金の重さ
よろしくお願いします
ある夜、浮浪者が来た。
雨に打たれたのだろう、擦り切れたコートは重く濡れ、靴底は剥がれかけていた。
頬はこけ、唇は紫色に乾き、今にも倒れそうな様子だった。
「……泊めて、くれませんか……」
声はかすれ、視線は床に落ちている。
必死さよりも、諦めに近い静けさがあった。
私は少し考え、穏やかに口を開いた。
「事情は伺いませんが、このままではお辛いでしょう。お金は結構です。どうぞお入りください」
一番下のスタンダードルームの鍵を差し出す。
浮浪者は驚いたように目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「お気になさらず。どうか、ゆっくりお休みください」
しばらくしてから、私は厨房に戻り、簡単なスープを用意した。
トレイを持って、スタンダードルームの扉をノックする。
「失礼いたします。よろしければ、こちらもお持ちください」
扉を開けた浮浪者は、部屋の隅に腰を下ろしていた。
スープの湯気を見た瞬間、はっとしたように息を呑む。
「…いいんですか?」
「ええ。温かいうちにどうぞ」
私はテーブルに置き、静かに下がろうとしたが、
彼は慌ててスプーンを手に取った。
一口すくい、口に運ぶ。
その瞬間、肩が小さく震えた。
「……ああ」
声にならない息が漏れる。
二口、三口と、確かめるようにゆっくり食べる。
空腹だけでなく、体の奥まで温まっていくのが伝わってきた。
「こんな、ちゃんとした食事は……久しぶりです」
彼はスプーンを置き、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。泊めていただいただけでも十分すぎるのに……」
「どうか、お気になさらず。今夜は、体を休めることだけ考えてください」
そう言うと、彼は何度も、何度も頷いた。
「はい……はい。必ず、忘れません」
翌朝、ロビーに降りてくる足音がした。
浮浪者は昨夜よりも、ほんの少しだけ表情が和らいでいた。
私はカウンター越しに軽く会釈をする。
「おはようございます。よくお休みになれましたでしょうか」
「はい……おかげさまで」
彼はそう答えると、しばらく迷うように立ち尽くし、やがて深く頭を下げた。
「昨夜は、本当にありがとうございました。泊めていただいて、スープまで……」
「どういたしまして。無事に朝を迎えられたなら、それで十分です」
そう言うと、彼は顔を上げ、真っ直ぐこちらを見た。
その目には、昨夜とは違う力が宿っていた。
「……また、来てもよろしいでしょうか」
「ええ。もちろんです」
彼は一度、息を整えるように胸に手を当てた。
「次は、きちんとお金を払って泊まります。客として、ここに来ます」
「承知いたしました。その時は、どうぞお気兼ねなく」
彼は小さく笑い、再び頭を下げる。
そうして、彼はホテルを出ていった。
ーーーーーーー
ある夕方、扉のベルが鳴った。
振り向いた私は、一瞬だけ判断に迷った。
そこに立っていた男は、以前の浮浪者とは違っていた。
擦り切れたコートはなく、代わりに安価そうだが清潔な上着を着ている。
靴も新品ではないが、きちんと手入れされていた。
顔の疲労は残っているものの、あのときの惨めさはない。
「ご無沙汰しております」
そう言って、男は軽く頭を下げた。
私は少ししてから、彼だと気づいた。
「……お戻りでしたか」
「はい。約束どおり、今日は泊まりに来ました」
彼はポケットから、折りたたんだ紙幣を取り出し、カウンターに置く。
「スタンダードルームを、一泊お願いいたします」
私は金額を確認し、鍵を差し出す。
「承知いたしました。こちらがお部屋の鍵でございます」
彼はそれを受け取り、少しだけ笑った。
「……あの時とは、ずいぶん違って見えるでしょう」
「ええ。お元気そうで何よりです」
「おかげさまで、いい仕事が見つかったんですよ」
チェックインを済ませた後、彼はロビーに残った。
「もし、よろしければ……食事をお願いできますでしょうか」
