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四月事件編  たったひとつの冴えた悲しみかた

 「草霞野球団っていうのは…………」

 「おうよ、少年野球の名門だ。そこのレギュラーは、ほぼ百パーセント、プロ選手になるって言われるくらいの超名門野球チームだ。オレはそこに、入ってすぐピッチャーのスタメンになった」

 抱さんたちとグローブを買った帰り、僕と手縄くんはそんな他愛もない会話をしていた。

 「すごいね。そんな名門チームに、入ってすぐスタメンなんて」

 「オレなら当然だ!」

 自信満々に、彼は自負する。それは空威張りにも根拠のない自信にも聞こえない。どうも彼には、自信を持つに十分な証拠があるのかもしれない。

 あるいは草霞野球団に入ってすぐスタメンになったこと自体が、確たる証拠なのだ。

 「…………ただ、それがどうも不味かったみたいだ。オレもまだ浅いな。もうちょっと、後ろで大人しくしてるべきだったんだ」

 たとえスタメンにすぐなれる実力があったとしても、だ。苦々しく、彼はそう言った。

 具体的な内容は知らなくても、その結果起こったのが『草霞野球団の一件』なのだと、すぐに想像はできる。

 「お前はどうなんだよ、九」

 と、手縄くんは僕に話を向けてきた。自分のことばかり喋っては、割に合わないと思ったのだろう。

 どうなんだよ。つまりあの時、グローブ売り場で互いが確認した経験を、それとなく彼は聞いている。

 すべてを答える義理は無い。それはお互いに了解していた。だから僕も、手縄くんが明かした程度の情報を述べるにとどまった。

 「人が人を殺さないのは難しい。僕が知ったのは、それだけだよ」

 多くを挙げようとすれば、細かい教訓まで挙げることはできる。三年前の出来事によって、僕は他人の死を悲しいとは思わなくなった。他人の死体を次に見たとしても、取り乱さないかもしれない。でも、そんな細かな部分まで手縄くんに話す必要はない。互いに似た経験があるだけ、互いに喋りたくない範囲があることは織り込み済みだ。

 「まったく、互いに大変な目にあったもんだ」

 手縄くんはまるで僕から全てを聞いた後のようなセリフを言った。それも、僕たちだからできる配慮だ。

 「本当に、ね。だからこそ、今回の『義務殺人』を、手縄くんはどう思う?」

 それとなく、僕は手縄くんに水を向ける。彼の初日の台詞が本心でないことを、確認するためだ。

 「ああ。オレはこの1年を、ろ過装置みてえなもんだと思ってる」

 手縄くんはそんな僕の思惑に気付いていないのか、淀みなく喋る。

 「最初は目も眩んださ。でもさすがに気付いた。人殺しは駄目だ。ルールが許してもオレ自身が許せなかった」

 これで殺人の芽は、去ったはずじゃなかったのか。

手縄くんのこの台詞で、当面の危険因子は消え去ったはずじゃないのか。

 それなのに。

 どうして彼が、ここで死んでいるんだ?

 「どうしてだ…………? なぜ、手縄くんが……………………」

 呆然とする遊馬くんを置いて、とにかく赤ペン先生にすべてを伝えた。赤ペン先生はもしかすると嬉々として手縄くんの死を喜ぶんじゃないかと思ったけど、普段通りのテンションのまま、運動場にいた男子全員に体育館へ集まるように言った。

 通常のテンションを保っているだけ、ハイになられるよりはマシだったのかもしれない。それでも、人が死んでいるのに通常のテンションのままというのは、ストレスを十分に与えた。

 それを不謹慎だと、僕は言えなかった。動揺こそしたが、僕もまた、いつも通りだったからだ。

 時間が経てばたつほど、感情がフラットになっていく。

 予想通りなのに、自分のことなのに、気味が悪い。

 体育館に男子が入ってくると、女子たちは怪訝そうな顔で僕たちを見る。それもやむなし。体育館に入る男子のほぼ全員が、これから通夜でも開きそうな顔つきだからだ。

 例外は僕と、体育館に着くまでに普段の表情を取り戻した遊馬くん、そして御手洗くんだけだ。遊馬くんは顔がまだ青いから、無理していつも通りを装うとしているのが分かる。御手洗くんは、もともとの覚悟が他のみんなと違うのもそうなんだけど、僕と遊馬くんと違って直接手縄くんの死体を見ていないのが大きい。

 それでも死体を見たからといって、御手洗くんが表情を崩すとは考えにくかった。

 「ちょ、ちょっと、どうしたのよ!?」

 「それはこれから、先生が説明します」

 阿比留さんの疑問を受け止め、体育館前のステージに立った赤ペン先生が発言する。あからさまな合成音声もそのままだ。かといって、いきなり声色を変えられても失笑物だが。

 「まずみなさんにお伝えしまーす。君たちのクラスメイトで、一際『義務殺人』に意欲を燃やしていたと思われる手縄明くんが殺害されました!」

 「…………っ!」

 声にならない悲鳴。それは抱さんのものだった。他の女子生徒も動揺を隠せないようだが、それでもまだ冗談半分という印象が拭えない。これは単に抱さんだけが真面目に『義務殺人』の概要を捉えていたとか、他の女子生徒が不謹慎だとかではない。

 赤ペン先生が悪い。こんないつも言うことが嘘か本当か分からない教師がいきなり「手縄くんが死にました」と言ったって、はいそうですかと信じる生徒はいない。

 何気なく、雲母さんの方に視線が向いた。どこに誰がいるか分からない雑多な人ごみの中でも、金髪の彼女は目立った。

 雲母さんは、表情を何一つ変えていなかった。御手洗くんと同じく……ではない。御手洗くんはフラットに表情が変化していなかっただけだ。もしかしたら内心では動揺しているのかな、くらいの推測の余地が残っていた。

 彼女は、違う。僕とも違う。動揺なんて、一切見られない。推測の余地すら残らない、完璧なフラット。コンスタントに彼女は感情を、保っていた。

 赤ペン先生はしばらくみんなの様子を見て、それから言った。赤ペン先生も先生で表情が一切崩れていないけど、それは先生の性格とは関係が無い。着ぐるみだから、表情が変わらないだけだ。

 「うーん。どうも信じられてないみたいですね。それではお見せしましょう! どうぞ!」

 「…………は?」

 お見せする? 手縄くんの死体をか? でも、どう……………………!

 ステージの真上から、スクリーンが下りてきた。視聴覚室にあったものとは比べ物にならない、巨大なスクリーンだ。それと同時に、暗幕が体育館の左右にあった窓を隠していく。

 意外と高性能だな!

 スクリーンが下りて、全ての暗幕が閉められると同時に、館内の灯りが全て落ちる。そして次の瞬間には、スクリーンに映像が映される。

 手縄くんの無残な死体が。

 「いや、え、どうして、こんな………………っ!」

 その声は、鴨脚さん? 暗くてどこにいるかは分からないけど、彼女の声なのは確かだ。

 やっと事実を認識した女子陣から、悲鳴が上がる。事実こそ知っていても死体は初めて見る男子陣も、それは同じだ。

 阿鼻叫喚とは、こういう状態のことなのか。

 「五月蠅い」

 それが悲鳴を聞いた僕の最初の呟きだった。その声はたぶん誰にも聞こえなかった。もし聞かれていたら大変だ。自分でも、どうしてこんな声が出たのか分からないほど、冷たい声だった。

 雲母さんの冷たさが伝播したように、凍える声だった。

 そのせいかもしれない。僕はこの地獄のような空間に何かが足りないとは思ったけど、その足りない物の正体は掴めなかった。

 「えー、みんなちょっと落ち着いてね」

 体育館中に、赤ペン先生の声が響く。その声で、やっと混乱は収まった。現実離れした声によって現実に引き戻されるとは、滑稽すぎる。

 それにしても赤ペン先生の声は、拡声器でも使っているんじゃないかと思うくらい大きい。まあ、元が機械を通した音声だから、無線で体育館にあるスピーカーに繋ぐということも可能なのかもしれない。

 むしろ、そういう風になっていた方が、赤ペン先生としても楽なはずだ。

 「これからのことについてお話します。みんなにとって重要なことだから、よく聞いてね」

 そこに至って僕も、ようやく現実的な部分を考え始めていた。

 殺人。それを犯した生徒はこの中にいる。手縄くんという無実の少年をひとり殺しておいて、のうのうと報酬として『環境の整備』を手に入れる。手縄くん、それに根廻さんの言い分によるなら、それで犯人は好きな学校に進学できる。

 あまりにも安い。赤ペン先生は殺人こそが妥当な『自発的な行動』だとしていたけど、僕から見れば安すぎる気がする。

 「これからも何もよお…………」

 五百蔵くんが、赤ペン先生に声をかけた。彼は彼で、何か思うところがあるのかもしれない。生憎表情は見えないから、どういう面持ちなのかは分からない。

 「明の野郎は死んじまったんだぞ。誰が殺したかは知らねえが、その犯人はもうこれで更生したってことなんだろ?」

 赤ペン先生から返ってきたのは、予想外の一言だった。

 「え、まだ犯人が殺人をしたとは決まってませんよ?」

 赤ペン先生も暗闇に紛れて表情が見えないけど、こっちはうかがうまでもない。真顔に決まっている。それでも、もし赤ペン先生が表情を変えることができたとしても、先生は真顔で言ったのかもしれない。

 「……え、何だって?」

 五百蔵くんも驚いて、聞き返す。他の生徒たちも、驚いているのが息遣いで分かる。普段は聞こえないそんな僅かな音も、暗闇ではよく聞こえた。

 「つまりですねー、先生の定義する『殺人』の条件を、まだこれだけでは満たしていないということですよ。ただ殺してOKなら、もうとっくにバトルコロシアムになってるでしょ? そうならないのは何故か。君たちも分かってるくせにー」

 確かに、赤ペン先生の言うとおりだ。殺すだけでいいなら、とっくにそうなっている。そうならない理由は大きく分けて三つ。

 ひとつは倫理観。本当に人を殺してもいいのかという、疑問。この倫理観があったからこそ、手縄くんでさえルールで許されている殺人を良しとしなかった。いうなれば『義務殺人』以前に敷かれた人間としてのルールだ。

 二つ目は不信感。本当に殺人をしても、言われたとおりの報酬を貰えるとは限らない。殺したところであの赤ペン先生なら「え、本当に殺しちゃったの? 馬鹿だなあ、冗談に決まってるでしょ」とか言いかねない。確証が無いからこそ、二の足を踏む。

