22話 逃げないでよ。逃がさないけどね
「あー、巳月?」
とりあえず目の前まで行って名前を呼んでみる。するとそれまでお菓子にしか興味がなかった巳月がたった今こちらに気付いたように顔を向ける。
「あれ、陽馬じゃん。どしたの?」
普通だ。普通のいつもの巳月だ。陽馬のことをお兄ちゃんと呼ばない妹のこの口調、たったの一日にも満たない時間のはずが随分久しぶりに名前を呼ばれたような気がしてくる。
「あのー、なんつうか、お食事入浴中にすまん」
「いいよ別に、全然だいじょぶ」
本当にまるで気にしていないように次のケーキへと手を伸ばす。
「陽馬も食べる? チーズケーキ好きでしょ」
食べていいものか迷っていると、やま子が「大丈夫、許可を出されたものは無害だから」と安全なことを教えてくれる。恐々しながら食べてみるとちゃんと美味しいチーズケーキだった。濃くて重たい甘さの後、陽馬が好むレモンの効いた爽やかさが鼻に抜けていく。
「うまっ、めっちゃ美味いわこれ」
一口目を飲み込むと喉を過ぎた後でケーキの感覚が消失した。腹に貯まる感じがまるでないのだ。まさかと思って急いで一切れを飲み込んでみたが、やはり全く満腹感は得られない。不思議なものだ。普段口にする物は胃に到達して初めて「食べた」と満足を得られているのだと知る。
「肉もあるよ? 陽馬はやっぱりケーキよりお肉でしょ」
「え、どこに肉が――」
言い終わらぬうちに、いつの間にか陽馬の目の前には七輪でじゅうじゅうと音を立てる焼肉が出現していた。
「うっわ、すげーな! これタンとミノとハラミ?」
「そうそう。我が家の焼肉って言ったらタンミノハラミだよね」
「間違いないな。カルビとかは一枚目は美味いんだけどなぁ。一枚で十分なんだよなぁ」
自分でも気づかぬ間に左手に小皿、右手に箸を持っている。さすが夢の世界は何でもありだ。焼けたばかりのタンを頬張ると程よく厚切りで噛み応えもあり美味しかった。
「はぁ~ウマっ、最高だわ」
「陽馬もお風呂入る? お風呂の中でご飯食べるともっと最高だよ?」
「いや~風呂はさすがにまずいだろ。それに風呂ん中でメシ食いたいとも思わんし」
「ふーん。でも、もう裸じゃん?」
「裸? いやフツーに制服きてハダカだ俺⁉ えっ⁉ なんっ、さっきまで服着てたよな?」
「さあ? 着てたっけ? あんまよく見てなかった」
とは言えだ、夢と言えども高校生にもなって妹と風呂はまずい。
それが陽馬の考えだが、急に裸になった戸惑いと風呂に入った方がいいのか悪いのか、とりあえず判断を仰ごうとして振り返ると四人の視線が陽馬に注がれており、しかもやや下を向いていることに気付いてすぐ前へ向き直す。特に桃花の真剣な眼差しが怖かった。
「ハルくん、大丈夫ですか? 一旦こちらへ戻ってきた方がいいんじゃないですか?」
「……いや、大丈夫」
「ハルくんの無事を確認したいのでもう一度だけこっちに体を向けてくれませんか?」
「……向けるのは顔でよくね?」
「体に異変が起きていないか心配なんです」
「起きてないと思うので大丈夫です」
「じゃあ、わたしがそっち行きますね?」
「いや、あの、何か怖いので来ないでください」
「じゃもう一度だけチンチン見せてもらってもいいですか?」
「急に白状しやがった……」
「……腰のラインとお尻の形がいい感じですね」
ダメだ。このままでは桃花に餌を与え続けることになる。仕方なし、と目の前のバスタブに入った。湯舟にはきめの細かい泡が立っており、幸いお互いの体は見えないのが救いだ。かなり大きめの舌打ちが聞こえてきたが気にしないことにする。
「夢の中とは言え、まさか巳月と一緒に風呂入る気がくるとはな」
「別に夢から覚めても一緒にお風呂入ろうよ」
「……は? いやいや、ハァ?」
陽馬が急いでやま子の方を見る。
「この世界の妹さんが話すことは全部が本音だよ。噓とか我慢とか、そういうの一切なしで、いつも表層心理が邪魔してる理性を取っ払った本人の百パーセントの気持ちで喋ってる」
深層心理の巳月が口にしたことを、陽馬はいまだ飲み込めずに居る。
「ねえ、陽馬。チューしよっか? お風呂もそうだけどチューするのも小学生ぶりだね」
「いやいや待てって、おかしいだろ。なんで兄妹でそんな」
二人で入るには狭い浴槽の中、距離が詰められるのはあっという間の出来事だった。腕を使って巳月の肩を押し戻そうとするが、夢の中の巳月は陽馬よりよっぽど腕力があるのかびくともしない。