「はい。承っております」
私はメニューを差し出したが、彼は少し考えたあと、首を振った。
「前に、スープを出していただきましたよね。あれと、それから……ピザを一枚、お願いしたいのですが」
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
厨房でピザを焼き、以前と同じスープを用意する。
湯気の立つ皿をテーブルに置くと、彼は目を細めた。
「また、この匂いですね」
まずスープを一口飲む。
ゆっくりと味を確かめ、懐かしむように頷いた。
「やっぱり、落ち着きます」
次に、ピザに手を伸ばす。
一切れ持ち上げた瞬間、少し驚いたように眉を上げた。
「……温かい」
当たり前のことのようで、彼には新鮮だったのだろう。
一口かじった途端、目を見開いた。
「……え?」
思わず、もう一口。
今度は噛みしめるように、ゆっくりと。
「……これは……」
言葉を探すように黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
「こんなに、美味しいものだったんですね。ピザって」
「お口に合ったようで、何よりです」
彼は、思わず笑ってしまったように口元を押さえた。
「正直に言うと……前は、冷えたパンみたいなものしか食べたことがなくて」
そう言って、もう一切れ口に運ぶ。
ピザの皿がほとんど空になった頃、私は静かに声をかけた。
「差し支えなければ、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
彼はナプキンで口元を拭き、顔を上げる。
「はい。何でしょう」
「最近は、どんなお仕事をされているんですか?」
問いは柔らかく、探る響きは込めなかった。
ただ、以前とは明らかに違う彼の様子が気になっただけだ。
彼は少しだけ考える素振りを見せてから、曖昧に笑った。
「……細かいことは、言えないんですが」
「ええ。無理に伺うつもりはございません」
「ありがとうございます」
そう前置きしてから、彼は続けた。
「ただ、前よりは……ちゃんと稼げています。少なくとも、食事と宿に困らない程度には」
その言い方は控えめだったが、
懐の余裕を隠すような、不思議な落ち着きがあった。
「それは、何よりでございます」
「ええ。あの夜を思えば、ずいぶん遠くまで来た気がします」
彼は、空になった皿を見つめながら、ぽつりと言った。
「なので……また、ここに泊まろうと思っていす。」
「承知いたしました。当ホテルは、お客様を歓迎いたします」
そう答えると、彼は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
ーーーーーーーー
それから、またしばらくの時が流れた。
夕刻、ホテルの扉が開く。
入ってきた男を見て、私は一瞬、別の客かと思った。
仕立ての良い上着。
布地は上質で、体に無理なく馴染んでいる。
指には鈍く光る指輪、首元には控えめなアクセサリー。
どれも派手ではないが、安物ではなかった。
だが、近づいて気づく。
頬に薄い切り傷。
手首には、袖で隠しきれない痣。
服装の豪華さとは不釣り合いな、荒れた痕跡だった。
「こんばんは。ご無沙汰しております」
声は落ち着いていて、以前よりも低く、よく通る。
「……お変わりになられましたね」
私がそう言うと、彼は小さく笑った。
「おかげさまで。少し、忙しくしていまして」
彼はポケットから札を取り出し、カウンターに置く。
「今日は、デラックスルームをお願いできますでしょうか」
その選択に、迷いはなかった。
「承知いたしました」
鍵を渡しながら、私は視線を彼の顔に戻す。
「お怪我をされているようですが……」
「ええ。仕事柄、多少は」
それ以上は語らない。
だが、その言葉には、軽さと重さが同時にあった。
「無理はなさらぬように」
「お気遣い、ありがとうございます」
彼はそう言って微笑んだが、
その笑顔は、以前よりも少しだけ影を帯びていた。
