四月日常編 君と僕だけ知っている
「みなさん、魔女狩りって知ってますか?」
突然なんだよ。クラスメイトは何も言わないけど、みんなそう思っているのは明らかだった。
怒涛の入学式から一週間後の六時間目、道徳の授業だった。赤ペン先生はそれまで普通に教材を使って、道徳の授業をほとんど受けたことの無い僕でさえしっくりくるくらい普通の道徳の授業をしていた。授業開始から三十分ほどした時だろうか、藪から棒に赤ペン先生はそんなことを言った。
授業の長さは四十五分だったので、僕はそろそろ終わらないかなぁとそわそわしながら時計を見ていた。そこでいきなり赤ペン先生が今までの進行をまるで無視した話を始めたので、さすがに気になって赤ペン先生の方を見た。
実は学校が終わった後で、ちょっとした約束があった。約束をした人間もこのクラスにいる以上遅刻も何もあったものじゃないが、『女性との約束は死んでも守れ』ときつく言い含められて育った僕としては、どうしても時計に視線が移ってしまうのだ。
「……えっと、言ってる意味が分かんねえんだけど」
ちょうど赤ペン先生に名指しで発言を求められた直後だった手縄くんが、生徒を代表して反応することになった。よく当てられるな彼は。名簿番号順からすれば真ん中だから、普通なら当てられにくい位置なのに。
「魔女狩りですよ。誰か知ってる人いませんか?」
たぶん手縄くんの言う『意味』は、さっきまでの授業との繋がりを指しているんだろうけど、赤ペン先生はさらっと流して『魔女狩り』の意味を求めた。
「御手洗くん、知ってますか?」
「……まあ、軽くは」
当てられたとなっては答えざるを得ない御手洗くんは、立ち上がって説明に入る。彼なら魔女狩りという言葉くらい、知っていて当然だ。彼の趣味の範疇に、魔女狩りは入るはず。
「十二世紀以降、キリスト教会の主導によって行われたと言われる、魔術行為の追及とそれに対する裁判と刑罰の一連の流れを指す言葉だ。現代では心理学の観点から、一種の集団ヒステリーだと言われている」
その知識は全然軽くないよね?
「そうです。おおむねその通り。他に誰か知っている人はいませんか? 雲母さんは?」
「……………………」
当てられた彼女は、心底面倒そうに言葉を繋いだ。ほとんど表情を崩さず真顔の彼女ではあったけど、赤ペン先生に当てられたときは内心を一切隠さなかった。そこが妙に人間臭くて、結果的に彼女は入学式のあの日ほど、周囲から浮いた存在ではなくなっていた。
三十三人もいればひとりくらい、彼女みたいな奇異な存在はいるだろう。そういう納得の仕方ができるくらいには身近になっていた。
「…………一九七〇年代以降の学術的研究によって、清司くんの言ったことの一部は修正されてるわ。魔女狩りが起きたのは十五世紀から十八世紀で、もとは民間から始まったとされているらしいのよ。それに別に過去の出来事じゃなくて、現代でも伝統を重んじる地域では類似する行為が行われているんですって。あと、この場合の魔女は女性ばかりでなく、男性も含んでるわ」
「まさにその通りです」
御手洗くんは趣味の一環だと説明がつく。じゃあ雲母さんはどうしてそんな知識を?
「魔女狩りとは、御手洗くんと雲母さんが説明してくれたとおりの出来事です。ところでみなさん、魔女狩りで被害にあった人がどういう風に死んでいったか知ってますか?」
「いやちょっと待てよ。どうしてその話がいきなり飛び出したのかオレは知りたいんだよ!」
手縄くんが声を荒げて赤ペン先生に食って掛かる。手縄くんの言うとおり、いきなり魔女狩りの話に移行した理由は気になる。ついさっきまでは『サバイバルロッタリー』という思考実験について小学生にも分かりやすく説明していたのに。
あ、でも、サバイバルロッタリーって日本語だと『臓器籤』と言うのだと他ならぬ赤ペン先生が説明していたな……。もしかして『臓器』から『血なまぐさい』→『魔女狩り』という流れをサバイバルロッタリーの説明中に思いついてしまったのか?
あながちありそうな展開だ。
「聞くところによると、かなりエグイ殺され方をするらしいですよー。先生でさえ身の毛がよだつくらいに」
そんなことを言って体を震わせる赤ペン先生。毛があるんだ…………。着ぐるみだからそれに類似する何かはあるのかな…………またしても手縄くんの言葉を無視している点はもう指摘しないことにしよう。
「たとえば崖から海へ突き落したりしたそうです。もし浮かび上がってきたら魔女だから改めて殺し、そのまま沈んで死んでしまった場合は普通の人間だったと、そんな確認方法を取っていたみたいです」
「普通の人間だったとしても死ぬんだ…………」
後ろで鴨脚さんがぼそっと呟いた。魔女なんて実在するわけないから、こういう方法でも取らないと全員生き残っちゃうんだよなきっと。カナヅチの人なら魔女だろうが人間だろうが沈むだろうけど。
僕はカナヅチだから、そんな殺され方はごめんだ。
「先生が聞いた中で一番ひどい殺され方は、金網で挟んでじっくり弱火で炙るという殺し方ですかね。そういう殺し方すると、内臓まで炭化する癖に中々死なないらしいですよ。さらにその人は十日間ほど、磔にされて放っておかれたとか」
「やめてやめて、想像するだけで気持ち悪くなってきた!」
阿比留さんがついに叫びだした。こういうの苦手なのか。阿比留さんに限らず周囲を見ると、何人か気分が悪そうにしている人がいた。女子の方が気分を害したみたいだけど、男子も数名気分が悪そうにしている。手縄くんの顔が真っ青になっているのは、少し意外だった。
「嫌ですねー。先生、そんな殺され方で死んだら死んでも死にきれませんよ。焼き鳥になった方がマシです!」
そこでちょうど、チャイムが鳴った。その時間も見越しての最後の台詞だったのか、単なる偶然なのか。赤ペン先生は「帰りのHRは省略しまーす」と言ってすぐに教室を出てってしまった。先生は先生で、たまに忙しそうにしている。
「あー、気分悪くなった。なんであんな話したのよー」
鴨脚さんはぐったりと、机に突っ伏した。五限後の休み時間中に「昨日、ミュージックステーションで『No’s』が云々」と騒いでいたあの鴨脚さんとはまるで別人だ。
「九くんはよく平気な顔してるよね。あの手縄くんでさえ青くなってたのに」
「それは……僕に想像力が無いからだよ」
人間の両面グリルって、イメージが出来ない。まずもって気分が悪くなるための前段階に到達できなかった。
「ひっくり返すのはどうするのかとか、中世にオーブンは無いよなとか、そんな方向に想像が動いちゃってさ……」
「余計に具体的だから、それ!」
どうも鴨脚さんの気分をより悪化させてしまったらしい。僕にとっては当たり前の疑問だったのに…………。
「…………人間の両面グリルって、どれくらい広い金網がいるのかしら。畳一畳分?」
「や、め、てー!!」
雲母さんが真顔のまま、ぼそっと呟いた。今のは疑問がつい口に出てしまったというよりは、わざと鴨脚さんに聞こえるように呟いた気がする。からかっている。
「ところで無花果くん、今日はお暇かしら?」
顔を正面黒板に向けたまま、青い瞳だけをこちらに動かして彼女は僕を見た。うわ、黒目(青いけど)の可動範囲広っ! ちょっと怖かった。
…………って、うん? いきなり何のお誘い?
「な、何あたしの気分悪くしといてところでなの…………」
「いや、今日は用事があってさ」
鴨脚さんの言葉は受け流して、簡潔に僕は雲母さんの質問に答えることにした。藪から棒と言えばこの人の誘いも相当藪から棒だ。何をいきなり言い出すんだろう。
「断るのかよ! そこ断るのかよ!」
急に振り返ってきた五百蔵くんが僕に向かって叫んだ。な、なんだ…………? こっちはこっちで何だ? 鴨脚さんを雲母さんが茶化した時に会話に入ってこなかったから、てっきりこっちの話は聞いてないものと思っていた。
五百蔵くんは僕の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そのまま、雲母さんと鴨脚さんに背を向ける形となった。ふたりにこれからの話を聞かれないようにするため、か?
