其の十二
色々あった今日も、もうじき終わろうとしている。
寺に戻った三人は、ぎこちないながらも、今までとは違う時間を過ごしている。
疲れたのか、大の字になって寝転ぶ桃華の横には、瑠璃が座っている。この距離感に戸惑っている桃華だったが、今までの様に顔を背けるという事はなかった。
炎輝は台所に立ち、晩御飯の用意を始めている。
「大事な用事があると言っていたはずなんですが、吉祥天は居ませんね」
言葉を発しながら、料理本を片手に冷蔵庫の中身を確認していた。
「これと……これとこれ。えっと……今日は野菜炒めでいいですか?」
献立の確認を取ろうと声を掛けると、ガラガラっと戸が開く音が響き渡った。
珍しく、パンツスーツで身を包んだ吉祥天は、いかにも疲れましたという顔をしている。
「ただいまぁ……で、出かけるから準備なさいな」
帰宅早々、一言発しただけで靴を脱ぐことなく、再び外に出て行った吉祥天は若干ソワソワしていた。
「今から晩御飯を……」
「そんなの後、後! あの子を待たせると、ただでさえ不機嫌なのに、更に面倒くさくなっちゃうのよ」
直ぐに準備が出来た桃華と瑠璃は、すでに吉祥天の横に来ている。
「あの子、とは?」
尋ねた瑠璃を見た後、桃華に目をやると、今までとは違う雰囲気が漂っている事に気がつく。舐め回すように上体を動かして眺めた後、
「へぇー、何かいい事でもあったのかしら? それは後で聞くとして、あの子っていうのは〈弁財天〉の事よ。それより、炎輝ちゃん! 早く来なさいな」
急かされた炎輝は、材料をしまうのを後回しにし、エプロンを外すと、慌ててみんなの所へと駆け寄って行く。
「じゃあ、行きましょうか。まずは迦楼羅鳥になってくれるかしら? 空で待ってるのよ」
分かりましたと、三人を乗せて飛び立った炎輝は、吉祥天の誘導の元、雲の上へ飛び出した。
人間界に来てから空を飛ぶことは度々あったが、雲の上まで来たのは久しぶりである。天上界から降りてきた時以来だろうか?
ここからもう少し上がると、天上界へと続く道があるのだ。
暫く滑空していると、何かが浮かんでいるのが見えている。近づいていくと、それが〈船〉だと確認出来た。
「あれは〈宝船〉よ。宇賀ちゃん……えっと、弁財天の事ね。その宇賀ちゃんの法力で飛んでいるの」
そう聞いて三人は驚いた。当然である。あれ程の物を浮かす事自体が異常なのだ。それだけでも弁財天の力が強大だと見て取れる。
宝船の上を旋回している炎輝は、吉祥天の指示を待っていた。降りるタイミングが分からないのだ。
上から見下ろした宝船には一人の子供? が琵琶を弾いている。
その音が止まった瞬間、ギッと上空に睨みをきかした。
「あらら、やっぱり怒ってる。――三人共、ちょっとだけ待っていてね」
そう言い残すと、スッと飛び降りて弁財天の前に立つ。
「……功徳」
「久しぶりね、宇賀ちゃん」
「……その名で……呼ぶな」
「あらあら。もしかして怒っているのかしら?」
「……何故……私を騙した?」
「何のことかしら?」
抑えていた感情が抑えきれなくなったのか、弁財天は大きく目を見開くと、右手を前に突き出した。
その五本の指先から、糸の様な物が放出される。それはあっという間に吉祥天の両手両足、そして首に絡みつく。
その糸の様な物は琵琶の弦だった。小指の弦を撥で軽く弾くと、吉祥天の左足に炎がまとわりつく。
「……もう一度だけ聞く……何故?」
燃えている自分の足などお構いなしに、吉祥天はその質問には答えない。
それが苛立たしいのか、薬指、中指、人差し指と弦を弾いていく。
両手首、両足首が激しく燃え盛っているにも関わらす、顔色も変えずに弁財天に近づいていった吉祥天は、腰を曲げ耳元に顔を近づけると、
「本気で私と闘う気かしら?」
そう小声で囁いた。
ビクッと身体が反応した弁財天は、顔を青くしながらも、撥を首元に持っていくと三度問いかける。だが、その声は震えていた。
そんな弁財天の頭を軽く撫でると、申し訳なさそうに、
「ごめんね、宇賀ちゃん。今は話せない。でも……」
「……功徳はいつもそうだ。……大事な事は何も話してはくれない! 私はっ!」
撥を持つ手がダランと落ちると、束縛していた弦もシュルシュルっとしまわれていく。
目に涙を浮かべながらキッと吉祥天を睨みつけるが、その相手は愛おしい者を見ているかの様な目をしていて、視線を外さない。
「……こうなる事は分かっていた……でも、でも……」
「私としては一戦交えないといけないのかしら? って思っていたから引いてくれて安心した。宇賀ちゃんと闘うのは嫌だしね」
「……はぁ……で、私に何をして欲しい?」
諦めモードに入った弁財天は、いつか話してもらうぞ、という目をした後、自分が呼び出された理由を尋ねた。
