四月開始編 意外な担任 意外な授業
僕の普段の生活は、特筆することなど何もなく終わるのが常だ。そういう生活を、かれこれ三年はしている。きっと日記を書けと言われたら困る。大学ノート一冊を埋めるのに十年はかかるかもしれない。
どれだけ特筆することが無いというと、こんな感じ。
朝、起きた。昼、寝た。夕方、また起きた。夜、寝た。
世間一般では僕のような人間を『ニート』あるいは『引きこもり』と呼ぶのかもしれないが、僕はそんな高尚な生き物ではない。ニートや引きこもりの方が、よっぽど時間を有意義に使っていると僕には思える。
時は金なり。その言葉の通りなら、僕ほどの浪費家も珍しい。
僕はこの六畳のスペースで、無為に無駄に時間を食らって生きているだけだった。
テレビを見る気も起きないし、パソコンを立ち上げる気力もないし、本を読む学力はないし、漫画を読む趣味はないし、勉強するなんて夢のまた夢。
「そんな人生が、まさかあの時をきっかけに変わるなんて…………!」
と、そんなお決まりのセリフを挟んでみても、僕の人生は変わらない。きっかけがない。
それが普通。それが日常。それが毎日。それが通常。そしてそれが無限に続いた。
はいおしまい。
人間という生き物は飽きっぽい。寝続けると寝るのにも飽きるのか、引きこもり六か月で寝るのに飽きた。その日以来、僕は五時半に起きるのを日課にしていた。
理由のひとつはさっきも言ったように寝るのに飽きたからだけど、もうひとつ理由がある。両親が寝ている間じゃないとできないことがあった。
風呂、歯磨き、食糧調達だ。両親に会いたくない僕としては、両親が寝ている間にこれらを済ませるのが一番良い。
今日が何月何日の何曜日かはさておくとして、朝の五時半になったのは確かだった。僕は今日も今日とて、日常の中を生きていた。
僕が風呂と歯磨きを終わらせた時までは、日常だった。
食糧調達を始めたころから、非日常が襲ってきた。
いうなれば僕のこれから始まる一年とは、そういう話だ。
食糧調達が始まって数分が経過したころ、チャイムが鳴らなかった。
「…………え?」
チャイムは鳴らず、玄関のロックが解除される音が鳴り響いた。僅かな音のはずなのに、静かな家には響く。特に警戒していたわけでもなく耳をそばだてていたわけでもない僕の耳にも、音が聞こえた。
両親のうち、誰かが帰ってきた? いやいや、それはない。今日も今日とて僕が日常の中を生きるように、両親も日常の中を生きている。両親はちゃんと、二階で寝ているはずだ。
じゃあ誰だよ。
玄関の扉が開く音がした。音を立てないよう注意している開け方とは思えない。これは空き巣にしては、乱暴じゃないか? 開き直って押し込み強盗気取りだろうか。だとしたらとんでもなくまずい。ただの空き巣なら僕を見てすぐに撤退するかもしれないけど、強盗だと僕を見てむしろ襲い掛かってくるかもしれない。
少しずつ足音が近づいてくる。やっぱり、何かを警戒しているような印象は受けない。見つかったら見つかったで、目撃者をどうにかする用意があるのだろう。あるいは、見つからないと思っているのか? この家が留守だと勘違いして?
それはあり得ない。ガレージは玄関の横だ。車が二台も止まっているのを見て留守だと思う空き巣がいるものか。そうなると絶望的な答えだが、侵入者が空き巣であれ強盗であれ、別の誰かであれ、目撃者を排除する能力を有しているということだ。
どうする? ここはキッチンで僕は冷蔵庫あさりの真っ最中だ。冷蔵庫の中なら金目の物はないし、隠れるのにはうってつけか? いや、それを見越して冷蔵庫の中に金銭を隠す人は多い。むしろ空き巣にとっては、真っ先に探すべき場所の筈だ。
他に隠れる場所は、キッチンにはない。食器棚には既に大量の食器が鎮座していて僕の入る余地はない。流し台の下にある戸棚も同じく調理器具が詰まっている。これらを出してしまうという手段も考えられるけど、残念ながら僕にはそんな悠長なことをしている時間が無い。
そうなるとキッチンに隠れるという作戦は考えられない。もっと隠れるスペースの多い場所へ移動するべきだ。一番理想的なのは、最も金品が少ないと思われる風呂場やトイレだ。そこなら空き巣だろうが強盗だろうが、来る可能性が少ない。
ただ、移動する時間すらなかった。風呂場やトイレに移動しようとすると、玄関を抜けて今まさに廊下を歩いている犯人に遭遇する可能性が高かった。結局、この場を動くことも難しい。
ただひとつ考えられる手段があるとすれば、迎撃か。
「おお、いたいた」
唯一と思えた打開策も、しかしここで手詰まりとなった。侵入者は僕のすぐ目の前にいた。考え事に夢中になりすぎて、僕は侵入者の気配を察知する作業を疎かにしていた。
侵入者は、黒いスーツを着た男だった。およそ空き巣や強盗の類とは思えない。どこかの省庁の役人という印象だ。黒いサングラスを嵌めているせいで、目元をうかがうことはできない。
「だ、誰だ!」
思わず声を上げる。侵入者の男は僕が大声で叫んだにも関わらず、特に焦る様子が無い。僕の予想通り、目撃者に対する警戒を行っていなかった。
それが逆に、不審感を加速させる。空き巣にも強盗にも見えない。そして両手に何か凶器を持っているわけでもない。そんな人物がどうして、目撃者への警戒を行っていないのか。
まるで家主の許可を得て、今の行為に及んでいるように見えた。
「まあまあ落ち着け。俺は別にお前を取って食おうって腹じゃねえ」
男は笑みを浮かべながら僕を宥める。
「俺はちょいと、お前の両親に頼まれたんだよ。お前を説得する役をな」
「説得? 何を…………?」
男の物腰は比較的柔らかい方だった。だからといって、すぐに警戒心を緩めるほど純粋な僕ではないけれど。
男の正体は気になるところだ。でも、今僕の頭を支配したのは男の台詞だった。どういう意味だ、両親に頼まれたとは。説得?
ただひとつ理解したのは、男が侵入できた理由だ。どういう経緯であれ家主である両親から許可を貰っているのなら、無警戒に侵入してきたのは頷ける。両親が起きてくるのを警戒しないのも納得だ。この家の中で侵入者を不審がるのは、僕以外にいないのだから。
「頭ん中がはてなマークで一杯って感じだな。ま、そいつは誰だって同じだ。詳しい説明は後だ。ついてこい」
「…………はあ」
どうにも、逆らえる雰囲気ではなかった。既に僕は場を支配する流れに飲まれている。ここで断ることに何の意味もないと思えた。少なくとも強硬策に相手が出ていないのだから、怪我をしない内に大人しく従っておくのが吉だ。
実際、この男の言うとおりだ。頭の中にはてなが飛び交う。新しい情報は次々と流し込まれているのに、何一つ説明がなされていないのだから。さっきの男の台詞。『誰だって同じ』ということは、僕以外にもこんな目にあっている人がいるのかもしれない。
とぼとぼと後ろを歩いてついていく。ついていくって言ったって、ここは僕の家だ。ここに引っ越してきてからほとんど自分の部屋を出ていないとはいえ、構造は把握している。男が向かっているのが玄関だということも理解できる。
案の定到着した玄関で男は靴に履きかえて、外に出る。素人目に見ても高級そうな革靴だ。意外と高官なのか。でもそうは見えない。そうなるともしかして、金になる裏取引でもしているのか。
一気に男のイメージが悪くなる。いや、僕の偏見なんだけど。
僕も靴を履こうとしたのだけどサイズが合わなかった。思い返してみれば、外に出るのは3年ぶりか。サイズが合わなくて当然だ。引きこもっていた間、靴なんて買い換えていない。
「靴なら、そこにあるんじゃないか?」
「……はい?」
男に指差された先を見ると、隅に埃を被った新しいスニーカーがあった。誰のものかは分からない。でも、サイズ的には父親のものじゃない。デザインから見て、母親のものでもない。僕に兄弟姉妹はいないから、そうなるとこれは僕の靴ということになる。
まったく心当たりがない、わけではない。きっと僕が外に出る時に困らないよう、両親が買っておいたのだろう。性格を考慮すれば、全然ありえない話じゃない。
埃を払って履いた。頼んだ覚えこそないけど、善意は無駄にできなかった。
「外に出るのも久しぶり、か」
外に出ると、太陽の光が眩しかった。天井……じゃなくて空が高い。蛍光灯の光にはない暖かさが頭に降り注いだ。
「こっちだ、が、その前に。一応本人確認をしよう」
侵入者が声をかける。そっちを見ると、黒塗りのバンが一台止まっている。窓にスモークが掛かっていて、運転席の様子すら覗けない。顔にも見えるバンのライトを見ていると、バンが『今から誘拐に行くぜ!』と意気込んでいるみたいだった。それくらい、犯罪結社の臭いがした。
今更ながらやばくない?
