第2話 止まらない欲望
地下室の空気は、相変わらずぬるく湿っていた。換気のされていないコンクリートの空間というのは不思議なもので、時間が経てば経つほど空気そのものが重たくなっていく気がする。湿気を吸い込んだ壁の匂いと、こもった体温と汗の匂いが混ざり合い、呼吸するたびに肺の奥までじっとりとまとわりついてくるようだった。天井から吊るされた裸電球の頼りない光は、時折わずかに揺れながら壁に長い影を落とし、その影がゆっくり形を変えるたび、この狭い空間の中で何かが生き物のように蠢いている錯覚を起こさせる。
壁に映る影は二つあった。
絡み合うように重なり、離れ、またすぐに重なる。
俺の喉から、かすれた吐息が漏れる。
どれくらい時間が経ったのか、もうまともに考えることすらできなかった。最初の頃は天井の電球が揺れる回数を数えたり、壁のひび割れを目で追ったりして、どうにか時間の感覚を保とうとしていたが、そんな努力は二日目の途中で完全に意味を失った。地下室には昼も夜も存在しない。ただ同じ空気と同じ光が続き、同じ状況が繰り返されるだけで、その単調な繰り返しの中で俺の体力も集中力もゆっくり削り取られていった。
彼女は俺の上にまたがり、身体を揺らしていた。
その動きは最初の頃よりもずっと激しくなっていた。
人間だった頃と同じ細い体つきなのに、その動きは以前とはまるで違う。躊躇も遠慮もなく、ただ自分の欲求に従って身体を揺らしている。理性が消え、本能のままに衝動を追いかける存在になった悪魔というのは、こういうとき妙に執念深い。人間だった頃ならどこかで恥じらったり、様子を伺ったりするはずの距離や時間の感覚が完全に消えていて、ただ「欲しい」という感情だけが前面に出ている。
彼女の髪が揺れる。
額から汗が落ちて、俺の胸に滴る。
呼吸が荒く、肩が上下するたびに影も一緒に揺れた。
「……っ」
俺の喉から、情けない声が漏れる。
もう何度目かわからない。
最初は抵抗した。
当たり前だ。
話をしようとした。説得しようとした。落ち着けと何度も言った。だがそのたびに彼女は首を振り、まるで子供が駄々をこねるみたいな顔で同じ言葉を繰り返す。
――なんでいなくなったの?
それだけだった。
答えようとしても、最後まで聞く気はない。
言葉は途中で遮られ、結局こうなる。
彼女の腰の動きが急に強くなる。
俺は奥歯を噛みしめながら、天井の光をぼんやり見上げる。抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。三日間ほとんど眠っていないのだ。水は与えられるし、簡単な食べ物も口に入れさせられるが、まとまった休息を取る時間は一度もなかった。彼女は眠らない。悪魔になってからというもの、休むという行為そのものが必要なくなったみたいに、ずっと同じ衝動のまま動き続けていた。
視界の端がゆっくり暗くなり、意識が遠のきかける。
身体の力が抜け、呼吸が浅くなる。
もう無理だと思った瞬間、頭の上に冷たい手のひらが触れた。
「……だめ」
遠くから呼び戻されるみたいに、彼女の声がぼんやりと耳に届いた。意識の縁が暗く沈み込み、音も光も遠ざかっていく感覚の中で、その声だけがやけに鮮明に通り過ぎていった。
次の瞬間、頭の奥へ熱いものが流れ込んできた。
それは温度のある液体みたいでもあり、電流のようでもあり、とにかく普通の感覚では説明しづらい何かだった。脳の中心を直接掴まれて揺さぶられるような衝撃が走り、沈みかけていた意識が無理やり水面へ引きずり上げられる。心臓が強く跳ね、胸の奥でどくんと音を立てた。
視界が一気に明るくなる。
さっきまで遠ざかっていた裸電球の光が、急に目の奥へ突き刺さるように戻ってきた。
「起きて」
彼女が静かな声で言う。
それは命令というより、むしろ当然のことを確認するような響きだった。
魔力だ。
悪魔が持つ、あの妙な力。
理屈はよく知らないが、人間の身体に直接流し込まれると、眠りかけた意識を強制的に引き戻すことができるらしい。痛みというより、神経を一本一本つまみ上げて無理やり働かせるような感覚で、頭の奥がじんじんと痺れる。
俺は大きく息を吸い込んだ。
そのまま肺が追いつかず、盛大にむせる。
「……は、……っ」
喉が焼けるみたいに痛い。
胸が苦しい。
呼吸を整えようとしても、身体が思うように言うことを聞かない。
彼女はそんな俺の顔を覗き込みながら、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「寝ちゃだめ」
その言い方は叱るようなものではなく、むしろ本気で不思議そうだった。
まるで「どうしてそんなことをするの?」とでも言いたげな、子供みたいな表情で俺を見ている。
「まだ終わってないから」
終わってない。
その言葉を聞いた瞬間、乾いた笑いが喉の奥に引っかかった。
終わりなんて、最初から存在していないくせに……
彼女はまた身体を動かし始める。
ゆっくりと、しかし確実に。
裸電球の光が揺れ、それに合わせて壁に映る影も揺れる。二つの影は重なり、離れ、また重なりながら、歪んだ形でコンクリートの壁を這っていく。
彼女の額から汗が落ち、俺の胸へぽたりと滴った。
地下室の空気は相変わらず重く、湿気を帯びていて、呼吸するたびに温い匂いが肺の奥へ入り込んでくる。彼女の呼吸は荒く、動くたびに肩が上下し、そのたび影も一緒に大きく揺れた。
俺はぼんやりと天井の電球を見つめながら、頭の中で同じ言葉が何度も反芻されるのを感じていた。
――なんでいなくなったの?
それは問いかけの形をしているが、実際には質問というより呪文に近い。
彼女は答えを欲しがっている。
そう見える。
でも本当のところ、答えそのものは必要としていない。
彼女が求めているのはきっと“理由”だ。
壊れてしまった時間を、もう一度つなぎ直すための理由。
大学の帰り道。
夜のキャンパス。
人気のない歩道を並んで歩きながら、どうでもいい話をしていた時間。バスケットの試合の話とか、授業の愚痴とか、コンビニの新作アイスがどうとか、そんな本当にどうでもいい話ばかりだった。
俺にとっては、軽い関係の延長にある時間だった。
退屈な日常の隙間に挟まる、ちょっとした寄り道みたいなもの。
でも彼女にとっては、どうやら違ったらしい。
同じ時間を共有しているうちに、それがいつの間にか別の意味を持ち始めていた。
俺が気づかないうちに。
俺が何も考えないまま笑っている間に。
そして俺は、その意味を知らないまま離れた。
それだけの話だ。
彼女の動きがまた、急に強くなる。
身体が揺れ、影が大きく歪む。
「ねえ」
荒い息の合間に、彼女が言った。
「どうして?」
またその言葉だ。
俺は目を閉じる。
答えを考える余裕なんて、もう残っていない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
彼女は俺を憎んでいるわけじゃない。
むしろ逆だ。
壊れるほど、欲しがっている。
それが一番厄介だった。
彼女の声がまた耳元に落ちる。
「なんでいなくなったの?」
地下室の空気は相変わらず重く湿っていて、逃げ場も出口もない。
そして彼女の問いは、三日前とまったく同じ調子で、何度でも繰り返される。
まるで針の外れた古いレコードが同じ溝の上を延々となぞり続けるみたいに、どこにも進まず、ただ同じ場所をぐるぐると回り続けながら。