 そして最後に、おそらく赤ペン先生が言いたい要因。それは、範囲だ。いったい何が殺人なのか、殺人を知らない人には分からない。赤ペン先生が指す『殺人』の内容が、刺殺なのか圧殺なのか撲殺なのか毒殺なのか絞殺なのか殴殺なのか銃殺なのか爆殺なのか、あるいは他の何かなのか。『殺人』とは言われたけど、僕たちはその内容を聞いていない。

 そういう不審と不安が重なって、僕たちは人を殺していない。

 「ここで発表しちゃおうかな。先生の指す『殺人』ってやつを。ズバリですね! 自分がやったってバレなければ殺人ですよ! 完全犯罪! それが先生の求める『殺人』です」

 な、なんだそれ……………………。

 赤ペン先生の自信満々な口調とは裏腹に、僕たちは戸惑った。そりゃそうだ! 「バレなければ犯罪じゃない!」とは聞いたことがあっても、「バレなければ殺人だ!」なんてスローガンは聞いたことが無い。

 「分かる? 分かっちゃうかな? 難易度の問題なんだよ君たち」

 難易度? レベル。赤ペン先生はそういえば、入学式の日もそんなことを言っていた。あ、いや、それは僕が自分で勝手に訂正した話で、先生はその時『レベル』ではなく『リスク』と言っていた。

 「バレバレの状況で人殺したって、レベルが足りないですよ! 君たちの望みどおりに進学とか就職させるの、どれだけ大変だと思ってるの! それをダラダラしてただけの君たちが、ただの人殺しで受けれるなんて、どうして思えるのかね?」

 言っていることは無茶苦茶だ。でも、入学式の日の説明と通して、一貫性がある。難易度。そういう話だ。

 『自発的な行動』は、普通の行動では簡単すぎる。ならば人殺しだ。しかも、誰にもバレない完全犯罪。

 それなら赤ペン先生が何故『レベル』ではなく『リスク』という言葉を選んだのかも、納得いく。リスクとリターン。その関係性が、先生の頭の中にあったんだ。

 『自発的な行動』。殺人という自分が犯人だと発覚したら18歳以下の僕たちでさえただでは済まない罪を犯すという『リスク』に対し。

 『環境の整備』。自由に進学先、就職先を選べるという美味しすぎる『リターン』。

 これが、『義務殺人』の全て。

 「ちょっと待て」

 その声は、御手洗くんのものだった。平坦な落ち着きのある声だったけど、それは心なしか作られた声のような気がする。彼も内心では、動揺しているみたいだ。

 「先生…………そのことを、犯人は知っているのか? もし知らなかったら、後出しにもほどがある。これほど綿密にプログラムを立てた先生たちにしては、疎か過ぎないか?」

 御手洗くんの疑問はもっともだけど、彼はそれをさほど疑問とは思っていないらしい。ポーズとして疑問の形で聞いているだけであり、本当は結論が出ているようだ。

 だって、分かりきった話じゃないか。

 「その辺はご安心を。犯人の生徒さんは既にこういうルールを、先生に確認してまーす。だから遠慮なく」

 これから殺人を犯そうとするやつが、その程度のルール確認を怠るとは思えない。

 「…………じゃあ、後は警察の人に任せるしかないわね」

 その言葉は、阿比留さんのものだった。パニックからは何とか脱して、リーダーらしく必要な確認をしようとしている。まだ声は多少震えていても、その気丈さには舌を巻く。

 「数日はかかるでしょうし、その間学校はどうするの? ていうか、その連絡のために集めたんじゃないの?」

 「え? 警察? 何のことですか阿比留さん」

 またしても、赤ペン先生はクラス全員の度肝を抜いた。先生は合成音声ながら至極真面目そうな声で、そんなことを平気で言った。

 「やだなーもう。警察の人が調べたら誰がやったかなんて一発だよ。それじゃ難易度高すぎでしょ。先生だってそこまでは要求しませんよ」

 「は、はあ? じゃあ、誰が捜査するのよ!」

 阿比留さんは赤ペン先生に詰め寄らんばかりで叫んだ。暗いから見えていないだけで、本当に詰め寄っている可能性もある。

 でも阿比留さん。少しは自分で考えた方が良い。そうしないと、またしても驚く羽目になるから。

 「無論、君達ですよ」

 「ええっ!?」

 「他に誰がいるのかな?」

 それもそう、なんだよな。警察に任せられないとなると、難易度的には素人に任せた方が丁度いいのかもしれないし、下手に当事者を増やすと情報が流出する危険度が上がる。そうなると結論はひとつ。

 僕たち以外にいないのだ、適任が。

 「それでは犯人を決める『緊急HR』は三時間後にしましょう。捜査スタートです! あ、視聴覚室に行く前にみんな、体育館の出入り口にある『デバイス』を忘れないでね!」

 体育館の灯りが点く。ステージには既に、赤ペン先生の姿がなかった。先生の声が大音量になった時点で、たぶんどこにいても先生は声を体育館中に届ける方法に切り替えていたのかもしれない。案外、僕の想像した方法は取られているのかも。

 「捜査………………か」

 それが今、僕にできること。悲しめなかった代わりに、手縄くんの死に対してできる、ただひとつの行為だ。

 ならば僕は、やるべきだ。おそらくこの中でもっとも死体に動揺しない僕こそが、おそらくこの中で唯一殺人という行為に両手を染めた僕こそが、手縄くんの死が誰によって与えられたものなのか調べるべきだ。

 「……迷いが無い分、楽な仕事だ」

 何をすべきか、まったく分からなかった三年間よりは、よっぽど楽だ。



 クラスメイトの誰かを殺害する。

 他のクラスメイトと一緒に、のうのうと捜査する。

 『緊急HR』とやらで上手く犯人だとバレなければ、殺人完了。

 まとめてしまえば、それが僕たち赤ペン教室の生徒たちが一年間でやるべきことだ。

 まあ、やらなくてもペナルティはないからしないけど。

 僕は早速、視聴覚室へと戻った。気持ちに高ぶりがあった発見当時には見れなかった細かいところを確認するためだ。まずは手縄くんの死体の状況を見て、それから後の行動を決めようと思った。

 僕に探偵ごっこの趣味は無いし、経験もない。本当に犯人を見つけることができるのか、正直怪しい。それでもやる。

 手縄くんのために。

 「…………それはいいとして、何だこれ?」

 僕が今右手に持っているのは、薄い機械だ。見たままの印象を言うなら『大きめのスマートフォン』あるいは『小さくし過ぎた携帯タブレット端末』、らしいけど、その言葉自体、五百蔵くんの受け売りだ。僕にはまずスマートフォンというものが分からないし、携帯タブレット端末というのも分からない。なんだそれ。『フォン』が『phone』で、電話のことを言っているのだけは、何とか推測できた。英語が得意じゃなかったら、もっと理解不能の渦に嵌っていた。

 携帯電話の新手、と思えば今のところは苦労しなさそうだ。

 その機械はスマートフォンを知らない僕が表現するなら、『フレーム以外全部画面』の機械だ。黒いフレームの下側中央に白い家のようなマークがあり、左側側面に出っ張ったボタンらしきものがあるほかは、表面はほとんど画面だ。裏面には白抜きの数字で大きく『4』と書かれている以外にも、カメラでも付いているのか隅の方にレンズがあるのが分かった。

 赤ペン先生が『デバイス』と呼んだこの機械は、とにかく使い方がさっぱりだった。捜査するタイミングで渡すということは、素人探偵の僕たちの捜査をはかどらせるアイテムなのだろうと踏んでいたのに、これではどうしようもない。

 とりあえず、視聴覚室に着くまでに電源だけでも入れたい。まず手始めに家のマークを押してみた。でもこれ、ボタンじゃないな。ただフレームの下部にマークがあるだけだ。出っ張ってもないし、押しても手ごたえが無い。

 家のマークは諦め、左側側面の出っ張りだ。こっちはボタンっぽい。押してみると、奥へ沈む。それと同時に、画面が明るくなった。何とか電源は入ったみたいだ。

 東側昇降口から校舎に入り、近くの階段を上って二階に上がる。思い出してみれば、僕は上履きのまま外に出て赤ペン先生を呼びに行ったのだ。他のみんなと違って着替える必要も靴を履きかえる必要もないから、たぶんみんなより早く視聴覚室に着く。

 二階の廊下を歩いて視聴覚室を目指しながら、明るくなった画面を見る。どうもメニュー画面というやつらしい。上から『ルールブック』、『被害者データ』、『メモパッド』、『カメラ』、『フォルダ』と書かれている。『カメラ』で撮った写真や『メモパッド』で書いた内容を、『フォルダ』で見たり整理できたるするんだろう。『被害者データ』には、手縄くんの情報が入っていると思ってよさそうだ。この事件の被害者は彼ひとりだし。『ルールブック』には、『義務殺人』のルールが書かれているに決まっている。周知徹底が必要な事柄だ。

 問題は、どうやって見るかだ。パソコンと違ってマウスは無いし、ボタンは電源を入れるものしかない。えっと…………どうすんだ?

 ともかく、視聴覚室に着いてしまった。こうなったからには、捜査を進めるしかない。『デバイス』の使い方なら、後で誰かに聞ける。

 深呼吸を一回して、それから視聴覚室の扉を開いた。

 手縄くんの死体は、そこに僕が見つけたままの状態であった。発見当時は視聴覚室の後方にある扉から入った。今回は逆方向から視聴覚室に来て入ったから、前方の扉から入ったことになる。手縄くんの死体はこの位置だと、すべてを見渡すことができなかった。

 「…………無花果か、遅かったな」

 誰もいないのではないかという僕の予想は大外れだった。そこには既に二名のクラスメイトがいて、既に捜査を始めていた。言わずもがな、御手洗くんと雲母さんだ………………って、え?

