其の六
放心状態のまま自宅に辿り着いた浩介は、母が作ってくれた晩御飯を食べ、風呂に入り、自室のベッドに寝転がる。ここで初めて、かなりの時間が経過している事に気がついた。
朝、学校へ行くために家を出たはずなのに、その目的は果たされず、見たこともない廃寺で色々ありえない事を聞かされ、帰ってきた時には夕飯時だ。
時計の針を確認してみると、二十一時を過ぎようとしていた。
「もうこんな時間か。時間が経つのが早いんだが、遅いんだが、よくわからない一日だった」
自分の首についている物を指で確認しながら、今日の出来事を振り返る。
正直な話、信じがたい内容ばかりだったのだが、人が鳥に変身するのを目の前で見た以上、それが嘘だとは言えない。むしろ、すべてが正しい情報なのだろう。
「マジかよ……」
改めて、自分に降りかかったであろう災難を認識する。と、携帯が突然震えだした。そういえば、吉祥天に連絡先を聞かれた後、ズボンのポケットにしまったっけ、と思い出しながら、取り出してみる。
予想通り、吉祥天からのメールだった。自分の携帯が鳴る事自体が珍しいのだ。当然ある程度の予想は出来る。特別、友達が少ないわけではない。ただ、連絡先の交換をしないだけなのだ。
メールを確認してみると、
――どうかしら?
と書かれた一文にURLが添付られていた。
そのURL先に飛ぶと、一つの動画が再生される。
桃華、瑠璃、炎輝の三人が並んでいた。そして、自分達は神様の子供だという事を訴えている。その証拠を見せると、瑠璃は雷を発生させ、炎輝は迦楼羅鳥に姿を変える。
「まぁ、これを見ても、信じない奴がいるだろうな」
時間を見計らったかのように、再び携帯が震える。今度はメールではなく、電話だった。勿論、相手は吉祥天だ。
「はーい。見てくれたかしら? 中々のものだったでしょ?」
「あぁ、そうだな。おかげで、自分の身に降りかかった不幸を再認識できた」
「あらあら、ご機嫌斜めなのかしら?」
「まぁな」
「そうそう、二、三日後には、学校に通わせるからよろしくね!」
どんな手段を用いたのかは分からないが、どうやら、三人を学校へ編入させたらしい。
「へぇー」
そっけない返事を返すが、学校に女子が増えるのは有り難いことである。更にそれが美しいとあれば文句などあるわけないのだ。
「はぁ、……困った子ね。話の最後もちゃんと聞いてないし。――そうだわ! 浩介ちゃん、今から、あらゆる手段を使って、欲望を高めてみなさいな。とっても嬉しい事が起こるかもしれないわよ?」
「冗談じゃねぇ! 首が絞まるだけじゃねぇか! 俺を殺す気か?」
「大丈夫、大丈夫! 死にはしないから。浩介ちゃんはもう普通の人間じゃないから、簡単には死なないわ。それに、苦しい思いをした分、それ以上にいい事があるから。――私を信用しなさいな。悪い様にはしないわよ」
吉祥天が信用出来るか、出来ないか、で言えば出来る部類に入るだろう。相手の都合のいい事しか言わないよりかは、言ってくれた方が信用できるからだ。
「ふむ、俺のこれからに関わる大事な事だしな。仕方がない、その話に乗ってやるぜ。今から脳内でお前達三人を、ひんむいてやるさ!」
声を荒げながら電話を放り投げた。
浩介はベッドの上に座って瞑想する。妄想力を極限まで高めていた。
「浩介ちゃんは甘えん坊さんね」
ボンテージを着た吉祥天が、浩介を抱き寄せた。衣服を変えただけで、こうも淫靡な空気になるものなのかと感心する。
耳たぶを甘噛みされた浩介は、一瞬で体の力が抜けてしまう。このまま押し倒す勢いで身を任せようとしたその時、
「私の相手はしれくれないの?」
と、桃華が擦り寄ってくる。ニットセーター一枚の桃華は、浩介の手をとり、自分の胸元へと引き寄せていく。あと少しであの山に触れる事が出来ると思った瞬間、
「そうですよね……私の様な凹凸がない体なんて、興味ありませんよね……」
そう言って、今にも泣きそうな顔をしている瑠璃が、立ち去ろうとするのを、強引に引っ張り抱き寄せる。少し乱れてしまった着物が、浩介の欲望を刺激する。
「フハハハハハハッ! 皆を平等に愛する! 苦しゅうない、宴を始めよう!」
その声でスイッチが入ったのだろうか、彼女たちは一度浩介から距離をとると、吉祥天はボンテージに手をかけ始め、桃華はセーターを捲し上げる。更には、瑠璃が着物の帯を緩め始めた。
