9話 スポブラの後輩と組手する
一旦帰宅して道着を取り、鷹司流古武術の道場に向かう。
あの日から道場で稽古の時は桃花とやま子も一緒に参加するのが常になった。さすが道場の娘だけあって幼い頃から仕込まれたのか、桃花の動きは華麗で無駄がない。
正拳突きも上段回し蹴りを男子顔負けの型を披露してみせるのだ。陽馬と組手をしても良い勝負をするほどだ。筋力はさて置き技術面では明確に陽馬を上回っている。
そして、やま子にはこれまでにないほど驚かされた。若くして何をどうすればその領域に立てるのか、陽馬や桃花とは腕前の格が違った。
突きも蹴りも目で追えないほどに速いのだ。
金髪でツインテールの生意気な女子が道着を来て拳を構えるだけで、山田花子がこれまで並々ならぬ時間を費やし武の道を歩き続けてきた姿を思い起こさせられた。
「よし、準備できましたよ。始めましょうハルくん」
稽古の中ほど、各自の体がほどよく温まってきた頃に桃花が陽馬へ組手に誘った。
「いや、ダメだろ。ぜんぜん準備出来てねーじゃねーか」
一瞥して却下する陽馬。理由は明白だった。
「……?」
「名演だな。なんでそんなにキョトンって出来るんだ。さっきまで中に着てたものを着なさい」
「……着てますよ?」
「いいえ? 着てませんよ? だってもうメチャクチャ肌みえてるもん。そんなんで組手したらもうどうなるか目もあてられんもん」
「大丈夫ですよ。わたしは気にしませんから」
「違うよ。俺が気にしてんのよ。そんなんじゃ集中できなくて組手どころじゃないから」
「集中力も鍛えられてお得ですね」
「いいからさっさと組みなさいよ、この雑魚!」やま子もチャチャを入れ出す。
「そうですよ。こんなお喋りしている暇があれば練習した方がいいですよ?」
「いやもうホント勘弁してくれ、俺な、この稽古の時間ってかなり大事にしててな、もう邪念とか無くしてちゃんと強くなりたいわけよ。理解してくれません?」
「そうですよね。ではまずは寝技からいきましょうか。わたしあんまり寝技って自信ないんです。付き合っていただけませんか?」
「何がそうでしたの? 何に納得したの? そんなんで寝技始まったらもう理性が崩壊するから、頼むから普通に組手しよ、頼むほんと」
「いいからさっさと組みなさいよ、この雑魚!」
「いいですかハルくん! わたしは今ここで裸になったっていいんですからね!」
「急にキレて勢いだけで持ってこうとすじゃねえ!」
「いいからさっさと組みなさいよ、この雑魚!」
「NPCかテメーは! もう黙ってろ!」
大抵の場合は三人で真面目に稽古に励むのだが、時折こうして桃花が無茶を言い、やま子は加勢し、陽馬は突っぱねるのだった。
「分かりました。では着替えてきます。そうしたら勝負して決めましょう。勝ったほうの言う事を聞く、それでいいでしょう?」
桃花がわざとらしくフーンと鼻をならし道場の奥間に消える。
次に戻ってきた時は一応、中に着てきたことは着てきたのだったが。
「一枚減ってんじゃねーか! スポブラで戦おうとすんな!」
「もう~、いいじゃないですかぁ。これなら見えませんよ? 折衷案です。ハルくんは着てほしい。私は脱ぎたい。今の状況はハルくんからすれば下着を一枚着たわけで、わたしからすればTシャツを脱いだことになります。これであおいこでいいじゃないですか」
「なんでいつの間にか裸に道着がデフォルトになってんだ……いつもの格好から計算すりゃマイナス二枚だろうが……。もういいや、今回だけそれでやろう。その代わり賭けはなし、それなら飲む」
「んー……もう、しょうがないなぁ今回だけですよ? こんな格好で組手なんてぇ」
「俺がスポブラで組手してくれって懇願してるみたいに言うんじゃねえ」
「それでは始めぇぇぇいぃッ!」
物凄く唐突にやま子がドラを鳴らした。
道場に響き渡る音の波。直前までふざけ合っていた二人の目つきが変わる。
通常、組手はよく相手を観察して行うものだ。手を使うのか足で来るのか。鷹司流古武術は超実践流派であり防具などは一切使わずに組手を行う。
尚のこと相手をよく見る必要があるのだが、見ればみるほど陽馬の集中力を削いでいく。
目の前の相手、その姿、道着の中はほとんど素肌が見えている。申し訳程度に着込んでいるのは灰色のスポブラのみ。
すでにたっぷり汗をかいており、首筋から流れた汗は胸の谷間に向かっていく。谷間とはよくいった物だ、山と山の間には川が流れていることが多いが、自然の摂理はそのまま人の体にも当てはまる。