 御手洗くんは分かる。彼は体育の時の格好から着替えていない。それなら急いで走れば、西側昇降口で上履きに履き替えないといけないとはいえ、僕を追い越して視聴覚室に先回りできなくもない。でも雲母さんは? 着替えてるよね? いくら雲母さんでも、ちょっと無理があるんじゃ…………。

 「あんな分かりきった説明、わざわざ聞かないわよ。体育館が暗くなった段階で着替えに向かったわ。更衣室は体育館の中にあるし、途中から赤ペン先生は拡声器でも使ってたみたいだから、更衣室の中にいても説明は聞けたわ」

 「そ、そう…………」

 な、なら可能、だよね…………。そこまで急いで現場に駆けつける理由は、分からないけど。

 「それで、あなたはどう思う?」

 雲母さんはズバリ、本題に入った。その特有の冷たい声は、どこか深く奥へ浸透していくような静けさだ。

 「手縄くんの死因について」

 「あ、いや、まだ見てないんだよ。この『デバイス』ってやつ、使い方が分からなくてさ」

 雲母さんは一瞬、キョトンとした。ああ、そんな表情もするんだ、とか、間抜けなことを思ってしまった。

 彼女は僕のデバイスに電源が入っているのを見て、『被害者データ』くらいは見たんだろうと勝手に判断したらしい。残念ながら僕には、電源を入れるまでしかできなかった。さすがの彼女も、僕がここまで何もできないやつだとは思っていなかったみたいだ。

 「………………………………………………」

 「………………………………………………」

 「………………………………………………」

 「………………………………………………」

 「………………………………タッチパネル」

 「…………………………………………はい」

 しばらくの沈黙の後、彼女が絞り出したあからさまなヒント(ほぼ答えだ)を元に、『被害者データ』の文字を指の腹で押してみる。触った感触はただのディスプレイだったけど、僕が触れたのを感知したのか、画面が切り替わる。なるほど、タッチパネルか。だからほとんどボタンが存在しなかったのか。

 『被害者データ』の一覧らしいものがでてきた。そこにはまだ、『手縄明』の名前しかない。

 ………………まだ? それは、これからここに、名前が増えていくということか。それを阻止する術は、今の僕には分からない。

 明日のことは明日決めよう。典型的な引きこもりの思考パターンであることは承知の上で、その考えを取り入れた。明日は明日の風が吹く。今はただ、この捜査に集中だ。

 『手縄明』の名前を押すと、さらに画面が切り替わる。出てきたのは……………………。

 「…………死因、死亡推定時刻」

 何とか読めた。でも、それだけだ。僕には言葉の意味が分からなかった。

 「意気込んでいた割には、手も足もでないって様子ね」

 雲母さんが静かに、そう僕に向かって言った。

 「…………残念だけどね。僕は引きこもりで三年間学校に行ってない。これくらい、想定の範囲内だ」

 「じゃあどうするの?」

 その青い目には、興味の色もうかがえた。それは僕がそう思い込んでいるだけかもしれないけど、いつもの青色には見えなかったのは確かだ。

 冷たさはいつも以上なのに。

 その目の青色は、濃さを増している。

 言うまでもない。目の色が日ごとに変わるなんてない。そんな異常事態は同じ青い目を持つ僕だって、体験したことは無い。だから目の青が濃く見えるのは僕の気のせいなんだろうけど、それでも、本当に気のせいなのか妖しくなるくらい、彼女の目の青は濃くなっていた。

 海のようだ。

 「教えてください。お願いします」

 僕には選択肢が無い。自分で捜査をすると息巻いておいて情けない話だが、実は最初から、雲母さんか御手洗くんに教えを請うつもりではいた。

 雲母さんの瞳に宿る冷たさは、一瞬だけ和らいだ気がした。

 「…………今回だけよ。次からは、自分で何とかしなさい」

 「次が無いことを祈ってるよ」

 でも祈るだけじゃ駄目なのは、重々承知だ。

 「たぶんあなたは、こういう専門用語を知らないんでしょうね。噛み砕いて説明するわ。ただし、説明には若干の私見が交じることになるから、後で必ず自分で確認しなさい」

 雲母さんも自分のデバイスを開きながら、説明を始めた。こんな説明を今更受けるのを後ろで捜査中の御手洗くんはどう思っているのか知らないが、彼は彼で黙々と捜査を続けていた。

 「その『被害者データ』に書かれていることは、大きく分けて三つね。『事件現場』と『死亡推定時刻』、それから『死因』よ」

 手縄くんのデータを見る。ああ、雲母さんの言った言葉が、ちゃんと載っている。

 「まず『事件現場』。これは見てのとおり視聴覚室でよさそうね。死体が動かされたとは思えないし。でも、事件によっては別の場所で殺害されて、その後で死体を移動させるケースもあるから、死体の移動があったかどうかは必ず確認しなさい」

 「死体の、移動…………?」

 雲母さんの話では、少なくとも今回の事件では関係なさそうだ。でも移動させるケースがあるということは、犯人にとって死体を移動させた方が都合のいい場合があるってことだよな。それは心に留めておいた方がいいかもしれない。

 「次に『死亡推定時刻』よ。これは要するに、被害者が死んだ時間を死後硬直の状態などから割り出したってこと。これが分かるか分からないかは、結構大きいわ。分かれば捜査の幅を格段に狭くできる」

 「手縄くんの死亡推定時刻は、二時間目の間って書いてあるね。えっと、手縄くんは二時間目のどこかで殺されたと思っていいんだね?」

 「そうなるわ。後でアリバイの話もあるけど、今は置いておきましょう」

 アリバイ…………。また難しい言葉がでてくるなあ。でもこれくらいのことで、弱音を吐いてもいられない。

 「最後は、『死因』だね」

 「ええ。これはつまり、死んだ原因よ。パッと見では分からない時も多いわ。今回は見た感じ包丁で胸を刺されたのが原因みたいだから、別に重視することでもなさそうね」

 …………確かに、『被害者データ』に死因は包丁で胸を一突きされたこと、と書かれている。そして手縄くんの死体には、包丁が刺さっている。デバイスに書かれていることと、見た目の状況に食い違いは無い。

 今回『被害者データ』で意識するべきは死亡推定時刻くらいか。そう言い切るのは早い気もするけど、今のところはあえてそう言い切った方が、頭が混乱せずに済みそうだ。

 重要じゃないことは切り捨てないと、僕の思考能力には限界がある。

 「それで、『アリバイ』って何?」

 「ほとんど常識みたいなものだから、説明に少し困る言葉ではあるのよね…………」

 雲母さんは口元に指を当てて、少し考えるような仕草をした。彼女は何気なくの一言なのかもしれないけど、『アリバイ』なんて専門用語臭のバリバリする言葉を常識と言われるとこちらも怯む。

まるで僕が非常識みたいじゃないか。あ、間違ってはないのか。

 「アリバイは日本語で、不在証明というの。無花果くん、あくまで基本的な考え方で話すわよ。犯行が起きた時間に現場にいなかった人間は、犯人じゃない。それは分かるわよね?」

 「そりゃ、まあ。犯行が起きた時間に現場にいないやつが、どうやって人を殺すんだよ?」

 「そうでしょ。その考え方を応用したのが、アリバイなの。犯行が起きた時間――――今回なら『死亡推定時刻』に事件現場にいなかったことを、あなたならどうやって証明する?」

 え、えっと………………。「僕はその時、事件現場にいませんでした!」は駄目だ。そんなストレートな意見、誰が信用するっていうんだ。そんなんじゃ証明にならない。

 証明と言うからには、客観的な第三者の意見が必要だ。でも、現場にいなかったことを証明なんて………………いや違う。そうじゃない。

 「現場にいなかったことを証明するのが難しいなら、その時間に別の場所にいたことを証明すればいいんだ」

 「その通りよ。まさか影分身なんてできるわけないでしょ。その時間帯に別の場所に『いた』ことが分かれば、自ずと犯行現場には『いなかった』ことも分かるのよ」

 「その理論で行くなら、今回は…………二時間目だ。二時間目の間に、犯行現場である視聴覚室以外の場所に『いた』ことを証明できないクラスメイトが犯人だ!」

 話のタネが分かれば簡単だ。なんだ、結構簡単に、犯人が分かりそうだ。少し安心した。

 しかもおあつらえ向けに、アリバイとやらが必要になる時間は授業中。その時にいなかったやつなんて、簡単に分かる。そうなると問題は二時間目の教科か…………。なんだっけ? 今朝は体調が悪かったこともあって、ちゃんと覚えていない。

 でも時間割なんて、教室に戻って確認すれば済むことだ。そう思って移動しようとしたところで、背中がやけに冷たいのに気が付いた。

 「……………………違う」

 違う違う違う。何かおかしい。僕は何か、とんでもない見落としをしているぞ。

 だって、二時間目は…………その時、僕は…………。

 これですべての説明は終わったのか、雲母さんは捜査に戻っていた。じっと、その冷たい目で磔にされた手縄くんの死体を睨んでいる。たぶんもう、彼女に助力を仰ぐことはできない。

 「三人とも、何か分かったか?」

 視聴覚室後方の扉が開いて、遊馬くんが入ってきた。後には抱さんが続く。抱さんはおそるおそる、扉から顔だけ出して視聴覚室の全体を見渡した後、やっと入ってきた。一度体育館で死体の映像を見ているとはいえ、直に見るとなると覚悟がいる。既に一度死体を見てしまった遊馬くんと違い抱さんは、ここに来るだけで相当ストレスが溜まっていそうだ。

 抱さんは僕を見た後、目を逸らした気がした。…………やっぱり、彼女は気づいている。

 「九くん、単刀直入に言おう」

 遊馬くんは抱さんと違い臆することなく僕の方まで歩いてきて、ズバリと言った。その声にも、表情にも、迷いが無い。最初から僕を見かけたら、初めに質問しようと決めていたみたいだ。

 「君は手縄くんを殺してないよな?」

 誰かからそう言われるのは、もう分かっていた。それでも、頭と心がかき回されそうになる。僕はそれをぐっと抑えて、混乱を最小限に留めようとした。

 雲母さんが説明してくれた『アリバイ』を考慮して話を進めるなら、僕が手縄くんを殺したことになる。そうなってしまう。

 手縄くんの死亡推定時刻、つまり犯行が起きたと推測できる時間帯は今日の二時間目中。金曜日は一時間目が英語で、二時間目が体育だ。そして体育は、男女別で行う。男子は運動場でサッカー。女子は体育館でバスケだ。

 その時間中にいなかった人物が犯人。アリバイの理論を適用するならそういうことになる。では、誰がいなかったか。僕はそれを知らない。だって、僕は体育の時間中、保健室にいた。体育館はともかく、運動場の様子なんて知るはずがない。

 僕自身がまず、体育の時間中にいなかった人物なのだから。

 「…………殺していない」

 「そうか。それが聞けて安心した」

 そんなことを言ってのける遊馬くんは、あまり僕の言葉を本気にしていないようだ。これから捜査をして結論付ける以上、当然のことなんだけど。

 それでも嫌なものだな、疑われるのは。三年前、僕がこの手を血に染めたときでさえ疑われたことが無いから、これは初めての経験だ。

 三年前は現行犯だったから、疑うも何も無いんだけども。

 「遊馬くん、ちょっと聞いていい?」

 「なんだ?」

 今のうちに確認することにした。クラスメイトのアリバイについて。

 「僕の他に誰か、体育の時間中に抜け出した人を知らない?」

 「…………いや、そうだな、僕と五百蔵くんと肉丸くんは、抜け出したことになる」

 あ、そうか。思えば、彼らも抜け出した一味だ。でも要因が肉丸くんの怪我であり偶然の産物なら、疑いの余地は無さそうだ。…………本当に、偶然の怪我ならね。

 一応、容疑者リストに五百蔵くんと遊馬くんを入れておこう。肉丸くんは、いいかな。肉丸くんは体育を抜けて保健室に来た後、ずっと僕と一緒にいた。僕が彼から目を離したのは、鴻巣先生を探すために遊馬くんと一緒に行動した時だけだ。そしてその直後、手縄くんの死体を発見している。