「えーっと、顔写真は問題ないな。双子じゃない限り」
そんな心配をよそに、男は一枚の紙と僕を交互に見て何やら確認作業をしている。あの紙に、僕の顔写真でも貼ってあるのか。
「じゃあ聞こう。お前、誕生日は?」
「なんでそこから聞くんですか?」
「ほら、本人確認って言っただろ。最初に名前聞いたって意味ないんだよ」
「…………四月四日」
ていうか、この期に及んで入れ替わりの心配かよ。してる暇なんてなかったよ。
「血液型は?」
「A型」
「人種は?」
「日本人。おそらくクウォーター」
「よし。最後に、名前は?」
「九 無花果」
「役人や官僚にはなれない名前ですね」
侵入者だった男の指示通りバンに乗り込み、男から名刺をもらった直後の僕の反応である。
名刺には会社や組合の名前などは一切明記されておらず、ただ単に『根廻 吾郎』とだけ書かれていた。
「誠実さが美徳の日本社会じゃ、どこも雇ってくれねえよ。今じゃこうして若い連中を拉致して売るくらいしか、仕事がねえ」
「わはははははは」
「はっはっは」
自分の笑いが予想に反して乾いているのに愕然とした。
「…………冗談ですよね?」
「当たり前だろ。お前を拉致して臓器売買なんかしねえよ。言ったろ? 説得を頼まれたって」
「…………」
冗談には聞こえない。
決して冗談には聞こえない。
「……で、先に俺の出自を明かした方が早いな。俺は文部科学省の役人だ」
「へえ。そんなお偉い様がこんな僕にどんな御用でしょうか」
「態度変わり過ぎだろ。権威に弱い日本人の典型かよ。四分の一はある外国の血はどうした」
「あくまで可能性なんで」
確証が無いのが悩みだ。
「そんで、お前への要件ってのはだな、単刀直入に言っちまえば教育プログラムへの参加をしてほしいって話だ」
「教育プログラム?」
「そう。まだ導入試験段階の、不登校児更生用の教育プログラムだ。三十人弱の参加を予定している」
「そいつに出ろと?」
「ああ」
「お断りします」
そう言ってバンの扉を開こうとしたが、鍵がかかっていた。第一、このバンは走行中だ。開いたところで出られないし、出たところで僕の未来はトマトケチャップだ。
「ちっとは俺の話を聞け。つうか、本来なら参加生徒となるお前の承認はいらねえんだ。保護者の許可がありゃ、強制的に参加させられる。お前に話を通してるのは、いわばお前の親御さんの誠実さだ」
「また誠実さですか。いやな世の中ですね」
「そういう悲観は『根廻』っつう苗字を持った俺の専売特許だ」
「苗字も名前を同じ読みっていうのも地味にダメージ大きいですよ」
「すまん、もう笑いを堪えるのも限界だ」
「わははははは」
「はっはっは」
こうして人とまともな会話を交わすのも、やはり三年ぶりだった。引きこもっている間に僕がしてきた会話というのは、こっちが声を出さなくても終了するような、そんなどうでもいいものばかりだった。まず、会話する相手と正面から向き合う必要すらない会話だったのだから。扉という鉄壁のバリケードを盾にも矛にもして、のらくら生きてきた。
「どこまで話しましたっけ?」
「お前が断ったところだ。対象である生徒に断られたら参加させられない更生プログラムってなんだよ。当然本来ならお前の意志なんて関係ないんだ。だから言っただろ。あくまで俺がするのは説得だ。お前が納得するという結果が最初から見えた、な。親御さんとしては、できるだけ息子に納得してもらった形で参加してほしいんだと」
「偽善ですか」
「なにもかも偽物だ」
それはこの世の中か、僕達か。根廻さんは、僕の向こう側にある物に向けて喋っているみたいだった。
「じゃあ納得することが前提で、説明してください。どういうプログラムなんですか?」
「大したことじゃない。お前がやるのは、1年間指定された学校に通うっていう単純なことだ」
「その一年間でやるべきことは?」
「ひとつだけある。が、今は具体的な内容を明かせない」
胡散臭さ増加。説明になってない。『アルバイト募集! 時給千二百円』と謳いつつ、仕事の内容を明かしていないようなものだ。こちら側のメリットが不明な時点で、より凶悪とも言える。
「それ、本当に僕を納得させる気があるんですか?」
「納得する。お前、今何歳だ?」
「えっと、今って何月何日何曜日ですか?」
それ以前に、季節いつだよ。寒くないのは分かる。ただ暑くもなかった。これでは春か秋かも分からないし、もしかしたら初夏かもしれないし初冬かもしれない。精々わかるのは、僕が引きこもってから三年が経過したということだけだ。それだけは、年だけは除夜の鐘が知らせてくれた。
「ほら、これで確認しろ。今日売られたやつだ」
根廻さんが渡してきたのは、一冊の雑誌だった。世間の情報を耳に挟まない僕にはそれが週刊誌か月刊誌かも分からない。表紙には僕より僅かに年上そうなモデルが写っていたけど、その人の名前も分からない。表紙の文字を追ってみると、そのモデルは『九十九有花』と言うらしいけど、だから何だ。
日付は三月十日と、表紙の隅に印刷されていた。まわりくどい確認の仕方をするものだ。
「じゃあ、十四ですね。もうすぐ十五です」
「高校、どうする気だ?」
それは、考えたことがなかった。
「どうするんでしょうね」
ひとつだけ、ある高校の名前が浮かんだ。でもそれは、口に出さない。僕がそこを目指す理由はどこにもないし、目指したところで今の僕の学力では不可能だ。
今の僕の学力じゃ、どんな高校にも受からない。なにせ中学校に一度も通ったことがないだ。
「そこで物は相談だ。更生プログラムに参加しろ」
「つまりそれが、メリットなんですね」
「そうだ。プログラムに参加する一年間であることをすれば、お前を進学させてやる。どこでも好きな学校を逆指名しな」
「裏口入学じゃないですか」
「お前みたいなやつが高校へ行くのに、裏口入学以外の方法はないだろ」
「それもそうですけど…………」
非常においしい話で食いつきたくもなるけど、それにはふたつ問題がある。ひとつは、僕は高校に行く気があるのかどうかということだ。もうプログラムの参加は強制的だから納得しようがしまいが関係ないとして、その恩恵を受ける気があるのかということだ。そもそも更生する気もないのだから、プログラムに参加する理由は無いような気がする。
いや、そこを更生させるのが、根廻さんの言うプログラムのポイントなのだろうけど。
もうひとつの問題というのは、言うまでもなく『一年間でやること』だ。これが何なのか分からない。ただ、今まで散々怠けていた僕のような人間を裏口入学させるくらいだ。きっと、かなり難易度の高いことをさせられるはず。
そうでなければ、釣り合いが取れない。
「僕に更生する気があるかも分からないのに…………」
「お前、このままでいいのか? 今のお前って、生きてるも死んでるも同じみたいな生活送ってるだろ?」
「そうですね」
「世間の情報なんてまるで知りはしない。実際、今テレビで話題のモデルもアイドルも知らないよな」
「そりゃ、まあ」
雑誌の表紙に写ってたモデルすら、僕は知らないのだし。渡された雑誌をぱらぱらと捲ってみると、この雑誌は僕くらいの年代の少女向けに構成されていることに気付いた。記事の内容がまさに、その年代の女子が好きそうな話題で埋め尽くされていたからだ。僕は世間の情報に疎いけど、何となくそういうのは理解できた。
今話題のアイドル『No’s』のリーダー、杉下無闇に突撃インタビュー! とか言われても困る。そんなアイドルグループ知らないし、興味もない。杉下無闇って本当にアイドルの名前かよと思うのがやっとだった。
このままでいいのか?
「別に僕は、この生活を続けたいと思っているわけではないですよ。ただ逆に、この生活から抜け出したいと思っているわけでもないってだけで」
「結果が現状維持か」
どうして僕は引きこもっていたのか。たまにその理由を忘れそうになるくらい、長い間引きこもって閉じこもっていた。無論、引きこもるきっかけとなったあれを忘れられるほど、僕は太い神経の持ち主じゃない。
忘れるくらい長く引きこもっていたという、一種の比喩だ。
「どうせ現状維持が結果なら、別に変ってもいいんじゃねえのか?」
「かもしれないですね」
今でこそ惰性で引きこもっているけど、きっかけから派生した理由が最初はあったはずだ。世間が怖かったとか、人と会いたくなかったとか。
どうにもその辺が曖昧だ。
「お、着いたな。ここがお前の通う学校だ」
突然、バンが停止する。スモークのかかった窓越しに、校舎らしき建物が見えた。一直線の単純な構造をした建物で、全部で三階建てのようだ。ただし、校舎の中央だけ一階層分高くなっている。あそこには何があるんだろうか。一階部分の様子は、正面に植わった木々が邪魔して伺えない。
校舎の右側には、体育館やプールが見える。運動場が南側に作られるという学校の性質が正しいなら、体育館のある方向は東側ということになる。
西側には正門があった。正門の前には一本の巨大な木がどっしりと構えていた。僕は植物に詳しくないから、あれがどういう種類の木なのかは分からない。ただ大きいと思うだけだった。
一見すると普通の校舎だ。でも、少しだけ違和感があった。
「中学校みたいですね。でも、人がいないですよ。今日って平日ですよね?」
「ああそうだ。この学校は廃校になったからな。人がいなくて当然だ」
廃校? それなら確かに人がいないのも分かるけど、どうしてそんな場所で更生プログラムを?
「参加人数って、三十人弱ですよね? それだけの人数が使うには大きすぎませんか?」
「だから導入段階の試験なんだよ。本当なら普通の学校と同じ規模でやるんだが、今回はいろいろあってな。参加生徒への影響も考えて、廃校になった校舎を利用したんだ。いきなり人だらけの校舎ってのも、ハードル高いだろ」
僕はそう思わないけど、不登校になった人の中にはそう思う人がいるのかもしれない。更生プログラムというのなら、そういう配慮もいるのか。
「他にも、通常の学校とは違うことは多い。たとえば、生徒の年齢は今回の試験じゃバラバラだ。実用段階になれば揃えるが、今回は試験の性質上、いろんな年齢の生徒を集めたかったらしい。そこら辺は俺の知ったことじゃねえ」
「とりあえず、導入試験の段階ゆえの細かい変更点があるってことですね」
「ああ。今回の参加生徒はこの学校――北花加護中学に通える範囲から選出したからな。もしかしたらお前の知ってる顔がいるかもな」
「それはないでしょう」
僕はここが地元じゃない。三年前に引っ越してきた。つまり僕がこの地域に来たのと引きこもりを始めたのは同時期。僕はこの地域に来てから、一度も外に出ていない。
ここがどういう町なのか知らない。地元からどのくらい離れた場所にいるのかも分からなかった。
とことん何も知らないな、僕は。
「中学ですか。いったいどんなところなんでしょうね」
「大人になった俺からすれば、小学校も中学校も高校も同じようなもんだったな。しかし無花果。お前、本当に更生する気は無いのか? このまま無為に年月ばかり消費して、もったいないと思ったことはないのか?」
「さあ。結局、なるようにしかならないというか、なんというか。どうせ僕がここで納得しようがしまいがプログラムへの参加は決定なんでしょう?」
「自主的に参加するか、強制的に参加させられるか。それだけでも大きな違いだと思うぞ」
「………………」
あまり大きな違いだとは、僕には思えなかった。
