しょっぱいかりかり。
ひかりがのびる。
屋根の上にいたときより、ここはぬるい。石の並んだ細い道は、日の光をよく吸いこむ。背中にあたるぬくもりが心地よくて、つい目を細めてしまう。
風の向こうから、塩のようなにおいがした。
鼻を高く上げる。あのにおいは、いつものところからだ。
細い路地を抜けて、かたい草の生えた斜面をとびこえると、ひらけた場所に出る。ここには毎日、いろんなものがころがっている。すべすべしたもの、やわらかいもの、動かないもの、そして……
「また来たねえ」
声がしたが、言葉の意味は知らない。ただ、その声の高さと響きのまるみで、今日もそれがあることを察する。
すでに箱のそばに、いつもの白いかけらがいくつか落ちていた。
ひとつをくわえる。冷たくて、かたい。けれど噛むと、中から柔らかな味がひろがった。しょっぱくて、うまみがある。にぼし。すきなもの。
とおくで音がした。大きくて、ごとごとして、鉄のにおいがする。二本足たちの足音も近づいてきた。
もう少しいたかったが、今はだめだ。
尻尾をふって、路地をもどる。途中でぬれた地面に足をとられそうになったが、軽くとんでよけた。
遠くから声が聞こえた。高い声と、低い声。たぶん親子の二本足。どうでもいい。
帰り道、あの背の高い草の茂みに入ると、母がいた。
目を細めてこちらを見ている。
父はその奥、まるまった体を砂の上に伏せていた。まぶたが重そうだ。
「におい、ついてるよ」
母が近づいて、鼻をすり寄せてきた。あたたかい。ひげとひげがふれる感触。
頭をすこしだけ押しつけると、喉の奥で音が鳴った。
父は目を開けなかった。けれど、しっぽがひとふり動いた。それで満足。
草の中はすこしだけ湿っていて、ひんやりしている。耳をすませば、虫の羽音と、遠くの水の音。静かな時間が流れていた。
夜が近づくと、冷たさがにじんでくる。風は乾いていて、どこか焦げたようなにおいがした。あれはきっと、人間の出す煙のにおいだ。
ひとけのなくなった家の屋根にのぼると、遠くの空が赤くなっていた。
高く飛ぶものが、ひゅうと音を立てていく。
小さな明かりが灯りはじめる。窓の奥には二本足がちらちら動く。
でも、そこには興味がない。
まりのようなものをつつく音。皿をこする音。母の耳がぴくりと動いた。
「行く?」
母は立ち上がった。父はその場でひとつ大きなあくびをして、しっぽで草を払いながらのそのそとついてくる。
街の中はにおいでいっぱいだ。
とくにこの時間は、においが空を満たす。油のような、焦げたような、甘くて酸っぱいにおい。全部まざって、頭がくらくらするほどだ。
けれど、一番探しているのは、しょっぱくて、少しだけ苦いあのにおい。
小さな道を何本もぬけて、角をまがって、ようやくそれにたどり着く。
今日もそこには、くたびれた箱と、すわっている二本足がいた。
母がすすっと近づいていく。父は影の中にとどまり、目だけを光らせている。
わたしは、母のあとをついて行った。
声がした。名前のようなもの。でもわたしたちは名前をもたない。
それはただの音。くり返される音。わたしたちは、その音がやさしいと知っているだけ。
今日の白いかけらは、ひとつひとつが大きい。母がひとつ、父がひとつ、そしてわたしも。
口にふくむと、少しかたくて、でも中から塩とうまみがしみだす。
しあわせな味。
ぺろりとたいらげて、舌をぬぐう。母が目を細めてわたしを見た。
「よかったね」
風がふいた。毛がゆれる。
そのまましばらく、わたしたちはそこで月を見ていた。二本足は背中を丸めて、同じ方向を見ていた。
帰り道、父は少し遅れて歩いていた。母が何度かふりかえる。
わたしも立ちどまり、草の間から父を見つめる。
父はすこし、咳をした。
「大丈夫?」
母の声に、父はひとふりしっぽを振った。
草むらの中に帰るころ、月がのぼっていた。やわらかな光が、わたしたちの毛を白く照らしていた。
母が体を寄せてきた。冷えてきた空気の中、それはとてもあたたかかった。
父の胸の音が、かすかに聞こえた。
明日は、晴れるかもしれない。
ぬるい石の上で、背中をのばして、あくびをして。
あのしょっぱいかけらをまたもらえたら、いい一日になる。
それだけで、わたしたちは、よく眠れる。