 足を怪我して軽く引きずっていた肉丸くんに、犯行は無理そうだ。足を引きずっていたのが演技の可能性もあるけど、それでも彼は犯人じゃないと思える。

 手縄くんの死体には、五分や十分のラグでは犯行が不可能な『別の問題』がある。その問題については後で考えるとしても、その問題から肉丸くんのアリバイは、真っ白とは言い難いけど、成立していると言える。

 その『別の問題』を考慮すると残る二人もアリバイが成立気味だけど、そこはヤケクソでも残す。肉丸くんよりはアリバイが崩れかかっている。考える価値はある。

 まず確実に、自分の頭で結論付けなければならないのは、『僕は犯人じゃない』ということだ。ミステリーには可能性の問題として、謎解きをする探偵自身が、自分が犯人である確率を残したまま捜査を進めることがあるらしい。そんなことを、御手洗くんが言っていたような。あるいは、他の誰かから聞いたんだっけ? ともかく、そういうこともある。

 でも今は、今の状態はミステリーでこそあれどフィクションじゃない。加えて僕は探偵なんて大仰な役所でもない。自分が犯人なんじゃないかと思い始めたら、それこそ正常な思考能力を失いかねない。

 僕は犯人じゃない。僕に夢遊病の診断は下されていないし、多重人格なんてこともない。僕、九無花果は絶対に犯人じゃない。

 それが主軸。素人の僕でも唯一揺らがない、絶対の中心。

 そこから考えれば、僕以外の犯人がいるということもまた、絶対だ。それならば考えるだけの価値がありそうな五百蔵くんと遊馬くんは、悪いが僕の容疑者リストに入れさせてもらおう。

 「遊馬くん、君たちが保健室に来たのって…………」

 「…………授業が始まって、三十分後くらいか」

 「女子たちのアリバイは?」

 「完璧だ。阿比留さんと抱さんから聞いたよ。あえて言うなら、抜け出したのは鴻巣先生ひとりだ」

 じゃあ、女子陣が犯人ってことは無い。女子陣全員が口裏を合わせていたとか、ひとりだけ抜け出した鴻巣先生が犯人だったとかそういう可能性も考えない。考え始めるとキリがない。そういう常識を逸脱した線は、本当に行き詰ったら考えよう。

 女子の全員(女子は全部で十五人だっけ?)が口裏を合わせるなど不可能に近い芸当だ。反対する何人かが出てくるに決まっている。鴻巣先生が犯人だっていうのも、同じくらい可能性は低い。思えば『義務殺人』のルールに『教員が生徒を攻撃するのは禁止』とは書かれてなかったから、うっかりすると教員の殺害はルール上OKなのかもしれない。でもプログラムの工作員であり、『義務殺人』においては中立に立つのが仕事だと言っていた鴻巣先生が、殺人なんて。第一、殺人の報酬とも言える『環境の整備』は生徒用であり、鴻巣先生が受け取る理由はどこにもない。

 考えるだけ、無駄に思える可能性なのだ。つくづく素人の僕がそんなことを考え始めたら、何も分からなくなる。

 多少強引でも切り捨てろ。もし必要なら後で拾えばいい。それくらいのスタンスが、素人の僕には必要だ。

 「じゃあ、最後に聞くけど…………」

 情報と指針を整理し終えた僕は、遊馬くんに対して最後の質問をした。それは、彼の格好にまつわるものだ。

 「なんで着替えないの?」

 遊馬くんが着ていたのは、体育の時に着るジャージだった。普段着ではない。着替えなかったみたいだ。それとも何か、肉丸くんみたいに着替えられない理由があるんだろうか。

 「御手洗くんが着替えるなと言ったんだ」

 僕の疑問に対する遊馬くんの答えはストレートで、彼は手縄くんに向けてデバイスをかざしている御手洗くんを指しながら言った。御手洗くんは手縄くんの写真でも撮っているのかもしれない。

 「犯行現場は確かに視聴覚室だ。でも、犯人が証拠を隠す場所は学校中のあちこちにある。もし下手に動かして証拠が消えたら大変だ…………と御手洗くんが提案したんだ。僕も、それには賛成だ」

 「じゃあ、男子は着替えてないんだね。でも……女子は?」

 手縄くんの死体の前にいる抱さんが今着ているのは、白いワンピースと桜色のカーディガン。どう贔屓目に見ても運動する格好じゃない。雲母さんは高速で着替えたから止める暇もなかったとして、抱さんが着替えているのは………………?

 「僕は女子たちにも、着替えるなと言ったんだ。でも阿比留さんが…………」

 「『汗まみれで捜査なんてできないでしょ!』、かな?」

 「……そう、まさにそんなことを言ったんだ。どうも女子は今回の事件とは無関係みたいだから、僕としても強く言えなかったんだ」

 阿比留さんが絡んでるんじゃ、仕方ない。そう思えてしまう僕も、ずいぶん阿比留さんに慣れたものだ。ま、着替えることによって証拠が消える可能性があるなら、誰よりも先に雲母さんが止めていないとおかしい。その雲母さんが着替えて捜査をしているんだから、女子が着替えたところで捜査に支障は無いと見るべきだ。

 それでは一応、聞くことも聞いたし、そろそろ引き伸ばしも限界だ。

 手縄くんの死体を調査しよう。

 「…………まず、全体を見た方がいいかな」

 やることをいちいち呟いて確認しながら捜査を進めることにした。乗り物の点検なんかでは見落としを防ぐために声を出して項目を確認しながらすると言うし、それに倣った方が見落としも少なくなるかもしれない。

 なんでもいいから、スタイルを作るべきだというのが本音だ。これからどんな事件に遭遇しても、どんなに頭が混乱しても、一通りの捜査はできるように、決まり切った型を作りたい。

 プロスポーツ選手がするところのルーチン。手縄くんなら、イチローがバッターボックスに立った時にユニフォームの袖を捲る、あの仕草を真っ先に思い出しそうだ。

 自分の呟きに従って、手縄くんの死体の全体を見渡すことにした。

 手縄明。彼は黒い柄の包丁で胸を刺されて死んでいた。『被害者データ』を見ても、この死体の状態を見ても、死因がその包丁であるのは一目瞭然だ。それ以外には、どうだろう。特に傷らしいものはないけど…………頭頂部に、瘤らしいものがあるな。

 この瘤は生まれつきだろうか。…………あ、『被害者データ』にはちゃんと、『頭頂部に殴打の跡あり』って書いてある。じゃあこれは、殴られた跡か。

 さらに視野を広げて、全体を見よう。手縄くんの死体は、磔にされているのだ。その様子を、しっかり観察だ。

 手縄くんの死体は、ロープで磔にされている。二本のロープで手首をそれぞれ縛り、そのもう一方を天井の隅にあるフックに縛っている。そのため、手縄くんの死体はT字、どころかY字の格好でぶら下げられている。両足首は結束バンドで固定されてるし、完全なYだ。頭だけがだらしなく、垂れ下がっている。足は床に着いておらず、床から三十センチくらい上にある。浮いていたせいで、僕と遊馬くんはスクリーンの裏に死体があるとは、すぐに気付かなかったのだ。もし足が床に着いていたら、足元に出来た血溜まりに目がいった瞬間、足も見えていたはずだ。

 その血溜まりは、今はもう固まっているみたいだ。それでもそこに足を踏み込むのには、勇気がいる。御手洗くんや雲母さんは、もうズカズカと踏み込んでいるけど。

 「…………これが問題だ」

 僕がさっき思った『別の問題』とは、この磔のことだ。こんなことを手縄くんを殺害した後でやってたら、五分十分では時間が足りない。せめて三十分は欲しい。磔にするだけじゃなく、返り血を落とす時間も必要なのだ。

 残念なことに僕には、その三十分がきっちり用意されてしまっていた。これは想像以上に鉄壁の疑惑だ。僕だって遊馬くんたちのポジションに立てば、僕を怪しいと思うに決まっている。

 容疑者リストに入れた五百蔵くんと遊馬くんは、どれくらいひとりでいたんだろう。それは後で、他の誰かから聞いて確かめるしかない。でも、三十分も空いていたとは思えない。保健室に三人が来てから、僕と遊馬くんが死体を発見するまで、三十分は無かったはずだ。

 そんなに間が空いていたら体育の時間そのものが終わってしまう。僕が死体を見つけて赤ペン先生に連絡する時には、まだ運動場ではサッカーが継続していた。終わりかけでもなく絶賛続行中。そうなると、三人が保健室に来てから死体を発見するまでの間は五分か十分くらい。それ以上はどう頑張ったって確保できない。

 十分で殺害? どうやって? どういう方法を取れば、十分程度で手縄くんを殺害して磔にして、みんなの前に姿を現せる?