「僕が不登校を、引きこもりをやめることに意…………意義なんてあるんですか?」
意味なんてあるんですか? そうは言えなかった。のどに言葉が突っかかって、『意味』とは言えなかった。どうしてその言葉が出ないのか、理由は分からない。
分かるんだけど、分からない。分からない振りをした。
「無意義でしょう」
「有意義だ。少なくともお前がこれ以上の時間浪費をしなくて済む」
「僕は今の生活が時間浪費だとは」
「思ってるだろ」
確かに思っている。変わりたいとは思わない。変われるとは思わない。今の生活を続けたいとは思わないけど、今の生活を続けたくないとも思わない。
そんな僕でも時間を金銭に換えて計算することができるらしい。僕は今の生活を浪費だと思っているし、今朝も思ったところだ。
「そう思ってるってことだけで、変わる理由はあるんだよ。引きこもりや不登校を止める意味も意義もしっかりあるんだ。浪費家は止めだ。倹約家になれ」
「…………まあ、今の生活に拘っているわけではありませんから、変われと言われたら変わるんですけど」
何故か、いまいち気が進まない。いや、本当は変わりたくないとか、引きこもりのままでいたいとか、そういうことじゃない。将来に不安しかない、お先真っ暗な僕としてはこの誘いがどれだけ怪しくても受ける方が得なのは分かりきっている。裏口入学のチャンスを逃すべき無ないのは分かる。
たとえ『一年間でやるべきこと』が明言されていなくても。
たとえ未だにプログラムの全容が見えなくても。
たとえ目の前にいる人間が怪しかったとしても、僕としては受ける以外の選択肢はないのだ。それが強制的だろうが自主的だろうが、受ける以外には。
気が進まない理由は、もっと他にあった。
「………………」
「どうした? 怖い顔して」
「いえ」
嫌な予感といえばそれまでだけど、胸騒ぎがしていた。それが何に対するものなのか、僕には判断できなかった。
ひとつ言えることは、その胸騒ぎに覚えがあるということだけだ。
『先生』の死を見た、三年前に。
真の引きこもりならたとえ強制参加でも、絶対に出席しない。逆説的に言うならば、僕はそこまで偉大な引きこもりじゃない。
廃校となっていた北花加護中学を目指して、僕は歩いていた。登校である。
市の北側に位置するその中学を目指すにあたり、僕には様々な障害が用意されていた。久しぶりに外を歩くと、それだけで障害物競争の様相を呈する。
僕の家は市の南側だったので、まず電車に乗って最寄りの駅まで移動する必要があった。いやはや、たった三年でも技術の発展はめざましい。都市部の路線だけのものと思っていたICカードが、地方にまで進出しているとは思わなかった。タッチせず改札口に通してしまい、大慌てだった。
幸い人間よりも優秀な機械は、食べてはいけないものを分かっていたみたいだけど。
駅を降りた僕は、少し遠回りで北花加護中学を目指した。北花加護中学を目指すルートは、ふたつ用意されていた。ひとつは今僕が使用しているルートで、三十分弱の時間を要する。
学校らしい建物が見えてきた。校門には『入学式』と書かれた看板も見えるが、僕は無視して歩き続ける。ああ、今日は全国的に入学式なのか、くらいしか思わない。
今見えた建物は、北花加護中学ではない。花加護中学だ。ややこしい。
後で根廻さんに聞いたところ、元々この地域にあったのはこの花加護中学だけだったらしい。花加護中学と北花加護中学は歩いて十分ほどの近距離に位置する。近すぎる。確かに何らかの理由で、後からどちらかが建てられたと見るのが正しそうだ。
根廻さんいわく、生徒数の増加が原因だったらしいのだ。花加護中学で抱えるには生徒数が増えすぎて、北花加護中学を建てて生徒を半分にしたとか。それが生徒数の減少に伴って、元通り花加護中学だけに落ち着いたということか。
花加護中学は、北花加護中学よりやや新しそうだった。たぶん、一本化する際に建て直しもしているのだろう。
平日、しかも入学式の日に私服で歩いている僕を見て、通り過ぎる花加護中学の生徒たちは少し不審な顔をしていた。校門の近くに立っていた教師と思われる男性にも不審がられたけど、特に声はかけられなかった。
きっと、僕が鞄につけていた赤いペンギンのキーホルダーが目に入ったからだ。これは根廻さんが、絶対につけろと言って渡してきたものだ。
プログラムの参加生徒たちには、今通り過ぎている花加護中学の生徒のような制服が指定されていない。これは根廻さんも言っていたように、参加生徒の年齢や住んでいる地域に多少のバラつきがあるからだ。制服を用意するよりは、各自で用意した私服で登校する方が都合が良いということだ。
そうなると当然、平日でも私服でうろつくことになる。中学生くらいの年代の子供が平日に私服で歩くと補導の対象になるので、更生プログラムの参加生徒であることを示す物が必要になる。それがこの、キーホルダーなのだとか。
だからさっきの男性は、僕を見ても何も声を掛けなかった。赤いペンギンのキーホルダーを見て、僕が更生プログラムの参加生徒であることを知ったのだ。
そうそう。駅から北花加護中学を目指すルートがふたつあるという話だった。もうひとつのルートは、全国的に名門と言われている花園高校の近くを通るルートだ。こっちのルートを使うと、十分たらずで中学に着く。
でも使わない。長い引きこもりで鈍った体をほぐしたいというのもあるし、花園高校に近づきたくないというのもあった。どうにも花園高校には、近づきがたかった。
別に名門の雰囲気に気後れしているとか、そういうのは無いけど。
三十分の道のりをゆっくり歩いて、北花加護中学に着く。久しぶりのウォーキングは、いささか体にこたえた。息が少し上がる。
以前に見た西側の正門から、中学の敷地内に入った。近くに植わっていた木は桜ではないらしく、緑の葉をつけて澄ましていた。
まっすぐ奥へ伸びる校舎に沿って、舗装された道が続いていた。道は校舎と木の列に挟まれながら、昇降口まで続いている。見たところ、昇降口は3つあるらしい。順に西側、中央、東側昇降口とでも言うのだろうか。僕は正門に入ってすぐに目に付いた西側昇降口へと向かった。そこに看板があったからだ。
『プログラム参加生徒はここで靴を脱ぎ、目の前の教室へ』。そう書かれていた。
指示通りに靴を脱いで、指定された番号の場所へ靴を入れた。靴入れはひとつひとつ間仕切りと扉のついたロッカーのような構造をしていて、少し目新しい。昔通っていた小学校の靴入れはただの棚だった。
僕の名簿番号は四番だったので、大人しく四と数字の書かれた場所へ靴を入れる。『い』から苗字が始まるだけあって、小学生のころから名簿番号は早かった。『あ』から苗字が始まる生徒が同じクラスにいなくて、一番だったことも多い。
それを思えば、四番は僕の記憶でも遅い方だ。初っ端から教室の前なのが嫌だったから、これは助かる。教室の前って、黒板が見にくいから。目が悪い人はよく前の席に行くけど、黒板全体が見づらいから僕は後ろの方が好きだ。別に目も悪くないし。
さっさと教室へ向かう。以前に校舎を外から見たときに三階建てだということは分かりきっていたけど、わざわざ教室を三階にするような真似はしないらしい。昇降口の目の前にある教室に、人の気配がする。
扉の上に掲げられたプレートを見ると、『赤ペン教室』と書かれていた。一流の冗談のつもりなのか。あまり笑えない。
そういえば、根廻さんは参加生徒の数を三十人弱と言っていた。それは一クラス程度の人数なわけだ。複数の教室を使う理由は無いし、この教室に全員が入るとみて間違いなさそうだ。そうなるとこの教室を『一組』とか『白組』とか『A組』とか表現するのも変な話だ。『赤ペン教室』というネーミングはプログラムの参加生徒が目印として持つ赤いペンギンのキーホルダーから取ったのだろうが、存外理にかなっているのかもしれない。
目の前の扉を無視して、ひとつ奥の扉から入ることにした。教室の後ろから入りたかった。特にどうしてそうしたか、理由は無い。
扉を横へスライドさせて、一歩を踏み出した。もう言うまでもなく教室に入るのも三年ぶりだけど、特に感慨は無かった。あえて言えば、変な胸騒ぎをまたしても感じたくらいだ。
その『くらい』が、僕にとっては少々厄介な問題なのだけど。
教室は、非常に一般的な造りだった。もっとも、元が廃校になった公立中学なので、ここに変な改造を期待する意味はない。机は縦が六列、横に六脚並んでいた。ただし、窓側の一列だけ、机は三脚しか並んでいない。えーっと、つまりこのクラスの生徒数は三十三人か。机に余りや不足が無い限りは。
既に教室には、かなりの人数がいた。僕は遅い部類らしい。集合時間は八時四十五分で今は八時三十分だから、遅刻ではない。
それにしても驚くのは、まずここにいる全員が不登校を決め込んでいたはずだということだ。とても不登校だったとは思えない、驚異の出席率だった。それぞれ不登校だった理由も違うだろう生徒をこうして出席させている時点で、このプログラムの本気度がうかがえる。プログラムの裏で働く、根廻さんのような人たちの度量も。
そしてもうひとつ驚いたのは、全員の年齢がバラバラだということだ。事前に説明は受けていたけど、実際に目の当たりにすると奇妙な光景だった。あきらかに小学生らしいのも何人か交じってるし。
戸惑いを覚えつつも、立ちっぱなしでは極まりが悪いので自分の席へ急ぐ。僕の席は廊下側1列目の、前から4つ目。これは説明するまでもなく名簿順だ。既に僕の前と後ろ、三番と五番の生徒は座っていた。隣の、十番の席には誰もいない。
三番の生徒は、前に座る女子生徒と何やら歓談をしていた。人懐っこい笑みを浮かべた男子生徒だ。人当たりが良さそうというか、悩みがあまり無さそうに見える。あんなやつでも不登校になるのか。
一方、五番の生徒は女子だった。暇そうに雑誌をペラペラ捲っている。その雑誌が以前、僕が根廻さんに渡されたのと同じ雑誌だと気付くのにさほど時間がかからな…………ん? っていうことはあの雑誌、月刊誌だったのか? ああいう雑誌は週刊誌だと決めてかかっていたから、少し意外だ。
席に着くと、早速前に座っていた生徒が体をこちらに向けてきた。その時になって初めて、彼の着ているパーカーに大量のピンバッジが付いてるのに気付いた。なんだこれ。
「よお。見ない顔だな」
「なにせ不登校なものでね」
「奇遇だな。俺もだ」
「奇遇なものか」
何となく、こいつの性格が分かる気がする。
「俺は五百蔵武ってんだ。お前は?」
「僕は九無花果だ」
五百蔵くんは珍しい名前だなーと笑った。人のこと言えないくせに。
「つうか、結構このクラス変わった名前のやつ多いよなー」
「そんなに多いの?」
「ああ。なあ、紅葉!」
五百蔵くんは僕の後ろに向かって呼びかける。僕が振り返って後ろを確認するのと、彼女が雑誌からこちらに視線を移すのは同時だった。茶色くて全体的にふわふわした髪が揺れる。髪は何やら英語が書かれたリボンで結ばれていた。
「そうそう、多いよね。変な名前の人。あっと、あたしは鴨脚紅葉っていうんだ。あんたは、九くんでいいんだよね?」
「鴨脚…………?」
「うん。植物の銀杏じゃなくて、鴨の脚って書いて鴨脚って読むんだよ。九くんは、漢数字の九で合ってるよね?」
彼女は自信たっぷりにそう言った。実際、正解だ。『いちじく』と聞いて果物の『無花果』は出てきても、変わり種苗字の『九』が出てくる人はまずいない。かなり物知りなのか?
