君が告白された日のこと
明日から、真冬の寒さになる見込みです、という天気予報士のお姉さんが言っていた通りの、息も凍りそうな朝だった。
ここから見える全ての物が肩をすくめて寒さに耐えているみたいに見える。ゆるい上り坂の両脇に隙間なく並んだ住宅はかすかに霜でくすんでいて、葉を落とした並木の枝は見るからに凍えそうで、その枝に隠れた鳥達は羽を寄せあって小刻みに震えている。
俺はマフラーの形を整えて、口元が隠れるようにした。絶え間なく体から発散され続ける熱が恨めしい。
「はあ、寒いねぇ……」
隣を歩いている小春が、蚊の泣くような声で言う。
小春は分厚い生地のダッフルコートに耳あて、毛糸のマフラー、ミトン型の手袋、丈の長いもこもこしたブーツを装備していた。
見るからに重装甲だった。
着膨れしているから、たぶん重ね着的手法によって見かけよりもさらに充実した耐寒スペックを確保していると思う。
もしかしたらアクセサリに「貼るホッカイロ」を装備している可能性すらある。
アラスカはベーリング海に浮かぶシャドーモセス島を単独スニーキング(散歩)してもびくともしない服装だ。
小春は幼少の頃から、寒さとは全面戦争の構えだった。
そんな古強者が「寒い」と口にするほどの寒さなんだから、学生服とマフラーしか身につけていない俺が寒くないはずがない。
お隣に住んでいる小春を玄関口で待っている時から鼻水が止まらない。
もちろん後悔している。
「選ぶのが面倒くさいから上着を着ない」という自分でもよくわからない選択をした寝起きの俺にロメロ・スペシャルしたい。
「ひろちゃん寒くないの?」
ひろちゃんというのは小春がつけた俺の愛称で、何故ひろちゃんなのかと言えば本名が「尋斗」だからという単純なもの。
小春がずっとひろちゃんひろちゃんと呼ぶので、クラスメイトの何人かに伝染し、それが今では教師までひろちゃんと呼ぶようになってしまったというちょっと忌まわしい愛称だ。
「寒い」
カロリーを使いたくないので、短く答えた。
「もう、なんであったかいの着てこないの」
怒ったような口調で小春が言う。寒さを甘く見ている人間には厳しいやつだ。
「はい、これつけて」
頭に装着していた耳あてを外して俺の耳にすぽっとはめた。
耳あてのデザインは、なんというか、とても可愛らしい感じの、非常に女子力の高い物だったが、そこでいらぬと返せば男がすたる。
武士はお腹が減っていても爪楊枝をくわえて、別にお腹減ってないよ~という男らしいアピールをするらしいが、隣を歩いている女子の物であろう可愛い耳あてをあえて装着して衆目に晒されるのだって十分に男の度量を試される事例だろう。
「ありがとう。あったかいな」
「うん。ひろちゃん可愛いよ」
小春は半径2kmの雪を溶かしそうな笑顔で言った。
一気に恥ずかしくなった。
耳あてをしていて助かった。
俺の耳はきっとシャア色に染まっている。
小学生の時も、中学生になってからも、高校生になった今ですら、俺と小春はこうして一緒に通学してきた。
それが当たり前だと思っている。
けれど時々、こうやって小春の中に、幼馴染以外の一面を見出した時、俺の中にはある感情が生まれる。
それは――たぶん『不安』に似ている。
*
「おま、なんつー可愛い耳あてしてんだよっ」
彰が笑いながら俺の机の前に立つ。
「やべ、つけたままだった」
小春に借りた耳あては、結局教室までつけっぱなしだったらしい。小春は同じクラスにいるけれど、すでに女子のグループと話をはじめていて、返しに行ける雰囲気でもない。俺の珍妙なファッションは、幸いにして彰しか気が付かなかったみたいだ。耳あてを鞄にしまう。どうせ帰りも一緒だから。
「ははあん。それ、桜井さんのか」
彰は目を細めてニヤッと笑い、名推理を披露した。俺が小春に返しに行こうか悩んでいたのを見れば、まあ誰にでも分かるだろうけど……。
「ああ、寒かったから借りたんだよ」
「……お前らほんと仲いいよなぁ。一緒に登下校してるくせに、つき合ってないんだろ?」
「幼馴染だから、仲はいいけど。付き合うとかはまた別の問題でしょうね」
「なんで敬語なんだよ」
「なんとなく」
彰はにやにやした意地の悪い笑みを浮かべながら、俺の前の空いていた席に腰を下ろした。こいつとは1年生の頃に出会ってからの友達だ。運動部らしい率直な思考回路と感情表現をするので一緒にいて気が楽だ。
「俺も幼馴染欲しいーーー!!」
「うるさい上に駄々をこねるな。っていうか彰、彼女いるでしょう」
「うん、可愛いよ。まじ可愛い。愛してる」
「きみは唐突にうざいな」
下らない冗談で笑い合う。
いつもの朝だった。
『――さくらいこはるさんって、いる?』
教室の前の入口に立った見慣れぬ男子が放った一言が、いつもの教室の空気を一瞬だけ破壊する。
男子の緊張した面持ちが教室中の視線を集めて――。
「はい」
小春の呑気な返事が空気をやわらかくする。
小走りで男子に近寄る。
強張って、まるで怒ったような表情に見える男子が、短く何か告げた。
小春は一度だけ頷いた。
男子は去る。
小春はグループに戻ろうと歩きだして――俺を見た。
