感謝の気持ちを受け取らなくてよかったのかってことです。」
「いいんだよ。俺は涙を見るのが好きじゃないの。」
そう言って、遠山は帰り支度を始めた。
「先生らしいです。」
菖蒲もそう言って微笑みながら帰り支度を始めた。
睡蓮は一人、トボトボと歩いていた。正直、遠山の辛辣な一言に心を痛めていた。
ーあそこまでハッキリ言わなくてもいいのに。・・・。でも、遠山先生のおっしゃっていたことは正しい。つまり、私は逃げていたんだ。これからは現実と向き合わなくちゃ。でも、でも…。
どうしても踏ん切りがつかないでいた睡蓮は、ふと、帰り際に菖蒲に渡された処方箋のことを思い出した。
ー何が入っているんだろ。
薬袋の中には手紙が一枚、折りたたまれて入っていた。手紙の最後には、遠山より、と書いてあった。
手紙を読み終えた睡蓮の目には、涙がたっぷりと浮かんでいた。
ーありがとう、先生。
大きく鼻をすすると。睡蓮は晴れ晴れとした顔で歩き始めた。