「いいのぉ! 眼福じゃ! ほれ、あと少しだ」
身を乗り出して体に触れようと手を伸ばすが、
「そうですか、僕だけ除け者ですか。……あなたは罪な人ですね。僕はこんなに思っているのにぃぃぃ!」
いつの間にこんなのまで妄想したのだろうか? 背後から炎輝が浩介の首をゆっくりと絞めていく。
「ちょっ、……てめぇ、……ゲホッ、ゲホッゲホッ……」
閉じていた目をカッと見開いた浩介は、妄想の世界から現実に戻ってきた。
「この首輪のせいか」
そっと首輪に触れてみると、確かに自分の首を絞めつけている。
「このくらいだと、死ぬことはないだろうが、それなりに苦しいな。というか、この苦しさはちょっとだけ気持ち良いのかもしれない。――特殊な性癖に目覚めたのか?」
開けてはいけない扉を開けてしまった気分で、項垂れてしまった浩介の目に映ったのは炎輝の姿だった。
「うぉぉぉぉッ! び、び、びっくりするじゃねぇか! ってか、どうしてお前がここに居る?」
ベッドに下で正座していた炎輝の額を指で押していく。
いつ、どこから入ってきたのだろうと部屋を見渡してみると、予想通り窓が開いている。そしてもう一人、瑠璃が部屋の端っこで立っていた。
「僕達は、煩悩の限界値を確かめるためにここに来たのですが、見たところ、まだまだ余裕があるみたいですね」
「ふむ、少し苦しい程度で、もう少しぐらいなら絞められても大丈夫だな」
「あなたの――」
「浩介でいい。よそよそしく呼ばれるのはこそばゆいし苦手なんだよ」
「分かりました」
「で、これは元に戻ってくれるのか? ずっとこれだと流石にきつい」
「はい。浩介さんやましい感情を鎮める事で戻るとのことです。ですが、浩介さんの体の中には弥勒菩薩様の欠片がありますので、その欠片も鎮めないといけません」
浩介は、自分の体を一通り確かめてみるが、おかしい場所など一つもない。そんな自分に欠片がどうのと言われてもピンとこなかった。
「まぁいいか。――で、どうするんだ?」
「はい。僕達が法力を使えるのはもう知っていると思うのですが、瑠璃様の法力は須弥山でも随一と言われております」
「ほぉ」
すっと瑠璃の方に目を向けると、
「確かに自分の法力に関しては、それなりの自負はあります。ですが、それは主神の子供達の中では、という事です。主神達には遠く及びませんわ」
ここで、炎輝が主神や法力、法具、そして天界について教えてくれる。
主神とは、吉祥天や二人の父親である迦楼羅王、帝釈天、そして何度も名前を聞いている弥勒菩薩などの、人間界でも名が知れ渡っている神々のことらしい。
次に、法力についてだが、これは天界人すべてが使えるわけではないらしい。
「本来は、主神だけが使えるものなのですが、その子供である僕達にもある程度は使えます。ですが、その力の差は天と地ほど違います。その理由は信仰力の差なのです」
信仰力は簡単に説明すると、人間が神に対してどれだけ祈りを捧げたかという『人間の思い』が力になる。千年以上の人の思いが集まったのが信仰力という。当然、ここにいる二人に祈りを捧げる人間などいるわけもなく、そんな力が使える道理もない。
「次に法具です。これを持つ事で普通の天界人にも法力が使える様になります。ですが、法具には位があり、それによって使える法力も変わっていきます」
法具の位は大きく三つに分かれている。主神が持っている『継承法具』、主神以外の神が持つ『特殊法具』、普通の天界人が持つ『一般法具』の三つだ。
継承法具は子供に名を継がせるために必要な法具で、その力も絶大だ。
「ちなみに僕が持っている法具は『紅蓮の横笛』といって、父上から譲り受けた継承法具です。これがあるから、僕は迦楼羅鳥に変化する事ができます」
「じゃあ、今のお前は迦楼羅王ってやつなのか?」
「いえ、違います。僕が迦楼羅王になるには『継承の儀』を行わなければいけません。父上の信仰力を僕に委ねる儀式なのですが、詳しいことは分かりません」
「知らないのかよ!」
「継承の義を行う事が出来るのは菩薩部と如来部の神々だけなの。それに、今まで継承の儀が行われた事もないわ。――ちなみに、私が持っている法具は『金剛杵』よ。これも継承法具ね」
