其の一
須弥山には二人の王が存在している。一人は帝釈天。正しく須弥山を統べる王だ。そして、もう一人の名は梵天。帝釈天の行いを監視し、道を踏み外した時に、それを正す影の王である。
梵天は人前に姿を現す事は殆どなく、人知れず須弥山の業魔を払っていた。
業魔とは、人の負の感情が集まって生まれる邪悪なる存在だ。これは人間からだけではなく、神からも生まれ落ちる。ただし、上の階層ほど生まれにくく、如来クラスから業魔が生まれるという事は六道世界の破滅を意味していた。
六道世界とは、人間界、天上界、地獄界、修羅界、畜生界、餓鬼界の六つの世界を意味する。
そして、風神、雷神の元に梵天からの文が届く。
風神と雷神は、かつて須弥山で暴れていた悪鬼だったが、改心し、今は須弥山の神として暮らしていた。
しかし、かつての悪行に対しての罰として、二人の名は誰も受け継ぐ事が出来ない。
「ふむ……これはありがたいと言っていいのだろうか?」
雷神は梵天の文に対して頭を抱えていた。
「瑠璃様が人間界に降りている……か」
風神も同じように頭を抱えていた。
梵天の文は、
――帝釈天が人間界に干渉している。大至急それを止め、対象の人間をこちらで保護せよ。
という内容だった。
そして、成功したあかつきには、二人の名を継ぐことを許す、と書かれてあった。
悩んでいる二人の後ろから、それぞれの子が顔を出す。
「継承なんて興味はないが、人間界にはちょっと興味がある」
そう言ってきたのは、風神の息子である空臥だ。
「私は、空ちゃんが行く所だったらどこでも付いて行くかな」
空臥に寄り添おうとして追い払われたのは、雷神の娘、凛である。
「お前達が人間界に降りる事に文句はないが、場合によっては瑠璃様と戦う事になるのだぞ?」
「そうなんだよな! 親父の立場もあるから、それは避けたいし、そもそも、俺と凛じゃあ相手にもならないだろう」
「それは分かんないと思わない? 法具の差はあるけどさ、そこはここで補えば」
と、自分の頭を指差す。
本当に深い溜息を吐きながら、
「本気で言っているのか? 馬鹿のお前が頭で勝つ?」
馬鹿と言われて腹を立てたのか、凛は空臥に突進していくが、軽くかわされて壁にぶつかる。
「凛は放置しておいて、だ。――俺は、ここに書かれている、阿修羅王の娘ってのに興味がある。あの、闘神の娘だぜ? 俺達が生まれた時にはもう、阿修羅王は修羅界に落ちていたけど、その強さは今でも耳に入ってくる。正直な話、手合わせしてみたいんだ」
ワクワクしている空臥は、自分の法具である〈風切〉をクルクルと回している。
「私の〈雷光斧〉も継承法具なんかに負けないんだからっ!」
おでこを真っ赤にしながら背中に背負っている二本の斧を手に取った。
〈風切〉と〈雷光斧〉は特殊法具の中でも最高位の一級特殊法具だ。風を巻き起こす円月輪である〈風切〉雷を纏う斧である〈雷光斧〉。どちらも継承法具には劣るものの、素晴らしい法具である。
「儂も阿修羅王の娘には興味がある。が、お前達では役不足だ」
ハッキリとそう言われると腹が立つというものだ。それが父親の口から告げられれば特にである。
「自分の娘に役不足とか言うのは駄目だと思うな。力の差はあるのかもしれないけどさ、城でのうのうと暮らしていた子よりも、私達の方が業魔退治に出たりしているから経験の差ってのがでるかもだしね。それに、炎輝は戦闘向きじゃないわ。あの子は勉学だけだもの」
すでに二人は人間界に降りて戦う気満々のようだったが、風神も雷神も快く送り出すことが出来ないのか渋い顔をしている。
「今回の件には裏がありそうでな。梵天を悪くいいたくはないのだが、あのお方は分からない事が多すぎるのだ。儂も最後に姿を見たのは阿修羅王の戦の前だし、色々よくない噂も聞く」
続けて雷神が一言付け加える。
「お前達は知らぬのかもしれんが、修羅刀は法具の中でも特別なのだ。聞いた事ぐらいあるだろう? 修羅刀、夜魔刀、そして降魔の利剣。――この三つは普通の法具とは違うのだ」
「確かに聞いた事ぐらいあるさ。それに梵天の噂もな。だからって梵天の指示を無視するわけにもいかないだろう?」
そう言われるとぐうの音も出ない。
「……仕方がないか。二人とも直ぐに用意せい! そして自分の目で確かめ、自分の判断で行動せよ! 儂らに気を使う必要はない。名を譲る事は出来ぬとも、今をもってお前達二人に風神雷神を託そうぞ」
二人は永遠に風神、雷神と名乗る事はない。だが、胸の内でそう思う事は可能なのだ。力を受け継ぐ事は出来ずとも、その誇りを受け継いだ二人は、人間界に降りる準備を始める
「ねぇ、空ちゃん?」
「何だ?」
「やっぱり戦いたいの?」
「瑠璃様とは戦いたくないかな。でも、俺が戦うなら瑠璃様だ」
「どうして? 闘神の娘と戦いたいんでしょ?」
「凛の雷光斧は雷属性だ。同じ雷属性の瑠璃様だと法具の差で凛が負ける」
「そんなの分かんないでしょ?」
「俺達の中で最強の四人って誰だか知ってて言っているのか?」
「武の那由多、防御の蛍、統率の紗倶羅。後は……」
「法力の瑠璃様だ! この意味ぐらい馬鹿の凛でも分かるだろう?」
頭を掻きながらチラッと舌を出した。その後、エヘヘッと笑いながら、
「じゃあ、瑠璃様は空ちゃんに任せよっかな。優しいね空ちゃん!」
「ふぅ……いい加減、その呼び方は辞めろよ。空臥でいいっていつも言っているだろう?」
「えっ? ヤダよ! 私はこれがいいのっ!」
そう言って飛びついてくる凛を空臥は華麗にかわす。
「その飛びつく癖、辞めろよな」
凛は再びエヘヘッと笑いながら、「それは無理」と答えた。
そして、二人は人間界へと旅立つ。戦いへと赴くその足取りは、重くのしかかるものではなく、意外なほど軽かった。