「何で断るんだよ! チャンスだぞ!」
「何のチャンスだって言うんだよ。今日は用事があって無理なんだ」
「用事ってお前、誘いを断るための嘘じゃ無かったのかよ……」
「嘘をつく理由なんてない。五百蔵くん、君ならわざわざ嘘をついてまで雲母さんの誘いを断るかい?」
「それは無いな」
「だろうね」
君の言いたいことはだいたい分かった。鴻巣先生が屋上で言っていたことの延長線上だな。雲母さんを狙うとか狙わないとかそういう話の…………。
五百蔵くんはさらに僕を強く揺すった。
「またとないチャンスだぞ! あの雲母カリカが、お前を誘ったんだぞ!? お前が誘ったんじゃなくて、お前を誘ったんだぞ!」
「あの雲母さんって、どの雲母さんだよ……………………」
そりゃ、僕としてもどうして雲母さんが唐突に誘ってきたのか気になる。なにせあの雲母カリカである。多少身近な存在になりつつあるとはいえ、他のクラスメイトとは一線を画する外見と存在感を持つ彼女が、僕を何事かに誘うというのは、どういう心境だ? なにせ彼女、今のところ誰がどう誘っても、その誘いに応じなかったのだ。
五百蔵くんが良い例か。鴻巣先生に背中を押されたからというわけではないだろうが、彼は雲母さんを好意的に捉えて接近を図っていた…………という言い方は五百蔵くんに最高の敬意を払った言い方であり、有体に言えば口説いていた。それに対し雲母さんは嫌な顔ひとつしなかったが、それ以上もなかった。「これなら嫌な顔された方がやりやすいぜ」とは彼の弁だ。
謎めいた存在の彼女を口説こうなんて勇者は今のところ五百蔵くんくらいなものだ。だいたいの場合は鴨脚さんや阿比留さんが雲母さんに対してアプローチをしている。鴨脚さんは単純に仲良くなりたがっているだけだろう。阿比留さんも基本的にはそうなんだろうけど、一部思惑というのがありそうだ。
阿比留さんは今のところ、女子のリーダー格だ。別にそれを誰も否定しないし、器が無いとは僕も思わない。阿比留さんはどうもどうやら、誰とも一定以上に交わろうとしない雲母さんを取り込むことで、自身のリーダーとしての腕を示しておきたいという願望もあるようなのだ。
「なんで雲母ちゃん、断るんだろ。別にあの子も元不登校児ってことなら、基本的には暇でしょ?」
「そうかもしれないけど、それを僕に話すのは何の解決にもならないんじゃないかい? ていうかなぜ僕と話そうとする。お互いにお互いが苦手なタイプだって分かってるよね?」
「んー。それはそうなんだけど、なんかあんたって雲母ちゃんと似た空気があるんだよねー。だからあんたと話したら解決方法が思いつくかなって」
「……………………」
頼むから雲母さん、少しは阿比留さんの誘いに乗ってあげてください。
「いいからOKしちまえよ! どうせ大した用事じゃないんだろ?」
回想終了。五百蔵くんとの会話に戻ろう。
しかし酷いこと言うな五百蔵くん。僕の用事が何だか知りもしないで『大した用事じゃない』って。もしこれで僕の用事が親族の墓参りだったらどうする気だ。
墓参りというのは極論だけども。だいたい、引きこもってから親族には会っていない。それこそ親族の中からアイドルが誕生していても不思議はないくらいに、僕は親族が今どうしているかを知らない。
「その用事の内容自体、僕は知らないんだけど……」
「え、なに?」
これ以上の会話は無駄どころが時間を無益に失うだけなので、五百蔵くんを振りほどいて雲母さんの方を見た。雲母さんも正面黒板を見るのをやめて、体ごとこちらに向けていた。青い目が飛び込んでくる。
入学式以来、初めて彼女の冷たい目を直視した気がする。向こうも向こうで、僕の青い目を正面から見るのは入学式以来なのかもしれない。お互い生まれつきの特徴だから失念しがちな部分だけど、この青い目は他人にはどう見えているんだろうか。特にこうして、二対の碧眼が並んでいる様は、異様とも取れるかもしれない。
「今日は用事があるんだよ。ごめん」
「謝らなくていいわ。最初から知ってたから」
「…………え?」
今なんと?
「守さんと、何やら用事があるんでしょ? それは最初から分かっていたわ」
「じゃあ何でわざわざ誘ったんだ?」
「あなたがどれくらい興味があるか知りたかったの。どうしてわたしが、あなたの名前を知っていたかに」
「…………あ」
そうだ。失念しているといえば、その疑問こそついうっかり失念していた。どうして彼女は入学式の日に、名乗ってもいない僕の名前を知っていたのか。
「ちょ、ちょっと、雲母さん…………!」
「残念でした。次のチャンスは五か月後です」
それだけ言い残して、雲母さんは仕事を終えた空き巣の如き速度で教室から消えた。泥棒を見つけてから縄をより合わせていた僕は、まんまと逃がしてしまったようだ。
五か月後か…………。それまでは何を質問しても無駄なんだろうな。彼女は口から出まかせで言ったんだろうけど、一度言ったらその言葉に忠実そうだ。
「……笑ってた、のかな?」
鴨脚さんがぼそりと言った。
「今、雲母ちゃんって笑ってなかった?」
「……そんなこと言われても、この優先順位を間違えたみじめな僕なら、誰だって笑うさ。僕だってわ――――」
「いやそうじゃなくって、雲母ちゃんだよ? あたしはもう鉄面皮なんだと思ってたけど、笑うんだなあって」
やっと、鴨脚さんの言いたいことが分かった。
「ああ、そういうこと………………」
雲母カリカが今まで表情を崩したのは、赤ペン先生に当てられた時だけだった。そこにもうひとつ、僕というファクターが加わったわけか。それは確かに妙だ。鴨脚さんが疑問を口にするのも分かる。僕も彼女はまず笑わないというか、プラスの表情をしないものと思っていたから、考えてみれば予想外の出来事だったわけだ。
残念ながら僕は、彼女の笑みを見てなかったんだけど。
「……わたしとの約束、ちゃんと覚えていてくれたんですね」
「ああ、変に待たせちゃって悪かったね」
僕の前に、雲母さんとは入れ替わりにひとりの少女が現れた。髪は雲母さんと同じくらい伸びていたけど、金色では当然ない。雲母さんが『綺麗に伸ばした』というのなら、彼女は『気づいたらここまで伸びていた』という感じで、髪の手入れが行き届いていないのが男の僕でも分かった。
手入れが行き届いていない部分は髪だけじゃない。服もあった物を適当に合わせてきたという印象が拭えない。ファッションにまったく興味の無い僕ですらそう思うのだ。鴨脚さん辺りから見たら、どう映るのだろうか。
魔法で変身する前のシンデレラ。それが目の前にいる彼女、抱守の外見に対する僕の評価だ。
「ふうん。無花果が言ってた約束ってのは守との約束だったのか」
「ああ。といっても、僕はさっきも言ったように具体的な内容を知らないんだ」
五百蔵くんの言葉に答えつつ、抱さんの用事とやらを考えてみる。彼女は彼女で、唐突な誘いだったんだよなあ。特に断る理由もないから二つ返事でOKしてしまったけど、今思うと不用心にもほどがあった。
なにせ今僕たちの置かれている状況下を考えると、ふたりきりになるのが一番危ないんだから。
「どういう要件なの?」
「ええ。実は来週、弟の誕生日なんです。それで、プレゼントを買いたいんですけど、わたしだと分からないことがあって……。そこで、無花果さんに少し助けてほしんです」
てきぱきと、必要事項をまとめて抱さんは話す。スムーズに話が進む分、気を付けないとまたしても適当な返事で承諾してしまいそうだ。弟の誕生日……? 分からないこと、ね。
「分からないことっていうのは何かな? それ次第では、僕は役立たずになっちゃうけど」
重要事項を予め尋ねることにした。なにせ引きこもり歴が長いと、常識と思われるような知識も知らずに過ごしがちだ。アイドルのこととか聞かれたらどうしよう…………。
「弟が野球をやっていて、それでプレゼントにはグローブを買いたいんです。でもわたしは野球に詳しくなくて……」
「野球かあ。まったく知らないってことはないけど……」
小学生の頃はいろんなスポーツをやった。その中には野球もあって、短い間だったけど野球チームにも所属していた。もっとも、その野球チームは経済上の都合で破綻しちゃったんだったな。
「僕で力になれるかな?」
「はい。助かります」
抱さんは笑顔で答えた。屈託のない、年相応の笑みだった。
「野球といえばよお……」
五百蔵くんが窓側の席を見ながら言った。
「明のやつを誘えば良かったんじゃねえか? あいつ、野球に詳しそうっつうか、清司が言うには元野球少年なんだよな?」
「そうなんですけど…………明さんは、誘いにくくて」
言いづらいことを言いづらそうに、しかしはっきりと抱さんは言った。入学式の日にあった御手洗くんとのやり取りは、もちろん抱さんにも聞こえていたということだ。
そんな手縄くんはもう教室に残っていなかった。教室に残ってお喋りを楽しむタイプじゃないと見える。そういうところは雲母さんと似てなくもない。阿比留さんは僕ではなく手縄くんを利用して、雲母さん攻略の糸口を掴むべきだ。
「……他に、誰か誘った?」
抱さんが言いにくいことを言ったのを契機に、僕も聞きづらいところを聞くことにした。殺人を求められる状況下でふたりきりには、あまりなりたくなかった。さっきの笑顔を見る限り、彼女が殺人を企んでいるとは思えなかったし思いたくもなかったけど、必要な警戒をだからといって怠るわけにはいかない。
「枇杷くんも誘いました。無花果さんもそっちの方が安心でしょうし」
「そ、そう……」
しまった……。不安を先読みされていた…………。
「そもそも、無花果さんを誘った方が良いだろうと提案してくれたのは枇杷くんなんですよ」
「な、なるほど、そういう流れがあったんだ」
「……あ、うん、そうなんだ」