「へぇ……まぁ、そんなややこしい話はどうだっていい。重要なのは、俺は大丈夫なのかということだ! 瑠璃の法力が俺を何とかしてくれるって事なんだろ?」
ここで急に瑠璃がしおらしくなる。少し赤面しながら何故か不安そうな顔をしていた。
「そう言えば、桃華が来てないな。寝ているのか?」
「桃華さんは法力が殆ど使えません。だから、自分が行く必要はないと言っていました」
思わず「仲が悪いのか?」と、喉の奥から出そうになったが、ぐっとこらえた後、
「人間関係……ん? 違うか。神様関係にも色々あるだろうしな。――取り敢えず何とかしてくれ。この状態のままだと、俺は新しい扉を開いてしまいそうで怖いんだよ」
新しい扉がどういう意味なのか分からない炎輝は、浩介に説明を要求するが、そんな事はいいからさっさとしろ! と言われ、渋々話を続ける。
「今から、煩悩を浄化してもらうため、瑠璃さんは浩介さんを抱きしめますが――」
「な、何ィィィィィィ!? ちょっと待て!? 俺、臭くないか!? 服は脱がなくていいのか!? あぁ、ちょっとだけ待ってくれ。風呂入ってきていいか? 後、歯磨きっ!」
カタパルトから射出されたかのように、浩介はベッドから飛び出したが、炎輝に服を掴まれ床に激突する。その後の「何騒いでいるの?」という母親の声で正気を取り戻した。
「話は最後まで聞いて下さい。ここで問題が一つあります」
「ば、馬鹿いうな……確かに俺は初めてだが、ちゃ、ちゃんとやれるぞ?」
「だから、ちゃんと最後まで聞いて下さいって。――一応、吉祥天から人間の生態については教えてもらっています。ここで問題なのが、僕達と人間の違いなのです」
天界人は人間と違って欲望や煩悩の処理の方法が違うらしい。例えば、見つめ合うだけで満足する場所もあれば、抱き合うだけで満足する場所もある。色欲が強く残っている地居天は人間に近いとはいえ、一方的に欲望まみれの人間に触れられるという事は手籠めにされるということだった。
「なので、浩介さんは抱きしめられている間、心を無にしてて欲しいのですが――」
「無理だな! 可愛い女の子に抱きしめられて正気でいろというのが間違っている!」
浩介にしてみれば、当然の主張だ。しかし、これでは埒が明かない。浩介はとても嫌な予感が脳裏に過る。
「そう答えると思っていました。――なので、気絶してもらいます」
「冗談じゃねぇぇっ! ふざけ……」
言葉の途中だったが浩介はそのまま倒れこむ。瑠璃が雷の矢を浩介に放っていたのだ。
「最初からこうすれば良かったのよ。――じゃあ始めるから炎輝はあっち向いてて!」
そっと浩介に触った瑠璃の中に煩悩が流れ込んでくる。不快な感覚と、それを超えるような快感が瑠璃に襲いかかってきていた。
「んんっ、……か、体が、……熱い。何なのよ、これ、……んぁぁぁ!」
顔を紅潮させ、体をくねらせながらも、浩介を離さないようにしがみついている。
着物が少しずつ乱れはじめ、白い柔肌が顕になっていき、呼吸も荒さを増していく。
逃げ出したくなる気持ちを我慢しつつ、自分の足を浩介の足にギュッと絡ませていく。
「はぁ、……はぁ、……んんっ、……あ、頭の中が真っ白になって、……んふぅうううっ!」
瑠璃の口からはだらしなく唾液が滴り落ちていく。
「さ、最低な、……役……割、……だっ、……あっ、んんッ……くぅううんッ」
浩介に意識があれば、こんな声で鳴いている瑠璃に欲情し、延々と煩悩を放出し続けていただろう。そう、終わりがこないということだ。
徐々に声が荒々しくなってきた瑠璃は、着物の袖を噛み、声を押し殺す。こんな時間は早く終わればいいと、虚ろな目から涙が一筋零れ落ちた時、ようやく煩悩を鎮めたのか、瑠璃を侵食していた相反する二つの感情が消えていく。
浩介から離れた瑠璃は、着崩れを正すと、何度か深呼吸をした。
「お疲れ様でした」
「ほんっとうに疲れたわ。……早く帰りましょう!」
「えっ? このまま放置するのですか?」
「えぇ、今はこいつの声とかも聞きたくない気分なのよ」
「仕方がありませんね。では、浩介さんには後日説明するということで。――じゃあ行きましょう」
侵入してきた窓から出た炎輝は、人型のまま翼を広げると、瑠璃はその足にしがみつく。これが本来の迦楼羅一族の姿なのだ。
一度、翼を羽ばたかせると、フアッと上昇していく。そのまま廃寺の方向へと飛び去っていった。