其の三
自分の街を上空から見下ろすというのは、なんとも爽快である。
それが自身の身体で風を感じる事が出来るなら尚更だ。
「高い! 高いっ! 怖いぞこの野郎! は、早く降ろしてくれ。……」
爽快なはずが、何故か浩介は半泣きだった。当然、景色を楽しむ余裕もない。
「何を怖がっている? そろそろ到着するぞ」
もうじき、この地獄が終わると思うと少し心に余裕ができる。そっと目を開けて景色を確認すると、そこは少し街から離れた場所にある森だという事が分かった。
「こんな所に何があるんだ?」
「何って言われても、吉祥天が住んでいる所としか言えないわ」
吉祥天という名前は聞き覚えがある。だが、耳にしたことがあるという程度の知識しか持ち合わせていない。
「色々聞きたい事はあると思いますが、私達が説明するより吉祥天の話を聞くのがいいと思います。――って、どこ触っているのですかっ!」
「どこって言われても、怖くて分かんねぇ。――ちょっとだけ待ってくれ。今から意識を手に集中してみるからさ」
「しなくて結構です! あなたは私の腰を掴んでいるのです。今は恐怖心が勝っているので不快感は入ってきませんが、少しでも欲に支配されたら、――落としますよ?」
「くそっ、入るとか意味が分からないが、それなら『腰』とか言うなよな。意識してしまうだろう。……」
流石にこの高さから落とされてはかなわない。取り敢えず、指先で感じている肉感の事は忘れて、下を見て恐怖心を高める事にする。
「結界を通るよ。しっかり捕まって」
桃華の言葉の後、凄く嫌な感覚が身体を襲う。あえて言葉するなら、大きなスライムの中を通り抜けるような感じ、と言えばいいのだろうか。その気持ち悪さから開放された頃、浩介の身体は炎輝の背ではなく、土の上に変わっていた。
「立てる?」
「あ、あぁ。大丈夫だ」
桃華が手を差し出してくれている。その手に捕まって引っ張りあげてもらうと、視線の先には廃寺が見える。
「この街にこんな場所があったとはな……」
今は六月上旬のはず。それなのに、目の前に広がるのは紅葉――秋の風景だ。
落ち葉が敷き詰められた道なき道を歩み進めていくと、廃寺の入り口で一人の女性が待っていた。
絶世の美女というのは、今、目の前にしている女性に対して使う言葉なのだろう。気品のある顔立ち、均整のとれた体、妖艶とはこのような女性の事を言うのかもしれない。
「待っていたわよ。いらっしゃい、浩介ちゃん」
浩介は直感した。この人は男をダメにする。
「お、お、お、お姉さ~ん! 俺の愛人になってくれっ!」
思わず飛びついてしまった浩介を待っていたものは、頭頂部への肘鉄だった。
「ごはぁっっっ……」
「元気な子は嫌いじゃないけど、節操のない子は嫌いだわ」
「こ、この程度では沈まんっ!」
潰れたカエルの様に倒れていた浩介だったが、その手は女性の足首をがっちり掴んで撫で回している。
「はぁ、……しつこい子も嫌いよ!」
女はもう一方の足で浩介の手首を踏みつける。運がいいのか悪いのか、女が履いているのはヒールだった。
「みぎゃぁぁぁぁ!」
手を離した浩介は手首を抑えながら転がり回っている。
「あらあら、大丈夫かしら?」
薄ら笑いを浮かべながら腰を降ろして浩介を見つめる。ムチムチとした太腿と、ミニスカートの奥に潜む紫色の下着が浩介の目に突きつけられると、手首の痛みもなんのそのと動きを止めて凝視する。
「あなた結構タフなのね。私は吉祥天。この辺り一帯の業魔を払う天女よ。――よろしくね」
「俺は、黒が好きだけど、紫も結構いける口の御堂浩介だ」
「ふふっ、――面白い子。取り敢えず中に入りなさいな。色々話さないといけない事もあるし、浩介ちゃんも聞きたい事、一杯あるでしょ?」
「お、おう?!」
今日は学校へ行くのは無理だと思いつつ、少しばかりの空腹感を感じながら、浩介は廃寺の奥へと案内された。
学校は今朝の巨大な鳥の話題で持ち切りだった。
どうやら動画撮影されたものもネットにあがっていて、現在、学校にマスコミが殺到している。
守は、その動画で浩介の姿を確認した。そして、一緒にいた杉宮の所へと足を向けている最中だ。
「くそっ、――真美が折角登校しているってのに、あいつがいなければ意味がねぇよ」
四階にたどり着いた守は、杉宮の教室の扉を開ける。
「すみません、二年の紅林ですが、杉宮先輩いますか?」
「おっ、不良学生の紅林だ! 杉宮なら早退したよー」
「そうっすか。ありがとうございます。――後、俺は不良じゃありませんから」
「えぇー? だって、一年の頃、相方とよくマジ喧嘩していたじゃない? 私とかさ、男子の殴り合いなんて見たのあれが初めてだったよ。血とかも出ていたしさ」
「……まぁ、あれは色々と。――じゃあ俺、急ぐんで失礼します」
ペコリと頭を下げて教室を後にする。
唯一の情報源といってもいい杉宮が捕まらないのならば何もする事が出来ない。
守は仕方なく教室に戻ることにした。
浩介とはよく喧嘩をしていたな、と他人に言われて初めて気がついた。出会ったのが小学校入学前の頃で、当時からよく喧嘩をしていたので感覚が麻痺しているのだろう。
真美が浩介に好意を持っていると知った時は絶望したものだ。自分にとっては最高の友だと胸を張って言える。が、男としては問題が多すぎて、とてもじゃないが妹を任せる事など出来ない。思春期に異性を意識するのは普通の事だと思うのだが、浩介のそれは異常と言っても過言ではない。所構わず、相手も選ばず、女というだけで声を掛けに行く。そして、決まっていう言葉が、『愛人』というフレーズだ。
「俺には理解出来ないな。が、本当に嫌がられた相手には近づかない様にしているからなぁ――そう言えば、こんな事言っていたな。『俺が傷ついたり、嫌われるのは問題ない。が、女子が傷つくのは見たくない』って」
少し口元が緩んでしまう。
「そもそも、あいつのファーストタッチで相手が傷ついているかもしれないのにな」
それも浩介に言った事がある。その時の答えは、『最初は仕方ないだろ? だって、そうでもしないと、相手を知ることすら出来ない』だった。なんて我儘な奴なのだろうと思う。
そろそろ休憩時間も終わってしまう。急いで教室に戻ろうと駈け出した時、校内放送が流れる。
それは守の呼び出し。そして、聞かされたのは、真美が倒れて、病院に運ばれたという知らせだった。