部屋に荷物を置いた後、彼は再びロビーに降りてきた。
「恐れ入ります。本日も、お食事をお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい。承っております」
「スープと……それから、肉料理を一皿、お願いします」
言い方は落ち着いていたが、
その目には、わずかな期待が滲んでいた。
厨房で肉を焼く。
焼き色がつき、脂が静かに音を立てる。
皿に盛り、スープと共に運ぶと、彼は一瞬、言葉を失った。
「……いい匂いですね」
まずは、いつものようにスープを一口。
目を閉じ、深く息を吐く。
「変わらない。ここに戻ってきた、という感じがします」
そして、肉にナイフを入れる。
刃が抵抗なく通り、肉汁が溢れた。
一口、口に運ぶ。
次の瞬間、彼の動きが止まった。
「……あ」
小さく、短い声。
彼は噛むのをやめ、ただ味を感じている。
やがて、ゆっくりと噛みしめ、息を震わせた。
「……すごい」
「お口に合いましたでしょうか」
「ええ……正直に言うと、今までで……一番おいしい」
彼は胸に手を当てた。
「噛むたびに、体の奥に落ちていく感じがします。ああ、ちゃんと……生きてるなって」
そう言って、少し照れたように笑う。
彼が食べ終わり、静かに席を立った後、
私はカウンターの奥で伝票を整えた。
肉料理は、当ホテルでも高価な部類に入る。
量は多くないが、質で値が張る一皿だ。
彼は戻ってくると、伝票に目を落とした。
一瞬、金額を確認するように視線を止める。
そして、何の躊躇もなく、内ポケットから紙幣を取り出した。
一枚、二枚、三枚。
必要な額を正確に数え、カウンターの上に並べる。
「こちらで、よろしいでしょうか」
「はい。確かに頂戴いたします」
私がそう答えると、彼は安堵したように小さく息を吐いた。
「……正直に言うと」
彼は声を落とす。
「以前の私なら、この肉一皿で、一週間は生きられたと思います」
「そう、かもしれませんね」
「ええ。でも、今日は迷いませんでした」
そう言って、彼は指輪のついた手で紙幣を軽く押し出した。
「それだけの価値がありましたし、それを払えるだけのことは、していますから」
その言葉には、虚勢はなかった。
事実を淡々と述べているだけだった。
「ご満足いただけたようで、何よりでございます」
「はい。また、お願いすると思います」
彼はそう言って、丁寧に一礼し、部屋へと戻っていった。
ーーーーーーー
翌朝、私はいつものようにロビーに立っていた。
常連の業者が納品に来て、何気ない世間話を交わす。
「最近、この辺り、物騒らしいですね」
そう切り出したのは、酒を運んできた男だった。
「物騒、ですか」
「ええ。夜になると、店の裏口が荒らされるとか、
金目のものを狙った泥棒が出てるって話ですよ」
別の業者が会話に入ってくる。
「警察も動いてるらしいですね。この通りの先で、職務質問が増えたとか」
「逃げ足が早いって聞きましたよ。何度か追い詰めたのに、取り逃がしたとか」
私は曖昧に頷きながら、耳を澄ませていた。
「怪我をしてるって話もあります。無理に抵抗したんでしょう」
その言葉に、昨夜見た、彼の頬の傷が脳裏をよぎる。
「まあ、用心するに越したことはありませんね」
私はそう答え、話を切り上げた。
業者たちが去った後、ロビーには静けさが戻る。
だが、胸の奥に残った違和感は、消えなかった
ーーーーーーー
その夜、扉のベルが乱暴に鳴った。
振り向いた瞬間、胸が詰まる。
男は、血に濡れていた。
頬は腫れ、唇の端が切れている。
額から流れた血が、首元の布を染めていた。
だが同時に、目を引くものがあった。
仕立てのさらに良い上着。
袖口には金色に光る装飾。
指には指輪が増え、胸元には鈍く輝く金属。
血と豪奢さが、異様に同居している。
「こんばんは」
声は低く、掠れているが、はっきりしていた。
彼はロビーに足を踏み入れるなり、一切の前置きなく言った。
「最上階で、お願いします」
スイートルーム。
このホテルで、最も高価な部屋だ。