後ろから急に声が上がった。たぶんそんなことだろうと僕は思っていたからさして驚かなかったけど、鴨脚さんは驚いて飛び上がった。
「あうっ! っつ……! 何? びっくりした!」
「あ、あっと、ごめんなさい!」
抱さんの後ろから、小柄な少年が飛び出してきた。僕よりも先に抱さんから誘われているにも関わらず、今まで話しにまったく関与しなかったものだから、たぶん抱さんの後ろで大人しくしてるんだろうなと思ってはいた。
肉丸枇杷。細身で小さい彼の、それが名前だった。赤ペン教室に五人いる『小学生』の内のひとりだ。肉丸くんは小動物のように動いて、すぐに抱さんの後ろに隠れてしまった。見ての通り、彼は原則的に臆病で小心者だ。虫も殺せないとはよく言うけど、彼は息だけは殺せる。ああして物陰に隠れるのが肉丸くんはすごく上手なのだ。
彼と初めて話したのは五日前のことだ。鴻巣先生に頼まれて(決して押し付けられてではない。決して)、一緒に中央昇降口の正面にある花壇にホースで水を撒いたのがきっかけだった。
抱さんと、彼女の背後に隠れてしまった肉丸くんを同時に見る。こうして見ると抱さんが肉丸くんのお姉さんみたいで、抱さんに弟がいるという話に信憑性が出てきた。
僕の不安を先回りしていたところもあるし、『魔法で変身する前のシンデレラ』という文言は外見だけじゃなくて内面にも言えそうだ。
「しっかし守、お前すげえな。あのカリカに勝ったんだぜ?」
五百蔵くん、まだその話続けるの? 別に抱さんは雲母さんに勝ったわけじゃないから。ただ単に、抱さんが先に約束を取り付けていただけだから。
「ふふ、そうだと嬉しいですね」
あ、上手く流したな。
「じゃあ行こうか」
やることが決まっているのに教室でダラダラする必要もない。早いところ弟くんのプレゼントを買ってしまわないと、春になったとはいえ意外と日が沈むのが早いのだ。
「…………ん?」
立ち上がって抱さんと肉丸くんを見たところで、少し違和感を覚える。じっと、ふたりを見比べた。
「どうかしました?」
「……抱さんって、年いくつ?」
「今年で十三ですけど」
「肉丸くんは?」
「十一、だよ」
「………………」
ふたりの間には二歳の差があるわけか。たった二歳の差が。
じゃあどうして肉丸くんは抱さんの背後に隠れることができるんだろう。
二歳差は成長が著しい十代にとっては大きな差に思える。でも抱さんは女子でもかなり背が低い部類に入る。女子を背の順で一列に並べれば、前から三番目に来るくらいには背が低い。最初の内は、彼女を小学生だと勘違いしていたくらいだ。事実、彼女は同性の小学生に身長でギリギリ勝つくらいだ。
鴨脚さんと比べてみると、その差がはっきりした。鴨脚さんの身長は、表すなら僕の目線の位置に頭が来るくらいだ。一方の抱さんは僕とは頭ひとつ分以上の差がある。そしてふたりは驚くべきことに、同い年だ。
抱さんの背の低さも個人差で片付けられるのか不安になるくらいだが、こうなるとその抱さんの後ろに隠れられる肉丸くんの背の低さが余計に際立った。二歳差なんて関係ない。肉丸くんの身長はよく見ると、小学生でも低学年より僅かに高いくらいしかない。
「…………? どうかしたんですか? 無花果さん」
「……何でもない。少し気になっただけだよ」
こういうことは本当に久しぶりかもしれない。
誰かに興味を持つということは。
知っての通り僕は三年間引きこもりを続けた、いわば引きこもりの中堅プレイヤーだ。しかも引きこもっていた時期は花草木市というらしいこの地域に引っ越してきた時期とバッティングする。
つまり僕は三年間この町に、この市に住んでいながら、一歩も外を出たことが無い。ここら辺の地理に疎いとか、そういう悠長なことすら言えないくらいなのだ。目隠しされてここに突然連れてこられた人たちと、感覚は大差ない。
そこでプレゼントを買いにデパートまで行く途中に、抱さんから北花加護中学周辺の地理、および花草木市という地域について聞いておくことにした。
「花草木市はかつて二大女子校と呼ばれた花園高校と水仙坂学園のふたつの学校が中心となって生まれた市なんです。大きな学校ができるとその周辺に商店街や住宅街が自然と生まれるのは、何も花草木市に限った話じゃないんですよ」
花草木市は花園高校のある北側と、水仙坂学園のある南側に分けることができるとか。別にそのふたつの学校が対立関係にあるわけではないけど(対立関係とは真逆で、ふたつの学校は交友関係ある)、地元ではそういう区分が一般的だと抱さんは説明してくれた。ふたつの学校が出来て、それを中心にふたつの町が出来て、そのふたつの町が合併してできた市。それが花草木市だ。
「かつて二大女子校と呼ばれたってことは…………、花園高校は知ってたけど、その水仙坂学園っていうのも元は女子校だったのが変わって、今は共学なんだね」
「はい。水仙坂学園が共学になったのは今から六年前のことです」
「六年前…………?」
その時期が、頭に引っかかった。六年前。それは『あの時』ほどでないにしても、『僕たち』にとって大きなターニングポイントとなった時期だった。
僕にとっても大きな存在だったあの人が失踪したのも、六年前だった。そしてその事件は、花園高校――かつての花園女学院に端を発する。
「花園高校が――花園女学院が共学になったのも六年前だったよね?」
隣を歩く抱さんに尋ねた。北花加護中学の近くにあるというデパートに向かうべく、僕たちは大通りを歩いていた。僕と抱さんが並んで歩き、肉丸くんが少し離れてついてくる、逆三角形の並びだ。
大通りと雑に表現してしまったが、それは抱さんからの受け売りだ。僕の知る大通りとはまるっきり景色が違う。僕の地元で大通りと言えば、左右にいろんな店が並ぶ、大きな商店街のことだ。
人の視点に立って表現するか、車の視点に立って表現するかの違いなのかもしれない。今歩いている大通りは国道沿いの道で、とても交通量が多かった。左右にいろんな店が並んでいる点に関しては僕の知る大通りと同じだけど、反対側の店を見たいときはどうやって向こうに行くのか気になった。
横断歩道を渡るのか?
「……? 花園高校のことは知ってたんですね」
「ま、まあね。けっこう有名だし」
抱さんが少し怪訝そうな顔をした。花園高校は有名だし名門で通っているのは事実だ。だけど所詮は高校。有名大学のように名前が全国区へ広がることはまずない。知らない人は知らない、知る人ぞ知る名門。それが花園高校だ。
聞いた話だけど、花園高校の生徒で市外から来るのは大半が女子生徒なのだとか。共学にこそなったけど、知名度でいえばまだまだ『お嬢様高校』なのだ。
「花園高校は有名ですけど、それでも市外の人は未だに女子校だと思っていることが多いんですよ。ネーミングもさることながら、女子校時代の著名度のせいでしょうか……」
「うん。だから僕も共学になってたって聞いた時は驚いたよ。それもあるんだけどさ、花園女学院が悪いことで有名になった話があるから、それで花園女学院の存在は知ってたっていうか…………」
自分でも理路整然と話せているかは怪しかった。それでもそれとなく、地元民である抱さんに聞いておきたいことがあった。これは『義務殺人』を生き残るために必要なものじゃない。不要といってもいいかもしれない。それでも目の前に花園高校があるのも何かの縁だ。
僕はその当時、まだだいぶ小さかったから、ほとんど具体的な話を知らない。どうしてあの人が失踪したのか、どういう事件があって、あの人が失踪したのかを。
唯一知っていることは、花園女学院で起きた『何か』。その一番初めの出来事だということ。
「えっと、その悪いこと――悪い意味というのは…………わたしも聞いたことがあります。とても大変な事件が、当時の花園女学院で起きたと。何か、ある名前で呼ばれていた気がしたんですけど……」
「僕もそんな気がする。でも、思い出せなんだよなあ」
大人にとって六年前はさほど昔でもないのかもしれないけど、子供である僕たちにとって六年前は大昔だ。思い出せなくても無理はない。
デパートを目指す途中、何度か花加護中学の制服を着た生徒とすれ違った。学校からデパートに直行して、その帰りといったところだ。一度家に帰ってから着替えて出かける人もいるのか、私服を着た同年代の人も見かける。もうこの時間になると、制服を着てなくても大人に怪しまれるということはない。まだ僕は登下校時に大人たちから不審に見られるのに慣れていないから、それを少しだけ心配していた。
私服登校が一般的な小学生である肉丸くんや、見た目が小学生の抱さんには分からない悩みだ。遊馬くんや雲母さんほど大人びると、今度は堂々としすぎで不審な目で見るに見れなくなりそうだけど、僕はまだそこまで大人じゃない。
花加護中学の制服を着た女子生徒の集団とすれ違う。四人組だ。手に黄色いビニール袋を提げている。大方、新発売のCDでも買ってその話題で持ちきりなのだろう。
僕ももう少し勇気があれば、今頃そんな平和な生活を送っていたのかもしれない。……いや、違う。
『もう少し』以上の勇気が僕に備わってしまっていたがために、今僕はこうして『義務殺人』なんて更生プログラムに参加させられているのだ。
勇気なんて無い方が良い。
勇気と無謀を区分して、まるで知った風な説教をする人は多い。「勇気と無謀は別物だ~」って。僕に言わせればまるで『勇気』の本質を理解していない。
勇気も無謀も、同じものだ。
そこに違いなんて何もない。
他人の行いを無謀だと批判する人間には勇気が無い。
ある人物を勇気ある英雄だとたたえる人間に、無謀は理解できない。
勇気も無謀も、発揮した瞬間にすべてを失うという点に関しては一緒だというのに、どうしてみんな、勇気を欲しがる? 無謀を嫌う?