「よく分かったな」
「だって、牧原無理ちゃんの本名の苗字が『九』だもんね! 知ってるに決まってるよ!」
「…………へえ?」
同意しようとしたけど、やっぱり同意しきれなかった。誰だよ、その牧原無理って。
「あれ? 知らない?」
「知らない」
「………………っ!」
今、鴨脚さんに人以外の何かを見る目で見られた気がする。たぶん、ミジンコあたりを見る目と同じだった気がする。
気のせいだといいなー。
「あの『No’s』の牧原無理だよ!? 知らない? え、ちょ、普段何してる人なの九くんって! 海外に住んでた?」
「いや、国内でのんびり引きこもってたけど…………」
「じゃあインターネットとかで見たことない? 『No’s』の名前くらいなら聞いたことあるよね!?」
「いや、インターネットは……」
してない。だから僕は本当なら引きこもりと表現するのもおこがましいのだ。引きこもっている間もインターネットで動き回る高尚な引きこもりと違い、僕は何もせずダラダラしていたのだから。
「無花果、こいつはな…………」
さすがに見ていられなくなったのか、五百蔵くんからの助け舟が出港した。
「紅葉はその『No’s』ってアイドルの追っかけをしていたらしいんだ。『No’s』ってのは一年くらい前から活動をしている三人組のアイドルグループで、牧原無理がそのひとりだ。当然、牧原無理っていうのは芸名で、本名が九だから紅葉は無花果の苗字が漢数字の『九』だって分かったんだな」
「ああ、そういうこと」
やっと話が繋がった気がする。
「そういえば、つい最近雑誌で見たよ。『No’s』の杉下無闇にインタビューとか」
根廻さんが渡してきた例の雑誌に。
「そんなに有名なんだ」
「ま、アイドルに興味の無いやつでも名前は聞いたことがあるってくらい有名だからな。無花果みたいに知らないのはそうとう珍しいんだ」
「いやー、あたし驚いちゃって…………」
そんなに驚くべきことだろうか。このクラスの全員が(元)不登校なのだから、僕みたいに知らない人が他にもいたって不思議はない。
「ちなみに、あたしが読んでたのがまさにそのインタビュー。無闇ちゃんは『No’s』のリーダーで最年長なんだよ」
「ふうん」
残念ながら興味はない。その雑誌だって、日付の確認に使っただけだ。中身はほとんど読んでいない。
「あ、でも、九くんって本当に海外生活したことない?」
やけにそこを気にする鴨脚さんだった。僕の目を見て尋ねてくる。
「ないよ」
「じゃあ、ハーフとか?」
「やたら滅多に海外との繋がりを知りたがるな。まあ、もしかしたらクウォーターかもしれないってだけだけど」
「へえ、やっぱその目ってカラコンじゃないんだ」
目。鴨脚さんが僕の目を見ていた理由は、別に僕と熱烈に視線を交わしたかったからではない。たんに僕の目に興味を示したからだ。
人には誰しも、初対面の相手に必ず聞かれることがあるはずだ。名前があまりにも珍しい人なんかは特に同意してくれると思う。
僕が初対面の相手に必ずと言っていいほど聞かれることは、目についてだった。名前ではなく、目だ。
「カラコン? 何言ってんだお前ら」
気になったのか五百蔵くんが席を立って、僕の顔を覗き込んだ。僕の目を見て、僅かに五百蔵くんは目を見開いた。
「青いな」
五百蔵くんは僕の性格の未熟さを指摘しているのではない。僕の目を、そのまま表現したに過ぎない。
僕の目は、生まれつき青かった。だから何か特別な力がこの目に宿っているとかは無くて、単純に青いだけだ。理由はよく分からない。だから僕は根廻さんに対して「たぶんクウォーター」と言った。目だけに外国人の血が遺伝するのかどうか、詳しいところは知らない。
けっこうカラコンと間違われるから、たまに厄介なんだよ。
「生まれつきこうだかね。僕としては、どうしてこうなったのか分からないけど」
「変わったこともあるもんだな」
五百蔵くんが席に着きながらぼそりと呟いた。僕も五百蔵くんの行動に合わせて正面を向いて座り直す。正面黒板の上に掛かっている時計を見ると、もうそろそろ予定の四十五分になりそうだった。あと一分くらいか。
その時、後ろから扉の開く音がした。五百蔵くんは音に反応して、後ろを振り返った。音に反応して音のした方向を見るのは人間の本能に基づいた行動だとどこかで聞いたことがある。外敵から身を守るために、音の出所を反射的に確認するのだとか。
僕はあえて振り返らない。外敵も何もこの時間に扉を開いてやって来るのは生徒か教師のどちらかだ。それがほとんど確実にも関わらず後ろを振り返るのが少し馬鹿らしかった。
それに、こういう時はみんなが後ろを振り返るので、入ってきた人が変な注目を浴びてしまうのだ。それを少しでも軽減するための、無駄な処置のつもりだ。
しかしこの時は、少し事情が違った。前にいる五百蔵くんが、なかなか正面に向き直らない。釘付け。その表現がピッタリ当てはまりそうだ。
なんだろう。ゴーゴンでも見てしまったのだろうか。
五百蔵くんはどちらかと言うとリアクションが過剰になるタイプの人間だと思うけど、それでも少しオーバー過ぎる。こうなると気になって、おそるおそる後ろを振り返った。
まず目に入ったのが、茶髪。ただしこれは入ってきた人物の髪じゃない。後ろにいる鴨脚さんの髪だ。ピントを合わせるべき人物を間違えた。
そんな鴨脚さんも五百蔵くんと同様に、後ろを振り返ったまま固定されていた。どうした? まるで僕が時間を止めてしまったみたいじゃないか。
鴨脚さんを避けて、後ろを見る。そうしてやっと、入ってきた人物の姿を目にすることができた。
まず最初に飛び込んできたのは、長く伸びた綺麗な、金色に輝く髪だった。腰まで伸びてるか? 僕は女じゃないしそこまで髪を伸ばした経験はないけど、あそこまで綺麗に髪を伸ばすのは相当難しそうだった。
そして次に、白い肌が目に入る。たぶんあの肌は、日本人の白さじゃない。金色の髪と合わせて、その人に少なくとも二分の一以上の外国人の遺伝子を見つけることができた。
最後に、目だ。
青い目が、冷たく僕を見据えていた。
なんて温度差だ、僕の目とは。同じ青い目でも、ここまで違うのか。
そうしてようやく、それぞれの特徴が頭の中で重なっていく。パズルみたいに組み合わさって、ひとりの『彼女』としてやっと把握することができた。
教室の後ろから、ひとりの女子が入ってきた。これだけの事実を理解するのに、どうしてここまで時間がかかるんだ。見ると、鴨脚さんや五百蔵くんはまだ理解しきって――もとい、事実が組み合わさっていないようだ。僕が振り返った直後と同様に、固まったままだった。
その女子生徒は、こちらへ向かって歩いてくる。気になって周りを見ると、そこ以外の席がいつの間にか埋まっている。つまり、最後の生徒か。ていうか、生徒なのか。
とても同年代には見えない。とても同じ人間には思えない。
自分に一体どれだけの視線が集まっているか、彼女はそれを理解しているのだろうか。あるいは、理解した上で気にしていないのか、彼女は顔色ひとつ変えず眉ひとつ動かさず、僕の隣に座った。
「………………」
途端に、周辺の空気が変わった気がした。本当に今僕が座っている席は、つい数十秒前まで僕の座っていた席なのか。それすら怪しい。
そしてチャイムが鳴り響いた。その音が一気に、僕たちを現実へ引き戻した。日常、と言った方がしっくりくるくらいだ。それくらい彼女の存在は、変わっていた。固まっていた五百蔵くんも、恐々と正面に向き直った。
「まだ分からない?」
声がした。水の上を走るような、小さくも心の底まで届く声だ。それは間違いなく、僕の隣から聞こえる。
「まだ分からない? 無花果くん」
「な、ん………………?」
何で僕の名前を知っている? それはほんの二文字しか、言葉にならない。
再び僕は、引き込まれていた。隣に座る彼女の、冷たさに。
「これから始まるのは、異常」
教室の前の方から、音がする。扉の開く音だ。今度は理屈をこねることなく、その方向を見た。隣から流れてくる冷気から、半ば逃れたかった。
彼女の発する冷気は、まるで『謎』が気体になったみたいだった。僕の器量には、とてもじゃないが収まりきらない。
チャイムが鳴って、その後に教室の前から入ってくる。教室の席はすべて埋まっている。このふたつからして、入ってくる人物はひとりしかいない。担任だ。
さてどんな先生なのやら。僕が今まさに切り合いをしてるに等しい緊張感の中を泳いでいることなどお構いなしに、教室中に期待や好奇心が漂う。その中には不安とか焦燥とかもあったのかもしれないけど、ただならぬ現状の僕にはそれを全て感知する余裕はない。
かくして入ってきたのは、赤いペンギンの着ぐるみだった。
僕が風呂と歯磨きを終わらせた時までは、日常だった。
食糧調達を始めたころから、非日常が襲ってきた。
意を決して登校したら、異常が待ち構えていた。
今はただ、僕の学校生活がそれだけの物語であることを祈るだけだった。
「えー、はい、早速朝のHRを始めます」
誰でもいい。何か指摘しろ。少なくとも僕には三つの疑問が見て取れる。
ひとつ、なぜ担任教師は赤いペンギンの着ぐるみなのか。
ふたつ、なぜ教師の声がバリバリの合成音声なのか。
みっつ、なぜ何事もなくHRを進めようとするのか。
よっつ、なぜ羊羹を片手に登場したのか。
ごめん四つあった。
「あ、しまったしまった」
生徒全員の疑問が届いたのか、その担任教師と呼ぶにふさわしいのか議論の余地が有りまくる物体は呟いた。もうこいつ生物と呼ぶのも無理だよ。声からして生命の息吹を感じない。
「先生が今日からあなたたちの担任です! 赤ペン先生とでも呼んでね」
問題はそこじゃない。全員の声が聞こえた気がした。
まあ、全員とはいっても、実際には何人か例外がいるのだけど。
たとえば僕の隣にいる得体のしれない(暫定)外国人さんとか。あとは、僕や鴨脚さんや五百蔵くんの座っている列の一番前にいる、いかにも委員長そうな男子とか。
「それじゃあ出席取りまーす」
「その前に、先生」
例外その二の男子生徒が赤ペン先生の言葉を遮って立った。銀縁の眼鏡を掛けて、華奢な体つきをしている。細い、というか病弱そうだ。年齢はどうもこのクラスでは一番高く見える。中学生を越して高校生くらいじゃないか?