 「そこは、後で考えられる。今は手縄くんの死体をよく見て、情報を集めよう」

 次にやるべきことは決まった。じっくりと、気になるところを見よう。

 抱さんは未だ踏ん切りがついていないのか、それともそれ以上近づく気は無いのか、血溜まりの前にずっと立っていた。睨むように手縄くんの死体を見ている。後姿しか今の僕には見えないけど、小さな肩が少しだけ震えている気がした。

 …………そうか。僕を除けば、抱さんと肉丸くんくらいなんだよな。この一週間ほどの学校生活で、手縄くんと親しくなったと言えるのは。手縄くんは自分から周囲に壁を作って、誰とも仲良くしようとはしなかった。それに、彼の印象が悪かった。『義務殺人』に一際意欲を燃やしていた生徒。赤ペン先生が手縄くんに対して使った表現どおりの評価が、クラスメイトには浸透していた。

 体育館であの時感じた『足りない物』。その正体は抱さんが持っていた。悲しみだ。

 体育館には、『驚愕』や『混乱』はあっても、『悲愴』は無かった。いや、みんな悲しんでいたつもりかもしれない。でもそれは、画面の向こうに映る凄惨な事件を見た時に感じる悲しみだ。他人事の、おままごとみたいな感情。

 決してクラスメイトの死を悲しむのに、足りる感情じゃない。

 クラスメイトのほとんどが、精々『人を殺しかねない厄介な奴が死んでくれて助かった』くらいにしか思っていない。自身が手縄くんの死体を見たことで、感情の起伏は確かに生じた。でも、手縄くんが死んだという事実で、感情を動かした人間はほとんどいない。

 いるとすれば、抱さんと肉丸くんだけ、か。

 「………………………………」

 そんな冷淡なクラスメイトを、僕は責めることができない。僕はそんなクラスメイト以上に冷淡だ。手縄くん以外の誰かが死んだら、他の生徒は悲しみを感じるのかもしれないけど、僕はたぶん、何も感じない。

 だからこそ、その冷淡さは、捜査に生かすべきだ。そうでないと、ただの冷淡で終わってしまう。僕はその後に、逆説の接続詞を求めている。

 でもだけれどしかしそうではあっても。

 僕は冷酷な奴じゃないはずだ。

 「…………抱さん」

 僕は手縄くんの死体を検分する前に、抱さんから話を聞くことにした。もちろん、女子陣のアリバイについて。疑っているわけではないけど、遊馬くんの言ったことに齟齬や事実誤認があると困るからだ。

 それに遊馬くん自身も、阿比留さんと抱さんに聞いたうえで結論を下していた。彼も齟齬や事実誤認を警戒したのは明らかだ。そのテクは、真似させてもらおう。

 「…………………………っ!」

 抱さんは僕の声に、大げさなまでに肩を揺らした。そして僕には目もくれず、走って僕の横を通り過ぎていく。

 「…………抱さん? ちょっと」

 僕の言葉は、彼女の耳に届かなかった。抱さんは歩みを止めることなく、視聴覚室を飛び出してしまう。その後を追おうかとも思ったけど、それは後回しにした。

 どうも僕は、徹底的に疑われているみたいだ。軽く肩をすくめて、手縄くんの捜査に戻ることにした。

 本当はもう捜査なんて止めて引きこもろうかとも思うくらいショックだったけど、こんなところでショックを受けている暇はない。どうせ僕の無実は『緊急HR』とやらで明らかになることだし、焦ることはない。

 他のみんなが犯人じゃない僕を疑うところからスタートするのに対して、僕はその一歩先からのスタートだ。そう思えば意外と疑われるのも辛くない。

 抱さんを今追っても、逃げられるのは自明の理だしね。少し間を開けてからの方が良い。……っていうかアリバイの確認なら、抱さん以外の誰かに聞けばできるか。抱さんに拘る意味――意義はどこにも存在しない。

 「それじゃ、捜査再開だ」

 手縄くんの死因も分かった。磔にされているのも分かった。そのふたつを念頭に置けば、犯行が五分や十分でできることじゃないのも分かる。でも僕は犯人じゃない。

 そうなると何か、仕掛けがあるな。

 「とはいえ、仕掛けなんて…………。まずもって、どうして彼がここにいるのかも分からないのに」

 そうそう。彼は今日、学校にいないなずなのだ。それなのに、こうして視聴覚室で死んでいる。この矛盾は、どういうことだ?

 「…………ああ、赤ペン先生は手縄くんが欠席なんて言ってなかったな」

 『何もないんですけどー』。それが先生の言葉だ。ははあ、そりゃ、手縄くんはこうして学校にいたんだから、欠席ではないな。死体となって発見されるまでの間、どこにいたのかは気になるけど。

 「とにかく、彼が学校に来ていたということは、どこかに鞄があるはずだ」

 まさか手ぶらでは来ないだろう。大なり小なり、鞄は持っていたに違いない。教室になかったから、そうなるとどこか別の場所………………って、あ。

 手縄くんの鞄は、視聴覚室にあった。視聴覚室の机の上に、堂々と置かれていたのだ。でも、僕が最初に死体を発見した時は、こんなところに鞄なんてなかったな…………。雲母さんから探偵のレクチャーを受ける直前にも、これらしい鞄は見なかった気がするし…………。

 「その鞄が気になるか? どうやら確かに、明の鞄らしいぞ」

 一通りの捜査を終えたのか、御手洗くんが僕の方へ歩いてきた。その言い草から察するに、この鞄を見つけたのは彼のようだ。

 それにしても御手洗くん、今までにないくらい目が生き生きしているような気がする。僕の気のせいだといいんだけど…………。

 「御手洗くんが見つけたの?」

 「ああ。ここの机の下にあったんだ。犯人は、鞄を隠そうとはあまり思ってなかったみたいだ」

 すぐに見つかるような場所にあるくらいだ。じゃあ、鞄の中に何か重要な手掛かりがあるとも思えない。犯人が手縄くんの鞄をここへ持ってきたのは、あくまで彼が欠席していると思わせるためだけだろう。

 そう思ったけど、鞄の中を覗き込んでみると、僕の予想は外れていた。

 手縄くんの鞄の中には、およそ学校生活では不必要と思われるものがあった。ガムテープだ。なんでこんなもの、鞄の中に?

 何か、必要な場面が過去にあったのかもしれない。そしてそのまま、鞄の中に入れっぱなしになっていたとか。今は、切り捨てておいても問題無さそうな不自然さだ。放っておこう。

 もうひとつ、鞄には何か入っていた。これは、血の付いたタオルだ。うわ、べったり血が付いてる。でもこれも、今は放っておくしかないのかな。

 「御手洗くんの捜査は進んでいる? 熱心に手縄くんの死体を調べてたみたいだけど」

 「ああ。おかげでいろいろな」

 「じゃあ、教えてよ」

 捜査に置いて僕たちは、敵対する理由がどこにもない。彼は二つ返事で了解して、手縄くんの死体に残る不自然な部分について説明を始めた。

 さらに一層、御手洗くんが楽しそうに見えたのは、気のせいなのかな。僕も僕で慎ましい感情を抱けていないから、どうも指摘しにくいんだけど。

 「そうだな。まず、明の頭頂部に瘤があるのは分かるな?」

 「うん。それは、すぐに分かった」

 つまり、それくらい大きな瘤なのだ。手縄くんは丸坊主で髪が短いとはいえ、遠目にも瘤ははっきりと見える。思いっきり殴られたみたいだ。

 「おそらくあれくらいの傷なら、一撃を受けた明自身は気絶したはずだ」

 「だったら、気絶させて胸を刺して、それから磔にしたってことだよね?」

 それが犯人の、犯行手順だ。うん、それなら綺麗に胸を刺せるし、争った形跡が手縄くん自身にも教室にも残っていないのは当たり前だ。

 「胸の包丁は、きっと家庭科室から失敬したんだろうな。後で確認が必要だが、耕一が言うには、家庭科室の包丁を保管する棚には鍵がなかったそうだ」

 「物騒だね。普通なら、鍵はついてるものだけど」

 「理科室の薬品庫にも、美術室の工具置場にも、鍵はなかったらしい。凶器は調達し放題だ」

 そういう面で、密かに生徒の殺人を促しているということか。表立って煽らない分、なんとも厄介だ。とはいえ、家庭科室で調達できなければホームセンターで買うなりするだろうから、鍵があったところで今回の事件が防げるとも思えない。

 「手縄くんを殴った凶器も、そこから調達したのかな」

 「そう見るのが妥当だ。もっとも、包丁と違って処分されている可能性が高いけどな」

 そうなると、手縄くんを殴った凶器は見つけるだけ無駄かもしれない。見つかったとしても、それが何か新しい手掛かりになるとは思えなかった。指紋が取れるなら、話は別なんだけど。

 指紋、どうやって採取するんだろう。取れるならそれが一番手っ取り早いんだけど、さすがに誰も指紋採取セットは持ってないよなあ。

 「…………無花果、明の口元は確認したか?」

 一通り説明したかに思えたところで、御手洗くんは唐突にそんなことを言った。

 「…………? いや、まだだよ」

 「よし、ちょっと確認してこい」

 「……あ、うん」

 どういう意向が御手洗くんにあるのかは分からないけど、この場で御手洗くんが無駄なことをするとは考えにくい。きっと、捜査の上で重要な何かがあるはずだ。

 僕は意を決して、血溜まりの中に踏み込んだ。もう乾いているのは分かっているけど、それでも赤黒く染まった床に足を付けるのは生理的に受け付けなかった。その嫌悪感を振り払って、手縄くんに近づく。

一方で、先に捜査をしていた雲母さんは視聴覚室の後方に移動していた。全体から、手縄くんの死体を見ているみたいだ。遊馬くんは、もう視聴覚室にいなかった。

 間近で手縄くんの死体を見る。遠くから見た時と同様に、その死体は磔にされていること以外に疑問点は少ない。

 どうして磔にされているのか。それも後で考えないといけない問題だ。今はともかく、手縄くんの口元を観察しよう。

 手縄くんの顔は、ほとんど返り血を浴びていない。それは特に不自然だとも思わない。ただ、顔に僅かながら付着した血痕が、おかしな形をしていた。

 「……マスキング?」

 ペンキを塗る際、はみ出て余計な部分まで塗らないように保護するテープを、マスキングテープと呼んだ気がする。それが最初に思い浮かんだ。

 手縄くんの顔にはいくつか、丸い血痕が付着していた。水玉とでも言うのかもしれない。でも、口元だけは血痕が無い。

 そして左の頬骨の辺りにある血痕は、下側だけが切り取られて半円になっていた。そう。まるでマスキングテープを貼って保護したみたいに。

 口元に人差し指で触れる。ペタペタと、僕の指が手縄くんの口元に引っ付いたり離れたりする。そのベタつきは、唾液が原因のそれではない。もっと明確に、引っ付こうとする意思のある物だ。

粘着剤。そんな気がした。左頬の不自然な血痕からも、手縄くんの口元に何かが貼られていたのは間違いない。

 「もしかして、ガムテープでも貼ったのかな。口封じに」

 同時に、手縄くんの鞄に入っていたガムテープが思いつく。あれかな? ガムテープは持っていてもそこまで怪しまれるものではないけど、犯人としては隠したいに決まっている。手縄くんの鞄に突っ込むことで、彼の持ち物だと思わせたかった、とか?

