其の九
早朝から慌ただしくしている男がいる。それは浩介だ。
昨晩、帰宅した後、母親に大量の弁当をお願いしたのだ。桃華を見ている限り、天界人は大食漢が多いのではないかと予想した浩介は、現在母親の横で出汁巻き卵を焼いている。
「彼女でも出来たのかしら? って、それだと普通は作ってもらうほうよね……あなた、もしかして、男が……」
「だぁぁぁぁっ! 朝から変なこと言うんじゃねぇよ!」
「だってねぇ。最近、家に可愛らしい男の子が来たりしているのだもの」
炎輝の事を言っているのだろう。確かに頻繁に訪れるのは間違っていないのだが、当然一人ではない。
「可愛い女子もいるだろうが!」
「確かに可愛らしい女の子も一緒だけど、あの子達って神様なのでしょう?」
「母さんが言っている男の方も神様だよ」
「あらあら! そうだったのね」
何故、三人のうち一人だけが別だと思ったのかは謎である。
浩介も、その母も手際よく弁当を仕上げていく。この家には何人子供が居るのだろうかと思ってしまうぐらいの弁当が、どデカいスポーツバッグの中にしまわれていく。
それを肩に掛けた瞬間、ガクッと肩が下がってしまった。
「お……重てぇ」
「お腹空かせて待っているのでしょう? 早く行ってあげなさいな」
「おう、それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。今日も遅くなるのかしら?」
「わかんねぇ。その時は電話するよ」
エプロンで手を拭きながら、息子の後ろ姿に手を振ると、浩介もそれに答える様に片手を上げて手首を揺らした。
ここ数日バタバタしているせいなのか、守と連絡が取れていない。元々頻繁に連絡を取り合うわけではないのだが、目の前を走り去ったバイクを見て、ふと守の事が頭に過った。
真美の事もある。余裕が出来たら連絡を入れてみようと思いながら、重たいバックを揺らしながら学校に向かって走っていく。
木陰の下で死んだように大の字になっている二人に歩み寄ると、ドサッとバックを肩から下ろした。
動くのも億劫なのか、二人は目線だけ動かしそれを確認した。
「ほら、食料持ってきてやったぞ。一応、朝昼晩の三食分作ってきたから一気に食うんじゃねぇぞ!」
食料という言葉に反応した二人はガバッと勢いよく起き上がると、力任せにバックを引き裂いた。
おいおい、その開け方はどうなんだ? と、突っ込みたくなる衝動を抑えつつ、浩介は教室へと向かうためその場を去っていく。
あの調子だと、昼まで保たないだろう。自分の予想を超える飢えっぷりに感心しつつも
溜息が漏れてしまう。
教室に入ると、いつもの様に桃華はボーッと窓を眺めていた。バンと勢いよく机を叩きながら朝の挨拶をする。
「おはよう、桃華!」
「……」
返事がない、ただの屍のようだ。
昔やっていたゲームの台詞を思い出す。
「今日もいい天気だな」
「……そうね」
顔をこちらに向けてくれないが、返事はしてくれる。
それだけで十分だと満足した浩介は自分の席に着く。
いつもどおりの一日が始まり、そして終わっていくのだろう。否、ここ数日そんなことを思ったことがない。決定的に違うのは、クラスの女子(一応男子も)が浩介に喋りかけてくる時間が大幅に増えたことだろう。理由は勿論、クラスに編入してきた三人の神の子達だ。
常に一緒に行動している影響なのか、根掘り葉掘り浩介から聞き出そうとしてくるのだ。
普段ならそれだけでも喜んでいただろう。だが、今は違う。夏服の女子が近寄ってくると良からぬ妄想をしてしまいそうになるのだ。さすがに教室で首が絞まるのは避けたいのだ。慣れてきているのか、新しい扉を開いてしまったのか分からないが、そうなっている時の顔がヤバイと自覚してしまったのだ。そう、悦に浸ってしまうのが大問題なのである。
元々、クラスだけではなく学校中の女子が、浩介=変な奴で通っているのに、そのランクが上がってしまうのはいただけない。
いっその事、全てをさらけ出して開放してしまおうかと何度思った事だろうか。だが、その結果、母親が学校に呼び出されるのかと思うと一線は超えられない。
悶々とした時間がただ過ぎていく。
午前の授業が終わると、珍しく瑠璃の方から浩介に近寄ってきた。
「ちょっとよろしいですか?」
「ん? 飯でもたかりに来たのか? 残念だが、俺の弁当はここにない。もう俺の弁当箱は空臥達に蹂躙された後だろう。ハゲタカすら寄ってこないはずだ」
朝渡したバックの中から自分の分を取り忘れた浩介は、不機嫌そうに机に突っ伏している。
「それはそれは、とても可哀想ですわね」
「もう少し感情を込めて言ってくれ」
「あなたの食事などどうでもいいのです。今日は少し相談事がありまして……」
「そうか、やっと俺の愛人になる決心がついたんだな。俺の方は全く問題ない。名誉ある第一号の称号を与えてやろう」
時間が止まってしまったのだろうか? 怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、只々冷めた目で浩介をジッーと見つめている。