「率直に言って、僕たちは混乱しています。どうか、この更生プログラムについて先に説明して頂けないでしょうか?」
「君は、遊馬耕一くんだね」
教卓に置かれたノートで、赤ペン先生が発言した男子生徒の名前を確認する。
「うーん。そうだね。見た感じ全員そろってるし、みんな混乱してるっていうなら説明しちゃおうか」
その言葉を受けて、遊馬くんは席に着いた。やけに落ち着いているのは、性格の問題か? その落ち着き方は、この場においては不自然なくらいだ。
「ちょっと待ってね。複雑だから、先生もどこから説明しようか悩むんだよね」
持っていた羊羹を齧る赤ペン先生。こっちはまるで緊張感が無い。
「まず、君たちは全員が不登校の小学校高学年から中学校までの生徒です。そして今回の更生プログラムとは、不登校になった生徒の社会復帰を目指すための、教育プログラムなんだよね。ここまではOK?」
生徒の年齢に関する具体的なところ以外は、根廻さんが言っていたのとだいたい同じだ。根廻さんはそれに付け足して、まだ導入試験を行っている段階のプログラムだとも言っていた。
「どうしてそういうことをするのかっていうと、最近すごく『ニート』という人が増えてきてるんです。『ニート』って、分かりますよね? 学校に通っていないし職にもついていない、ましてや職業訓練も受けてない人たちのことです。そういう人たちが増えると困るんですよ。どうして困ると思いますか? 手縄くん、分かる?」
「は、はあ?」
手縄と呼ばれたその男子生徒は、いきなり当てられたことに当然困惑した。その手縄くんは、丸坊主に日焼けした肌が合わさって、いかにもな野球少年だった。野性的とでも表現するべき鋭い目が、まっすぐ赤ペン先生の方を見ていた。
「んなこと言われてもな…………働くやつがいなくなるとかか?」
「そうですその通りです。『ニート』が増えると働く人が減るんだよ。ちょっと難しい言葉でいうなら『労働人口』とかかな? 特に少子化も進んでる現代じゃ、けっこう問題なんだよね」
「それとオレたちに、どういう関係があるんだよ」
手縄くんはいぶかしむように尋ねた。僕は何となく、赤ペン先生の言わんとすることが分かったような気がする。
何事もまず大切なのは初期の対策だ。『ニート』が問題視されているからといって『ニート』に直接的な対策を打つのはいささか即効性に欠ける。それよりも…………。
「風邪はひき始めが肝心って言うよね。『ニート』もそれと同じなんだってさ。つまり、『ニート』になる前にその予備軍を何とかしちゃおうって算段なんだよ」
その予備軍が、僕達か。
「実際は不登校がイコール、ニート予備軍ってわけじゃないけどね。でもひとつのきっかけで社会生活が困難になって、そこから立ち直れずに『ニート』になるってケースも多いから、不登校になった生徒へのケアは大切だよ」
「つまり、『ニート』が増えると社会的に困る。そこで『ニート』増加を抑制するために『ニート』になる確率が高い僕たちをなんとかしよう。そういうプログラムなんですよね?」
「そういうこと、遊馬くん」
…………まあ、確かにこういう機会でもないとそのまま引きこもりを続けて気づいたらニート、っていう可能性のまさにど真ん中にいた僕は、何も否定できないな。
「じゃあね、ここからは具体的な方針について話そうか。まず、君達には原則、絶対に学校に来てもらいます。体調不良なら仕方ないけど、仮病は駄目だよ」
そこはやっぱり絶対なのか。登校が不登校脱却の第一歩って、かなり倒錯している気もするんだけどな。
「それで、どうやって不登校を本格的に脱却するか。これが重要だよね。そこで、ちょっと資料を拝見」
赤ペン先生は教卓の下から、分厚い書類を取り出した。辞書ほどの厚さがある。何の資料だろうか。
……ところで、赤ペン先生はどうやって羊羹や資料を持ってるんだろう。明らかにあの手、翼なんだけど。
「これはこの更生プログラムを考案したある博士の資料だよ。これによるとね、君達みたいな生徒が不登校から脱却するために必要なのは、『自発的な行動』なんだって。君たちは確かに様々なきっかけから不登校になったけど、総じて不登校生活を続けている内に『何かをしよう!』って意志が薄れていくんだってさ」
もしかして、それが根廻さんの言っていた『一年間でやるべきこと』なのか? でも、それなら根廻さんがあの場でぼかす必要はないし、何よりまだ『自発的な行動』が何をさしているのかさっぱりだ。
「でも難しいのがここからなんだよね。『自発的な行動』が不登校から脱却する方法だとして、君たちがはいそうですかと『自発的な行動』をしてくれるとは限らないでしょ。それに、先生たちが『自発的な行動』をさせようとしちゃったら、それってもう自発的じゃなくなっちゃうもんね」
そこで赤ペン先生たちが用意した物。それが、根廻さん曰く『裏口入学』。
「そこで、先生たちは少しでも君たちが『自発的な行動』をしてくれるように、ビッグなご褒美を用意しました! それが、『環境の整備』なんだ。この資料を書いた博士曰く、環境を整備して活躍の場を広げることもまた、不登校脱却のポイントなんだって」
赤ペン先生はここで、生徒全員の顔を見回した。今までの説明で、どれだけの生徒が食いついているのか確認しているみたいだった。僕みたいに更生する気も今のところないようなやつは、あまり期待も興奮も覚えない話ではあった。見たところ大半の生徒が、今のところ僕と同じだ。
例外を上げるなら、手縄くんか。野性的な目をことさら鋭くして、赤ペン先生を見ている。彼からは、何か剣呑じゃない空気が漂っている。
「『環境の整備』っていうのは正確に言うなら、進学や就職のことだよ。もしこれから先生の言う『自発的な行動』を取ることができたなら、君たちの望む進学先や就職先を斡旋するよ」
「『自発的な行動』って、先生が決めるの?」
後ろから声がした。振り返るまでもなく鴨脚さんだ。声からして、手縄くんほどじゃないにしても興奮を隠しきれていない。彼女にもあるのか? そこまで前のめりになってこんな怪しい話を聞くほど、『環境の整備』を欲する理由が。
「ええ。当然ですよ。ほら、ちゃんと基準を設けないと極論歩いただけで『自発的な行動』になっちゃうでしょ? 先生たちが求める『自発的な行動』っていうのは、そういうのじゃないんだよね」
「で、でも…………」
「そ、れ、に」
さらに赤ペン先生が強調する。ここから先が、話の、プログラムの肝だと言わんばかりだ。合成音声では、その強調も少し弱くなってしまうのが難点だが。
「君たちはどういう理由があれ、今まで『義務』の教育をさぼってるんだよ? それなのに大したこともせずに好きなところへ進学したり就職したりなんて、いくらなんでも話が上手すぎるよね。それ相応のリスクってものがあります」
「…………リスク?」
その言葉に、妙な引っ掛かりを感じる。言葉のニュアンスというか、センスの問題だ。今の話の流れで『リスク』という言葉が出るのに、違和感を感じた。
リスク。それは『危険度』ということだ。しかし、『自発的な行動』と『危険度』が結びつかない。今のところは、『危険度』ではなく『難易度』、『リスク』ではなく『レベル』が入るべきじゃないのか?
今までの話を聞いた感じでは、赤ペン先生が特別語彙に不自由するような頭の持ち主でないのは分かる。そうなると、赤ペン先生はどうしてわざわざ『リスク』なんて言葉を使うんだ?
「じゃあ発表しまーす。皆さんにこの一年でしてもらう『自発的な行動』とは、ズバリ『殺人』でーす!」
「………………え?」
その違和感は、最悪の形で発言してしまった。
教室がいつの間にか、冬を迎えている気がした。全身の血液が足先へ向かって下っているのか、頭がすごく寒い。
「それでは、今からここに不登校児更生プログラム『義務殺人』の導入試験開始を宣言します! ヘイユー、殺られる前に殺っちゃいなよ!」
一 支給された赤ペンキーホルダーは常に身に付けなければならない。
二 特別な事情が無い限りは、登校しなければならない。
三 本プログラムの内容を部外者に口外してはならない。
四 殺人が許されるのはクラスメイトのみで、ひとりにつき3人まで。
五 教職員への攻撃は禁止。
六 校舎及び設備の破壊は禁止。
七 ルールを破った場合、生命の保証はできない。
「…………どう思う?」
それからしばらく赤ペン先生からの説明を受けたのちの、五百蔵くんの弁だ。
「どう思うって………………」
狂ってるとしか、思えなかった。
「つうかこれ、日常にあっていいことなのかよ。マジで分かんねえ」
五百蔵くんは頭を抱えてしまった。僕は五百蔵くんの言葉から、あの時の彼女の台詞を思い出していた。
「『これから始まるのは、異常』か…………」
まさにその通りだったのかもしれない。赤ペン先生が去り際に後ろの黒板に書いていったルールを見てあらためてそう思ったし、思わざるを得なかった。
隣の席を見る。その彼女はいなかった。鞄が机の横に掛かっているからまだ帰ったわけではなさそうだ。
ほとんどの生徒が、赤ペン先生の説明で頭に一撃を食らったらしい。しばらくしても、席を立つ者はほとんどいない。今日は入学式だからここまでと言われているけど、このまま謎だらけで帰っていいのか、みんな悩んでいるんだろう。
席にいないのは隣にいたあの人を除けば、遊馬くんとその後ろに座っていた女子生徒くらいか。どこ行ったんだろう。
「……あたしとしては、すごい怖いんだけど」
鴨脚さんがそう呟く。興味とか好奇心とか興奮とか、『義務殺人』の内容を聞く前にあったそれらのものはすっかり鴨脚さんから失われていた。
「特に…………一年間何もしなくても特にペナルティが無いって言うのが、余計に怖い」
ペナルティについては、赤ペン先生が去る前に説明していた。後ろの黒板に書かれているようなルールを破った場合は、ペナルティが待っているらしい。ルール七に『生命の保証ができない』と書かれている以上、それなりのものを覚悟した方が良さそうだ。
一方で意外なことに、一年間で殺人をしなかったとしてもペナルティは無いようだ。赤ペン先生曰く 「そういうのを付け足しちゃったら『自発的』じゃなくなるでしょ」とのこと。なるほど、ペナルティを付けるとそれは『脅し』になって、殺人が『自発的』ではなく『強制的』になるからか。それなりに考えてある。
その、考えてあるのが問題なんだろうけどね。荒唐無稽で冗談にしか思えない話なのにところどころに正当性というか、理論を感じる。ちゃんと考えて、大真面目にこの『義務殺人』を運営しようという腹だ。
「少なくとも今は、バトルロワイヤル状態にならないのを不幸中の幸いと捉えるくらいしかできないか……」
「そうだな無花果。なにせルール四で、ひとりの生徒が殺害できる人数に制約がある」
逆に言えばそれくらいしか、プラスに解釈できることが今は無い。それだけ現在の状況がどん底なのだ。
「それに実際問題、今の話を聞いてどれだけのやつが殺人を企むってんだ? 荒唐無稽もいいとこだ。一流の冗談と思った方がまだしっくりくる」
「…………鴨脚さんは興味を持ってたみたいだけど、そこまで『環境の整備』が魅力的だった?」
「それは…………」
鴨脚さんは目を伏せて、極まりが悪そうにしていた。自分が一瞬にせよこんな馬鹿げた話に乗ってしまったことが恥ずかしいのかもしれない。
「あたしは……ある程度聞いてたから。1年間であることをすれば、だいたいのことは望み通りになるって。でも、まさかそれが『殺人』だったなんて思わなくて……」
「え、紅葉、お前知ってたのか?」
鴨脚さんはおそらく、僕と同様に関係者からある程度の情報を与えられていたようだ。逆に五百蔵くんは、何も知らずにここまで来てしまったと見るべきか。このプログラム、実質は生徒自身の承認が無くても保護者の承認があれば生徒を強制的に参加させることができる。ここへきてその意味が、大きく変わっていた。
僕の両親は、知ってたのか? 知らなかったのか? この更生プログラムが、生徒に殺人を要求するものだということを。