巳月と顔を突き合わせている。綺麗な顔をしているとは思う。いつ芸能界からスカウトがやってきてもおかしくないルックスをしているとさえ思う。だが妹だ。愛はあるが恋にはならない。
「陽馬はわたしのこと嫌い?」
桜色の、形の良い唇が動く。
「ずるい聞き方するなよ。嫌いなわけない」
「じゃあ、好き?」
「そりゃ、まあ好きは好きだけど、そういう意味の好きってことはない」
「知ってる」そう答えた巳月の顔が、悲しみに歪むのであれば、もっと踏ん切りがついたかも知れない。寂しそうに微笑むのだ。そんなことは巳月も知っていることだと、それを理解した上でなお微笑んでいるのだ。
思ったことも無かった。いいや、思っていたのかも知れない。心のどこかには気付いていた部分があったのか、はっきりと知ってしまった今、分からなかった頃の感覚は蘇らない。
「巳月は……俺のことが好きなんだな」
微笑む顔がいっそう柔らかくなる。瞳の中に星が煌めくような輝きがある。恋する瞳というやつだろうか、宝石も霞むほどに美しい。
「好きだよ、陽馬。ずっとずっと好きだった。家族だしお兄ちゃんだけど、その前に、わたしにとっては異性だった。ずっと一緒に居るのに、本当はいつもドキドキしてる」
陽馬が天を仰ぐ。空は昼と夜が二分された異空間で、今の複雑な感情に似付かわしいと感じた。点と点が繋がっていく。
「巳月がたまに言う、法律に同意した覚えはないってやつ、あれの意味が分かったよ」
「そっか」
「俺が巳月に言った。一緒には居られないって、お前からすると重い言葉だったんだな」
「まあね。ここ最近は変な女どもが陽馬の取り合い始めるし、めちゃくちゃイライラしてたよ。高校二年でいきなり登場してきてさぁ、なんか意味わかんない未来の話とか、急にわたしだけ置いてけぼりっていうか、疎外感半端ね~みたいな感じでムカついてたし、でも表のわたしが本当は陽馬のこと好きだから争奪戦参加しまーすとか言えるわけないし、陽馬も陽馬でなんかそいつらとばっかり出かけるし、急に涙出てきて止まんない時とかあるし、三日連続くらい部屋で泣いてた時とかあるし、ほんとキツかったよ」
「……俺の知らんところでそんなにメンタルきてたのか……」
「ほんっとに! もっと私のこと可愛がってよ」
「まあ……そうだな。もうちょい構うようにする」
「うん。まあ、とりあえずよろしい。別に陽馬からすぐ答え聞きたいわけじゃないし」
「……りょうかい」
原因のところはこれで判明した。巳月が陽馬のことを異性として好きで、その悲恋について最近の環境変化が耐え難いストレスを与え、決定打となる言葉によって苦痛が許容量を超えてしまったわけだ。もう一つの問題を思い出して陽馬が口にする。
「あの、表の方の巳月がいま幼児退行おこしてんだけどさ、あれってどうやったら戻る?」
「あ~簡単だよ。今日でめっちゃ甘えたし、この夢が覚める頃には戻ってるよ」
案外すぐに解決してほっと胸を撫でおろした。
ふと、夢の中の何でも答えてくれる巳月に聞きたいことを思いつく。あまり何でもかんでも聞くのはどうかと思ったが、ひとつくらいは許してくれるだろうと思った。
「巳月は、いつから俺のことを好きになった?」
「小学四年生だね」
「……そんな前からだったんか。きっかけとかあった?」
「うん。わたしが振った男子を、陽馬がぶっ飛ばした時だね」
「そんなことあったか?」
「小四の時さ、陽馬って一瞬だけ不登校なったじゃん? 夏休み明けにすぐ復活したけど」
昔のことだが記憶に新しい。今朝みた夢の内容がここで出てくるとは思わなかった。
「陽馬に意地悪してた奴らなんだけど、あいつら二人でわたしに告白してきてさ、断ったんだけど、その逆恨みで陽馬が標的になっちゃったんだよね。ずっと言い出せなくてゴメン。わたしのせいで陽馬が不登校になっちゃって、でも私のせいなんだよって言うの怖くって、知らないふりしてたんだ。本当にごめんなさい」
あの謂れのないイジメにそんな裏話があったとは知らず驚いた。
巳月は罪の意識を感じていたようだが「謝んなくていいよ」と陽馬は言う。幼心を考えれば言い出せなくなってしまうのはよく分かる話だ。