 …………変だな。口にガムテープを貼る理由は、口封じくらいしか思いつかない。でも、その前に頭を殴って気絶させてるんだよね。それは二度手間というか、無駄な行為じゃないかな。頭部への殴打と口封じ、どちらが先に行われたとしても、一方が無駄な行いだ。

 「ガムテープを貼った理由は、口封じで間違いないだろうな」

 御手洗くんが発言する。彼も、それ以上の理由は思いつかないらしい。

 「それにしても、手縄くんはどうして授業に出席しなかったのかな?」

 結局、それが一番不思議なんだよね。欠席していると思ったら、次の瞬間には死体になっているのだ。これはどういうわけだろう。彼は、どんな思惑があってそんな行動を取ったのか。

 「…………なんだ、それならすぐに分かるだろ」

 「え?」

 僕の疑問が的外れであると言わんばかりの御手洗くんの口調だった。彼には手縄くんの行動について、心当たりがあるようだ。

 ……僕も実は、心当たりが無いわけではない。ただ、それはあくまで一昨日までの手縄くんのイメージに合わせた想像だ。

 「明はきっと、誰かを殺そうと画策していたんだ。俺は返り討ちにあって死んだんじゃないかと思ってる。鞄の中のガムテープが良い証拠だ」

 それは違う。それだけは違うと断言できる。証拠は無くとも。

 「……そう、かな。うん、それくらいしか想像できないんだよね」

 どうも僕は、一歩先どころか二歩先からのスタートをしているみたいだ。

 御手洗くんのその推測は、たぶん適切だ。僕も初日のままの手縄くんのイメージを持っていたら、そんな想像をしていた。でも、今は違う。彼は自分の口から明確に、殺人を拒否した。

 人間に心変わりはつきものだけれど、一日で意見を翻すような真似をする人間がいないのも、また事実。手縄くんが自分の意志で誰かを殺害しようと、欠席のふりをして校舎に潜入していたとは考えにくかった。

 僕が犯人なんじゃないかという疑い。手縄くんは殺人を画策していたんじゃないかという疑い。このふたつの疑いが無い分、素人ながらに僕は御手洗くんや雲母さんよりリードしている。

 「ちょっと、いいかしら」

 視聴覚室にいた雲母さんが、僕に呼びかける。振り返ってみると、彼女は天井を見ていた。いや、天井というか、黒板の上あたりだ。そこには、巻き取られたスクリーンがあった。黒ずんだ赤色に、滲んでいる。

 「あのスクリーンは死体を発見した時、どうなっていたの?」

 「あ、ああ」

 すっかり忘れていた。発見直後のスクリーンは下りていて、赤い文字が書かれていた。目の前の死体にばかり気を取られていて、そっちは思い出せなかった。

 …………ていうか遊馬くんも視聴覚室を出る前に何か言ってくれたらよかったのに。

 「下りていた。手縄くんの死体を隠すようにね。スクリーンには、血文字みたいなものが書かれてたよ」

 「そう。後で調べましょう。まだ、死体を検分したい人がいるみたいだから」

 雲母さんが言い終わるか終らないかのところで、すぐ横の扉が開かれた。入ってきたのは遊馬くんと、五百蔵くんに鴨脚さん。さらに後ろから肉丸くんと鴻巣先生が続いた。

 「…………うっ、これは」

 一度体育館で映像として見ているとはいえ、実物はより悍ましい。遊馬くんや鴻巣先生は別としても、残りの三人は顔を歪めずにはいられなかった。

 「ひでえな…………。いったい誰が」

 五百蔵くんが呟く。その声に驚愕はあっても悲愴は無い。

 「…………………………」

 鴨脚さんは言葉を発しない。吐かないのが精いっぱいという様子だ。なら何故、彼女は来たのか。もしかしたら、少しは真相に近づきたいと思っているのかもしれない。

 肉丸くんは鴻巣先生の後ろに隠れていて、手縄くんの死体がある方向を見ようともしなかった。彼こそ、どうしてここまで来たのか不思議だ。

 そして鴻巣先生。問題の鴻巣先生だ。先生からこっちに来てくれたのはありがたい。探す手間が省けた。

 「鴻巣先生、ちょっと聞いていいですか?」

 「うーん? わたしがどうして体育の授業を抜け出したかって? 耕一くんと守ちゃんと乙女ちゃんにも聞かれたよ」

胸ポケットに挿していたペンライトを取り出してクルクル回す鴻巣先生。手縄くんの死体を見ても、彼女は動じない。学校医というからには医者の端くれなのか、死体に慣れているという印象が誰よりも強かった。

見慣れたものがいつもの風景に付け足されただけ。先生がそんな風に思っているのは、表情を見て分かった。

「実はね、手紙を貰っちゃったんだよね。でも手紙のとおり会いに行ってみたら誰もいなくって」

 そう言って鴻巣先生は、懐から手紙を取り出す。ファンシーな花柄の便箋だ。字は丸っこい。女子が書いたように見える手紙だけど、そうと判断するのは早い。

 手紙には簡潔に、『二時間目が始まってから二十分後に、校舎裏の焼却炉まで来てください。相談したいことがあります』と書かれていた。

 「誰もいなかったんですか?」

 あ、そうか。二時間目の体育に出席していなかったのは僕だけだ。そして鴻巣先生が「誰もいなかった」という以上、途中で抜けた肉丸くんたちは焼却炉に向かっていないということになる。

 「そうね。誰もいなかったけど、焼却炉の中にハンマーがあったわ」

 「ハンマー?」

 それって、もしかして………………。

 「事件とどう関係があるかは知らないけど、ハンマーが焼却炉の中にあるって変よね」

 鴻巣先生がペン回しをしたまま、興味無さそうに言った。中立という立場は赤ペン先生と僕たちだけでなく、犯人に対しても同じらしい。滅多なことを言って犯人を不利に追い込まないよう、注意しているみたいだ。さっきから鴻巣先生の言葉は、普段より口に出てくるのが遅い。

 「乙女ちゃんが焼却炉の方へ、そのハンマーを取りに行ったわ。後で見せてもらうといいかもね」

 「乙女ちゃん…………って阿比留さんのことですよね」

 ちょっと誰だか、分からなくなるところだった。名前とイメージにギャップがありすぎる。阿比留さんは苦手だけど、事件解決のためなら仕方ない。後で見せてもらうとしよう。

 「鴻巣先生が焼却炉に着いたのは、いつぐらいでしたか?」

 「手紙通りよ。授業が開始されてから、二十分後くらいかしら」

 そしてそこから先、焼却炉に誰も向かっていない。そうなると、そのハンマーが事件に関係していると仮定するなら、犯人はそのハンマーを、鴻巣先生が到着する前に焼却炉へ捨てたことになる。

 なんかますます、僕の疑いが濃くなるなあ。僕が犯人なら、今のところすべての筋が通ってしまうんだから。

 「ところで、この『被害者データ』を書いたのって鴻巣先生ですか?」

 「そうよ。わたしが作ることになってるの」

 それなら、鴻巣先生にはそれなりの知識と技術があるということになる。僕が知りたいことを、ちゃんと教えてくれそうだ。

 「ちょっと気になったんですけど、手縄くんの出血って多すぎないですか? あれで普通なんですか?」

 手縄くんの出血。僕以外の誰かが犯人だとして、どうやって殺したのかを考えると、どうしてもぶつかる問題があった。時間だ。男子だろうが女子だろうが、僕以外の生徒に一人になる時間はほとんどなかった。手縄くんを磔にして返り血も洗って、なんてそんなことを悠長にしている暇はない。

 ならばどうするか。どこか、何らかのテクで短縮できる場所があるんじゃないかと思ったのだ。磔は短縮が難しそうだけど、返り血はもしかしたらできるかもしれない。そうすれば、犯行に掛かる時間は半分くらいになりそうだ。

 「致命傷の傷には包丁が刺さってますし、ああいう状態なら出血はあまり酷くないって聞いたことがあるんですけど」

 あの出血は、犯人の仕掛けなんじゃないか。ペンキや血糊で再現しただけのものなんじゃないか。そういう想像があった。しかし鴻巣先生は、それを否定する。

 「まあ、そういうこともあるわね。でも、明くんに刺さってる包丁は、心臓まで到達してたのよ。包丁で傷に栓したくらいで止められる出血量じゃなかったってだけ」

 「お、無花果、何か思いついたのかよ」

 五百蔵くんが茶々を入れる。それは無視するとして、他にもいろんな人に様々なことを聞かないとな。

 「五百蔵くん、君は保健室を出てから何分くらいで運動場に戻った?」

 「な、なんだよ。俺を疑ってるのかよ!」

 いきなり狼狽え始めた。いや、僕以外に犯人がいるとするなら、君と遊馬くんは容疑者の筆頭だよ。それくらい、すぐに理解してほしかった。

 「俺は五分くらいで戻ったぞ! なあ、清司」

 手縄くんの死体を見ていてた御手洗くんがこっちを向く。彼は慎重に、五百蔵くんの言葉に答えた。

 「……いや、俺はお前が保健室を出た時間を知らないから、正確な所要時間は分からんぞ。それでも往復で十分程度だったのは、確かだがな」

 「往復で十分か…………」

 短いな。たとえ返り血をなんとかしても、そんなんじゃ磔にはできない。しかも往復で十分だ。保健室を出てから運動場に戻るまでにかかった時間は、五百蔵くんの言ったとおり五分くらいしかなかったのかも。

 「遊馬くんは、何分くらいで保健室に戻ってきたっけ?」

 「…………僕も、五分くらいだ」

 「ぼ、ぼくもそう思うよ」

 遊馬くんの答えに、肉丸くんが賛同する。僕も肉丸くんに賛同だ。遊馬くんが保健室を出てから戻ってくるまで、五分くらいだった気がする。

 「今のところ、一番怪しいのは無花果くんということになるわね」

 雲母さんがぼそっと言う。言ってしまう。からかい半分なんだろうけど、みんなが混乱するからやめてほしい。

 「僕はやってないんだけどね。だからこそ、困ってるんだ」

 五百蔵くんたちは、いまいち信じてくれないみたいだ。僕を見る目つきが怪しい。

 五百蔵くんはジャージについたピンバッジを弄びながら、手縄くんの死体と僕を交互に見る。…………ピンバッジ、か。

 「五百蔵くんって、ピンバッジ好きなの? 運動するための格好にまでピンバッジを付けてるあたり、並々ならぬ信念を感じるんだけど…………」

 「これか? 俺は別にピンバッジマニアじゃねーよ。これは『Star7』の限定品だぜ!」

 うおう。急にテンションあがったな。

 「『No’s』も知らなかったお前が『Star7』なんて知ってるわけないか。世代的には『No’s』のさらに前に活躍したアイドルグループだ。俺はそのグループのファンなんだよ。苦労したんだぜこのピンバッジ集めるの! コンサートの時に数量限定で発売された物で、今じゃ売ってない代物だ」

 「すごいよねー五百蔵くん。二十個持ってるんだったっけ? あたしだって『No’s』のピンバッジは持ってるけど、そんなに集めなかったよ」

 「へ、へえ。じゃあもしかして、パーカーとジャージに付いてるので二十個なんだね」

 「おうよ。俺の自慢のコレクションだ!」

 コレクションを普段から身に着けるという感性はイマイチ理解できないけど、コレクションをどう扱うかは人によって違うのかもしれない。僕だったら誰の目にも触れないところにそっと隠しておくな。

 うーん。でもそうなると困るんだよ。手や顔についた返り血は洗えばいいけど、服についた返り血は落ちない。僕はてっきり、誰が犯人であったとしても、服は着替えているものと思っていた。全員着ている服はバラバラだけど既製品のはずだから、代わりを用意するのは難しくない。でも、五百蔵くんのピンバッジは用意できない。限定品の上に、所持数が分かっていて、パーカーとジャージで全部だ。似たピンバッジを用意すれば僕みたいに『Star7』に興味の無い人は騙せるけど、鴨脚さんは騙せない。『No’s』ではないにしてもアイドル絡みで、鴨脚さんが見落としをするとは考えにくい。彼女が何も言っていない以上、五百蔵くんのジャージについたピンバッジは本物のようだし…………。

 すると容疑者の中で犯人の可能性が一番高いのは、遊馬くん?

