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ただのセフレだったはずなのに  作者: 平木明日香
第1章 薄れゆく境界線
4/5

第1話 話くらい聞いてくれ



 俺は今、悪魔に監禁させられている。


 状況だけを抜き出して説明すると、だいぶ荒唐無稽な話に聞こえるかもしれない。地下室、裸、監禁、悪魔――並べてみると、どこかの安っぽいスリラー映画のあらすじみたいだし、脚本家が「もう少しリアリティを出しましょう」なんて頭を抱えそうな設定だ。だが残念ながらこれは創作でも冗談でもなく、俺が現在進行形で置かれている極めて現実的な状況であり、しかも観客もカメラもいないから、助監督が「はいカット」と言ってくれる気配もない。あるのは湿気を吸ってひんやりしたコンクリートの床と、天井からぶら下がる裸電球の頼りない光、それから俺の尊厳をわりと雑に扱う一匹の悪魔だけだ。


 いや、正確に言うなら「一匹」という言い方は少し違う。


 そいつは三日前まで人間だった。


 しかも俺の知り合いで、もう少し正確に言えば、恋人でも友達でもない、かといって赤の他人でもない、なんとも説明しづらい関係だった女だ。要するに、元セフレである。


 この単語を声に出して説明するとやたらと軽薄に聞こえるが、事実は事実だし、俺の人生をここまでややこしい方向へ転がした原因でもあるので、今さら取り繕うつもりもない。


 地下室の空気は妙にぬるく、湿ったコンクリートの匂いと、換気不足のせいでこもった生暖かい匂いが混ざり合っていて、長く吸っていると頭がぼんやりしてくる。俺はその床に仰向けになりながら、天井の裸電球をぼんやり眺めていた。


 もちろん、裸だ。


 誤解の余地なく、完全に。


 服は三日前、ここに連れてこられたときにきれいさっぱり没収された。シャツもジーンズも靴も靴下も、ついでに言えば俺のささやかな自尊心まで、彼女はかなり几帳面に取り上げていった。悪魔という生き物は意外と整理整頓が好きらしく、余計なものをそのへんに散らかしておく趣味はないらしい。


 俺がようやく声を出したのは、喉の奥がひどく乾いているのを感じながら、何度目かわからない諦めに近い溜息をついたあとだった。


「……なあ」


 地下室の奥に向かって声を投げる。


「いい加減、話くらい聞いてくれよ」


 部屋の隅には古い椅子が一脚置かれていて、その上に彼女が座っている。膝を抱えたまま、こちらをじっと見ていた。


 人間だった頃と、外見はほとんど変わらない。


 髪の長さも、顔の輪郭も、少し皮肉っぽく上がる口元の癖も、大学で出会った頃のままだ。


 違うのは、目だ。


 瞳の奥にある光が、まるで別物になっている。


 理性の代わりに、何か湿った衝動の塊が居座っているみたいな、あの感じ。三日前の夜、俺はそれをはっきり見た。


「……なんで?」


 彼女がぽつりと呟いた。


 それは俺に向けた質問というより、空気に向かって落とされた独り言みたいな声だった。


「なんでいなくなったの?」


 またその話だ。


 この三日間、何度も何度も繰り返された問い。


 俺は頭の後ろで手を組みながら、天井を見たままゆっくり息を吐いた。


「だからさ……それは説明しただろ」


「嘘」


 言葉は途中で遮られる。


 彼女の返事は、信じられないくらい即答だった。


 最初から聞く気なんてないのだ。


 悪魔ってやつの厄介なところは、人格が完全に消えるわけじゃないことだ。むしろ逆で、人間だった頃の感情の一部だけが妙に増幅されて残る。怒りとか、執着とか、欲望とか、そういうブレーキの壊れた感情だけがむき出しになって、理性の代わりにハンドルを握る。


 彼女の場合、それが俺に対する個人的な感情だった。


 しかもかなり歪んだやつ。


 彼女は椅子から立ち上がると、静かにこちらへ歩いてくる。コンクリートの床に落ちる足音は不思議なくらい軽くて、獲物に近づく猫みたいに気配が薄い。俺の目の前でしゃがみ込むと、指先で胸のあたりをなぞった。


 ぞくりと背筋が粟立つ。


「ねえ」


 彼女は首を傾けながら、柔らかい声で言う。


「私たち、楽しかったよね?」


 返事を考える余裕はあまりなかった。


 否定したところで話が長くなるだけだと、この三日間で学習している。


「……まあ」


 曖昧に答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。


「大学の帰り道とかさ、一緒に歩いたりして」


 指先がゆっくり下へ滑っていく。


 俺は慌ててその手首を掴んだ。


「やめろって」


 ただし力はほとんど入らない。三日間まともに寝ていないし、体力もかなり削られている。


 彼女はその手をあっさり振りほどいた。


「どうして止めるの?」


 唇は笑っている。


 目は笑っていない。


「好きだったんでしょ?」


「いや、だからまず話を――」


「私、好きだったよ」


 言葉はまた途中で遮られる。


 彼女は俺の肩に額を預けながら、小さく息を吐いた。


「すごく」


 その体温は人間の頃と同じで、抱きつかれる距離も変わらないのに、そこにある気配だけが決定的に違う。


「だからさ」


 耳元で囁く声は、どこか満足そうだった。


「取り戻したいだけなの」


 取り戻す。


 便利な言葉だ。


 三日間、ほとんど休みなしで付き合わされている俺の立場からすると、解釈がだいぶ違う気もするが。


 彼女の腕が背中に回る。


 逃げようと体を動かすが、力が入らない。


 水はもらえる。食べ物も少し。


 ただし休憩はない。


 彼女は俺の体を抱き寄せながら、満足そうに息を吐いた。


「やっと一緒にいられる」


 その声には、妙に幸せそうな響きがあった。


 俺は天井の裸電球を見上げる。


 小さく揺れている光が、ぼんやり視界に滲んだ。


 助けが来る可能性を考えないわけじゃない。


 でもこの街では、悪魔絡みのトラブルなんて珍しくもない。


 運が悪かった。


 ただそれだけだ。


 彼女の髪が肩に触れる。


 人間だった頃と同じ匂いがした。


 それが一番たちが悪い。


「……なあ」


 俺はもう一度言った。


「頼むから、話くらい――」


「いいよ」


 彼女はあっさり答える。


 そして微笑んだ。


「終わったらね」


 その笑顔は、三日前まで俺が知っていた彼女と、ほとんど同じだった。


 ただ一つだけ違うのは――


 そこに、終わりという概念が存在していないことだった。

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