確認のしようは、ないな。部外者への口外は禁止されている。部外者には、保護者も含まれている。
当事者は教職員やプログラムの関係者を除いて、この教室にいる生徒だけだ。
「……お前ら、少し話をさせてもらってもいいか?」
いつの間にか隣に、背の高い男子生徒が現れていた。体格は細身だが、遊馬くんのように病弱そうには見えない。凛々しい顔つきから、彼の聡明さが分かる。
「御手洗くん、でいいんだよね?」
「そうだ。念のためもう一度自己紹介をしようか? 御手洗清司だ」
あの後、赤ペン先生は一応出席を取ったから、彼の名前は分かっていた。御手洗清司。
「他の連中は見ての通りノックダウンって感じだ。お前らがどうも、今のところまともに話ができそうだと思ってな」
「それはどうも」
少なくとも、御手洗くんはノックダウンという印象を受けないけど。それに僕たちは比較的早い段階で親しくなったから話しているだけであって、決してノックダウンから遠い精神状態にあるわけじゃない。特に鴨脚さんは参ってるみたいだ。
「そういうお前はどう思うんだ?」
五百蔵くんの問いに、少しだけ考えるように御手洗君は沈黙する。
「普通じゃない、だろうな。それに疑問も多く残る。例えば、実際に殺人が起きたとして、本当にこのプログラムを仕組んだ連中は約束通り『環境の整備』を行うと思うか?」
つまり御手洗くんは、この胡散臭い話がどこまで真実なのか気にしているということだ。
「このプログラムを裏で指揮している連中の度量が分からん。規模も、思想も、信頼度もだ。あまりにも不確かすぎる。そこがはっきりしない以上、何も行動はおこすべきじゃないだろう。幸い、一年間何もしなくてもペナルティはない」
「結局、穏便に学校生活を送るのが一番ってことだろ?」
「そうなるな、武」
そうだ。御手洗くんの言うとおり、今のところ『義務殺人』は得体が知れない。それを裏で指揮する組織の本気度もよく分からない。それでも、僕たちは一年間何もしなくたって問題はないというルールを知っている。今できることはこの話がどこまで本気のことなのかを慎重に考えつつ、普通に学校生活を送ることだけだ。
「……そりゃ、あたしは殺人なんてする気ないよ。たぶん、それは九くんも五百蔵くんも御手洗くんも同じだと思う。でも、他の人は………………?」
鴨脚さんが、ぼそりとそんなことを言った。
「鴨脚さん……?」
「だって、あたしたちって今日会ったばかりだよ? 誰が何考えてるか、分からない」
「それは、俺も危惧してたんだ」
御手洗くんは、鴨脚さんの言葉を引き取って話を続ける。
「殺人の報酬が『環境の整備』だと赤ペン先生は言っていた。そして不登校から脱却――――更生するための手段だとも。裏を返せば一度殺人を行ったやつは、もうこのプログラムに参加する理由は無いということにならないか?」
「御手洗くん、それって…………」
「殺人を行った人物は更生プログラムから撤退、あるいは卒業になる可能性がある。それは要するに、一年を待たずにこんな命の危険と隣り合わせの教室から脱出できるということだ。『環境の整備』自体に魅力は感じなくても、保身に走って殺人を行うやつがいても不思議はない」
まるで考えられる可能性のひとつのように御手洗くんは話すけど、たぶんそれは現状最も考えられる殺人の動機だ。そもそも、ここにいる生徒は全員が例外なく不登校児。不登校に至る経緯は人それぞれだとしても、その状況を何はともあれ甘んじて受け入れてしまっているという点においては共通している。
それを思えば、いったいこの中の何人が『環境の整備』とかいう殺人の報酬を魅力的に感じているのか分からなくもない。鴨脚さんみたいな例はごく少数で、だいたいが『環境の整備』を欲してなどいないだろうし、不登校からの更生すら望んでいないかもしれない。
だからこそ、一番注意すべきなのは保身による殺人だ。
「本当は、誰も何もせずに一年間じっとしているのがベストなんだけどね……」
「無花果は分かるようだな。それがどれだけ難しいのか」
「まあ、ね」
御手洗くんも分かっているようだった。僕がこんな状況下で『何もしない』ことの難易度を理解できるのは、いつ誰がどんな理由で人を殺すか分からないという歴然とした事実を知っているからだ。あの口ぶりからすると、御手洗くんも知っているのかもしれない。
人を殺さない難しさとか、人に殺されない難しさとかを。
「ま、難しく考えても埒が明かねえだろ?」
五百蔵くんは明るく前向きに、事態を捉えようとしているみたいだった。
「今んとこ手に余る疑問が多すぎるんだ。ただ大人しく、じっとしてるしかない」
その難易度を理解できているとは、とても思えないけど。
「そりゃお笑い草だ! こんな美味しい状況に気付いてない馬鹿がたくさんいるとはな」
突然上がった笑い声に驚いて声のした方を向くと、立ち上がって鞄を手に持った少年の姿が見えた。手縄明。赤ペン先生にあの時質問されていた少年だった。思えば彼は、鴨脚さん以上に赤ペン先生の話に興味を持っていた。
そして不穏なことに、その興味は鴨脚さんと違って一切失われていないようだ。野性的な目を殊更鋭くして、手縄くんは僕たちに食って掛かった。
「お前らは分かってねえよ! 人ひとりさえ殺せば良いんだぞ。それで保身どころの話じゃねえ。散々怠けてたオレたちでも、どんな名門校にだって行ける。学校に行きたくねえんならどっかに就職を斡旋してもらえる。こんな美味しい話はねえよ!」
「その代わり、人を殺すんだぞ?」
御手洗くんは静かに問いかけた。人を殺すリスク。それを彼はどのくらい問題にしているのか。
そして彼は知っているのだろうか。人を殺すことの重大さを。
「そんなたいした問題じゃねえよ。『人を殺せ』って言っておいて、まさか殺したら牢屋行きってのはあり得ないだろ? ルール上許可された正当な行為だ」
違う。問題はそこじゃない。たとえ正当な行いだったとしても、殺人をすることの重大さは変わらない。
それが誰か、大切な人を守るための行為だったとしても、『人を殺した』という事実だけは変わることが無い。
変わることなく、立ちはだかる。
御手洗くんは肩を大げさに竦めてみせた。降参、というか、取りつく島が無いと諦めたみたいだ。
「そうか。それだけ、お前は勝ち上がることに執念を燃やしているんだな。なるほど分かった。それなら草霞野球団の一件も納得だ」
ほとんど最後の方は独り言だったが、手縄くんは聞き逃さなかった。『草霞野球団の一件』というのが彼にとってキーワードだったのか、手縄くんは急に狼狽えるような態度を見せた。
狼狽えるというか、痛いところを突かれたみたいな。
「て、てめえ! どうしてそれを!」
「どうした、たいしたことじゃないんだろ? 俺は学校を休んでる間に、ただ無益に時間を潰していたわけじゃないってだけの話だ。俺は古今東西の、実際に起きた事件を調査するのが趣味なんだ。ま、趣味が高じて学校を休んでた大馬鹿者だがな」
「…………ふん。ハイエナみてえな真似しやがる」
それだけ言い残して、手縄くんは去って行った。まあ、要するに捨て台詞を吐いて消えたって認識で間違いなさそうだ。
それにしても御手洗くんにそういう趣味があるとは驚きだ。いや、逆に納得できた。それだけ現実の事件に精通していれば、人を殺さない難しさを十分知っていてもおかしくない。
「どうしたんだ? 手縄くん、やけにさっさと帰ったみたいだけど……?」
手縄くんが去るのと入れ違いに教室に入ってきたのは、遊馬くんだった。手縄くんのことを聞く割には、あまり興味が無いという風でもあった。興味が無いというよりかは、ろくな答えが返ってこないと予想しているって感じかもしれない。
「急用を思い出したらしい」
それに対して御手洗くんも適当に答える。この場合「手縄くんの痛いところを突いて帰らせた」では説明にならないと判断したんだろう。彼は彼で少々勝手である。
あれ以上手縄くんに喋られると教室の空気が一層不穏になりかねないから、帰ってくれたのはありがたかった。
「で、お前は何してたんだ?」
「僕は職員室に行ってみたんだ。阿比留さんと一緒にね」
遊馬くんがそう言うのと同時に、教室前方の扉から女子生徒が入ってきた。遊馬くんと一緒に消えていた女子で間違いない。太めの眉と、手縄くんとはタイプの違う目の鋭さが印象に残る。肌が少し日焼けしているのは、手縄くんと似ている。だからといって野球ということはまずないだろうけど。たぶんテニスとかその辺だ。高校生ならともかく、中学生の女子で日焼けするスポーツはテニスと相場が決まっている。水泳部じゃないのはすぐに分かった。日焼けによってできるゴーグルの跡が全くないからだ。変な跡だから隠したいし消そうとも思うのは分かるけど、あれはさっぱり消せるものじゃない。
阿比留乙女というのがフルネームだった気がする。とにかく気の強そうな女子だ。そして僕はそんな女子が苦手だ。
一目散に逃げたいくらいだ。
「手縄のやつ追っかけてみたけど、やっぱ無理だった。なんなのあいつ? どういう性格してんの? 男子なんだからもっとしっかりしてほしいよね」
「放っておこう阿比留さん。彼は集団行動が苦手なんだろう」
僕も遊馬くんみたいに簡単に流せるとうれしいんだけどね。
「…………で、遊馬くん」
とりあえず僕は阿比留さんをどうするかを保留して、遊馬くんに肝心なところを聞くこととした。職員室に行ったという話だった。
「職員室に行ったんだよね? どうだった? 赤ペン先生以外の先生はいた?」
この際赤ペン先生はいてもいなくても同じことだ。他の教職員の存在が重要になってくる。
「いや、いなかった。職員室は鍵がかかっていて入ることができなかったが、それでも扉についているのぞき窓から中の様子は見れたんだ。見た感じ、赤ペン先生すらいなかった」
「無人、ってことで合ってるのかな?」
「さすがにそれはないだろう。僕たちの課せられている行為の重大さを思えば、人こそいなくても隠しカメラで様子を常に監視するくらいのことはするはずだ」
だよね。そこまで僕たちを放し飼いにするはずがなかった。
「他の教室はどうだったんだ?」
横合いから話に参加してきたのは御手洗くんだった。遊馬くんは冷静にその質問に答える。外見だけじゃなく立ち振る舞いからも、彼はとても中学生には思えなかった。
本当に高校生くらいの年齢なんじゃないだろうか。
「今は全ての教室を確認したわけじゃないが、ほとんど普通の学校という印象を受けるな。僕たちのクラス以外は誰もいないくせに、他の一般教室も机や椅子が並んでいた」
「他には?」
「他には…………学校の大体の構造を把握したくらいか」
遊馬くんは学校の構造、造りについて話し始めた。まとめると、この学校は三つの昇降口を基準に考えると分かりやすい構造をしているとのことだ。
三つの昇降口。それは僕が校舎に入る前に見たそれで間違いないみたいだ。僕たちが校舎に入るときに使った西側昇降口のほかに、昇降口が二つあると遊馬くんは言った。
「ひとつは校舎の反対側にある東側昇降口。そしてもうひとつは西側と東側のちょうど真ん中に位置する、中央昇降口。校舎自体がそれこそ上空から見ると漢数字の『一』みたいに一直線だ。昇降口を基準にすると校舎のイメージが掴みやすい。あくまで僕と阿比留さんが職員室を探す過程で見たものを総合して考えると、この校舎は中央昇降口を基準にしてふたつに分かれる。ひとつは西側昇降口から中央昇降口までで、つまり僕たちが今いるところなんだが、一般教室が並んでいる」
一般教室と遊馬くんが表現する教室は、つまり今まさに僕たちがいるような教室のことだ。机と椅子が人数分並んだ、学校生活を送るうえで基本となる場所だ。
「もうひとつが反対側、中央昇降口から東側昇降口までのエリアだ。こっちは特別教室――理科室や音楽室が並んでいた。職員室はそっち側にあったんだ。僕の説明は間違ってない、よな? 阿比留さん」
「え、うん。遊馬の説明で合ってる。後は東側昇降口を出て正面のところに体育館とプール、中央昇降口の前に花壇を見つけたくらいだよね」
たぶんもっと詳しい調査は必要だろうけど、僕たちがノックアウトしていた間にそれだけ調べていたのは遊馬くんのお手柄かもしれない。