逆三角形を小さくして、女子生徒の集団とすれ違う。人見知りの激しい肉丸くんは、そそくさと僕の背後に隠れた。ただすれ違うだけの人に、そこまで人見知りしなくてもいいのに。
「………………?」
…………と、そう思いながらすれ違う女子集団を少しだけ見たところで、勇気とか無謀とかそんなどうでもいい思考はすべて停止した。
「……あれ?」
僕が目撃したのは、かつての知り合いにそっくりな人だった。
細い体躯と長い髪。さながらモデルのようなプロポーションで、四人組の女子の中では一際目立っている。大きな黒目が輝いて、もし目を合わせてしまったら、男性ならまず石になる。そんな魅力を秘めていた。本人がその内包している魅力に気づいていないのか、隠すことなく魅力が外へ溢れている。
向こうは僕の抱いた疑問を感じなかったのか、そのまま歩いて去って行った。そっちの方がお互いに好都合だったのもあって、僕は疑問を飲み込んでそのまま歩く。
人違いの可能性が大きかったのも、疑問を飲み込んだ理由のひとつだ。地元の知り合いが偶然同じ地域に引っ越してくる。その確率は天文学的な数字じゃないか? 三年も会ってないから、僕が人違いをしたと見るのが現実的だった。
それにまず彼女が地元の知り合いだったとして、僕が話しかけられるはずもない。僕が三年前に彼女に対してしてしまったことを思えば、そんな厚顔無恥な振る舞いが許されるはずもない。
九無花果。お前の面の皮は鋼鉄製か? そうでないと主張するのなら、たとえ通り過ぎた彼女が何者であって声を掛けるべきじゃない。
「…………花園女学院の悪夢」
それから抱さんと肉丸くんとは無言で歩いていたけど、デパートに入ったところで後ろから声が聞こえた。
「…………?」
「ほら、九さんの言ってた花園高校の事件、だよ。悪夢って呼ばれてた気がする」
「……悪夢」
「ぼ、ぼくも詳しいことは知らないよ。呼び方と、なんかすごい事件が起きたってことくらいしか、聞いたことないんだ」
それは肉丸くんの年なら仕方ないことだ。むしろ僕や抱さんの思い出せなかった花園女学院で起きた一連の事件の総称を、さらに年下の肉丸くんが覚えていただけ僥倖と言える。
「…………と、本題に戻らないとね。グローブだよね? じゃあ、スポーツ用品店に行けばあるのかな?」
「きっとそうですね。確か、用品店はこっちでした」
町の地理を把握できない僕に、デパートの地理など把握できる筈もなく、抱さんの案内に従ってスポーツ用品店を目指した。ちらほらと花加護中学の制服を着た生徒や、それ以外の制服を着た生徒の姿を見かける。といっても男子の制服はほとんど学ランだから、花加護中学の制服との区別は女子の制服を見てつけていた。
「しっかし、ほんとにいろんな店があるな。僕が引きこもっていた三年の間に、いったいどれだけ世の中は進んでるんだろう」
「三年じゃあまり変わらないと思いますけど、それでも無花果さんは浦島太郎みたいな状態なんでしょうね」
三年前には名前も聞かなかったようなチェーン店が数多く見られた。鉄板焼き専門の飲食店や唐揚げ屋なんか、名前を聞かないどころの話じゃない。それ専門で商売として成立しているのか、僕には理解できない。
「……でも抱さんも肉丸くんも、赤ペン教室にいるってことは不登校の引きこもりなんだよね。じゃあ僕と大して状況は変わらないと思うけど…………」
「べつにぼくは…………学校休んでたけど、引きこもってたわけじゃないから」
「わたしもそうですね。赤ペン教室にいる生徒は全員が不登校児ですけど、決して全員が引きこもりというわけではないと思いますよ。阿比留さんなんて、引きこもっている姿を想像できません」
「ああ、そうか」
僕が引きこもりというのもあって、そこは勘違いしていた。そうそう。鴨脚さんは不登校ではあったけど、引きこもりではなかった。『No’s』というアイドルの追っかけをしていたんだったっけ。御手洗くんも不登校児だけど、古今東西の事件を調べてたんだった。
「それに引きこもりだからといって、外部の情報を全てシャットアウトするとは限りませんよ。今はネットがありますから、外部の情報を知らないのって、難しいと思います」
「……むしろ引きこもりって、大半の時間はネットしてる」
それも勘違いのひとつだ。引きこもりだからといって何もせずにゴロゴロしていたのは本当に僕くらいなのか。
「なんか気になるな…………みんなが不登校してた間、何してたのか」
こうして自分の例がイレギュラーだと分かると、切実に。どうせこのまま何事もなく1年を過ごしたところで今まで通りの引きこもりはできそうにないから、みんなの普段を参考にしようかな。
「あ、着きました」
抱さんに案内されて到着されたスポーツ用品店は、デパートの2階に大きなスペースを持っていた。野球やサッカーの用具の他、スキー用品も置いてあった。それでも僕はうっかり、この店を見たときに服屋だと思ってしまった。
店の正面に服が置かれていたのが原因だ。それもスポーツウェアではなく、普通のファッションがマネキンに着せられている。
「ここで合ってる?」
「ええ…………あっ」
そこでどうも、抱さんが僕の疑問に気付いたらしい。正面にある服と、僕の質問で事態を理解するあたり、頭の回転がかなり速い。マネキンを指差しながら、抱さんが説明してくれた。
「あれはランニングウェアですよ」
「え、そうなの…………?」
言われてよく見ると、素材は確かにスポーツウェアのようだ。デザインもファッション性があるものの、比較的シンプルにまとまっている。これでランニングをしても、さほど動きにくいとは思わないだろう。
「最近はマラソンやランニングがブームなんです。それで女性向けに、こういうデザインのものが作られているんです。男性用のデザインもありますよ」
「へえ。今時、何が流行るか分かったものじゃないな」
そんな誤解や勘違いの連続を何とか抜け出して、お目当ての野球用品売り場へと向かった。スポーツ用品店というのもずいぶん僕がイメージしていたものと違って、今はデザイン性重視なのか、あちこちと見ていると本当にスポーツ用具なのか怪しくなるものも多々あった。
僕にとってスポーツ用品店は、あまり縁のないものだった。少しの間やっていた少年野球だって、道具は全部借りてやっていた。それくらい少しの間しか、野球はしたことがなかった。
「グローブは、この辺りか」
お目当ての野球用具売り場に着くと、まず目についたのは大量のバット類だった。たくさんの種類があるみたいだが、僕には金属製と木製くらいしか違いが分からない。値段も安いものからとても子供には手の出させないくらい高価なものまで千差万別だ。これだけ大量にあっても、僕には用途が思いつかない。
思いつかないも何も、バットは野球をするためのものだ。でもこれだけ本数が揃っていると、何か別のことにも使えるのではないかと思えてくる。
でも今回選ぶのはグローブだ。いくらなんでもグローブはここまで種類が多くないだろうと思ってグローブ売り場を見ると、体が固まった。
バットよりグローブの方が数が多いじゃないか。壁中にグローブが掛かっていた。なんだこれ。スパイ映画で壁中に銃器が掛かっていた映像を見たことがあるけど、この光景はそれと同じくらいの迫力があった。
「弟は左利きなんです。だから、この中の全てが選択範囲ということは無いと思いますが…………」
「そ、それは幸いだね」
つい声が裏返りそうになる。幸い、左利き用のグローブが置かれているのは隅の方で、全体の二割くらいのスペースだ。これは幸いと言うほかない。かじった程度しか野球を知らない僕とど素人の抱さんや肉丸くんでは、冗談でなく選ぶだけで日が暮れてしまいそうだ。
…………全体のスペースの二割とはいえ、そこには五十種類くらいのグローブが掛けられていたのを含めても、幸いだ。
「…………あ、あそこ」
肉丸くんが急に声を出してグローブ売り場の、まさに僕たちが用のある場所を指した。そこではさっきまで壁一面のグローブに呆気にとられて気づかなかったけど、ひとりの少年がしゃがみこんでグローブを検分していた。後姿ではあったが、それが誰かは言われるまでもなく分かった。
「……手縄さん、ですよね? どうしてこんなところにいるんでしょう」
手縄くんはこちらの会話が聞こえたわけではなさそうだが、気配で気づいたのだろう。こちらを向いた。格好は学校にいた時と変わっていない。学校が終わってから、僕たちと同様にここまで直行したようだ。
「お前ら……どうしてこんなとこにいるんだよ」
それはこっちの台詞だと思ったが、手縄くんの疑問も当然のことだ。野球少年であることが明白な手縄くんがスポーツ用品店にいたところで何の疑問もない。鴨脚さんがCDショップにいるくらいしっくりくり光景だ。
逆に手縄くんからすれば、スポーツに縁のなさそうな僕たちがここにいるのが不思議なのだ。加えてこの3人パーティは手縄くんからすれば関係性が分からなくてちぐはぐしたものを感じるに違いない。雲母さんが遊馬くんと御手洗くんを連れ立ってCDショップにいるような場違い感を覚えるのだろう。
…………自分で言ってみて、そのトリオがCDショップにいる光景を想像してしまった。そんな3人組に遭遇したら、僕だって不審に思う。
「弟のプレゼントを買いに来たんです。明さんこそ、どうしてここに?」
「オレはただ、時間を潰してただけだ。それにそろそろ、グローブを買い換えようかって思ってたところなんだ」
手縄くんはここで僕たちと遭遇したのが気まずいのか、目が泳いでいる。なにかやましいことでもあるのかと一瞬勘ぐってしまったが、すぐに違うと直感で分かった。
