7話 使うのはいいけど嗅ぐのはダメらしい
冷静さを取り戻した晴馬が語る。
「俺はね、自分が何か重大な局面にいる時、ピンチの時、やらなければならないことがある時にいつもそれを考える。主人公ならどうする? ってね」
「……ハルくんが主人公なら、どうするんですか?」
「今日ここで軽率なことはしない。俺は桃花ちゃんとほとんど初めて会ったわけだし、君のことをまだよく知らない。正直、さっきからもう頭ん中はエロいことでパンクしそうだし、フツーにチンコも信じられないくらいバキバキで、押し倒してメチャクチャにしたいところではあるけど、そうしない」
「例えば、私がいいよって、そう言ったらどうします?」
桃色吐息が耳にかかる。
幻にかかりそうな甘い言葉。
ぐっと理性を飲み込んで応えた。
「それでも我慢する。いまここで欲に溺れる者は、俺が思うに主人公の器はない。桃花ちゃんに魅力がないわけじゃないよ。メチャクチャ可愛いよ。すげーエロい。そんで、たぶん、こうやって断ったあと、今日は家かえってメチャクチャ後悔しながら君のこと思い浮かべてオナニーすると思う。ごめんね、全部おれの問題なんだ。俺は俺が許せることしか出来ない」
開け放たれた雨戸から、風が吹き込んできたことを知る。
きっと今までも風は吹いていただろう。空気が流れていくことを忘れてしまうほど、自分が舞い上がってしまっていたのだと気付けた。
「そう、ですか……。残念。でも、そんなところもかっこいいです」
言い終え、急接近してから桃花は離れた。陽馬の頬に柔らかく、ほんの少しの湿り気を残していく。
「ごめんなさい、ハルくん。でも許してくださいね。私もここまでして手ぶらというのも寂しいので、今日のところは頬っぺだけ頂いて我慢します」
キスされたところを指でなぞる。桃花の、話し始めに感じた控え目な後輩のキャラクターはすっかり形を変えていた。思っていたよりずっとしたたかで、女が持つ毒を理解しているような気配がある。
「さて、着替えますね。春とはいえまだ冷えますし、いつまでもこんな格好してられません」
すっと立ちあがって道場の隅に置いていたらしい服のそばに寄る桃花。本当に随分と雰囲気が変わった。おどおどしたところは演技だったのかも知れない。
自然と様子を伺っていたら、笑みを浮かべて「見てもいいですよ、着替えるところ」と悪戯な顔で言われたので前を向く。
「めちゃくちゃ見たいけど今日はいい。たぶん見たら、さすがに我慢が効かなくなる」
「我慢しなくていいですのに」
クスクスと笑う声、水着を脱いでいるのだろう。僅かな衣擦れの音がまた否応なしに陽馬の頭の中を支配していくが、悶々とする時間はそう長くは続かなかった。
あまり待たせず着替え終えた桃花がまた横に座る。陽馬の通う高校のセーラー服、リボンの赤色は一年生の色だ。
「……まさか先生の娘さんが、こんなエキセントリックコケティッシュガールだったとは思わなんだな」
「エキセン……なんですか?」
「風変わりなエロい子だね、みたいな意味だよ」
「一応、わたしの名誉のために弁解させて頂きますけど、誰にだってそうでは無いですからね? ちゃんと相手は選んでいますから、ね」
「そう信じたいね」
相手は選ぶ、その真偽はさて置き陽馬と比べれば経験は豊富そうだ。
「もう、疑ってるでしょう? 言っときますけどほっぺにチューしたのも初めてなんですから」
「え、マジ?」
「そうですよ。ファーストほっぺキスですよ!」
演技ではなさそうな、どこか無茶をした後で見せる決まりの悪そうな顔をして桃花が照れていた。
この表情は今までと違って生の空気感がある。クラスに居る女子たちとそう変わらないように見えた。
「あのー桃花ちゃん。改まって聞くけど、桃花ちゃんは俺のこと好きなの?」
「はい!」
まさかここまでキレのいいストレートを投げ込んでくるとは思わなかった。
「すっごい……真っ直ぐだね。大谷翔平かと思った」
「誰ですか?」