三十秒程経った後、この空気に耐え切れなくなった浩介は、瑠璃に頭を下げる事になる。どうやら瑠璃は浩介の扱いに慣れてきている感じだった。
「では、話を戻そう。俺に相談って何だ? まぁ、何となく分かるけどな。――桃華の事だろう?」
チラッと桃華の方に目をやると、朝のまま固まっているのだろうかと思うぐらい同じ体勢で窓を眺めている。
桃華達は、朝一緒に登校してくる。下校も基本的に一緒だ。ただ、教室で三人が集まっている所を殆ど見たことがない。
桃華の近寄ってくるなというオーラを察しているのだろう。
それが分かっているからこそ、浩介がいつも桃華にまとわりついている。瑠璃もそれを理解していたのだろう。
「察しがよくて助かりますわ」
「助かるか……俺にそんな事を言うなんて、明日は雷雨かもしれんな」
瑠璃の手には金剛杵が握られている。バチバチと小さな雷が発生していた。
「こ、ここで話すわけにもいかないだろう? 場所を変えよう」
「お任せしますわ」
別に電撃が怖いわけではない。寧ろ慣れてきてしまっているのか若干気持ちいいぐらいだ。自分の環境適応力に感心しつつ、浩介は瑠璃を連れて屋上に上がった。
今日は風が強いのだろうか、瑠璃の髪が靡き、それを抑える仕草が色っぽい。いつもならスカートに目がいきがちの浩介が、珍しく瑠璃の仕草に目を奪われていた。
「私は、お姉様と仲良くしたいのです。ですが……」
「あぁ、親の事な」
「はい」
「それに関しては俺にはどうする事も出来ない。過去は変えられねぇからな」
「やはり、私は嫌われているのでしょうか?」
金網に手をやりながら、悲しそうに校庭を見つめている。思わず後ろから抱きしめたくなるぐらい哀愁が漂っていた。
浩介は隣に立つと、瑠璃の肩に手を置こうとするが、その手を瑠璃と同じ様に金網に向ける。
「嫌われてはないだろうよ。あれは戸惑っているって感じだろうな。色々な女子に声を掛けてきたから、それなりに相手の思考が分かる。――って言ったら自意識過剰だな。俺がそう思い込んでいるだけかもしれない。でも、相手が本気で嫌悪感を抱いているかどうかぐらいは分かっているつもりだ」
「あなたがそういった部分での立ち回りが上手いというのは、この数日見ていてよく分かっているつもりです。現に、あなたに話しかけている女生徒は楽しそうに見えますし」
「ほう、自分の事は分からねぇからなぁ。まぁいいや。――俺が桃華に対して一番感じることは、あいつはとても恥ずかしがり屋だということだ」
「恥ずかしがり屋……ですか?」
一緒に暮らしているが、そんな風に思った事もなかった。どちらかと言えば、いつも不機嫌で怖いというイメージしかない。
「姐さんなら気づいていると思うんだけどな。姐さんは何もしてくれないのか?」
「あの方はよく分かりません。つかみ所がないというかなんというか……」
「まぁ、あれは悪女の類だしな。関わったらろくな目に合わないって俺の本能が訴えてくるぜ」
それでもついつい付いて行ってしまう。別のかたちで出会っていたとしても、多分、浩介は彼女に振り回される日々を過ごしていたのだろう。それだけは確信出来ると浩介は思う。
「いい加減、三人には仲良くして欲しいと思っていたし、今のまま空臥達と闘うってのもどうかと思うし、俺が何とかしよう」
そんな簡単に言ってもらうと、いささか不安になるが、何故か本当に何とかしてくれる気がしてならない。瑠璃はどうして自分が浩介の言葉を簡単に信用するのだろうと不思議に思っていた。
「ありがとうございます。私はあなたを好いてはおりません。ですが……」
「いいって。俺が嫌われる様な事ばかりしているからな。――だが、一つだけいい事を教えてやろう」
「何でしょうか?」
「嫌い嫌いも好きのうち。ってな!」
瑠璃はその言葉がどういう意味なのか理解出来ない。だが、一つだけ否定しなければいけない事があった。
「好いてはいないのは違いないのですが、別に嫌っているわけでもありません! そこのところを間違ってもらっては困りますわ」
リスのほっぺの様に膨らませながら、ビシっと浩介に指を指している。
その姿を見た浩介は、堪えきれずに吹き出してしまった。
「何故笑うのです? 私が何かおかしな事を言ったのですか?」
それが追い打ちになったのか、浩介は腹を抱えてうずくまりながら肩で笑っている。
意味が分からない瑠璃はそれを見て腹立たしくなってくる。ただ、その感情はいつもの腹立たしさとは少し違う気がしてならない。
「いい加減にしなさい! もういいでしょう? そろそろ教室に戻るわよ、浩介!」
「はぁはぁ……笑いすぎて腹が痛い。――そうだな、そろそろ戻るか、昼飯も食わないといけないしな」
浩介は瑠璃が自分の名を呼んでくれた事に気づいていたが、あえて何も言わないでおこうと瑠璃の言葉に乗るだけに留めた。
クルッと振り返り背を向けた瑠璃に、再び風が吹いてくる。黒髪が風に揺られ、時折白い首筋を見せてくれる。
「ふむ。綺麗な女は何もしても様になるんだな」
「何か言った?」
「うんにゃ、何でもねぇよ」
いいものを見てご馳走様。と、言いたい気分だが、それだけではこの空腹感は薄れない。
浩介は瑠璃と分かれて食堂へと向かった。