学校じゃない場所でクラスメイトを見かけたときに生じる、声をかけるか否かという二択。彼は確実に『声をかけない』派の人間だということだ。公私の切り替えが激しすぎて、こういう場所でクラスメイトに会うと対応に困るのだろう。僕も似たようなタイプだから、手縄くんの気持ちは分からなくもなかった。
大量に置いてあったバットと手縄くんの様子が重なってしまって、不穏な想像を危うくするところだった。
「……弟のプレゼント? 抱、お前弟がいたのか?」
「はい。明さんと同じ左利きなので、できたらグローブ選びを手伝ってほしいのですが……」
抱さん、ここぞとばかりに手縄くんの懐柔を図ったな。きっとさっきの様子を見て、御しやすいと判断したのかもしれない。想像以上に計算高いなこの子は。
手縄くんの利き手という、彼がまず抱さんに教えていない情報をさりげなく織り込んで話すのも彼女なりの交渉テクか。手縄くんのプライベートな部分に滑り込んで、精神的な距離を縮めにかかっている。左利き用のグローブが掛かっている場所でグローブを検分していた彼が、まさか右利きということはあるまい。
「……オレ、お前に利き手のこと話してたか?」
「え、ええ。つい数日前に」
見事に引っかかったー! 手縄くん、そこまでクリティカルに引っかかるとは思ってなかったよ。抱さんもそんな架空の会話をでっち上げるところまではさすがに考えてなかったはずだ。その証拠に、抱さんの反応が遅れた。彼女的には、内心で多少の距離を縮めてもらえばそれでよしくらいだったのに。
他人の利き手なんて知ろうと思えばどうとでも知ることのできる情報だ。手縄くんも可能性のひとつとして『自分が抱さんに話した』という線を確認したかっただけかもしれないが、そこを抱さんに掬われる形となった。
「…………? お前ら、怖くねえのかよ」
「…………何が?」
おそるおそる、という言葉がピッタリだった。手縄くんは唐突にそんなことを口にする。
「どうせ清司の野郎がペラペラ喋ったに違いねえんだ。隠すこたぁねんだぜ?」
「…………『草霞野球団の一件』のことを言ってるんだね? 手縄くんは」
「そうだよ。それについて、清司があることないことお前らに吹き込んじまったんだろ?」
「えっと、明さん、何のことですか?」
そこでようやく、僕は手縄くんの気にしていることを理解できた。抱さんと肉丸くんは相変わらず頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいそうな顔をしていた。
『草霞野球団の一件』。詳しくは知らないが、手縄くんはその事件の主犯とみて間違いない。そしてその事件が手縄くんの心を縛り付けているということも、同様に確かだ。
ひとつの事件で、それまで自分になされていた評価が百八十度ひっくり返るなんてこと、珍しくとも何ともない。彼もまた、そういう他人のどうでもいい評価に振り回された人間だったということか。
彼がクラスの誰とも深く関わろうとしないのは性格だけの問題ではないし、初日の発言が禍根を残し続けているというだけの問題でもなかった。他でもない彼自身が、もっと別のところで他人を避けていた。
「君も経験があるってことかな。そういう、ひとつの事件で全部が『ひっくり返る』っていう…………」
「……なんだよ、お前もなのかよ」
だから過剰に、御手洗くんが何かを吹き込んだのではないかという疑心暗鬼に捕らわれていた。どれだけ人間関係を築き上げても、その事件の過去を露わにされれば全てが崩れる。きっと彼は、そういう経験をしてきている。
僕はそんな経験をする前に引きこもったから、実体験はない。それでも、想像はできた。少なくともこの場にいる誰よりも僕は、鮮明にイメージできたはずだ。
「…………どういうこと?」
「あんまり深く聞いちゃいけないこと」
肉丸くんの投げかけた疑問を、抱さんは大人の対応でかわした。肉丸くんも疑問は晴れなかっただろうけど、そこで疑問を引っ込めた。
抱さんは手縄くんの方を向いて、優しく諭すように話しかけた。
「明さん。わたしは明さんの事情を詳しく知りませんよ。それに、清司さんは他人のプライバシーに関わるようなことを軽々と話したりしません」
「…………そうだといいな」
手縄くんはバツが悪そうに受け答えした。なんだか拗ねているみたいな反応だ。このやり取りを見ていると、手縄くんが抱さんより年下に見えてきた。手縄くんの方が外見は年上そうなのに。
そして実際にはふたりとも、同い年である。
「…………なんか悪ぃな。気分の悪い話しちまって。オレも学校ってのが久々過ぎて、どうしたらいいのか分かんねえんだ」
「それなら、クラスの全員がそうですよ。みんな学校が久しぶり過ぎて、どうしたらいいのかって感じです。ですから、深く考えずに自分らしくしていたらいいと思います」
「……そうだな。…………っと、グローブ選ぶんだったな? それならオレに任しとけ!」
「………………」
手縄くんもまた、理由があって不登校になっている。それを思えば、初日に彼のした発言も、少しだけだけど理解ができる。彼はきっと、焦ってたんだと。
このままじゃ駄目だと思っても、表に出れば過去の事件を指摘される。それを避けるためには引きこもる以外にない。そんなジレンマを抱えていた彼は、この『義務殺人』を利用するくらいしか、打開策が思いつかなかったのだ。
本当は他にも、打開策はたくさんある。それは抱さんが教えてくれた。
一年間誰も死なないように過ごす。願う以外の方法が思いつかなかった、奇跡を待つしか方法を思いつけなかったことが、少しだけできるような気がした。一緒にグローブを選ぶ手縄くんと抱さんの背中を見て、そう実感した。
「……………………変わらないといけないのかなあ、なんだかんだ言っても」
人が人を殺さない難しさは重々承知。それでも、だからといって全てを諦めるには早すぎるということか。
その翌日、僕は学校を休みたかった。
「…………」
わざわざ遠回りして三十分はかかる通学路を歩いたところで、限界を超えそうになっていた。
今更引きこもりが再発したとか、そういうことではない。
いわゆる体調不良である。
ルールに沿えば体調不良の欠席は認められている行為だ。僕も本来なら学校を大っぴらに休めるはず。 しかしそれは理論上の話であって、感情的な話は別問題だ。
「……いやさ、学校大好き! ってわけでもないけど」
『ルールを破った場合、生命の保証はできない』。赤ペン先生が初日に背面黒板へ書いた内容が、心に突き刺さった。僕はルール違反をする気もないし、事実病欠はルール違反じゃない。それでも、どういう思想で動いているか分からない連中の仕組んだプログラムだ。ルール違反じゃなくても『見せしめ』という名目でルール違反に仕立て上げられて殺されるという可能性がある。
間違いなく考えすぎだ。あまりにも無駄な心配だ。それは分かっている。分かっていても、休むことを僕の感情は良しとしなかった。それだけ、死ぬのは僕であっても怖いということだ。
なんとか教室にたどり着いて、自分の席に腰を落ち着けた。昨日のこともあって、何となく手縄くんの席を見た。彼の姿はない。教室にいないというか、まだ登校していないみたいだ。机の横に鞄は無かった。
「どうした無花果、調子が悪そうだな」
「…………そういう御手洗くんも、少し不調そうだよ」
話しかけてきたのは御手洗くんだった。彼は彼で、目の下にくまをつくっているし、顔色も少し悪かった。
「俺は少し寝不足なだけだ。少し調べ物に夢中になっていたら、夜更かしをしてしまった。普段は寝ているような時間まで起きているものじゃないな」
「そうだね……それに、学校が始まってから一週間もするから、そろそろ疲れが出始める頃だと思う」
既に登校しているクラスメイト達を見ても、それははっきりした。慣れない通学をいきなり一週間も続ければ、疲れが出てくる。今日は金曜日で、明日明後日が休みなのが助かる。
あの赤ペン先生も、休日に出てこいとは言わない。
「お、おはよーございます」
後ろの方の扉からこそこそ入ってきたのは肉丸くんだった。普段の彼なら僕が登校してくる頃には既に教室にいるのだけど、どうしてか今日は僕の方が早かった。
それともうひとつ気になることがあった。肉丸くんの格好だ。彼は青いジャージを着ていた。普段着じゃなかった。
制服が無いように、僕達には統一された体操着も無い。それどころか鞄も靴も統一はされていない。そういうわけでそれぞれ運動用の服装を準備している。肉丸くんが着ているのは彼が体育の時にいつも着ているジャージなのだ。金曜日の二時間目は体育だけど、今から着替えたってことはないだろう。
「どうしたの、その恰好」
「うん、ちょっと、ホースで花に水をやってたら、うっかり自分に水かけちゃって」
それで着替えたのか。まあ、肉丸くんらしいと言える理由だ。
朝のHRの始まりを告げる鐘の音が聞こえた。御手洗くんと肉丸くんはそれぞれ自分の席に着く。体調不良のせいでいつもより学校に着くのが遅かったらしい。普段より鐘が鳴るのが早いような気がする。言うまでもなく鐘がなる時間は毎日同じだ。気まぐれに早くなるということはない。
鐘の音と同時に、雲母さんが素早く現れて席に着いた。この光景も慣れたものだ。彼女はいつもギリギリに現れる。どうしてそんなことをするのか、僕には少し分からない。
「………………?」
全員が着席したところで、ひとつだけ席が空いているのが嫌でも目立った。手縄くんの席だ。彼はまだ、来ていなかった。
彼も一週間の慣れない登校に疲れて、ついに体調不良になってしまったのだろうか。……いや、彼に限ってそれは無い。三年間ダラダラ引きこもっていた僕ならまだしも、あれだけ野心をむき出しにしていた彼だ。きっと不登校中も野球のトレーニングを積んでいただろうから、体力不足なんてことは考えにくい。