「いや、まぁそれはいいや。……なんで俺のこと好きなの?」
「一目惚れです!」
「……どの辺を見て一目惚れ?」
「そうですねぇ。前々からお話は伺っていましたし何となくイメージはあったんですけど。それで実際にお会いしたらこう、ピーンときました。ハルくんって綺麗な顔してますよね。俗っぽい言い方してしまいますけど、顔が好みなんです。すっごく。真面目な顔してても、慌ててもずっと可愛い。もうピッタリ過ぎて自分でも驚いてます。あっ、もう一回ほっぺにチュッてしてもいいですか?」
「いやダメです。1ターン1行動です。思わず好きになりそうなんで控えて下さい」
「もう~けちんぼですね!」
あぁクソ、いちいち可愛いな、と調子が狂う陽馬。
一目惚れ、そんなことあるのだろうか、今の今まで自分には訪れたことがなかった。
あの面だけはいい双子の妹を見慣れているせいか、歳の近い女子を見て心をわし掴まれる経験なんて一度もなかった。
だが、人の魅力とは外見だけにあらず、桃花も十分に可愛いが、巳月と桃花で『どちらが可愛いと思いますか?』と街角アンケートでも取れば、おそらくは巳月に軍配が上がる。
だというのにこんなに心を乱されるのが、仕草や声、視線、距離の近さ、香り、そういった様々な情報によってカワイイという状態は作られるのだと身を持って知った。
であるならば、陽馬がいまだ経験のしたことがないヒトメボレとやらも存在しているのかも知れない。
「ハルくんのこと、聞かせてください。おうちだと何して過ごしているんですか?」
まともっぽい質問が来てどこかホッとする。
「趣味かぁ、なんかお見合いみたいだな。んー……服とか好きだよ。メルカリでしょっちゅう古着を探してる」
「いいですね、ハルくんってオシャレそう……。どんな系統が好きなんですか?」
「服はずっとストリート系が好きで、特に最近ナイキのヴィンテージにハマっててさ、色落ちした雰囲気とか、現行品だと見ないセンタースウォッシュとか調子いい。高いのはやっぱそんなに買えないんだけど、掘り出し物とかあって楽しくってさ。シュプリームのサンプリング元になってるアイテムとかめちゃくちゃカッコイイんだけど、まぁ高校生には手が出ないっていうか……」
ハッとして喋るのを止める陽馬。ついつい語り過ぎてしまった。
「あー……ごめん。ベラベラ喋り過ぎた」
「いいえ、楽しそうに話してくれるのが可愛かったのでもっと聞きたかったくらいです」
あんまりそう何度も可愛いカワイイと言われるとさすがに照れる。
が、ここで反応していてもまた桃花のペースになってしまうだろう。
「いや、順番にいこう。俺のことばっかり話してもチョットね。桃花ちゃんは家で何してる?」
「わたしですか? えっと……そうですねぇ」
少し考える素振りを見せスカートのポケットから銀色の金属で出来た巻尺のような物を取り出してみせる。
「それは?」
「趣味……と言えるのかは分からないですが、家ではこういうことばかりしています」
ヒュッ、と風を切る音がしたかと思えば空中で火花が線状に散った。巻き尺を握りこんだ桃花の手が何度も返る。
巻き尺の中にはワイヤーでも入っていたのか、空間を暴れる糸を微かに目で捉えることが出来た。鞭のようにしなる糸の先端が音速を超え、空気を破裂させる大きな音が道場に響く。
宙を埋め尽くす火花、まるで文字のように幾本もの線が引かれ幾何学的な紋様が広がる様は魔法陣を描き出したかのように見えた。
「えっすごっ……なにこれ! 手品ってこと⁉」
陽馬の少年心をくすぐったのか、目に光を含んで桃花のことを見ていた。
「ありがとうございます。思いのほか高評価でびっくりしちゃいました! 手品ではないですよ。一応、ハルくんがいま習っている古武術の延長にある技でして」
「え、そうなの? ……ってことは、先生もいつか俺にも教えてくれたりすんのかな?」