「……ありがとう。陽馬が不登校になっちゃって、どうしようどうしようってずっと思ってたんだけど、あれからあの変な道場通い出して、それで夏休み明けに勝手に一人で解決しちゃうし、お兄ちゃんってスゴイ! って心の底から思って、それで何か、きっかけはそれだと思う。それで好きになっちゃった。さっき異性として好きって言ったけど、お兄ちゃんとして好きで、好きすぎて尊敬とか憧れとかそういうのがどんどん大きくなって、最終的に異性として好き……みたいな感じで好きの気持ちがレベルアップしていった……ってのが、気持ちの変化の正確なところだね」
「ん、その、ありがとう。この世界のお前……ストレート過ぎてちょっと調子狂う」
「陽馬ぁ、照れちゃってるじゃん。その顔、好き」
横を向いて顔を見られないようにした陽馬だったが、この夢の世界において巳月に敵うものは居ないのだろう。頬にそっと触れられ動きを止められる。そんな優しげな動きですら陽馬の抵抗を無駄にされてしまう。
「逃げないでよ。逃がさないけどね。よく見せて、わたしの大好きな人の顔を」
近づいてきた巳月は頬をすり寄せ、猫がじゃれるように、自分の匂いをつけるように、何度も何度もそれを繰り返す。陽馬は自分の体温が上がっていることを自覚していた。風呂の熱気か、恥ずかしさか、もしかすると新たに芽生えた何かなのか、今はまだ判断がつかない。
たっぷり数分はマーキングされてようやく満足したのか巳月が解放してくれる。
「他に聞きたいことは?」
少しだけ考え「ないと思う」と返した。
「そう、じゃあ、最後に、表のわたしで、わたしの本音を言ってあげようかな」
え、と陽馬が戸惑いの言葉を放つ前に始まったそれは、確かに巳月だった。
「ムカつく、ほんっとに、あいつらムカつく」
夢の中の巳月とは違う、少しトゲのある表情。息を吐き切るような話し方。現実に居る巳月の姿がこの世界に顕現していた。
「陽馬のこと、絶対わたしの方が好きなのに、なんであいつら高校でようやく陽馬のこと知ったくせに。わたしがいつから陽馬のこと好きだったと思ってんの? 一体いつからこんな思いしてきたと思ってんの? 同じ時間、同じ病院で生まれて、隣の保育器に入って、一緒のご飯食べて、一緒の家で生きてきただけなのに、なんで……好きになっちゃ駄目なの?」
巳月は、喋る途中から涙が溢れて止まらなくなる。
「なんで兄妹は結婚しちゃ駄目なの? なんでそんなの勝手に決めちゃったの? お兄ちゃんだから好きんんじゃない。わたしは陽馬だから好きなのに。悔しい。なんでわたし妹なの? なんで好きな人の妹に生まれちゃったの? 法律で決められてるって、そんなの、世界がわたしにダメって言ってるのと一緒じゃん。あいつらが羨ましい。何も考えずに人を好きになれる奴らが羨ましい。こんなに、こんなにわたしは陽馬が好きなのに、それでも絶対無理なんだって、絶対にわたしの方が陽馬のこと好きなのに、何回も何回も心の中で陽馬が好きって言ってるのに、そんなの誰にも負けないのに、それを絶対に口にしちゃいけないのが悔しい。好きって言いたい。好きな人に、ただ普通に好きって、そう言ってみたい」
感情の発露。巳月の秘めた思いを目の前にし、陽馬も思わず息を飲んでいた。
法律に同意した覚えはない。巳月が口にする言葉の意味を芯の所まで知った。生まれた瞬間から契約をかわす間もなく、当然として刷り込まれるこの世のルール。世界の大前提で恋を否定されるとは、いったいどれだけやるせないのだろうか。
俯いていた巳月がすっと顔を上げると、夢の世界に居る巳月に戻っていた。
さっきまでの取り乱した様子も涙も、全てが瞬時に切り替わってこう言った。
「表のわたしによろしくね。わたしは素直じゃないけど、そういうところも可愛いでしょ?」
何だか無性に名残惜しい。この巳月と会うことはもう二度とないのだろう。やま子に言えばまたこの世界にやってくることは出来るだろうが、そう何度も足を運ぶような無粋な真似はできない。
湯舟から上がって、服をどうするか考え始めたところで世界が急激に形を変えていくことに気付く。
天井に描かれた空は早回しの映像のように雲脚が流れ、太陽と月が同時に登り、同時に沈むことを幾度となく繰り返す、光と闇が、切れかかった蛍光灯の点滅を何度も何度も繰り返すように明滅し、足元から立ち上った白く深い霧に包まれたと思えば、ゆっくりと眠りに落ちる時に似た感覚で意識が離れていく。
ゆっくり、本当にゆっくりと、時間が引き延ばされているような、ソファにどこまでも沈み込むような気持ちのいい陶酔感が延々と続き、落ち切った瞬間、急遽として反転するように、現実へ浮上するのだった