一通りの説明が終わると、阿比留が僕――じゃなくて僕の隣を指差して怒ったように言った。たぶん、怒ってるんだろうなあ。
「で、それより、ここにいた子はどうしたの? なんで気づかない間にいなくなってるの?」
自分たちのことは棚上げか。僕達からすれば、遊馬くんも阿比留さんもいつの間にかいなくなってた人たちなんだけども。それをわざわざ指摘する理由は無い。それは諺なら『火に油を注ぐ』というやつである。ついでに風も送る結果になるかもしれない。
「ちょっと、九だっけ? あんた、知らないの」
飛び火かよ。火の諺を思い出してたら飛び火かよ。
笑えない。
「えっと、なんで僕が知ってると思ったのかな?」
「隣にいたでしょ?」
「隣にいたというか、偶然隣にいただけで、僕はあの人のことをまったく知らない。だから当然彼女がどこに行ったかなんて知るはずもないだろ?」
「何? キレてる?」
話にならないって、こういうことを言うんだろうか。僕の苦手なタイプが彼女であるのと同様に、もしかしたら彼女にとって苦手なタイプは僕なのかもしれない。お互いの出方というか、話し方にイライラしている。しかもお互いにその話し方は生まれつきというのが決定的だ。人類みな兄弟とは言うけども、最初から相容れないタイプの人っているんだよなあ。
そういうタイプの人とは、極力お近づきにならないのがお互いのためになるのだけど、向こうはそう思っていないみたいだ。
「キレてはないけど…………『キレる十代』と言われたことなら多々あるけど…………」
「え、何か言った?」
言った僕ですらどうでもいい呟きを聞き返された。これだから会話がかみ合わない。
「むしろ僕の方が知りたいくらいだよ。この、隣に座っていた人の行先ってのは」
「わたしの行先が、どうかしたの?」
その声が、喧騒を切り裂いた。
「…………は?」
見るといつの間にか、冷たい目をした彼女がそこにいた。
「え、ええ?」
阿比留さんも驚いていた。え、いや、なんで阿比留さんが驚くんだよ。僕は阿比留さんと会話していたから隣の席は視界の外だったし、思いのほかイライラしていたから彼女が入ってくる物音にまったく気づかなかったのは仕方ないにしても(全然仕方なくないのだけど)、ちゃんと彼女の座る席を視界に収めていた阿比留さんが驚くのは問題だ。
周りの人たち、五百蔵くんや鴨脚さんは特に驚いた様子を見せてないから、たぶん彼女が透明マントを使ったとか、そんなことはないはずだ。
しかしそれにしても、金色の髪を僅かに揺らす彼女は、最初からそこにいたかのようだった。
面喰って彼女の顔を見るしかない僕に、彼女はニコリともせず言葉を発した。
「どうしたの? わたしの顔に何かついてるかしら、『キレる十代』くん」
「あ、そんな前からいたんだ」
僕だって、気づかないとおかしいくらい結構前じゃねえか。
「ちょ、ちょっとあんた、今までどこ行ってたのよ!」
阿比留さんが怒って(これはもう完全に怒っている)、僕の隣に澄まして座る彼女へ尋ねる。
「雲母カリカ」
それに対する彼女の答えは、予想以上にかみ合わないものだった。第一、答えになっていない。阿比留さんの話など聞いていなかったかのようだ。
「わたしは誰になんと言われようとも気にする性質じゃないけど、『名前を知らないから』という理由であんた呼ばわりは頂けないわ」
「え、あっ、名前…………?」
阿比留さんが混乱している間に、彼女はこちらを向き直る。相変わらず表情に変化が無い。それでいて表情には冷たさとか無機質さが感じられないのも不思議だ。冷たさを感じるのはその瞳だけ。その変化の無い表情が彼女のスタンダードらしい。
「わたしは校舎を調べてたのよ。得体の知れないまま学校生活を送るほど、わたしの頭はおめでたく出来てないの」
「あ、ちょ、なんで九の方見て話してんの!? 質問してるのはあたし!」
それもそうだ。
「もっとも、あちこちに隠しカメラや盗聴器が設置されている以外は、耕一くんの言ったとおりよ。ここは普通の学校だわ」
「…………なんで、僕の話した内容を知っている? その時君はいなかったはずだ」
「ていうか隠しカメラと盗聴器があったら十分普通の学校じゃないよっ!」
遊馬くんと鴨脚さんの驚きも当然だ。遊馬くんの言うとおり彼女は遊馬くんの説明中にはいなかったはずだ。遊馬くんの性格を読んで、ハッタリをかましたのか? それで遊馬くんの結論が『普通の学校』じゃなかったらどうする気だ?
そして鴨脚さんの言ったとおり、得体の知れない学校で生活を送るのを警戒し調査した割には、思いっきり警戒するべき隠しカメラと盗聴器の存在をスルーする。それくらいは予想の範疇ということなのか?
分からなくなる。もとより分かるとは思ってなかったけど、余計に彼女の存在が掴めなくなる。
雲を掴もうと悪戦苦闘しているみたいだ。雲は届かないし、届いても掴めない。
「隠しカメラと盗聴器は別に問題じゃないわ。赤ペン先生に隠れて何かをするならともかく、直接命の危機に陥るようなものじゃないもの。今は放っておくしかないわね」
「命の危機が無ければいいのか…………?」
「問題はそれよりも――――――」
と、ここで雲母さんは話を切って、自分の机の横に引っかけていた鞄を手に取る。そういえば手縄くんの鞄は野球少年らしいスポーツバックっぽいデザインだったような。雲母さんの鞄は、まさに普通の通学鞄だった。
「…………問題は?」
「言わなくても分かるでしょ? 一から十まで何でも喋るのはわたしの趣味じゃないわ」
そう言い残して彼女は、すたすたと、それが当然だとでも言うように教室を後にした。
「あ、ちょっと!」
阿比留さんが慌てて後を追う。雲母さんは他人の性格に得意不得意などなさそうに見えるけど、阿比留さんはあからさまに彼女のような性格は苦手だろう。僕なんかよりもずっと。
「…………ああ」
思えば、どうして僕の名前を知っていたのか聞きそびれてしまったな。これからいくらでも顔を合わせるのだから、いつでも聞ける質問ではあるんだけど、早めに聞くに越したことはない。
なにせ明日に彼女が死んでいてもおかしくない。僕たちはそういう空間に身を置いているのだから。
「…………さて、僕は少し学校の様子を調べておくよ」
突然消えると阿比留さんに追いかけられかねないから、一応消える理由だけは伝えておくことにした。
僕が学校の様子を調べるのは、雲母さんに触発されたからではない。僕もこんな得体の知れない学校で生活を送るのは不安に思っていた。調べるのなら早い方が良い。遊馬くんの言っていたことの確認と、遊馬くんが調べていない細かいところは、特に授業の無い今日中に調べるのがいいだろう。
考えてみれば彼女は、隠しカメラと盗聴器以外では調べた情報をあまり教えてくれなかった。彼女は普通の学校と言ったけど、よくよく思うと僕たちの価値観と彼女の価値観が同じだとも限らない。たぶん違う。
それは彼女自身も得体が知れないというのもあるけど、そうでなくとも外国人、あるいはハーフくらいの可能性はある彼女だ。鴨脚さんでなくても海外の在住歴を疑う。単純に文化の違いから見落としていることもあるかもしれない。彼女がそんな見落としをするとは、あまり考えられないのだけど、まあ人間、どんなミスをするか分からないから。
「あ、あたしも行く!」
「俺も行く」
その僕の行動に合わせてそう言ったのは、鴨脚さんと五百蔵くんだった。だいぶふたりも手縄くんの件やさっきの雲母さんの話を挟んで、ノックダウンから立ち直ったらしい。よく見ると周りのクラスメイト達も、少しずつだが動き始めた。
「俺は遠慮しよう。これから調べものがある」
「僕も今日は帰らせてもらうよ。阿比留さんが僕を探すようならよろしく」
御手洗くんと遊馬くんは帰るみたいだ。でも、さらっと阿比留さんのことを押し付けないでほしい。彼女が僕を追ってくるとは考えていないけど。
「よし、じゃあ行こうか」
教室の後方にある扉から出て、そのまま中央昇降口を目指した。僕のプランとしては、まず中央昇降口を目指すだけだ。校舎の構造上まさに中心地点となるそこへ行ってから後の行動は決めようと思った。
「廊下を見た感じだと、普通の学校だな」
五百蔵くんがそんな感想を言った。
「……雲母さんも遊馬くんも、一応そう言ってたね」
あのふたりでは保留にしている『普通じゃない』部分が違うのかもしれない。
「あ、花壇だ」
鴨脚さんが指さした先を見る。中央昇降口にはすぐに着いて、鴨脚さんが指さしたのはその中央昇降口の正面だ。立派な花壇があるし、花も植わっていた。あいにく僕は花の種類に詳しくないから、赤いなとか、青いなくらいの印象しか受けなかった。
正面玄関のすぐ横には手洗い場があった。一瞬、何に使うのか不思議に思ったけど、近くに置いてあったホースを見てすぐに気付く。あのホースで花壇に散水するためか。他にも用途はあるんだろうけど、それが主なのは分かった。
「階段か……ここを上ろう」
中央昇降口のすぐ近くには、階段があった。いたって普通の造りの階段だ。頑張って感想を言ってみれば、階段の手すりが木でできているなあとか、それくらいだ。
「あたしたちが校舎に入った昇降口の近くにも、階段あったよね」
鴨脚さんの言葉で、僕は西側昇降口の様子を思い出す。残念ながらその時の僕は視野狭窄とまでは言わないけど視野が少し狭かったらしい。階段には気付かなかった。
「じゃあもしかしたら、東側昇降口の近くにもあるかもね」
むしろ無いとおかしい。バランスが悪すぎる。
「耕一は階段の話をしてなかったな。どういうことだ?」
「きっと、職員室は一階にあったんだよ。あくまで遊馬くんが学校全体の構造を話したのは職員室のついでだからね。職員室の説明に引きずられて、階段の話は忘れてたのかもしれない」
そしてここから東側昇降口の方向を見ると、確かに職員室らしい部屋の扉が目に入った。なんか雰囲気が違う。無人とはいえ、生徒にとってはやはり聖域のような場所なのかもしれない。
職員室の向こう側には、いくつかの部屋があるみたいだ。職員室の隣にわざわざ理科室や音楽室を置くとは考えにくい。放送室か保健室だろう。
階段を上りながら、左右を確認する。遊馬くんの言ったとおり、西側には僕たちがいたような一般教室が並んでいて、東側には理科室や音楽室といった特別教室が並んでいる。それぞれの教室は後で調べるにしても、見た感じはやっぱり普通の学校だ。
僕たち以外に生徒も教員もいないという事実をごく自然に受け止めることができるなら、だけど。
「…………あれ? この学校で三階建てじゃなかったの?」
最上階までたどり着いたところで、鴨脚さんが疑問を呈する。三階に僕たちはいるはずなのに、階段はさらに上まで伸びているからだ。それは逆に、僕からすると校舎の外観とぴったり一致する符号なんだけどね。
「校舎を外から見たときに、中央の部分だけ一階層分高くなっていた。たぶん、これがそこへ行くための階段じゃないかな」
「つまり、ひとつの教室だけ他の教室よりひとつ上にあるってことか? どうしてそんな変なことを」
「さあ」
五百蔵くんに聞かれても困る。ただ、案外その答えはすぐに出そうだ。実際に上って、どんな教室があるのか確かめればいい。雲母さんが特に問題にしなかったところを見ると、たぶんこういう思わせぶりな造りの割に普通の教室があるのかもしれない。
こんなところで考えていても意味が――――意義が無い。実際に確認しよう。
上ると少し、開けたスペースに出た。扉がふたつ見える以外は、特に気になるようなことはない。廊下の延長線上の部分と考えて問題はなさそうだ。
ふたつの扉のうち、ひとつは鉄製で少し錆びついたものだった。これは屋上へ出るための扉の様だ。今のところ用は無い。
もうひとつの扉は木製の、両開きの大きな扉だ。この開けたスペースといい、無駄に広くて大きな造りなのが気になった。たぶんこの開けたスペースは一クラス分の生徒が入っても問題ない広さだし、大きな木製扉は全開にすれば一度にたくさんの人が出入りできそうだ。
木製扉は少し高級そうなデザインをしている。会議室か何かか?