「う~ん、それは……どうでしょうね? 鷹司の体術は八極拳と空手が基礎にあるんですが、これはまた毛色の違う技術なので、何とも……。得手不得手も関わってきますので」
「ふむ、なるほどね。まー今度、先生に聞いてみよっかな」
その後は何度も「今のもっかいやって!」と初めてバク転を見た小学生が嬉々としてねだるような、そういったやり取りが続いた。桃花としてもなかなか披露する場所がなかったのか得意になって「もう、またですか? しょうがないですねっ!」と満更でもないことを言っているのだった。
道場に開いた一角から夕暮れの空が見える。
春の夕暮れはまだまだ寒い。足元に這い寄って来た冷たい風を覚えて、けっこうな時間を道場で過ごしたのだと思い知る。
陽馬が徐にスマホを見て用事を思い出した。
「やべ、今日は俺のメシ当番か……」
「あれっ、帰っちゃうんですか?」
「ん、もう夕方だしな。桃花ちゃんのところも晩メシなんじゃない?」
「泊まっていって下さいよぉ?」
「こらこら、気軽にそういうことを言わない。それに先生にも迷惑だし」
「今日はうち、誰もいませんよ? お風呂だけでも一緒に入りませんか?」
「そんなご飯だけでも食べてって下さいよ、みたいに言うなよ」
「それじゃあご飯もお風呂も――」
「はいストップ! あんまり言われるとすぐ誘惑に負けそうだからマジで勘弁してくれ」
桃花がまたクスクス笑いながら「はぁい」と声だけ残念そうに言った。
「門のところで待っていて下さい。お土産がありますので」
放課後に遊びに来ただけで土産だなんて滅相もない、と断ろうとしたが桃花は聞かず、さっさと母屋のほうに駆けていった。
今日一日を話してみて分かったが、桃花は意外とこういう頑ななところがあるらしい。土産の中身を思い浮かべながら言われた通り門まで歩いた。
「どうだった? 桃花さんと会った感想は?」
不意に背後から声をかけられて思わず声が出そうになった。振り返ればニヤニヤした顔の山田が居た。
「……ビックリした。フツーに声かけてくれ」
「気配にも気付けない雑ぁ魚のアンタが悪い。それで、どうだった? なんかけっこういい感じに見えたけど?」
「……どっから見てたんだよ。まぁ、うん。楽しかったよ」
「ふーん? で、なんであのまま押し倒さなかったわけぇ?」
「そこまで猿じゃないってこったよ」
「据え膳食わぬは男の恥って言うけどねぇ?」
「武士は食わねど高楊枝、とも言うさ」
陽馬の返す刃が思いのほか上手く、山田が「ほう」と唸った。
そうこうしているうちに桃花が母屋から戻ってきて陽馬に小さな箱を渡す。酔っ払いが家に帰ってくる時に手でぶら下げている折詰とそっくりだった。
「あー……なんか悪いな。こんなちょっと寄っただけで土産まで持たせてもらって」
「いいんですよ。そんな大したものじゃありません。ほんの気持ちです」
礼を言って門を出る。桃花と山田に手を振って別れた後、ふと土産物の中身が気になった。箱の形状から見て寿司の折詰だと思う。
道場から家まで大した距離じゃないが、腹も減ってきたし二、三つまもうと思って封を切れば、中身を見て思わず生唾を飲み込んだ。
と、同時に陽馬のスマホが震える。メッセージの送り人は鷹司桃花。内容は、
【使ってもいいですけど、あんまり嗅いだりしないでくださいね♡】
嗚呼、まさかさっき着ていた白ビキニが入っているとは思わなかった。
クソッタレ! もうどうなっても知らんぞ! と思ったが逆に使ってしまった場合の未来を想像して思い留まる。
おそらく、次に会った時にこう聞かれるのだろう「わたしのあげたアレ、どうでした?」と、あの薄っすらと笑んだ顔で桃花は聞いてくるのだろう。
よし、と陽馬は思い通りになってたまるか、という決意をする。
ビキニを雑巾替わりにして家中の床を拭き上げよう。
煩悩には清掃が効きそうな気もする。「どうでした?」と聞いてきた生意気な後輩に「ああ、あの白い布? 雑巾にしたよ、ありがとう」と爽やかにそう言い放ってやろうと心に決めたのだった。