抱さんが心配そうな顔つきで僕の方を見てきた。グローブを手縄くんたちと選んで買った後、抱さんは肉丸くんと、僕は手縄くんと帰った。その時の手縄くんの様子を思い出しても、特に体調が悪そうには見えなかった。それもまた、彼が休んでいることを不審に思う理由のひとつだ。
体調なんて悪くなる時はあっという間だ。僕自身、昨日は何ともなかった。だから昨日の様子なんて当てにならないかもしれない。それでも、彼が休むというのを不自然なことだと捉えてしまう。
「はい、HR始めまーす」
赤ペン先生がいつものように、羊羹を齧りながら入っていた。きっと好物なんだろう、羊羹。よく見るとその羊羹は白色にところどころ濃い緑色の入った、変わった羊羹だった。
「っていっても、何もないんですけどー」
赤ペン先生はそんなことを呟きながら、それでも一応連絡事項が無いか確認しているのか、手に持ったノートをめくっていた。
…………え、今、何もないって言ったか? 手縄くんが休んでいることを、特に何もないと。
赤ペン先生のその言葉は、どう捉えたらいいんだ? でも、ひとつだけ言えることは、彼がずる休みではないということだ。ルール違反であるずる休みを赤ペン先生が見過ごすなんて思えないし、それを『何もない』と表現するなんてこともなさそうだ。
できればその辺を赤ペン先生に追求したかったけど、僕の体調がそれを許さなかった。言葉を発する気力もどんどん削がれていく。抱さんや遊馬くんが聞いてくれるかとも思ったけど、予想に反してふたりとも何も聞かない。ただの体調不良と判断したのかもしれない。
そのまま一時間目に入って、各自教材を進めた。年齢がバラバラの赤ペン教室では道徳や体育といった教科はまだしも、国語や数学のような主要教科の授業を全体で行うということはできない。年齢ごとに教材が用意されていて、それを各自で進めていくという個別学習型のスタイルを採用していた。赤ペン先生は教室を回りながら生徒の質問に答える。
金曜日の一時間目は英語だ。理科や社会といった小学校教育の下地が重要な教科はさっぱりできなくなってしまった僕だけど、下地も何も一から覚えないといけない英語は覚えれば覚えただけ身についていくという状態だ。一週間やったけど、どの教科よりもやりやすい。
そんな英語でも、調子が悪いとなかなか思うように進まなかった。頭の内側からじわじわと痛みが襲ってきて、集中できない。考えようにも途中で何を考えているのか分からなくなってくる始末だ。
ちらりと、隣の雲母さんを見た。彼女は今日も今日とて表情ひとつ崩すことがなかったけど、その涼しげな表情に反してペンは一向に動いていない。その原因は彼女も体調不良だからというのではなく、英語が苦手だからだそうだ。
「わたし、英語苦手なのよ………………」
「………………っ!」
おとといの彼女の呟きである。外国人の血が半分は入っていると思われる彼女だけど、どうも海外在住の経験はなかったみたいだ。人は見かけによらないとはまさにこのこと。
ハーフっていうか、ほぼ外国人みたいな外見で何をおっしゃる。
どうにもやる気の無くなった僕は、ただ時間が過ぎるのを時計を見ながら待つだけだった。いつもならあっという間に過ぎていく四十五分間も、ただ待つだけとなると永遠に感じる。引きこもっていた間は一日があっという間に過ぎていったのに、どうして今は四十五分すら流れるように過ぎ去らないのか。
金曜日の一時間目。この一日を乗り越えれば明日から休みだという期待感と、早く一日が終わってほしいという渇望感。それは当たり前の感情だったけど、えらく久しぶりなものだった。僕は三年間、こういう思いとは縁が無かった。
ちゃんと学校に通っているという実感が、そこにはあった。
どれだけ時の流れを永遠に感じても、永遠なんてものはこの世界のどこにもない。かくして、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。校舎の大きさに反して人が少ないせいか、建物中に鐘の音が響いた。
「はい、一時間目終わりでーす。次は体育だから遅れないでね」
赤ペン先生はそそくさと教室を出てった。赤ペン先生が授業後に教室に残ることはほとんどない。生徒だらけという空間は、いくら教師への攻撃を禁止するルールがあったところで赤ペン先生にとって危険であるには違いない。その危険地帯からさっさと逃げ出してしまう赤ペン先生の行動を見ていると、言動はふざているようにみえて、危機管理能力は優れているのがうかがえた。
「あーあ、体育かあ。メンドクサイなー」
そう言いつつも鴨脚さんは着替えの入った袋を手にとぼとぼと教室を後にした。女子は体育館にある更衣室で着替えて、そのまま体育館でバスケをするんだったっけ? 男子は運動場でサッカーだ。体育は男女で分かれて、男子の監督は赤ペン先生が、女子の監督は鴻巣先生が行うことになっている。
本来なら僕もさっさと着替えて運動場へ行くべきなんだけど、それは無理だった。
「遊馬くん、僕は保健室に行ってるから、赤ペン先生にそう伝えておいてくれないかな」
「…………ああ。体調不良か?」
赤ペン先生への連絡は遊馬くんに頼んだ。別にそういう決め事があったわけではないけど、彼は既にクラスの委員長的なポジションに収まりつつあった。その冷静な態度と印象が、自然と彼にそういう役回りを与えているんだろう。彼は彼でそういう役割が回ってくることに、何も感じていないようだ。慣れたもの、というやつか。
「うん、どうも気分が…………」
「分かった。僕が先生に言っておこう」
言うべきことは言ったので、さっさと保健室を目指して教室を出る。自分の行動に余計なところが無いのを見ると、体調の悪化がピークに達しているのが分かった。余裕が一切ない。
保健室は校舎の一階、東側昇降口の近くだ。校舎1階の中央昇降口から東側昇降口の間には、職員室と校長室と保健室、それから印刷室しかない。
印刷室。最初に聞いた時はどんな部屋なのか想像ができなかった。印刷室と言うからには印刷をする部屋なのだろうけど、学校と印刷が結びつかなかった。
後から聞いた話だと、コピー機や印刷用の紙が置かれた部屋なのだとか。そんなもの、僕の通っていた小学校にはなかった。
「…………なんだこれ」
中央昇降口の近くを通ったところで、思わず声が出た。それくらい、どうしてこうなったのか理解に苦しむ光景がそこにあった。
嵐でも過ぎ去ったのかと思うくらい、中央昇降口が水浸しだった。
よく見ると水気は、僕が歩いている辺りまであった。床は雑巾で拭いたみたいだけど、僅かに湿り気が残っている。それに比べて、昇降口の靴脱ぎの辺りは惨状だ。あちこちに水溜りができてしまっている。
肉丸くんが水やりの最中に自分に水を撒いてしまったと言っていたけど、その余波がこういう形で残っているということか。それにしても酷いな。正面に見える花壇の周辺にはまったく濡れた様子が無いのがシュールだ。どういう水やりの方法を取ったら、昇降口だけ濡らすことができるんだ?
重なる疑問はいったん置いて、保健室へ入った。鴻巣先生はもう体育館へ向かったのか、保健室には誰もいない。
保健室にはベッドがふたつあって、ふたつとも空いていた。手縄くんがここにいるということはなさそうだ。本当に彼は、どうして休んだんだ。
ふたつあるベッドの内のひとつに倒れこんで、そのまま目を閉じた。保健室に限らず病院に特有な、薬品の臭いが鼻をくすぐる。こういう臭いを嗅ぐのも久しぶりに違いないけど、どうも久しぶりという感覚は無い。
三年前から一定期間、嫌というほど嗅いだ匂いだ。3年ぶりでも、久しぶりなんて思えなかった。できればもう嗅ぎたくない。
薄く目を開けて保健室の白い天井を見ると、あの頃の嫌な記憶を思い出してしまった。強く目を閉じて、もう二度と見ないようにする。それでも一度思い出したものは急には消えない。それどころか芋づる式にあの頃の記憶が蘇ってくる。
思い出したところで何も変わらないというのに。
三年前の『先生』の死が僕たちに残したものは、確執だけだ。
なぜ先生は、あんなことをしたのか。
三年間何もしていない僕ではあるけど、それでもゴロゴロしている間に考えてしまうことはある。その中のひとつに、その問いがあった。
どうせ考えたところで答えは出ない。答えを唯一知っている先生はもう生きていない。先生の周囲にいた人たちも、まるで心当たりがない。あの先生があんな行為に及ぶとは、誰も予想できなかった。
だからこそ僕は知ることになったのだ。人が人を殺さない難しさを。
それから次々と思い出したのは、どうでも良くは無いけど、どうしようもないものだった。
今頃あいつらはどうしているのかとか、もし六年前に『あの人』が失踪していなかったら、こうはならなかったんじゃないかとか。
所詮人生は結果論だ。昔のことを思い出してどうのこうの言っても何も解決しない。それでも、考えずにはいられない。僕自身にとってのハッピーエンド。過去の悪い思い出を全て消し去ってしまったとするなら、どういう今が待っているのか。
三年前、僕が先生を殺さなかったら。そもそも、僕が先生を殺さずに済んでいたら。そんなどうしようもないことばかり、頭をよぎる。
「………………?」
そんな感傷的なこととは別に、もうひとつの感覚が僕の頭に渦巻いた。
既視感。
保健室なんて学校に病院がくっついているようなものだから、三年前に飽きるほど病院にいた僕が既視感を覚えるのは自然なことだ。でもこれは、保健室が病院に近いから感じる既視感じゃない。
「なんだこれ…………?」
体がふわふわする。過去に来たことなんて無いはずの北花加護中学に感じる既視感が、僕に不安を与える。何が原因なのか、まったく分からない。どうしてこんな、懐かしい感じが…………?
