其の五
吉祥天に訊いたのだが、天上界では食事をするという習慣がないらしい。
仙桃という食べ物と酒はあるのだが、それは空腹を満たすものではなく、宴などの時に食する物ということだ。
「向こうでは、甘露っていうのが常に降り注いでいるの。――うーん、分かりやすく言えば、甘露で光合成していると思ってくれていいわ。当然、人間界には甘露なんてないから、私達も人間と同じようにお腹は空くし、食事もするわ」
今キッチンに立っているのは炎輝だ。桃華でも瑠璃でもなく炎輝だ。後の二人は頼まれた物を炎輝に渡す作業をしている。
料理本を見ながら、黙々と調理をしているのだが、傍から見ていると不安しか感じない。我慢出来なくなった浩介は、腰を上げキッチンへと足を向けた。
「あぁもう、見てらんねぇよ! お前ら全員あっち行って座っていろ!」
「でも、……」
「お前の包丁の使い方、見ているこっちが怖いわ!」
「そんなものなのか? じゃあこれで斬ればいい」
桃華は〈修羅刀〉を抜こうとするが、浩介が慌ててそれを制止する。
三人を追い払った後、向こうのテーブルで座って待っている四人の姿を見ていると、あれが神様と言われても誰も信じないだろう。
冷蔵庫を開けて材料を確認すると、手際よく調理を始める。
「あら、慣れているわね。一人暮らしなのかしら?」
「いや、家族と暮らしている。これは、俺の母親が病気がちで入院していた時期も長かったからさ、自然と身についたんだよ。父親がそういうの出来ない人だったから、家事全般は嫌でも出来るようになる。――そんな事より、冷蔵庫の中酷いな。中途半端に残った物で散乱してるじゃねぇか!」
「それはね、仕方がないのよ。私達は自分で新しい物を創り出せる発想力というものが皆無なのよ。だから料理本の通りに作る事しか出来ない。余り物で何かを作るっていう考えが出てこないの。理解はしているのよ、余った物で何かが作れるって事は。でも、そこで思考が止まる」
吉祥天の言っている事は、神様としてどうなのだろう?
「何だそれ?」
「不思議に思うでしょう? 私も不思議に思うもの。そんな力があれば、天上界は機械まみれの世界になっていてもおかしくないのだけど、でもそうはならない。まるで時間が停止しているかのように発達も発展もしない。そう考えると人間の方が神様なのかもしれないわね。私が人間界に来てから五百年程経っているけど、その変化は凄まじかったもの」
人間にはない特別な力を持っているが、大切な何かが欠けている。それが私達だ。と、教えてくれた。
浩介が作ったのは炒飯だった。人数分皿に盛ると、炎輝に運ばせる。
「まだ食うなよ!?」
すでにスプーンを口まで持っていっていた桃華は、あからさまに不機嫌な顔をしたままスプーンを置いた。
「なんて顔をしているんだ……睨むんじゃねぇ! 同じ食べるなら美味い方がいいだろう? もう少しだけ待っていてくれよ」
痛みだしそうな海老、イカ、を炒めた後、あんかけにして炒飯にかけていく。
「よし、特製の海鮮あんかけ炒飯だ! さぁ、食べようぜ」
抑えつけられていた反動なのか、桃華が物凄いスピードで炒飯をかっこんでいく。あっという間に平らげた後、無言で皿を突きつけてくる。おかわりの催促なのだろう。
「早っ! ってか感想ぐらい言ってくれよ。――美味かったか?」
プイッと顔を背けた後、
「……い、今まで口にした食べ物で、い、一番、……美味しかった」
耳が赤くなっているのが分かる。そして、おかわりと言葉にしない変わりに、空になった皿を上下に動かしていた。
「そうか、美味かったか。でも、それで終わりだ」
バッと振り向いた桃華の顔は、この世の終わりなのかというぐらい落胆していた。
今まで食という文化が無かったと言ってもいい世界で育ったのだ。美味しい物を食べるという行為は、例えようのない程に素晴らしいのかもしれない。