話をする前に、上空で待機をしていた三人を呼び寄せると、改めて弁財天に話しかける。
「宇賀ちゃんにやってもらいたい事は一つ。浮島を作って天上界と繋いで欲しいのよ」
「……その理由は?」
「この子達が闘う場所が欲しい」
「……大きさは?」
「そうね……この船の百倍って所かしら?」
「……真言を使えと?」
「そうなるわね。お願い出来るかしら?」
「……分かった。用意しよう」
「ありがとう、宇賀ちゃん!」
簡潔かつ、効率的な交渉が終わると、吉祥天は弁財天を抱え上げてグルグルと回り始めた。
「……くっ……やめろ……やめ……あぁ……目が…………クルクル……きゅぅ……」
目を回してフラフラになった弁財天は、眠りについた子供の様に吉祥天の膝の上で横になっている。
「あの……僕達はどうしてここに居るのでしょうか?」
一連の流れを見ていると、別に自分達がこの場に居る必要はなかったんじゃないだろうかと疑問に思った炎輝だった。
それよりも、出しっぱなしにしている食材の事が気になるのだ。
桃華と瑠璃は、炎輝とは違う理由で気になっている事がある。
そう、もしかしたら闘いが始まるのではないのだろうか? といった最初の緊張感の理由だ。
会話の内容は聞こえていた。だから余計に聞き出しにくい。
そんな空気を察したのか、吉祥天は「ごめんね」と言わんばかりにウインクをしながら舌をチロッと出している。
結局、どうすることも出来ない二人は、言葉を発する事もなく、ただ立っている事しか出来なかった。
ようやく目覚めた弁財天は、謝っている吉祥天の頬を豪快に叩いた後、準備をするために宝船を動かす体勢に入った。
「まったく、女の顔を叩くなんて……ねぇ桃華ちゃん」
「えっ? あっ? そ、そうだね」
戸惑いながらも、取り敢えず同調する桃華を見て笑っている。一番そういう事に疎い桃華に言ったというのも狙っているのだろう。
色んな意味で質が悪い。それが吉祥天という天女だった。
「……浮島の元になる物……どうする?」
「そうね……天上界に戻るのもなんだし、どこか小さい無人島でも使わせてもらうわ」
「……分かった。じゃあ船を動かす」
手頃な島を探すため、宝船は出航する。
動き始めた宝船の上で、吉祥天は三人を呼び寄せると、時間潰しのため、弁財天との話を始めだした。
「気になるだろうから、少しだけ昔話をしてあげる。――あれは、宇賀ちゃんが人間界に降りるって決まった日だったわ――」
人間界の業魔を管理するために、四人の神が降り立つ。それは須弥山の決まり事だった。
大体、千年単位で担当の神が入れ替わる。
そして、新たに降りる神として弁財天が選ばれたのだ。
喜々としてそれを吉祥天に伝えた弁財天は、人間界に降りるその日を、今か今かと待ちかねていた。
そして、明日は人間界に降りる。そんな晩、吉祥天は弁財天の元を訪れた。大量の酒と一緒に。
「いよいよ明日ね。今日は酒宴よ!」
弁財天は言葉数が少ない。それ故に、親しい神が少ない。だから、吉祥天が祝ってくれるのが本当に嬉しかった。
「……ありがとう……功徳」
「あら、可愛い。気にしなさんな。今日は飲むわよっ!」
弁財天の盃は、途切れる事なく酒が満たされる。
弁財天は酒に弱いわけではない。だが、今日の酒は一味違った。
飲めよ、飲めよと注がれていく酒を飲み干していく弁財天に変化が現れだしたのは、酒宴が始まって二時間程過ぎた頃だった。
「……ふぅ……今日のお酒……美味しい……でも…………瞼が重く…………」
静かに眠りに落ちていく弁財天を申し訳なさそうに見下ろしながら、
「ごめんね、宇賀ちゃん。私、どうしても人間界に行かなきゃいけないのよ……本当にごめんなさい」
吉祥天は今日の酒に一服盛っていたのだ。
完全に眠りに落ちた弁財天を寝屋まで運ぶと、翌日、弁財天の変わりに人間界に降りるという事を帝釈天に告げた。
本来ならこういう事はありえないのだが、吉祥天に頭が上がらない帝釈天は、その言葉を受け入れ、吉祥天を人間界に遣わしたのだった。
「と、まぁこんな事があったのよ」
話を終えた吉祥天に冷たい視線が突き刺さる。
「最低ですわね」
「全くです。鬼畜ですね」
「……悪鬼だね」
「……功徳は悪鬼だ」
全員に攻められても、吉祥天は只々笑っている。
攻められようが、なじられようが、吉祥天にはやらなければいけない事がある。そのために手段は選ばない。結果、誰が敵にまわろうが構わない。
そんな強い意志があるからこそ、笑っていられる。否、笑うしかないのだ。
今はまだ懺悔をする時ではないのだ。だからこそ、どう思われようが笑っていよう。
「宇賀ちゃんを見てちょっとだけ折れそうになったけど、大丈夫だった。私はやれる……」
誰にも聞こえないよう、自分を鼓舞する吉祥天は、心の中で、何度も、何度も弁財天に「ごめんね」を呟いていた。