休みたかったところだけど、こうも保健室に既視感があると体が警戒してしまう。どこに原因があるのか、うまく働かない頭で考える。
何が、を探している時点てどうにも上手くいくものじゃない気もする。既視感、あるいは懐かしいなんて感覚はひとつの物で印象付けられるものじゃない。保健室にかつて僕の使っていた何かが置いてあったところで、その物に『懐かしい』と思っても保健室には『懐かしい』と思わないはずだ。
それでも僕は偶然に、懐かしい物を見つけてしまった。それは保健室にある机の上に置かれていた、鶴の折り紙だった。
見慣れていない人が見るとびっくりして引っくり返るかもしれない。その鶴は、三つの首を持っていたのだから。僕はその鶴に見覚えがあったから、引っくり返りはしなかった。
ここでその鶴を見つけたことに、驚きはしたが。
その三つ首の鶴は、本当に一枚の紙で折られているのか疑ってしまうくらい、自然な仕上がりだ。普通の鶴の折り紙に、ふたつ首を付け足したような、そんなデザイン。
三つ首の鶴なんて気味が悪い題材にも関わらず、一種の神々しさすら漂わせていた。
この鶴は、『あの人』の最も得意とする折り紙だ。どうしてこんなものが保健室の机の上に置いてあるのか、理解ができなかった。でも考えてみれば、ごく自然な答えが見えてくる。
「鴻巣先生が、折ったのか」
机の上には未使用の折り紙もあったし、他の作品も置かれていた。三つ首の鶴なんてレア度も難易度も高い折り紙だから勘違いを起こすところだったけど、別に『あの人』じゃないから折れないということはない。これは『あの人』のオリジナルではなく、ある著名な折り紙作家が作ったものだと、他でもない『あの人』が言っていた。その作り方は本に載っていて、それを見て覚えたのだとも、彼女は言っていた気がする。
そして鴻巣先生の机の上にも、折り紙のレシピ本があった。三つ首の鶴の製作者が誰だったか忘れてしまったので、そのレシピ本の編集者と同じ名前かは分からない。それにそのレシピ本は、『あの人』が持っていた本とは違うみたいだ。
ペン回しをしていたところからみても手先が器用そうだったし、こういうのを鴻巣先生は得意にしているのかもしれない。それだけの話であって、決して先生が『あの人』ということはないはずだ。
折り紙ひとつを根拠にそんな邪推を膨らませるのも馬鹿馬鹿しい。鴻巣先生、『あの人』とは似ても似つかないじゃないか。万が一そうだったとしても、僕に正体を隠す理由が分からなくなる。
『あの人』は今、一体どうしているのか。失踪も六年が経過すると、死亡の可能性が濃厚だった。僕はそんな可能性、信じたくはない。
あまりにも理不尽だ、と思う。
不幸が続きすぎる。
僕に対しても、あいつに対しても。
「…………い、おい、無花果!」
くぐもった声が、窓側から聞こえた。そこで僕の思考は現実へと戻されていく。
今は体育の授業中で、僕を外から呼ぶその声の主はサッカーに勤しんでいるはずだ。そう思いながら窓側を向くと、五百蔵くんが窓を叩きながら僕の名前を呼んでいた。
「無花果、そこの扉を開けてくれ」
「…………扉?」
五百蔵くんの声は籠って聞き取りにくかったけど、保健室の窓は防音加工を施されてはいない。僕の聞き間違いでなければ、五百蔵くんはそこの『扉』を開けてくれと言ったようだ。
『窓』じゃなくて『扉』?
その言葉の、聞き飛ばしたってどうでもいいような語彙の選択ミスが気になったが、すぐに分かった。
保健室の南側。ガラス窓がたくさん並んでいるところの左隅に、確かに扉があった。別に何かの物陰に隠れているということも無くて、しっかり扉が存在していた。
保健室に入る際にも、それは見えたに違いない。それでも気づかなかったのは、僕の不注意だ。
体調不良とはいえ、どれだけ不注意なんだ。体調がすぐれない時に車の運転をするなとはよく聞く話だけど、こういう理由か。
その扉は上半分にガラス窓が付いていて、五百蔵くんが叩いていたのはそこ窓ガラスだった。…………あれ? よく見ると五百蔵くんだけじゃない。遊馬くんと、担がれているのは肉丸くんか? どうしたんだろう。
ドアノブを回す。鍵がかかっていて開かない。あくまで確認だ。開錠したつもりが実は施錠してましたなんて、笑えない天然ボケエピソードを追加しないための対策だ。
鍵を解除して、ドアを開けた。靴を脱いで五百蔵くんたちが入ってきたところで肉丸くんをよく見ると、全身砂だらけだ。どういうラフプレイの結果がこれなのか、想像が難しい。
「悪いな枇杷。変な転ばせ方しちまって」
「う、ううん。大丈夫だから」
肉丸くんの負傷の原因は、五百蔵くんにあるらしい。五百蔵くんの着ているピンバッジの大量についたジャージはほとんど砂がついていないから、お互いが衝突したというよりは、五百蔵くんの脚にでも肉丸くんが引っかかって転んだと見るべきか。
それにしても五百蔵くん、そのピンバッジを大量につけるのはいかがなものか。運動する格好がそれでは危ない気がする。普段着のパーカーも同様にピンバッジだらけだし、何かの信念かな。
肉丸くんの着ていたジャージは上下とも袖が長かったから、擦り傷はないみたいだ。それでも酷い転び方をしたらしく、あちこち痛そうにしながらベッドに腰掛けた。特に足が痛いみたいだ。軽く引きずっている。
「何があったの?」
「ああ。五百蔵くんが肉丸くんを転ばせたんだよ」
遊馬くんが僕の疑問に答えた。彼は付き添いというわけだ。
「あれは酷い転び方だったな。空中で一回転していたぞ」
「それは…………酷いね」
普通の転び方でないのは確かだ。五百蔵くんと肉丸くんの体格差だと、あり得ない話じゃない。肉丸くんは大抵の男子とぶつかれば吹っ飛びそうだ。
「僕は鴻巣先生を呼びに行こう。五百蔵くん、君はもう戻ってもいいぞ」
それだけ言ってさっさと遊馬くんは出入り口で靴を履き直すと、体育館の方へと走った。五百蔵くんも言葉の通りに従って、靴を履くと遊馬くんが走って行った方向とは反対側へと消えた。体育館は東側だから、遊馬くんは保健室の中から見て左側へ、五百蔵くんは運動場へ向かうから右側へと消えた。
運動場へ向かうには、西側昇降口近くの道を通る以外の手段が無い。東側昇降口と中央昇降口の近くには運動場に通じる道が無く、全て木で塞がれている。校舎と並行して植えられた木々が、運動場との壁になっていた。
まだ東側昇降口の近くに運動場に通じる道が無いのは分かる。どうも東側の昇降口は、職員用に設計されているらしいのだ。他の二つの昇降口とデザインが違うし、何より東側昇降口と体育館・プールの間にある駐車場が決定的だ。
しかし中央昇降口は生徒用に造られているみたいだ。それなのに、運動場へ通じる道が無い。その結果五百蔵くんは運動場へ戻ろうとすると、西側昇降口までの迂回を余儀なくされる。
保健室に外から入れるように扉を造っているくせに、運動場から保健室へのアクセスは最悪だ。欠陥だ。
ふたりを見送った後で、再びベッドに戻って腰を下ろした。肉丸くんは自分で救急箱の中から湿布を探っていた。救急箱の中身は湿布や絆創膏、消毒薬やガーゼなどが入っているが、どこか物足りなさを感じる。しばらく考えたところで気づいた。内服薬だ。内服薬が存在しない。風邪薬や解熱剤といった類の薬が救急箱には一切入っていなかった。傷を手当てするための薬はたくさんあるくせに。
「…………なんで無いんだろう、内服薬」
「…………九さん、てっきりもう気づいてると思った」
ジャージの上を脱いで半袖シャツ一枚になった肉丸くんが、慎重に湿布のフィルムを剥がしながら言った。
もう気づいているっていうのは、僕が体調不良で一足先に保健室にいたからだな。風邪薬か解熱剤でも僕が飲もうとすれば、当然この救急箱の中身を見ていただろうし、薬が入っていないことも気づいただろう。だから肉丸くんは、僕がとうに救急箱の中身の違和感に気付いているとおもったのだ。
実際には薬を飲むという発想すら、僕にはなかった。だから今気づいた。
「くわしい話は知らないけど、学校じゃ市販の風邪薬も出せないみたいだよ。アレルギーの問題、かなあ」
「そんなルールが、いつの間に…………」
僕が引きこもっている間に、決まっている。
いや、でも、やっぱり変だな。『義務殺人』をルールとして生徒に課しているこの北花加護中学で、そこだけきっちり通常の学校のルールを適用しているというのが。毒薬のひとつやふたつくらい、鍵をかけてでも保健室においてありそうだと思っていた。
「地下室になら、あるかも」
「え? 地下室あるの?」
考えに耽っていたら、肉丸くんから衝撃の事実が飛び出す。地下室?
