つめたくてへんなもの。
あれは、においのしないものだった。
けれど、光がさすと、きらきらとひかる。うすべったい石よりも冷たく、かたい音がする。
最初にそれを見たのは、あの声のやさしい二本足が、箱のそばで小さな袋を落としたときだった。袋の口から、まるくて平べったいかけらがいくつもこぼれ出た。それが、箱のうしろを転がっていったとき、わたしはつい、それを追いかけてしまった。
追いついた先に、それは止まっていた。
つついてみると、ころころと転がる。音がする。
けれど、あたたかくもない。かじっても、味はへんで、すぐに吐き出した。においも、どこかつんとした金属のにおいがした。
「だめよ、それは食べものじゃないのよ」
二本足の声がした。けれど意味はわからない。
ただ、袋にそれをいくつか戻すと、あのにぼしのにおいのする袋をとりだし、そこからいくつかを投げてくれた。
その夜、草の中で母が言った。
「あれがあると、食べものが出てくるのよ」
「じゃあ、あれを持っていれば、にぼしが手に入るの?」
母はうなずかなかった。けれど、しばらく考えるような間を置いてから、目を細めた。
「たぶんね。でも、わたしたちの手には、合わないの」
次の日から、わたしは目をこらすようになった。
にぼしのにおいのしない時間帯でも、人間たちはあの丸いかけらをよく落としていた。歩くときに袋からすべり落ちたり、小さな台のうえに置き忘れたり、しゃがんだときに足元から転がっていったり。
それを一つ、こっそり拾ってみた。
口にくわえると、かたくて舌にふれる冷たい感触があった。
草むらに戻ると、地面にそれを置いて、しばらく眺めた。
なにも起きない。においもしない。ただ、にぼしの影だけが、遠くに浮かぶ。
雨の日、わたしはぬれた地面をとびこえて、暗がりのなかに入った。
そこには、たくさんの音があった。ひとの声。物のぶつかる音。油のにおい。
そのすみっこで、ひとりの二本足が袋を開いていた。
そのとき、小さな光が転がった。
すぐにとびこんで、それをくわえる。
怒られる前に、とおくまで走った。
草のなかで落とすと、また同じ、つるつるで冷たい音。
この日は三つ集まった。
でも、にぼしは出てこない。
何日かたって、あの場所に行くと、やさしい声の二本足がいなかった。
代わりに、知らない顔の人がいて、声もとがっていた。
母と父は来なかった。
わたしだけが、にぼしのにおいのする場所をうろうろしていた。
けれど、なにも落ちていなかった。声もない。袋もない。
そのとき、わたしは三つの冷たいかけらを思い出した。
家の近く、細い道のわきに、二本足の出入りする穴がある。においが濃くて、奥のほうでしゃべり声がつづいていた。
わたしはそこに入ったことがない。
けれど、その前に小さな箱があって、ときどきそこにかけらが入れられていた。
ある日、においが少なく、人の気配もないとき、その箱のまえにかけらを置いてみた。
一つ、二つ、三つ。
そして、じっと待ってみた。
夕方になって、風がふいて、空の色が変わっても、なにも起きなかった。
かけらはそのままだった。
でも、夜になって、あの場所に行ってみると——
いた。
あの声のやさしい二本足が、また箱のそばに戻っていた。
袋がひらかれ、白いかけらがいくつかこぼれた。
においが、した。
わたしはすぐにとびこんだ。
かけらをくわえ、うれしくてしっぽをふった。
やさしい声がしたけれど、意味はわからない。
でも、今はもう、あのかけらの力を、少しだけ信じている。
次の日から、わたしはかけらを拾い集めるようになった。
父も母も、最初は目を丸くしていたけれど、だんだんと何も言わなくなった。
「やるなら、見つからないようにね」
母はそう言って、しっぽをふった。
わたしは、においのしないかけらを、毎日一つ、箱の前に置く。
それで、時々にぼしが手に入る。
しっぽがぴんと立つほど、うれしい。
ある晩、父がぽつりと言った。
「にぼしってのは、あの白くてしょっぱいやつか」
「そうだよ」
「おれが子猫のころは、それは拾ったもんだった。地面に落ちてるか、箱の上に転がってるか。こんなふうに、かけらと引き換えにするなんて、不思議な世の中だな」
わたしはにぼしをかじりながら、うなずいた。
「でも、おいしいよ。だから、いいの」
父はくすくすと笑った。母も、それにあわせて目を細めた。
その夜、草むらに風がふいて、遠くの空がきらきらと光った。
ひかりと音が交差して、街はねむる。
かけらは光らない。けれど、それがにぼしにつながる。
わたしは明日も拾うだろう。地面に転がる、光らないにおいのない小さなかけらを。
そしてまた、あの白いかけらを、舌の上で転がす。
それがわたしの、いまのしあわせ。