第1章:忘源郷の管理人さん
「……」
晴れ渡る空。澄んだ空気。痩せこけた顔。
年間数十万もの人々が押し寄せるリゾート地でもある南の果ての小さな島・新ディルムンで、この世界__忘源郷の管理人である、不死の英雄・ジウスドラは死んだ魚の眼をしていた。
「…あ〜」
忘源郷の管理人は、この小さな世界に異常が生じた場合、瞬時に対応することが求められる。ジウスドラは、過去に人類滅亡の危機を回避した実績から不死を賜り、今回はここ忘源郷の管理を一任されていた。
「う〜〜」
またジウスドラは、神々に運命付けられた大洪水を耐え抜くため、巨大な方舟を建造した経験から、造船業にも携わっていた。自社「ディルムン造船」の他、「シララ海運会社」、「マルトゥ運送」、「ツキガミ商事」、「新アッシュル市市役所商業部」……と、提携各所の資料が、社長室のデスクの上に散らばる。
「ぉあ〜〜〜」
さらにジウスドラは、信奉する水と智慧の神エンキを祀る新エリドゥの神殿の神官と、5000年前自らが治めていた縁から、忘源郷の新しいシュルッパク市の市長をも勤めていた。祭儀の予定表を記した粘土板の文書や、市役所からの伝達が部屋の右手の書庫に無造作に立て掛けられ、積み重ねられていた。
「ん〜〜〜」
ジウスドラには無駄に真面目な気質が見られ、今だって千徹明けの束の間のひとときを過ごしていた。
「もうゃ……」
ジウスドラは疲れ果てていた。すでに1200回短剣で自らの心臓を突き、1500回睡眠薬を過剰摂取し、2800回首に縄を括り、3600回地上40階の自室の窓から滑り落ちていた(顔から)。
しかし、仕事は降って湧く。いや、「生えて来る」。ズドンッ!!地響き、振動。
「うわっ……」
地上40階の床をぶち抜いて、幅3メートルほどの泥壁が現れた。衝撃でジウスドラが椅子から転げ落ちる。
「痛…」
天啓は地の底より。ジウスドラとエンキ神は地より生え来る「壁」を介して意思疎通を図る。ジウスドラが「壁」に耳を当てる。
「なんなりと」
(エリドゥで反乱だ、至急)
「首謀者は?」
(原初の王だ)
「あの半魚人もどきが」
(全土の掌握は時間の問題だ、頼んだぞ)
「はあ……」
軽く部屋の片付けをして、「流水の壺」の円筒印章を携える。これはエンキの神具であり、かの神の宮殿のある地下の無限水源:アプスーから転送される真水を駆使して様々な用途に使うことができる。ジウスドラは現場急行時には飛行の補助に用い、種々の対人・対物攻撃の手段としていた。普段は特製の円筒印章、いわゆるシリンダーに呪術的に保管している。中空で転がす動作をすることで能力を発動することができる。
「社長?ジン社長?……って、またエンキ様ですか……」
秘書でエンキの従神であるイシムドゥが社長室のドアを開けて、床から突き出た「壁」を一瞥して息をつく。ジウスドラは「ジン」と愛称で呼ばれることがある。
「ああ、シカルならいらないわ。部屋使っていいから君が飲んでていいよ」
「あっはい……。はあ〜また床代弁償だ〜、出費がかさむ〜……」
シカルはビール。この土地の人間は5000年前、水の代わりに飲んでいた。
「はあ……、『オペレーション:魚釣り』……ふ、ふふ……」
窓から身を乗り出し、飛び発つ。今度は地面に激突するようなことはしないで、飛行姿勢をとり北へ向かう。
「押印」
「流水の印章『無限の水源より』」
円筒印章を空中で転がすと、「流水の壺」が、ジンの周りに2つ現れた。
「流水の壺」を、戦闘機の僚機のように両側に携えて飛んで行く。反乱の揺籃地:新エリドゥまでは数百キロメートル。
「ん……、2、30分くらいで着くかな」
しかし現実は甘くない。前方に黒雲が出現していた。ジンは目を丸くする。
「はっ、さっきまで晴れてたのにっ!」
果てしなく続いて見える雲の隙間から雷もちらほら見える。ジウスドラの額を青が結った。
「こらまずいな……」
瞬間。ボゴッ!!
「ガッ……ハッ……!!」
ジンの腹に大穴が空いた。臓物は並べて消え去っており、激痛が英雄を襲う。
「真ッ……空…波ぁッ……!!」
声を出すと、途端に口から大量の血液が、意思とは無関係に溢れ出てくる。ジウスドラは不死であるが、痛みは人並みに感じる。原初の王の攻撃だ!
気づけば、あの禍々しい黒雲が頭上を覆い尽くしてしまっていた。
「まっずい……」
そう見上げたジウスドラの額を、一発の弾丸が撃ち抜く。驚いて見開かれたジンの眼球が破裂する。まず右、次に左。異様なスピードをもった弾丸、もとい直径20『センチ』ほどの巨大な雹が正確に、容赦なく、ジウスドラの関節を、頭蓋を、頸椎を、脳髄を抉り取っていく。風も強くなりすでに飛行姿勢を崩している、と言うよりその姿勢を保つための身体の部位をほとんど失ってしまっている現在のジウスドラは、力なく揺られている。
痛みに意識が遠のいていく。くそ。面倒くさい。
(迷ったらどうし)
閃光と轟音。
思考を遮ったのは雷だった。直撃を受けたジウスドラは黒焦げた、一見すると死体のごとくに成り果てて墜ちていった。どこか知らないところまで……。