寄せられた胸の間で小規模な川の筋が出来ている。
そしてまた川は流れを再開する。へそという窪みを通り、そしてその先へ――
いやに官能的な描写が途切れたのは桃花の放った足刀蹴りが陽馬のアゴへもろに入ったからだった。
「あら?」
意外や意外、桃花からすれば牽制で放った一撃だったのだが見ることに集中し過ぎた陽馬が目測を誤った結果だった。
空中で見事にエビぞり、そのまま受け身も取れず床へ叩きつけられるところだったが、やま子が俊敏に動いて道着の襟をわしっと掴み優しく床に寝かせ、大事にならずに済んだのだった。
意識を飛ばしかけた陽馬が呂律の回らぬ口でむにゃむにゃ言っている。
それを見たやま子が好機と捉えた。
「桃花さん、いまこれチャンスなんじゃ?」
「あっ、確かにそうですね」
どうにか制止を促そうとした陽馬だが言葉すらまともに選べない状態では無理というもの。
ぼやける視界が徐々に落ち着き、平衡感覚を取り戻した時に目に入ったのは覗き込む桃花の顔だった。
「お加減はいかがです?」
「……ありがとう。もう平気」
至近距離で目を合わせるのが恥ずかしく、陽馬が目を反らす。自分の頭が桃花の太ももの上にあるというのだから尚更だ。
「まだダメですよ? しばらくこのままで居て下さいね。かなりまともに当てましたから」
「……わかった」
ひざまくら程度で済むなら受け入れる。
意識が薄れかけていた時は裸にひん剝かれているかも知れないと思っていたほどだ。
「受け方の上手なハルくんが芯を食うとは、いったい何をよそ見していたんですか?」
知っているくせに言わせたくてたまらないのだろう。
桃花の特徴的なクスクス笑いがいつもより多めに出ている。
「ほら、何を見ていたのか教えてください? 私がその気だったら今頃は裸で抱き合っていた未来もあったんですからね?」
いったいどんな脅し方なんだと思ったが加減してくれたことは事実だ。
陽馬も観念する。
「桃花ちゃんを見ていたので食らってしまいました」
「もっと正確に、わたしの、どんなところを見ていたんですか?」
「桃花ちゃんの戦う姿が綺麗で、流れる汗も、凛とした表情も、だから思わず見とれた」
と、これは桃花の求めていた方向の答えではなかったが「……ん。まぁ、そういうのも、悪くないですね」と、想像以上だったのか今度は桃花の方がしてやられているのだった。
「ハルくんってちょっとズルい時ありますよね」
毒気が抜かれたか、珍しく拗ねたような顔で雨戸の外の景色へ顔を向けている。
「俺がズルいなら、桃花ちゃんはいつでも反則って感じだけどね」
聞こえなかったふりをして鼻歌をうたっている。そのまま自分の膝においた陽馬の髪をいじり始めたが、起き上がるにはまだしんどくて彼女のしたいようにさせてあげる陽馬であった。
体調が戻るまでそのままゴロゴロし今日はほどほどのところで切り上げる。鷹司家の夕餉に誘われたが急に厄介となるのは憚られるので遠慮しておいた。
それに家で夕食を摂らないと巳月がうるさくなる。
いつも通り門までの見送り、その帰りがけ、やま子が「明日は?」と聞いてきた。
「明日は予定があるから来れないな」
「へー、どっか遊び行くわけ?」
「ああ、友達と映画みに行く」
友達、とわざわざ新名の名を伏せたのはもちろん偶然ではない。ここで知られればこじれるのは当然だ。
ついでに言えば「誰と?」と聞かれたとしても太平の名を口に出したことだろう。
三股野郎の面目躍如である。
幸い特に追及もされず帰路についた。
少し急ぎ気味にペダルを漕いだ。女の子と映画なんていつ振りだろうか。巳月をカウントせずに遡れば中学二年生ぶり、それも相手は太平の妹、吹雪だったのでほとんどノーカウントと言って良かった。
帰宅して手早く夕食を済ませれば自室にこもって明日のコーディネートを考える。
お気に入りのカレッジロゴのリバースウィーブスウェットでいくか、はたまたスケーターブランドのコーチジャケットでいくか。
ボトムはすでに決まっている。550だ。絶妙なテーパードがいい感じに裾を溜まらせる。
スニーカーはいつもの相棒ではなく最近古着屋で買った黒のローカットバッシュにする。
航空機のコールサインが由来の超有名スニーカー。色も黒ならユーズド品でも古さが目立たない。出かけるための服装を考える時間は相手のためというより自分のためだった。
服の気合わせを考えること自体が好きなのだ。