 「…………ちょっと、阿比留さんに話を聞いてくるよ。五百蔵くんたちはどうする?」

 「俺は明の死体を調べる」

 「あたしも」

 「………………」

 肉丸くんは、鴻巣先生の後ろを離れようとしない。つまり現状維持だ。

 「無花果くん」

 視聴覚室を出るところで、雲母さんが僕を呼んだ。

 「しばらくしたらスクリーンを下ろすから、必ず戻って来なさい」

 「……分かった」

 それだけ言って、視聴覚室を出た。そうだな、スクリーンも調べれば、何か決定的な証拠を見つけられるかもしれない。今はまだ調べていないところを調べて、情報を集めよう。

 犯人はどうやって犯行時間を短縮したのか。それは後で考えよう。

 中央階段を下りて中央昇降口の近くまで行くと、そこに他のクラスメイト達がいた。視聴覚室に踏み込んで死体を見るのは怖い。でも、ただ何もしないのは気持ちが悪いということなのか。結局困ったみんなは、犯行現場の近くに集まっているだけだ。

 その集団の中に、阿比留さんを見つける。抱さんは、この中にいないみたいだ。

 阿比留さんも僕に用があるのか、僕が近づくより先に阿比留さんの方が近づいてきた。両手に白い布で包まれた物を持っている。

 「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 尋ねてきている割に、高圧的というか押し付けがましいというのか。阿比留さんは有無を言わさない口調だった。

 「あんたが犯人って、本当?」

 そして僕が許可を出す前に、阿比留さんは内に秘め続けていたであろう疑問を口にしてしまう。周りのクラスメイト達がその言葉に反応してざわつき始める。

 どうせそんなことを聞いてくるんじゃないかと思っていたけど、大勢の前で言われるのは予想してなかった。否定したところで意味が――意義がないのは承知の上なので、僕はただ「さあね」と適当にはぐらかすに留めた。

 「否定しないの?」

 「否定したところで、阿比留さんは信じないだろ? それより、焼却炉にあったっていうハンマーを取りに行ったんだよね? 見せてくれないかな」

 「…………いいけど」

 阿比留さんは少し言い淀んだあと、持っていた白い包みを開いた。

 「別に、ただのハンマーだった」

 姿を現したハンマーは、煤汚れがある他は普通のハンマーだ。阿比留さんが言うように、ただのハンマー。

 手に取って細かく観察してみても、何か変わったところがあるということはない。柄の部分に『美術室』と書かれたラベルがあることから、美術室で調達された物らしいのは分かる。それだけだ。

 「これが事件と関係あるの? 誰かが悪戯で焼却炉に放り込んだだけじゃない?」

 「たぶん関係はあるよ。でも、このハンマーが見つかったところで確認できたのは、手縄くんを殴って気絶させるのに使った鈍器はハンマーだったってことくらいだ」

 「ううん、事件と関係があるなら、どうせ焼却炉に入れたんだし燃やせばよかったのに。そうすれば発見される可能性も低かったんじゃない?」

 「阿比留さん、焼却炉の動かし方分かる?」

 「それは…………分からないけど」

 なら、犯人も知らなかったんじゃないかな。僕も知らないし。このハンマーは決定的な証拠にならないから、極論を言えば視聴覚室に置き去りでも問題ないはずだ。そうしなかったのは、証拠を隠さずにはいられない犯人の性だ。

 犯人からすれば、どんな証拠から悪事が露見するか分からないのだから、隠せるものは隠したい。

 「そういえばさ、九。なんで犯人は、えっと、手縄を磔にしたと思う?」

 犯人になんでこんなこと聞いてるんだろあたし。心の中でたぶん、彼女はそう思っている。それでも聞かずにはいられなかったみたいだ。彼女は本当に、言いづらそうに喋った。嫌いな食べ物を無理矢理食べている時のような顔をした。

 「頭を殴って気絶させたって、遊馬が言ってたっけ? それは分かるよ。殺すやつが気絶してた方がやりやすいもん。でも、磔は殺害の後でしょ? ほったらかしにすればいいのに、どうして磔にしたの?」

 「それは僕が聞きたいよ」

 そのせいで僕は、有力な容疑者を絞りきれないんだから。五百蔵くんか遊馬くんかなと思っても、二人ともひとりでいた時間は五分くらい。そんな時間じゃ、手縄くんは殺せても磔にはできない。

 磔さえなければ。

 「……抱さんはどこにいったか知ってる? 聞きたいことがあったんだけど、姿が見えなくて」

 磔の問題も後にして、抱さんとコンタクトを取ることにしよう。あの頭が回りそうな彼女なら、もしかしたら僕の思いつかないようなアイデアを思いついてくれるかもしれない。

 それに今、彼女がどういう心境で捜査に臨んでいるのかも知りたい。手縄くんがどういう人間だったかを、他のクラスメイトよりも知っている。そして、僕と違って彼の死を悲しむことができる。そんな彼女は、今どんな想いの中にいるのか。

 それを知ったら、少しは僕も誰かの死を悲しめる気がして。

 阿比留さんには、抱さんに逃げられたことは内緒にしておいた。それを言ってしまうと、もし抱さんの居場所を知っていても、教えてくれない可能性がある。

 「運動場に行ったみたいだけど…………」

 「ありがとう。じゃ」

 「あ、ちょっと待ちなさい!」

 急いで中央昇降口を離れようとする僕の腕を掴んで、阿比留さんは僕を制止させた。阿比留さんの指が腕に食い込んで痛い。握力はかなり強かった。やっぱり彼女、テニスでもしてるのかな。

 「な、何?」

 「何じゃない! この惨状を説明しなさいよ!」

 そう言って阿比留さんが指さしたのは、中央昇降口の中、靴脱ぎの部分だ。そこに大量にできた水溜りを、彼女は指差している。

 「何これ? ここだけ雨でも降ったの? よく見るとここの床も湿っぽいし! 上履き履いてなかったら靴下濡れてたわよ」

 「これは僕がやったんじゃないよ。肉丸くんが正面の花壇に水を撒こうとしたら、うっかりこの辺に散水しちゃったみたいなんだ」

 「ふうん。肉丸が。なら仕方ないわね」

 「…………仕方ないんだ」

 納得。肉丸くんならやってもおかしくないと。たった一週間そこらで、彼もずいぶんな天然ボケ扱いだ。

 阿比留さんの手に込められた力が緩むのを感じ、振りほどいて一気に駆けた。まだ何か後ろで阿比留さんの声が聞こえるけど、もう無視だ無視。

 「待て! 証拠でも捨てに行く気!?」

 そんなこと大声で言うな! もう僕は犯人確定なのかよ!

 ……と、叫びたくなるのをぐっと堪えて西側昇降口まで走り抜けた。阿比留さんを振り切ったところで走る必要は無かった。でも抱さんと入れ違いになるのを避けたい思いもあって、昇降口に着くまで走ることにした。運動不足の身には厳しい。

 息を切らしながら、靴箱から靴を取り出そうとした。靴を右手で掴んだ瞬間、まったく予想しない冷たさを感じて思わず手を引っ込めた。

 「な、なんだ…………?」

 もう一度、自分の靴に触れてみる。冷たさは感じなかった。さっきの冷たさは気のせいだったのか。いや、そんなはずはない。

 何となく、隣の五百蔵くんの靴を掴んでみた。今度は、冷たかった。

 どうも僕はさっき、自分の靴と間違えて五百蔵くんの靴を掴んでしまったらしい。

 「…………じゃあこの冷たさは何だ?」

 汗? 濡れているのは確かだ。ううん、汗には思えないんだよな。さっきまで体育でサッカーをしていた五百蔵くんの靴が汗で濡れていること自体は自然だ。だけど、汗ならもっと生暖かい。熱が引いて冷たくなったのかとも考えたけど、昇降口の風通しを思えばそれも不自然だ。だって中央昇降口は二時間以上が経過した今になっても、今朝撒かれた水が蒸発していない。乾く気配が無い。それくらいは風通しが悪い。基本的には同じ造りの西側昇降口だけ風通しが良いってこともないよな…………。

 「ま、いっか」

 五百蔵くんの靴なんて、今考えることじゃない。僕は靴を履いて昇降口を出ると、息が切れない程度の小走りで運動場を目指した。

 抱さんは、まだ運動場にいた。運動場の真ん中で、じっと校舎の方を見ていた。遠目には、視聴覚室にいた時よりは落ち着いているように見える。さて、実際はどうだろうか。

 「抱さん!」

 呼びかけてから、抱さんに近づく。今度は逃げられずに済んだ。抱さんは僕が近づく間、足を動かすこともしなかった。

 「どう? 何か分かった?」

 視聴覚室で逃げられたことについては、何も言わないことにした。僕が犯人の最有力候補である以上、仕方ないことだと割り切るしかない。それより今、逃げないでくれたことに感謝しよう。

 「…………あの、無花果さん」

 抱さんはじっと、僕を見た。目元が少し赤い。泣いていたのかもしれない。

 人が死んだら悲しい。人が死んだら涙が出る。そんな普通の感覚が、羨ましかった。

 「すみません……視聴覚室では…………」

 「いいよ。気にしてないから」

 本当は大ダメージだったけど。

 「…………優しいんですね、無花果さんは」

 「優しいわけじゃない。現に僕は抱さんと違って手縄くんの死を悲しめてないんだ」

 「でも、優しいです」

 それだけ言って、抱さんはほほ笑んだ。違和感しかない、外側だけ作りこんだ笑い。ハリボテの笑顔は、それでも前に進もうとする強さの表れだった。

 表情はすぐに崩れて、抱さんは俯く。しばらくして顔を上げた彼女は、いつも通りに戻っていた。そんな風に、人は悲しみを隠すことができるのか。

 「すみません。何の証拠もなく無花果さんを疑っても意味がありませんでした。それに、悲しんでいても、明さんが救われません」

 「そんなことは………………」

 悲しむことで、救われる想いはある。そう言いたかったけど、そんな僕自身が一番悲しめていないと思うと、なんだか滑稽だった。それに、悲しみを飲み込んだ彼女の決意に横やりを入れたくない。