「……おい、これ鍵がかかってるぞ!」
五百蔵くんが木製の扉を開けようと試みたけど、それは徒労に終わった。僕も扉を前後に揺すってみたけど、何かが引っかかるような感触があるだけだった。引き戸と押し戸を間違えているということはない。
「鍵、か。重要な教室なのか?」
職員室にも鍵がかかっていたし、調べられると赤ペン先生的には困る教室なのかもしれない。そういう教室こそ調べたいというのが本心だけど、無理はできない。
扉自体は木製だから道具を使えば壊せなくはない。でも、設備の破壊はルール六に抵触する。ここは素直に引くしかない。
でもここまで来て収穫が何もないのではあまりに頂けない。僕は何かあったら御の字くらいの感覚で、鉄製の扉を開いた。こっちは鍵がかかっていない。錆びついているくせに何の抵抗もなく開いた。
でも、開いたところで通じているのは屋上だ。転落防止用の柵で囲まれている以外には、特筆するべきことはない。そう思って引き返そうとしたところで、僕は見た。
ひとりの女性が屋上のど真ん中で、横になっているのを。
「…………?」
横になっているというか、寝そべっているという表現が正しいかもしれない。白衣を着た、二十代前半くらいの女性だ。堂々と屋上のど真ん中で寝そべっている。長めの黒髪が目元を覆っていて確認が難しいけど………………。
うん寝てるねあれは、間違いなく。
「何? どうかしたの?」
僕が屋上の出入り口に立ちはだかっているせいで、鴨脚さんと五百蔵くんには何も見えていない。僕がどうして硬直しているのか、その理由が分からないだろう。
無人だと思っていた校舎で何気なく行ってみた屋上に人がいたら驚くって。
しかもその人が、おそらく遊馬くんたちが見つけていない『教職員』というやつなら尚更だ。
いやしかし、こうなると雲母さんは何を調べていたのか不思議になる。四階の教室は勿論のこと、ここに女性が寝ている事実をどうして隠したんだ? 目の前にいる女性に関しては入れ違いになったとか説明がつくにしても、あの会議室っぽい部屋は?
一から十まで喋るのは趣味じゃない、か。実際に彼女が話してたのは、精々全体の三割くらいだったのかもしれない。
とにかくあの女性に近づいて、話しかけてみないことには始まらない気がいた。やっと見つけた赤ペン先生以外の教職員だ。うまく情報が聞き出せると嬉しいんだけど…………。
「――春眠暁を覚えずとはよく言ったものだけど、それが孟浩然の詩から引用された言葉であることを知ってる人はどれくらいいるのかな?」
僕の歩みはしかし、三歩のところで止められた。僕のものでもない、五百蔵くんのものでもなければ鴨脚さんのものでもない声が屋上を満たしたからだ。
「中学生、といっても不登校児の君たちは知らないかもね。世の中、元ネタを知らずに使ってる言葉なんて幾らでもあるわよ。知ってる? 『赤信号みんなで渡れば怖くない』って言葉を諺だと思っている人は多いけど、あれってビートたけしが最初に言った言葉よ」
僕が3歩進んだことで、ふたりも屋上に出てくることができた。僕の隣まで来て、屋上に寝そべっている女性を見て驚いていた。
今やその女性は寝ているのではなく、不敵に笑ってこちらを見ていた。
「……名前は?」
それは僕に向けて発せられた質問だろうか? なにせこちらは三人いる。でもふたりは驚き中で二の句が継げないみたいだから、結局僕が答えるしかなさそうだ。
「九無花果」
「目が青い理由は?」
「不明」
「好き物は?」
「ホットドック」
「嫌いな物は」
「学校」
「よろしい」
何がよろしいのか僕にはわからない。
その女性は立ち上がって、こちらに向かって歩いてきた。どういう人物か分からないだけに、自然と体が構えてしまう。気づかぬ間に左足が少しだけ後ろに下がって、踵を上げていた。
「そんな警戒しないでよ。わたしは鴻巣夏子。あなたたちの副担任兼学校医ってところね」
「副担任? そんなのがいたんですか」
赤ペン先生は何も言ってなかったぞ。
「さすがにひとりで一クラスを担当するのは辛いって。普通のクラスならまだしも、あなたたちは年齢もバラバラだしね。そこでまあ、いろいろな補助的役割を任されたのよ。あなたたちも担任があんな妙な赤いペンギンじゃ一年間やってけないでしょ?」
「それもそうで、げっ!」
僕の言葉は途中で遮られる形となった。白衣を着た女性――鴻巣先生にヘッドロックを掛けられたからだ。いや意味分かんないですよマジで。
「ところでおふたりさんの名前も聞こうかな?」
「い、いや、離せ………………!」
「え、えっと、あたしは鴨脚紅葉です……」
「俺は、五百蔵武だ」
おいふたりとも! 普通に会話を進めるな…………!
「ところでさっきまでいた金髪美少女はどこ行ったのかしら? うっかり話の途中で寝ちゃってさあ」
「金髪……雲母ちゃんのことですか?」
ふうん。やっぱり雲母さんはここに来てたのか。いや、そうじゃなくて…………。
「は、はな…………!」
「あれは結構な上物だったな…………! へへ、逃がすとはわたしも惜しいことをした」
そしてなんで先生は体目当ての野郎みたいな口調になったんだ!?
「あんな美少女まずお目にかかれないからね。五百蔵くんだっけ? あんたも機会があれば狙っちゃいなさいな。ああいう子って意外と力押しに弱いものよ」
「……俺はそうは思わないけどな…………」
雲母さんが力押しで男に靡くようには、僕にも思えない。むしろ押し返されそう……じゃなくて!
「し…………し……」
「あーあ、わたしって人の顔と名前覚えるのが苦手なのよね。これから三十三人もの名前を覚えないといけないとなるとちょっと憂鬱」
そのタイミングで、やっとヘッドロックは解除された。
「は、…………はあ。何するんですか!」
「あ、そういえば鴻巣先生って、誰かに似てると思ってたんですけど思い出しました。『No’s』の無意味ちゃんだ!」
あ、あの…………、鴨脚さん、マイペースなのは良いけどヘッドロックの理由が……。
そして誰だ。その無意味とかいうやつ。
「へえ。わたしって結構いろんな人に似てるって言われるんだよね。ついに年下のアイドルにまで似だしたか…………」
生憎僕はその無意味とかいうアイドルを知らないから判断がつかない。でも、『No’s』の追っかけまでしていたらしい鴨脚さんが言うくらいだから、たぶん似てるんだろうな。
……さっきから『No‘s』の名前は無意味だの無理だの無闇だの、やたらアイドルらしくない名前ばかりだな。全員の名前に『無』の字が入っているのが『No’s』の由来なのは分かったけど。
珍しい『九』の苗字を持つ牧原無理の存在は多少気になる、かな? なかなか今まで生きてきて、親類以外で同じ苗字の人には会ったこともないし、聞いたこともないからね。もしかしたら知らなかっただけで、親類って可能性もある。その可能性を考慮しなくてはならないほど、僕は引きこもって外の情報をシャットアウトしていた。
もうひとつ気になることがあるとすれば、あれだ。無意味という『No’s』の一員だ。
言うまでもなく、無意味なんて芸名だ。でも、気になる………………。
まさか、ねえ。
「ところで鴻巣先生。先生はこの『義務殺人』についてはどれくらい事情を知って参加しているんですか?」
それよりも重要なのは、今目の前にいる鴻巣夏子という教師のことだ。本人の言葉に合わせれば『学校医』か。保健室にいる人のことを『保健の先生』としか呼んだことが無いから、まず学校医なんてポジションが存在するのかどうか怪しむところからのスタートだった。
現実に学校医という職種が存在しないなら、このプログラムにおける立ち位置のひとつとして認識するだけだから、そこを気にする必要はないのかもしれないけど。
「うーん。全部ってわけじゃないのよね」
鴻巣先生は白衣の胸ポケットからペンライトらしき物を取り出して、右手でクルクルと回し始める。典型的なペン回しだが、ペンライトでやる人は初めて見た。普通のペンよりペンライトは重いはずだから難しいはずなのに、器用にクルクルと、落とすことなく回している。
どうやら悩んでいるみたいだ。かといってどこまで話そうか悩んでいるという風ではない。どう話したら信用してもらえるか悩んでいるように思えた。
「わたしは一応、生徒と赤ペン先生の中間に立ってプログラムを滞りなく進めるって役割があるのよ。だから知ってる事情ってのは、きっとあなたたちと大差ないわ。余計な情報入れちゃうと、わたしが生徒に余計なことを話しかねないでしょ?」
「プログラムの工作員、ではあるんですよね?」
「工作員。良い響きね」
良い響きではないと思う。決していい意味でもない。小学生の頃、工作員を図工の先生の一種と思っていた僕が言えることではないのかもしれないけど、工作員という言葉に良い響きも意味もないはず。
「そうね。志願してこの立場にいるっていう点は、あなたたちと違うわね。後は…………プログラムの考案者を知ってるくらいか。それがどれだけあなたたちの興味をそそるかは別にして」
「興味ないですね」
聞いたところでどうしようもない情報なら、入れない方が良い。特にこういう、裏世界的な情報は聞かないに越したことはない。その情報が原因で僕の家に黒づくめの男たちが来たらどうする。
来たけど、実際。
「あくまでわたしの仕事は学校生活を送るためのサポートだから、赤ペン先生と違って脅威になるようなことはないわ」
中立を保つ気なら、脅威になることはない。それはそうなんだけども………………。
「このプログラムは一年間何もしなくても特に問題はないから、あなたたちが殺人をしたくないならそういう選択肢もある。結局、この一年がどうなるかはあなたたち次第よ」
「………………死なないといいですね、誰も」
三十三人が、誰も殺さずに一年間を過ごす。普通に考えれば全然無理じゃない。出来て当たり前のことではある。そう思う人がほとんだ。
……誰がいつ、どこで、どんな理由で人を殺すか分からない。そんな簡単な事実を知らない人たちが思えば、そういう結論が出る。
鴻巣先生もまた、一年間で一度も殺人を起こさないことが難しいことを知っているのかもしれない。
「心配すんなって無花果。そんな馬鹿げたこと、あのクラスの誰がするってんだよ!」
「…………五百蔵くん」
じゃあ君は知っているのか。
君の隣にいるこの僕の両手が、既に血に染まっているという事実を。