「また、作ってやるからさ。今日のところは我慢してくれよ」
「絶対にか? 絶対だな! 約束だぞ!」
身を乗り出して浩介を指差しながら、大声を上げている桃華を見て、全員が笑い出す。
「うっ……私としたことが取り乱してしまった。――でも、約束だからな」
赤い髪の女の子が、その髪にも負けないぐらい顔を紅潮させている。
「ふむ、今度はタコを使った料理にするか」
「??? そのタコっていうのは美味しいのか?」
「あぁ、最高に美味い物を食わせてやるよ。だから落ち着け!」
「わ、分かった」
今までの印象を覆すぐらいの満面の笑顔だ。子供の様に喜んでいる桃華を鑑賞しながら、みんなは食事を続けた。
空腹を満たし、落ち着いてきた所で、話が再開された。
「どうしてこの子達が監視するのか説明するわね。と、その前に私からプレゼント!」
吉祥天は浩介に銀製の首輪を手渡した。つけてみろと催促されたので、早速つけてみる。
「ちょっと苦しいかな」
「すぐに慣れるわよ。後、それ自分で外せないから」
「!!! ちょっ、――」
文句を言おうとした瞬間、唇に指が押し付けられる。このまま咥えてしまおうかと思ってしまうが、後が怖そうなので涙をのんで諦めた。
「これには、私の法力を注ぎ込んでいるのね。それで、浩介ちゃんの欲望が一定量を超えると、それが吸い取ってくれるの。その代償に徐々に首が絞まっていくから気をつけてね。――ちなみに、弥勒菩薩の欠片がどの位の影響を及ぼすかは、全く分からないわ!」
浩介の時間が少しばかり止まる。
自他共に認める欲望の塊が浩介なのだ。今聞いた事は、
『お前は死ぬ!』
と、宣告されたと言ってもいい。
そして、時間は動き出す。
「……って事は、あれか? 俺は今後、いつもの様に魅惑のお尻に導かれたり、透視能力が開花するんじゃないかと、女子をガン見したり、ムラムラした時に放出する事も、生きがいである妄想すら出来ないって事かよ!? マジか……」
マリオネットの糸が切れたかの様に全身の力が抜けていく。
人は本当に絶望すると、膝から崩れ落ちるものなのだと、浩介は思った。そして、尽きること無く溢れてくる涙。これが俗に云う『男泣き』というものなのだろう。
「あらあら、泣いちゃった。取り敢えず最後まで話を聞きなさいな」
虚ろな目で吉祥天を見つめている浩介に、言い聞かせる様に話を続ける。
それはとても優しい声だった。
「浩介ちゃんが嘆いている事を解消するために、この子達、――というか、瑠璃ちゃんがここにいるのよ。――まぁ、それの方法は、その時がきたら、直接教えてもらえばいいわ」
何かしらの手段があるのだろう。だが、浩介の耳にその言葉は届いていない。人は希望の光が見えてくると、目にも光が宿るらしいが、浩介の目は、まるで生ける屍だ。生気というものを全く感じない。
一通り話は終わったことだし、今は何を話しても無意味だと悟った吉祥天は、三人に浩介を家まで送るようにと伝えた。
先程まで賑やかだったこの空間も、いつもの様に静寂に包まれる。
そうだ、つい先日まではこんな感じの毎日を過ごしていたのだ。クスッと笑った後、いつもの様にパソコンの電源を入れる。
仕事をしていない、というか出来ないと言った方が正しいだろう吉祥天の収入源は『株』である。だが、今回はそのためにパソコンを起動したわけではない。動画サイトに出回っている三人(主に炎輝)を確認するためだ。
「……さて、どうしようかしら。流石にこれを誤魔化すのは無理そう。――そもそも、人目を忍んで出来るような事でもなかっただろうし、こっちから神様だってアピールした方が今後楽かもね」
そうと決まれば、後は行動あるのみ。携帯電話を片手に各方面へ連絡をいれていく。
資金、人脈、力。――自分の持っているものすべてを、初めて使う時がきたと、興奮している自分に少しだけ驚いていた。