6話 主人公ならどうするか
「水着……? えっと、なんで?」
「えっ? 水着、嫌いだった?」
「いや、別に嫌いじゃないけども」
「けども~?」
「あの、なんで水着なのかなって……」
「私服の方がよかった? 制服とかの方が好き?」
「あ、いや、そういう意味ではなくて」
「じゃあ、いいじゃーん! あの水着かわいくない? エロいよね」
なぜ道場で水着を着ているのか? を問いたかった陽馬ではあったが勢いに押されて「まあ、いいか」と飲み込んでしまう。
水着がかわいいこともエロいことも事実であった。
この距離からみても分かるスタイルの良さ。メリハリのある体。
鎖骨から下にある膨らみに関して言えば、思春期に突入してから初めて実体をまじまじと拝むことになったわけで、心の中の騒がしさといったら近年まれにみるところだった。
「あー……と、その、山田から聞いて、えー……はせ参じました。竜崎陽馬と申します」
何はともあれ自己紹介が必要だろう。
その水着とっても似合ってるね! とでも言った方が良かっただろうかと思ったが、外した時は頭の悪い軽薄な奴と認識されそうで止めておいた。
「あ、あの……知ってます。竜崎さん。わたし鷹司桃花です。お久しぶりです」
たかつかさ、と言えばこの道場主、陽馬の師範の苗字である。
「え、桃花ちゃん? お、おー……大きくなったねぇ⁉」
つい親戚のおじさんが言うようなことを口走ってしまったが、桃花の年は陽馬のひとつ下だ。話したことはなかったが、母屋に用があってその時に何度か姿を見た事くらいはある。師範からも娘の桃花の話をたまに聞いていたので、存在くらいは知っていたのだ。
「あの、わたしも同じ高校に通うことになりまして、先輩と後輩ですね。えと、宜しくお願い致します」
道場に水着という非常識から礼節ある言葉と美しいお辞儀姿をしてみせる桃花。
陽馬はと言えば、上体の動きにやや遅れてついていく二つの水風船を見るのに忙しくてそれどころでは無かった。
「ほらほら、そんな離れてないでさ~。二人でくっついて話しなよぉ」
山田が陽馬の背をグイグイ押して接近させる。
「そんな二人して立ってないで座りなって。ほらほら横並びでさ、今お茶とか出すからさぁ」
どこに用意していたのか手際よく座布団に座らされ、熱い緑茶と菓子盆に盛られた煎餅や饅頭を挟み並んで座る。
横引きの雨戸が開けられて昼の日が差し込めば、肌も水着もいっそう輝きを増すかのようだった。
何とも気まずい時間が流れる。話すと言っても何を話せばいいものか、無難に学校のことでも触れてみようか。
陽馬が先手を打とうとしてふと気付いた。いつの間にか山田が消えているのだ。茶と菓子を用意した後だ、陽馬の背面に回ってそのまま視界に入ってきていない。
三人しか居ない寂しい道場の中で一人この場を去る者を見落とすだろうか?