目が合った。
小春の顔も、男子と同じように、少しだけ緊張していて、強張っていて、妙に真剣そうで、いつもの小春らしくなくて、一瞬またあの感情が生まれる。
もどった小春は、妙に興奮した女子達に何が起こったのか問い詰められているようだった。
「なあ、ひろちゃん」
彰が何でもなさそうに言う。
「なんだよ、あっちゃん」
俺は何でもなさそうに答える。
「小春さんさ」
「うん」
「告白されんじゃね」
「なんでそうなるんだよ」
「お前は気がついてないだろうけどな」
「……うん」
「小春さんは結構可愛い」
「……うん」
「お前がいつも一緒にいるから誰も手を出さなかっただけで」
「……」
「実は影で人気がある……とか?」
「全部推測かよっ」
彰が笑う。
やっといつもの調子に戻ったな、とか言って。
「推測だよ。俺は別に誰が人気あるとかないとか知らない」
「だよな」
「けどさ、お前――小春さんが他の男と付き合う事になったら、たぶん嫌じゃねーか?」
そんな事、考えた事もなくて、急に胃が重くなるような気がして、腹の奥のあの感情がどんどん溢れてくる。それを必死に外に出さないようにした。
「……別に、いいんじゃない」
「んー。いや、お前がいいなら、いいんだけどさ」
「なんだよ――大体、今どき『告白』なんて臭い事するかね」
「……俺は憧れるけどなあ! 告白されてえ!」
チャイムが鳴って、HRをするために先生が教室に入ってくる。彰は自分の席にだらだら戻った。
俺の腹の中のもやもやは、どんどん大きくなっていくみたいだった。先生の声なんて、まるで届かない。
“小春さんが他の男と付き合う事になったら、たぶん嫌じゃねーか?”
一緒に何かして当たり前だと思っていた。
登下校も一緒にするのが普通だと思っていた。
けれど、そうしない男女がほとんどだって事を俺はとっくに気づいていた。
いくら付き合いが長いからって、高校生になってまでする事じゃない。
それに気づかないふりをしていたのは何故だ?
俺がしたかったのは何だ?
欲しかったのは何だ?
“小春さんが他の男と付き合う事になったら、たぶん嫌じゃねーか?”
率直なのも考えものだなあ、彰。
嫌に決まってるよ。
*
昼休み、いつもなら友達と御飯を食べている小春が、一人で教室を出た。
その背中を女子が叩いているのを見た。
恥ずかしそうに笑う小春を見た。
*
帰りのHRが終わって、俺は昇降口に向かう。
自分の靴を履いて、小春が来るのを待つ。
いつもそうしている。
程なくして小春が現れる。
相変わらずの重兵装で。
お互いに挨拶もせずに歩き出す。
いつしかそうなっていった。
これが当たり前だから。
特別な事なんてひとつもないから。
いつも一緒なのに挨拶するなんて面倒だから。
俺と小春は、いつもの道を歩いている。
下り坂。
住宅街と並木。
俺は鞄から耳あてを出した。
「ありがとう。つけっぱなしだった」
「うん」
小春は受け取った耳あてをそのまま装着する。
完全体の完成だ。
「ひろちゃん」
「おう」
俺は身構えた。
「お気づきかと思いますが」
「うん」
「お昼休みに告白されました」
「……へぇ」
で、どうしたの? って、言いたかった。
言えなかった。
怖かった。
足元が崩れてとてつもなく深い穴に落ちていきそうな気がした。
「ひろちゃんは告白された事ないよね」
「無いな」
「モテないんだね」
「う、うるせー……一回告られたくらいで威張るな」
「くっ……くははっ」
小春が妙に噛み殺した笑い声をあげる。
「ひろちゃん、告白されたらどんな気分になるか知らないでしょう。だから教えてあげるよ」
「……いいねえ、教えてもらおうか」
男の度量を試される機会はいつでも訪れる物だ。
「じゃあこっち見て」
小春が立ち止まる。
午後の陽の光の中に真っすぐ背筋を伸ばして視線は俺の目から離れない。
「ひろちゃん、好きです」
「……お」
「……お?」
「……俺も、小春がすきだ」
思わず言ってしまってから、俺の魂は第三宇宙速度で地球を飛び出して金星をスイングバイして戻ってきた。
「ひゅう……緊張するね、告白って」
「……そうだな」
どちらからともなく歩きだす。
気まずいけれど、どこか暖かい、妙な空気が流れている。
「というわけで、お昼の告白は断りました」
「そうか」
「ひろちゃん、結構心配したでしょう。生徒玄関にいる時からずっと、泣きそうな顔してたよ」
「……んなわけあるか」
小春はくすくす笑っている。
その横顔を見て、あの感情が無くなるのがわかった。
小春の中に幼馴染以外の一面を見出した時、俺の中に生まれる妙な感情。
居心地の悪かったそれは、今ではもっと分かりやすくて、口にするのも恥ずかしいような感情に変わっている。
俺は小春の手を握った。
驚いて瞠目する小春。
「昔はこうやって歩いたよな」
「……なつかしいね」
大丈夫。
小春は照れてもいないし、無論嫌がってもいない。
だから俺は心の底から安心する。
「俺、小春とずっと一緒にいるのが当たり前だって思ってたんだけど」
「うん」
「それで合ってる?」
「……合ってる」
そこでやっと、二人共真っ赤になった。