肉丸くんはその事実を特に重大とは考えていないらしく、慣れた手つきで湿布を貼りながら、僕に話してくれた。
「うん。東側昇降口の近くに、地下へ下りる階段があるんだ」
「そこに薬が?」
「たぶん。でも、扉は古めかしい感じだけど、鍵が、どう見ても機械なんだよね。カードキーとか使いそうなやつ」
そこには、何が? でもたぶん、赤ペン教室、ひいては『義務殺人』の重大事を記した何かが見つかるってことはないはずだ。そんなものをこの学校に保管するとは思えない。それよりは、もっと現実的に必要だけど、重要なロックも必要なもの。
実際に殺人が起きた時、活躍する何か。
「そういえば校舎の四階にも変な場所があったな。肉丸くん、何か知ってる?」
「えっと、校舎って、三階建てじゃなかったっけ?」
肉丸くんは僕の方を見て首をかしげる。完全によそ見をしているのに、湿布を貼る手つきは止まらない。よほど慣れているのか、湿布張り。
「中央だけ、四階建てなんだよ。そこに会議室っぽい扉があるんだけど、僕が見た時は鍵がかかってた」
「会議室なんじゃない、それなら」
もっともなことを言われた。
「職員室も校長室も鍵がかかってたし、生徒の用が無い場所は基本的に鍵をかけてるのかも」
「あるいは、殺人事件が起きると困る場所とか、か」
どの道設備の破壊を禁止されている身としては、実際に中へ押し入って何があるのか確認を取れるわけもない。僕には謎を何でも解きたがるような探偵気質なんてないから、どうでもよさそうならそのままにもしておける。
ふたりで校舎に残る謎について話していると、突然保健室の扉が開かれた。勢いよく開かれたにしては、音はそこまで大きくなかったのが幸いで、あまり驚かなかった。それでも肉丸くんは盛大に驚いて、今まで一度も止めていなかった湿布を貼る手を止めてしまう。
「な、なにっ……!」
「ふたりとも、鴻巣先生を見なかったか?」
顔を覗かせたのは遊馬くんだった。東側昇降口から来たのか、足元は靴下だけで上履きを履いていない。
「鴻巣先生? 体育館には……」
「いなかったんだ、それが」
困ったように遊馬くんが首を左右へ振った。
「阿比留さんに聞いたところ、途中で抜け出したんだと。どこか、体育館以外の場所にいるみたいだ」
「それは、変だな」
鴻巣先生の性格なら、体育を途中でサボタージュも考えられなくもない。でもあの人も教員でプログラムの工作員だよな。そんな立場にいながらそこまで緊張感の無い真似をする人とも、僕には思えない。
「僕も探すのを手伝うよ」
立ち上がって、体調を確認する。しばらく休んだおかげて、ほとんど回復している。やはり疲労から来る不調だったみたいだ。この分なら、もう動いても大丈夫だ。
「肉丸くんは鴻巣先生が帰ってくるかもしれないから、ここで待ってて」
「うん、分かった」
僕は遊馬くんと一緒に保健室を離れ、鴻巣先生を探すべく動いた。重厚そうな扉――たぶん校長室の扉だと思われるそれを通り過ぎて中央昇降口まで来たところで、遊馬くんの足が止まった。
「なんだ、これは?」
遊馬くんが足を止めた理由は、廊下の水気だった。そう、肉丸くんが自分に散水した余波だ。中央昇降口だけじゃなく、付近の廊下も濡らしている。春先で日陰は涼しいどころか肌寒い今の時期、そう簡単に乾かないみたいだ。このまま歩くと上履きを履いている僕は良いとしても、遊馬くんは靴下が濡れる。
「肉丸くんが自分に水を撒いちゃった跡だね。雑巾で拭いたみたいだけど、水気が残ってるみたいだ」
「…………よし、二階から迂回して教室を目指そう。どの道、鴻巣先生が教室にいる確証もない。もしかしたら迂回した先に鴻巣先生がいるかもしれない」
運よく階段の前だけは濡れていなかった。遊馬くんは濡れた床を飛び越えで移動して、階段の手すりを掴んだ。
「それもそうだね。じゃ、僕はこの中央階段を上って屋上を見てみるよ。入学式初日に鴻巣先生がそこにいたんだ。もし先生がサボっているなら、屋上だと思う」
「分かった、頼む」
中央の階段を上りながら、二人で行動を示しあった。二階に着いて早速別れようと思ったところで、僕の足が不意に止まった。
「…………………………」
「……九くん、どうしたんだ?」
逡巡する。僕の足を止めたもの。その正体は明らかだったけど、それを遊馬くんに話すべきか悩んだ。ひとりでも確認できることだから、遊馬くんにこんな間抜けな理由で同行してもらう意味もない。だから迷った。
「………………嫌な予感がする」
嫌な予感。それが僕の足を掴んで離さない。妙な胸騒ぎのオマケつきだ。ダブルで仕掛けた僕の危険察知装置が、ふたつとも僕に危険を知らせた。
どうする? ここで遊馬くんをひとりで行かせて、僕一人でさりげなく確認をすることはできる。何もないかもしれないし、『嫌な予感』程度の理由で彼に同行してもらうのも悪い。
しかし、僕はその『嫌な予感』を天気予報くらいには信じている。それが二重で僕に危険を知らせている。どうだろう。天気予報もひとつなら外れる公算は高いけど、ふたつ見た天気予報がふたつとも雨だと予報するなら、誰だって雨に備えるに決まっている。
僕も備えるべきだ。
「嫌な予感? どれくらい、信用していい?」
遊馬くんに対して、僕の悩みは杞憂だったようだ。彼は彼で、『嫌な予感』にある程度の信頼を置いているらしかった。
「天気予報並みには」
「それなら、確認した方がいいだろうな。どの辺だ?」
「たぶん、こっち」
僕は一般教室のある西側、つまり遊馬くんが進もうとしていた方向とは逆側を向いた。そっちの方へ行こうとすると、自然と足が止まってしまう。だから僕の『嫌な予感』はこっちが危険だと、そう告げている。
「しかもかなり、近い」
僕の目に映ったのは、『視聴覚室』と書かれたプレートだ。このプレートが掲げられた部屋から、嫌な気配が満ちている。
「ここだな? 行くぞ」
何も感じていない遊馬くんは、『嫌な予感』を信用しつつもまるで無防備に、視聴覚室へ突入する。あるいはその方が、危険を予感した上では大胆に行った方が良いと彼は考えているのか、淀みひとつない突入だった。僕も遅れて、視聴覚室へ飛び込む。
視聴覚室。僕には用途が想像できないけど、その部屋は今まで僕が見たどの教室とも変わった造りをしていた。
まず机。固定されている机は二人掛けなのか椅子はふたつしかないけど、あとひとりくらい間に座れそうだと思った。よく見ると机の真ん中には機械が置いてあって、そのせいで真ん中に一人分のスペースが空いているのだと気付いた。しかしこの機械、何に使うのかは分からない。イヤホンジャックのような穴がふたつと、ダイヤルがふたつあるだけだ。
席は奥へ行くにつれて――――正面黒板へ向かうにつれて低くなっている。何のためかは、よく分からない。視聴覚室自体、小学校にあったかさえ覚えていない代物だ。
そして『嫌な予感』の正体は、正面黒板の前に存在していた。
「……な、なんだこれは?」
遊馬くんも思わず、声を上げた。
僕と遊馬くんが見たもの。それは天井から吊るされたスクリーンだ。そこでやっと、僕は視聴覚室が正面黒板へ向かうに従い低くなっている理由に思い至った。順序立てが逆なのだ。低くなっているのではなく、視聴覚室は正面黒板から奥へ――僕たちがいる側へ向かうにつれて高くなっているのだ。スクリーンに投影された映像が見やすいように。
問題はそのスクリーンだ。今はもう、このスクリーンは本来の用途をなすとは思えない。
何故ならそのスクリーンには、赤くて大きな文字が書かれていたからだ。
『踏み台と成れ!』と。
「踏み台…………何を?」
そんな僕の疑問は、すぐに答えを見つけてしまう。迷ったのは一種のポーズだったのではないかと思われるくらい、あっという間に結論へ着陸した。
『義務殺人』。不登校児を更生させる、狂気のプログラム。
『自発的な行動』。それは清潔感とは程遠い、ただの人殺し。
『環境の整備』。殺人を通して更生した者には、報酬を!
踏み台は、僕たち自身………………!
「これは、…………まずい!」
遊馬くんが、柄にもなく大声を張り上げる。遊馬は確認するまでもなく、僕と同じ道順を辿って最悪の事態を想像したのだ。
そしてもう、その最悪の事態は避けて通れない。スクリーンに書かれた文字は赤いペンキだとか言って誤魔化せる。もうこの視聴覚室には、誤魔化せないものがある。
誰かの命が失われたことを誤魔化せない、決定的なもの。
「…………血だ」
スクリーンの下に、血溜まりが出来ていた。赤い文字にショックを受けて反応していなかった嗅覚が、臭いを捉える。ああ、間違いない。血液特有の生臭さ。生魚や、屠殺したばかりの家畜からだって、こんな臭いはしない。
命が流れ出た後の、嫌な臭いだ。かつて僕が全身に浴びて、しばらく落ちなかった臭い。それを、嗅いでしまった。
視覚も赤い文字を見たせいでショックを受けていたのかもしれない。スクリーンに不自然なふくらみが出来ているのに、ようやく気付く。天井を見ると、スクリーンは黒板のすぐ前に吊るされていて、黒板とスクリーンにはほとんど間隔が無いことが分かる。不自然に盛り上がっているとすれば、黒板とスクリーンの間に『何か』がある以外に、考えられない。
そして不自然なものが、目に映る。ロープだ。ロープが左右から、スクリーンの内側へと伸びている。ロープの端はそれぞれ、天井の隅に刺さっているフックに縛り付けられている。ピンと張っているところからして、何か重い物をぶら下げているようにも見える。
「どうする、九くん…………」
「どうするも何も、確認するしかない」
遊馬くんの顔は、普段にまして数倍も青かった。冷静さをほとんど失っていない彼ではあるけど、それでも死体と、しかもクラスメイトの死体と遭遇するかもしれないという緊張感にダメージを負っているようだ。
ここは僕が確認するのが適切だ。僕ならたとえクラスメイトの死体を見たところで、そう正気を失ったりはしないだろうから。
ついさっきまで生きていた人の死体なら、見たことある。しかもその死体は、僕の手で生み出された。
あまり臆していても仕方がない。他の誰かが来ると、余計に事態は混乱する。それもまた、僕が三年間を通して学んだことだ。『先生』の死は僕たちに確執しか残さなかったけど、その確執からそれ以上を、僕は学ぼうとした。
スクリーンの下に付いていた紐を引っ張る。ぐっ……と、限界まで引っ張ってからそれを離す。想像通り、それでスクリーンは自動的に巻き取られた。
一気に、スクリーンの裏にいた『そいつ』とご対面だ。
「なんで、君が…………」
まず目についたのは、野性的な瞳。その目は自分の命を奪おうとする犯人を睨み殺さんばかりに、大きく開かれていた。
その目の中には、きっと昨日の思い出も、湛えていた………………。
スクリーンの裏にいたのは、今日は学校に来ていなかった手縄明くん。
彼は胸を包丁で刺されて死んでいた。