私は一瞬、言葉を失った
だが、すぐに息を整え、静かに問いかける。
「お怪我の理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
私の声は、できる限り穏やかだった。
だが、意図せず硬さが混じる。
「今朝から、この辺りで物騒な噂を耳にしております。泥棒が出たとか、警察に追われているとか……」
その瞬間だった。
外から、怒号が響く。
「待て! そっちだ!」
「逃げたぞ! 路地に入った!」
複数の足音。
金属がぶつかるような音。
夜の静けさが、急に引き裂かれる。
ロビーの空気が、ぴんと張り詰めた。
彼は一瞬だけ、入口の方へ視線を走らせた。
ほんの一瞬。
だが、その動きで、すべてが繋がった気がした。
「お金なら、ありますよ」
彼は懐に手を入れた。
次の瞬間、紙幣が一枚、カウンターに置かれる。
続いて、もう一枚。
それで終わりではなかった。
束になった札。
無造作に折られた札。
血の跡が残るものさえある。
それらが、次々と、まるで溢れ出すように積み上げられていく。
彼は、その様子を見て、ふっと、笑った。
「これで最上階に泊まれるし、また美味しい肉も食べれる」
積み上げられた紙幣を前に、私はゆっくりと息を吸った。
血の染み。
不揃いな札の折り方。
外で続く喧騒。
それらが、一本の線になって繋がる。
私は視線を彼から外さず、静かに口を開いた。
「……失礼ですが」
声は、思っていたより低く出た。
「そのお金は、正当な形で得られたものではありませんね」
彼の笑顔が、わずかに止まる。
「最近、この辺りで起きている盗難。警察に追われている人物。そして、そのお怪我と、この金額」
私は、積み上げられた紙幣を指先で軽く示す。
「偶然にしては、あまりにも出来すぎております」
一拍、間を置く。
「……これまで、当館でお支払いいただいたお金も」
私は、はっきりと言った。
「盗んだもの、なのではありませんか」
ロビーの空気が、さらに冷える。
彼はしばらく黙っていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……これだけお金があるのに泊まれないんですか?」
「ええ」
私は頷く。
「このホテルは、そういったお金を受け取る場所ではございません」
私は、積み上げられた紙幣から視線を外し、カウンターの下に手を伸ばした。
そこには、帳簿と、小さな金庫がある。
鍵を回す音が、やけに大きく響いた。
中から、これまで彼が支払った金を取り出す。
スタンダードルームの代金。
食事代。
デラックスルームの宿泊費。
一枚一枚、確かめるように数える。
「……こちらです」
私は、紙幣を揃え、彼が積み上げた金とは別に、カウンターの上に置いた。
「これまで、当館でお預かりした金額、すべてでございます」
彼は目を細め、私の手元を見る。
「返される、ということですか」
「はい」
私は、はっきりと答えた。
「正当でない可能性のあるお金を、当館が受け取ることはできません」
外では、遠くで笛の音が鳴った。
警察のものだろう。
私は、返すべき金を、彼の方へ押し出す。
「どうか、これを持ってお帰りください」
彼はしばらく動かなかった。
やがて、にやにやと笑みを浮かべた。
「……いらないんですか?」
「当然のことです」
彼は、返された金を見つめる
彼は、笑った。
ーーーー
追い出されたホテルの前、街灯の下で、返された金を抱えながら。
だが、その金は、
まだ血で濡れている。
乾ききらない赤が、指にまとわりつく。
枚数が多すぎて、重かった。
懐に押し込んでも、体の片側が引かれるほどに。
彼は立ち止まり、金を見下ろし、そしてまた笑う。
「まあ大丈夫だろう。これだけ金があれば」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
その声は夜に吸い込まれ、何も確かなものを残さなかった。
ただ、重い金だけが、彼の手の中にあった。
ありがとうございました