 「無花果さん。絶対に、犯人を突き止めましょう。わたしにはそれくらいしか、明さんの悔しさに報いる方法が思いつきません。他のみなさんは明さんの死を、あまり悲しんでいる様子もありませんし…………」

 「そうだね。それは、僕も思っていた。手縄くんの仇を取れるのは、僕たちしかいない」

 肉丸くんはどうかな。彼は仇を取りたいとか、そんな攻撃的な感情を抱くタイプじゃないかもしれない。それでも、手縄くんの死を悲しんでいる人物のひとりだ。僕たちと、気持ちは同じはず。

 「抱さんはここで何を?」

 「今回の事件は、どうも男子生徒が主軸のようでした。そこで男子のみなさんが体育の時間にいた運動場に行ってみようかと。男子と同じ視点に立てば、何か思いつきそうだったんです」

 女子はまだ、体育で運動場を使ったことがない。そこで事件当時の男子生徒になりきってみようと、抱さんはここにいたのか。僕もそうするべきだった。容疑者の筆頭たる五百蔵くんや遊馬くんも、最初はここにいたじゃないか。この視点は大事だ。

 抱さんは校舎の方を指しながら、気づいたことを説明してくれた。

 「ここに来て初めて気づいたんですけど、運動場からだと校舎の一階部分が見えないんですね。それに、校舎前の道も、三つの昇降口も見えません。実際、無花果さんがどの昇降口から出てきたのか分かりませんでした」

 「……木が、邪魔なんだ」

 校舎の前には、アスファルトの道がある。そしてその道と運動場の間には、木が並んで植えられている。その木は背が高く、しかも葉は低いところからびっしりと生えている。これじゃあ、まるで壁だ。保健室から運動場の様子は見えないし、こっちからだと校舎の一階部分は隠れてしまう。校舎前の道を誰かが通っても、まったく見えない。

 体育館とプールも見えないし、駐車場も見えないな。

 「どうして運動場にいた耕一さんが、焼却炉に向かう鴻巣先生に気付かなかったのか不思議だったんですけど、こういう理由だったんですね」

 「…………え? 鴻巣先生、わざわざ西側から迂回して校舎の裏に行ったの?」

 校舎の裏側くらい、東側からでも行けそうなのに…………。

 「東側にはフェンスがあって、裏手に行けないんです。内側から鍵を開ければ通行は可能みたいですけど、鍵はかかってました」

 じゃあ、鴻巣先生は体育館から校舎の前を――――校舎と木々の壁に挟まれたアスファルトの道を通って、大きく迂回して校舎の裏手にある焼却炉まで向かったのか。犯人も焼却炉に向かいたかったら、その道を通るしかない。

 「あ、そうか……。鴻巣先生が焼却炉に着いたのは、授業が始まってから二十分後くらいだった。そして、遊馬くんたちが保健室に肉丸くんをつれてきたのは授業開始からだいたい三十分後だ」

 「運悪く、道で出くわすということはなかったんですね」

 彼ら三人からすれば運は悪かったけど、犯人からすれば計画通り、なのかな…………? 鴻巣先生の手紙には『授業開始から二十分後』と明確に書かれていた。

 「あれ? でも、鴻巣先生に宛てられた手紙が犯人の仕業だとするなら、犯人は遊馬くんなんじゃ…………?」

 「えっ? どういうことですか?」

 しまった。不用意な発言で、抱さんを混乱させてしまったかも。

 「いや、遊馬くんは自分が鴻巣先生を探しに行くって言って、五百蔵くんは帰したんだ。もし鴻巣先生に宛てられた手紙が犯人の工作で、ひとりきりになるための口実作りだとするなら、犯人は遊馬くんだよ」

 そうとしか思えない。抱さんは、僕のそんな考えを否定した。

 「そうとは限りません。ひとりきりになれればいいのですから、武さんも容疑は晴れません。むしろ武さんが犯人なら、耕一さんからひとりになるための口実を切り出してくれて、ラッキーだと思いますよ」

 「そっか」

 「それに武さんや耕一さん、枇杷くんや無花果さんに疑いを向けること自体、犯人の思惑かもしれませんし」

 「……僕は偶然にしても、三人は……偶然?」

 だって、肉丸くんが転んだのも偶然だよな。ああ、頭が混乱し始めたぞ。そろそろ、素人の限界が見え始めたみたいだ…………。

 「それも犯人にとっては、ラッキーだったのかもしれませんよ。自分が誰かを転ばせようとしていた時に、運よく枇杷くんが転んだということも考えられます」

 「偶然を利用すると、犯人としては都合がいいのか?」

 「偶然なら計画者である自分の意向や行動のリンクから外れます。偶然に頼ったら計画じゃない。推理するわたしたちは無意識に、それを前提にしています」

 その前提の穴を、偶然を利用することによって突ける。しかも無意識の前提は、推理する側の思考の外。なるほど。

 「……あくまでそういうこともあるってだけで、実例は少ないんですけどね。計画は多少の誤差くらいなら修正できるように組むものですから」

 「あまり可能性を詰め込みすぎても駄目か。基本を押さえた上での、応用みたいなものだよね」

 「そうですね」

 その後、僕たちは互いの情報を整理してから、視聴覚室に戻ることにした。雲母さんの言葉に従おう。いよいよ調査も大詰めになりそうだ。赤い文字を、調べよう。

 視聴覚室に戻った僕たちを待っていたのは御手洗くんたちだった。メンツは、ほとんど変わっていない。鴻巣先生が消えて、雲母さんと入れ替わりに阿比留さんがいるくらいしか、変化はない。遊馬くんに聞いたら、他のクラスメイトは結局死体を検めなかったとのこと。そんな状態で『緊急HR』に入るというのか。

 この事件の真相を明らかにできるのは、僕たちしかいない。僕と抱さんは目線で、それを再確認した。

 スクリーンは既に下りていて、赤く大きく、『踏み台と成れ!』と書かれている。スクリーンと黒板の隙間はほとんど無いから、手縄くんの死体に覆い被さったスクリーンは不恰好に膨らんでいた。

 五百蔵くんと鴨脚さん、阿比留さんは既にスクリーンの調査を始めている。

 「無花果、守。カリカから伝言がある」

 御手洗くんは僕たちに近づいて言った。

 「天井にある、ロープが縛られているフックだが、あれは今下りているスクリーンより大きいスクリーンを吊るすためのものだと、カリカが言っていた。カリカが赤ペン先生に聞いたそうだ」

 「………………分かった。ありがとう」

 犯人が設置したと思ってたけど、元からあったんだ。………………じゃあなんだ。だからといって手縄くんを磔にする時間が短縮できるわけじゃない。

 スクリーンの文字に注目する。文字は大きくて目立つから、血溜まりに足を入れなくて済みそうだ。乾いているし、必要ならやむなしだけど、できれば血溜まりには踏み込みたくない。

 見ると、文字は鮮やかな赤色だ。乾いている血溜まりがほとんど黒みたいな色になっているのとは対照的ですらある。血液が乾く条件によって、発色の具合も違うのかな。それとも、これは血文字じゃないのかな。

 あと、無駄に達筆だ。

 「血文字じゃないとすると、ペンキ?」

 「みたいですね」

 それにしても『踏み台と成れ!』とは、長い言葉を書く。一文字とかなら、この字を書く時間も短縮できるのになあ。ホント、嫌になる。

 どうもこのスクリーンは固定式みたいだし…………。あらかじめ書いておいて、後で付け替えるってわけにはいかないか…………。

 ううん。

 「……これって、破れ目?」

 スクリーンを見ていた鴨脚さんが、何かを見つけた。彼女が指差したのは、スクリーンの一際突き出して膨らんだ部分の真横だ。丁度、『と』の字が被っている。

 「そうですね。破れ目があります」

 抱さんは血溜まりの中に足を踏み入れ、破れ目に触れる。縦に走った、大きな破れ目だ。体の小さい抱さんなら、頭が通りそうだ。

 「……この膨らみは?」

 抱さんが踏み込んだのに、僕が尻込みしているわけにはいかない。僕も血溜まりの中に踏み込んで、気になった場所を触る。不自然に突き出して膨らんでいる部分だ。感触は堅い。これは、人体の一部分には思えない。なんか、棒みたいだ。

 「この黒い柄は……包丁です!」

 抱さんが破れ目から、中を覗き込んで言った。それで得心が行く。棒みたいだと思ったのは包丁の柄だったのか。

 「なんでこんな破れ目が?」

 「偶然なんじゃねえのか?」

 僕の疑問には、五百蔵くんが答える。

 「この学校って、もとは廃校だったんだよな。それなら仕方ねえ。老朽化してスクリーンが破れてたんだろ」

 …………いや、でも犯人はわざわざ文字を残すくらいだ。破れ目なんてあったら書きにくいだろうし…………それくらい確認してそうだよな……。犯人はそこまで気にしなかったのかな。

 それに廃校になっていたのは五百蔵くんの言うとおりだけど、スクリーンが破れていた原因はそれなのか? 赤ペン先生のバックにどんな組織があるのかは分からない(赤ペン先生の話が本当なら政府ということになる)。しかし、これだけの計画を実行に移すような組織が、スクリーンの補修を怠るなんてあるのか?

 僕の思考をかき消したのは、頭上から聞こえるチャイムだった。授業の始まりと終わりを告げるものではない。鉄琴で奏でられたような音だった。次に、赤ペン先生の声が聞こえる。どうも今のチャイムは、校内放送の始まりを知らせるための音らしい。

 「えー、みなさん。捜査進んでますかー?」

 赤ペン先生の声。合成された、男なのか女なのかも分からないその声は、人が死んでいるこの状況にはそぐわない。酷くかけ離れている。

 「そろそろ調べ終わった頃だろうし、約束の三時間は与えたからね! それじゃあ張り切って、『緊急HR』しましょう! みんな、中央階段を上って四階までレッツゴー!」

 いよいよ、始まる。手縄くんはどうして死んだのか、それを僕は解き明かさないといけない。それだけが、人の死を悲しめない僕にできる唯一の弔いだから。

 手縄明を殺した極悪非道の犯人。それは、僕たちの中の誰かだ。


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