自分はそこまで気が動転していたのだろうかと思ってショックを受けていたら桃花の方から話しかけてきた。
「急にお呼び立てしてすみませんでした。やま子ちゃん、言い出したら聞かなくって……」
やまこ、太平がつける前から既にあだ名で使われているとは思わなかった。
「竜崎さんのこと、父からよく聞いていたんです。飲み込みが早くて優秀だって、父が人を褒めることはあまりないんです」
「先生が俺のことを?」
「はい。いつも嬉しそうに話していますよ」
「……そっか、そうなんだ」
思わぬことで陽馬の緊張がほぐれていく。
晴馬の師匠はいつも穏やかで、凪いだ海のような人だ。広く深く、底が知れないような強さがある。褒めてくれたとしても「いいですね」としか言ってくれないあの先生が、桃花にはそんな褒めるようなことを話していたとは、今までの稽古が報われたようで身の内からじわじわと嬉しさが広がってくる。
「すごい人だって聞いていたので、わたし竜崎さんってもっと厳めしい人と思ってました」
遠慮がちな伏し目のまま、ちらりとだけ横目で陽馬の顔を見てくる。
「実物はどう? フツーでしょ」
「いえ、そのぉ……かっこいい、なぁって」
熱を帯びたその言葉を聞いて相手の顔を思わず覗き込む。口からつい出してしまった言葉は取り消せない。
言ってしまった後で桃花が耐え切れず顔を背けていた。
小ぶりな耳、白い首筋、細い肩、恥ずかししそうに背を丸めている。
「あっ、なに言ってるんだろ、わたし。すみません! あんまり男の子と話したことなくって、ちょっと緊張しちゃってます」
パタパタと手で顔を仰いでいる。
肩口まで伸びた長めのボブカットがゆるい風にふかれて揺れる。
かわいい、と素直にそう思った。
いやむしろ可愛すぎる。艶やかな黒髪がそう思わせるのだろうか、透き通るような白い曲線美のせいか、もう単純に横顔が綺麗だからか、もっと直接的に水着の魔力なのか、陽馬が耐えるように奥歯を噛みキュートアグレッションに打ち震えていた。
前のめりに凝視していたことをやんわり指摘される。
「あの、こんな格好してるわたしもわたしなんですが、その、そんなにジッと見ないでください……は、恥ずかしくて……」
今さら隠すように手を体の前に、腕を抱くようにしてもじもじと身をよじる。
陽馬は戦っていた、己の欲と。
正直もう可愛すぎて頭が爆発しそうだった。こんな理想的な子がこの世にいるものだろうか。かわいくていじらしくておまけにスタイル抜群ときている。
もしかしてこの子は俺のことが好きなんじゃなかろうか。それは飛躍しすぎだろうか。ちょっと冗談めかして手とか握ったり出来ないだろうか、いいや待て陽馬よ、それはあまりにも軽薄すぎやしないか?
なにか裏があるのではないか? 裏があろうが無かろうがどうでもいいことだ。今を楽しめ、吉凶など占えるものではない、ならば今、この瞬間を楽しむことが賢明では――。
思考が途切れた。
ふとした温かみが手の上に舞い降りた。
冷たい木の床とは対照的な、柔らかく暖かいそれは桃花の手だった。
指先から確かめるように二、三度触れて、陽馬が抵抗しないことを見れば、彼の手の甲に彼女の手のひらがピタリと重なってきた。手が、熱い。神経の全てが手の甲に集中したような感覚がする。
「あの、もし良かったら、ハルくんって呼んでもいいですか?」
「……好きに呼んでください」
「ありがとうございます。……もう少し近づいてもいいですか?」
「……ハイ、どうぞ」
肩の触れそうな距離にある。いいや、すでに何度か触れている。二人の呼吸が重なる時にわずかに触れる。
頭がクラクラした。もうまともに相手を見られない。
視界の右端には桃花が居る。鼻で息を吸えば彼女のシャンプーの香りだろうか、シトラスを含んだ甘い香りを感じる。
陽馬は色々と限界だった。彼から動くことは無いように思われた。このような状況を上手く転がせるほどの経験はない。
今まで自分がいかに驕っていたのか思い知らされた。挑まれたメスに背を向けて震えることを情事と呼ぶなど生物史始まって以来のなんちゃらかんちゃらと、いつか聞いた偉人か何かの台詞が頭の中を巡っている。
自分は違うと思っていた。もっとスマートに出来ると思っていたのだ。自分は異性にはモテる方だという自負が陽馬にはあった、それは客観的な事実である。
だが、いまこの場においてそんなことは何の役にも立たない。
最後のとどめが訪れる。
桃花がゆっくりと顔をこちらに向けてきたのだ。
心なしかわずかに、既に無いに等しいような距離を更に詰めてきている気がするのは、気がするだけではないだろう。もはやそういうことである。桜の花のような唇が、頬に、その寸でだった。
「主人公ならどうするか、もし、この俺が主人公なら」
震える声でそう絞り出す。
突飛な言い出しに桃花は疑問符を浮かべていることだろう。顔を見なくても分かる。
「突然、変なこと言ってごめんね」
霧が晴れていく。
頭の中が澄んでいく。
脳みそをぐずぐずに溶かす靄がかかっていた気分だったが、陽馬が自分のモットーを口にした途端、ストンと落ち着いた。