もふもふはゆく。
今朝は、陽がやけにまぶしかった。
縁の下にいる父が、しきりに目を細めて「まだ行くな」と言ったけれど、鼻がむずむずしたから出てきてしまった。
母は干された布の下で眠っていて、日差しがちょうど目にかからぬよう、首を長く伸ばしていた。
その寝息は静かで、草のそよぐ音と混ざって聞こえた。
わたしは体をぐっと伸ばし、爪を一本ずつ土から抜いた。
夜のあいだに冷えた体が、陽射しでじんわりとあたたまっていく。
耳をぴくぴくさせながら歩き出すと、朝の空気に、草と、風と、遠くで揚がった油の匂いが混じっていた。
きい、と柵を越えると、すぐに土のにおいが薄れ、かわりに足の裏が熱をもちはじめた。
家の前の道には、はがれかけた灰色の板のような地面が続いていて、朝になると光を反射してまぶしくなる。
その道の端には、まだ眠そうな生きものたちが、背の高い籠のようなものに押し込められて揺れている。
あれはきっと、毎日あちこちに運ばれているのだろう。昨日見たときも、その前の日も、そのまた前の日も、あの中にいた顔がある。
ごぉ、と風が鳴ると同時に、上空を何かが駆けていった。
影が道を横切って、屋根の上に跳ねた。カラスだ。あいつらはよく喋るし、よく盗む。
わたしは警戒しながら歩を進める。
今日も、声がした。
細くて、でも跳ねるように響く声。
しばらく目を細めていると、案の定、かさかさと音を立てて、小さなものたちが駆けてきた。
「いた!」という声がした。
耳が勝手にぴくんと動いたのは、それが少し嬉しかったからだと思う。
わたしは腰を低くして構え、子らの足音が二つ、三つと近づいてきたのを感じると、さっと飛び出した。
追いかけっこは苦手ではない。
ただ、つかまるのは嫌だ。つかまると、毛並みがぐしゃぐしゃになるから。
でも今日は、ちょっとだけ、油断した。
後ろから回り込んだ子が、わたしのしっぽを掴んだのだ。
「もふもふー」
口元に指が当たった。あたたかかった。
わたしはわずかに身をよじらせて、軽く鳴いた。
きゃあ、と小さな笑い声が弾んで、ようやくわたしは解放された。
しばらくして、子らが去ると、わたしは近くの段差に座った。
体を舐めながら、静かになった空気に耳を澄ませる。
通りすがりの自転車の音、どこかで鳴るテレビの音、鳥たちの囀り、そして風の音。
わたしのまわりには、毎日たくさんの音があるけれど、こうしていると、自分がその中のひとつであるような気がする。
そのうち、斜め向かいの家の前で、洗濯物を干していた主の気配がした。
わたしを見ると、その人は小さくしゃがみこんで、手を差し出した。
ゆっくりと近づく。すぐには触らない。指の先がほんのり甘いにおいがする。
少し躊躇して、でも最終的には、わたしはその手に頭を預けた。
こすられる。額と頬。わたしは目を細めて、のどを鳴らす。
今日は、風が少し冷たいから、この指先のぬくもりが、心地よかった。
主が立ち上がると、わたしはすっと離れて、また道を歩きはじめた。
あいさつは、それくらいがちょうどいい。
午後の空気は、少し乾いていた。
陽射しはまだ高いのに、どこか落ち着いていて、影がくっきりとのびていた。
金色の埃が舞っていて、それに鼻をひくつかせながら、わたしはあの店へと向かった。
店の前にはいつも、青や赤や銀の箱が並んでいて、その下にすきまがある。
そのすきまに潜りこむと、そこは別世界だ。
魚のにおいが、する。
ほんの少し湿った、でも澄んだ香り。
ここは、わたしのお気に入りの場所のひとつだ。
ごとんと何かを置く音。
見上げると、あの主がいた。
頬に皺があり、いつも大きな声で誰かと話している、あの主。
わたしを見つけると、しゃがみこんで、手のひらにひときれのなにかを乗せた。
わたしはそれを、静かに受け取る。
少しだけ塩のにおいがして、口に含むと、やわらかくて甘かった。
噛むと、奥歯のほうにじんわりとうま味が広がった。
それだけで、今日が特別になる気がする。
今日は、いい日だ。
帰り道、見慣れない影が道の向こうにあった。
低くうずくまったそれは、音もなく動いていた。
一歩近づくと、ぴくりと耳が動く。
相手も気づいたのだろう。ゆっくりと顔を上げた。
わたしと同じ色だった。
目のかたちは違うけれど、尾の動きが似ていた。
しばらく、互いに睨み合った。
けれど争うつもりはなかった。
それを向こうもわかっていたらしく、くるりと背を向けて、塀の上を歩き去った。
よそのものも、この道を歩く。
けれど、わたしの居場所は、ここだ。
夜。
帰ると、父があくびをしながら「遅かったな」と言った。
母は目を閉じたまま、わたしの鼻に自分の鼻を当てた。
それから少しだけ、わたしの体を舐めてくれた。
家のにおいがする。わたしの毛並みが、家に戻る。
今日はいろんな手に触れた。
あたたかかったり、がさがさしていたり、ちょっと濡れていたりした。
でも、こうして父と母の間に座ると、なぜだかほっとする。
にぼしは、今日は食べなかった。
あした、また、もらいに行こう。
明日も、きっといろんな声が飛んでくる。
走り回って、隠れて、撫でられて、うたた寝して。
そういう日が、もう少し続くような気がしている。