其の七
一方、天上界では帝釈天に呼び出された弁財天が喜見城に訪れていた。
背負っている琵琶が大きく見えるのは、弁財天が小さいというだけである。
二倍弱程ある警備兵達が、通り過ぎていく弁財天に頭を下げていく。身体の大きい神は珍しくないのだが、その反対となれば別である。
人間界に降りている炎輝の様に、成長過程で身体が小さいというのは普通なのだが、弁財天は身体的な成長を期待出来ない。というか無理なのだ。
そもそも、桃華達の様な〈神の子〉とは違い、帝釈天などの〈名のある神〉は、生まれた時からその姿なのだ。だから、望まずして弁財天は須弥山では目立ってしまうのだ。
帝釈天の待つ部屋の前まで案内されると、少し高い位置にあるドアノブに警備兵が手を伸ばそうとするが、弁財天はそれを拒否するため撥で手の甲を軽く叩く。
背伸びをして、ようやく掴んだドアノブが回ってしまうと、それにぶら下がったまま部屋の中へと入ってしまった。
弁財天は何事も無かったかのようにテーブルの前に歩いて行くが、残念な事に、向こう側に居るはずの帝釈天の姿が見えない。琵琶を降ろした弁財天は、用意されていた特別製の椅子にヒョイと飛び乗った。
「急に呼び出したりしてすまないな」
「……それはいい……要件を……言って」
か細い声で受け答えをする。長文を話すのは苦手な弁財天は、言葉の節々で休憩の様な間を取ってしまいがちなのだ。
「では、早速命令を下す。――人間界に降り、吉祥天の」
「……いや」
断られるだろうとは思っていたが、まさか話の途中で断られるとは思っていなかった。
「いやな、話は最後まで聞いてくれてもいいのではないのか?」
「……私……功徳……嫌い……知っているはず」
「あ、あぁ。勿論、勿論だとも! 重々承知の上だが、吉祥天がお前を指名しているのでな」
スゥーと大きく息を吸い込んだ弁財天は、
「女好きの帝釈天が功徳に籠絡された。その上、私のような忠臣の事などどうでもいいと、嫌がる私の気持ちを無視し功徳の元で働けという。王の命令とあらば従うしかないのかぁぁぁ。――でも……いや」
過剰演技で声を荒げている弁財天を横目に、帝釈天は項垂れる。
「……どうした? ……もう少し……続けるか?」
「もうよい。こちらが悪かった。――命令ではなくお願いだ。お前に頼るしかないのだ」
テーブルを粉砕してしまうかの如く、自分の額を豪快に打ちつけながら懇願している。これが本当に王なのか? と、もし、この場面を見ている者いたらそう思うに違いない。
「……どうした? 机……濡れてる……涙?」
「違うな。私がこの様な事で涙を流すと思っているのか? これは、あれだ! 唾液……そう、唾液だ! 最近、口の締りが悪くてな」
「……そうか……帝釈天の口は……だらしがない……だらしがない……だらしがない……」
「復唱はせんでもよい。――それよりも、お願いは聞いてくれるのか?」
「……大丈夫……最初から……聞くつもり……ただ……命令は嫌い……お願いなら……問題ない」
こんなことなら、最初からお願いすればよかったと、後悔ばかりが押し寄せてくる。だが、すんなりと聞き入れてくれるのも問題だ。
吉祥天と弁財天。須弥山では二大天女と呼ばれている。この二人はとても仲がよかったはずなのだが、人間界に降りる事になっていたはずの弁財天が、いつの間にか吉祥天に変わったという時期から二人の関係がおかしくなった。
理由を聞いても、二人とも話してくれる事もなく、二人の間に亀裂が入ったという事だけが広まっている。
「大丈夫……なのか?」
「……問題……ない……ただ……」
「ただ?」
「……功徳は……一度……この手で……懲らしめる! 今回は……絶好の機会……功徳……逃がさない!」
こうなるだろうとは思っていたが、予想通りすぎて溜息しかでてこない。
吉祥天がそれを予測出来ないとは考えられない。二人が戦う場が必要になるだろう。だが、人間界に被害をもたらすわけにはいかない。人間を守るのが神なのだから。
「致し方あるまい。天上界と人間界の結合を許そう。それが出来るのはお前だけだしな。――くそっ、あいつは最初からそのつもりで弁財天を呼んだか……」
全ては吉祥天の手のひらで遊ばれていたというのは癪に障るが、予想の範囲内ということで納得するしかないと思うしかなかった。
「……じゃあ……行ってくる」
「あぁ、よろしく頼むぞ」
「……うん……頼まれた」
こうして弁財天は人間界に降りることになった。