19話 白化の炙り
巳月の愛くるしさに絶叫する吹雪。
何か叫びながら悶絶する吹雪の横で陽馬は悶々とする。どうしたものか、泣き出しそうな顔で言われれば頷かないわけにはいかない。結局、陽馬のクラスにやってきた巳月はごねにごね自席へ座る兄の膝の上に腰掛けるまでに至ったのだった。
「おはよ。なんで吹雪と巳月ちゃんが?」
吹雪より遅れて登校してきた兄、太平が教室に入るなり珍しいものを見た顔で近寄ってくる。
かくかくしかじか、吹雪にした話を太平にもしてみせるが「機嫌いいなら別にいいじゃん?」と、似たもの兄妹ぶりを発揮された。
どうせ伝わる話ではないからそれはいいとして、問題はホームルーム前の予鈴が鳴ってからも巳月は帰ろうとしなかったことだ。
「ツキちゃん、そろそろ戻らないと先生が来て、コラぁ~って怒られちゃうよ?」
ほとんど子供をあやすような口調で吹雪が喋る。対する巳月はというと「やだ、お兄ちゃんと一緒に居る」の一点張りなのだ。
陽馬もさすがにずっと巳月を膝に乗せているわけにはいかない。
足も痺れてきたし、他クラスの生徒が「帰りたくない」と駄々をこねて居座るなど悪目立ちもいいとこだ。しかもそれが学内有名人の巳月だと言うので余計に目を引く。
まさかこのまま本当に自分とずっと居るつもりではなかろうな、と悪い不安は見事に的中したのだ。
教室の前のドアをガラリと開けて担任教師が入ってきた。
巳月と吹雪をみて目をぱちくりさせている。
「あれ、竜崎さんと千賀さん? もうホームルーム始まりますよ? はやく自分の教室いかないとダメでしょう」
「すみません。すぐ戻ります」といつもの凛とした吹雪に戻り「ほら、ツキちゃん、いい子だからクラスに戻ろうねぇ」と変わり身の術のように甘ったるい声を巳月にかける。
「やだ、お兄ちゃんと一緒にいる」
まずいな、と陽馬がここに来てようやく焦り始める。先ほどまではホームルーム前の朝の喧噪があった。
クラスの面々が思い思いに近くの生徒と話すので、まだマシな注目度合いだったが、今は全員が陽馬と巳月を注視している。
「竜崎くんと一緒って――」
「先生、すみません」
突っ込まれる前に陽馬が先んじて喋り出した。
今日のこの感じからするに、陽馬が考えている以上のことが巳月に起こっているのかも知れない。おそらく、いまの巳月は何を言われても駄々をこねるだけだろう。
「朝から巳月が具合悪いみたいでして、保健室に連れて行ってもいいですか?」
「えっと……」
「急なこと言ってすみません。ただ、熱もあるみたいで、はやく休ませてあげたいんですが、いいですか?」
半ば席から立ちかけて返答を急くと「分かりました」と了承を得られた。
これ以上の余計な視線を浴びないよう、膝の上に居る巳月を手早く持ち上げ、自分の足で立たせ、手を引いて教室を出る。
少し早めに歩いて他クラスの前の廊下を通っていく。
ホームルーム中の時間帯に廊下を歩く生徒が居れば目立つ。少しばかり早く歩いたところで竜崎兄妹が二人で出歩いていることはすぐに知られてしまうだろうが気持ちの問題だ。
階段を下るところまできてようやく陽馬が口を開いた。
「巳月、おまえマジでどうした? アレは流石にヤバいだろ」
「でも、お兄ちゃんと一緒に居たかったし……」
またそれか、と陽馬が軽く眩暈を覚えた。様子のおかしい巳月を衆人環視から守るために教室から離脱したわけだが、この調子では保健室に置いていく段階でまた駄々をこね始めてもおかしくない。
もし万が一、保健室に送り届けた後で授業中に「お兄ちゃ~ん!」と乱入されたらどうだろうか。あらぬ噂が立つことは容易に想像できた。そして、今日の巳月の危うさからは、やりかねない雰囲気を感じ取れてしまう。
陽馬は考えた末、早退の選択を選ぶ。
保健室の先生に、妹は朝から具合が悪く無理を通して登校したことを熱く、そして涙ながらに訴え、優しい兄は家に帰っても独りぼっちで過ごす妹を想い、どうか連れ立って帰宅してもいいでしょうか、と提案した。
アカデミー主演男優賞も間違いなしの鬼気迫る演技によってどうにかこうにか了解を得られ、今こうして二人は並んで自転車を漕いでいる。
「あーあ、無遅刻無欠席が途絶えちゃったぜ?」
「ほんとだね~」
「ほんとだね~……って、ホントに分かってんのか?」
「公園いこ!」
「こっコーエン?」
「うん! ブランコしたい」
「あ、公園、マジで公園のこと言ってたのね」
せっかく早引きしたのに真っ直ぐ家に帰るのも勿体ない気がして「しゃあねーなぁ」と公園に付き合うことにした。
家に向かう道から少し逸れ、小学生の頃はよく通っていた第三公園、ローカルではタコチュー公園の名で通る公園に向かう。赤いタコを模した大きな滑り台がランドマークだ。
タコの遊具は年季の入った代物で、モルタルの赤い塗装はいくつも剥げている。
「やった、ブランコ空いてる!」
就学前児童がチラホラ居たがブランコで遊ぶ子はおらず、巳月はご満悦だった。
いつもなら前髪が崩れるを嫌ってこんな遊びはしなかっただろう。今はおでこ全開できゃあきゃあ言ってはしゃいでいる。あんまり楽しそうだったからか、陽馬もちょっと気が乗ってくる。
「押してやろっか?」
「うん! でも怖くしないでね!」
はいはい、と陽馬が軽く返事をして背を押してあげる。推進力を得て、巳月の力だけでは進まない高さまで到達するとはしゃぐ声も一段と高くなった。
昔はこうしてよく二人でブランコをしたよなぁと郷愁に駆られる。仲のいい双子の兄妹なら一番の遊び相手はどうしたって片割れが務めることになる。
二人でブランコを遊ぶなんて、そんな覚えておく必要もないような日々を、ふと懐かしく感じる程度には歳を重ねたのだと陽馬は知った。
背中を押してやった後、そうだったと思い出す。あの頃、巳月は決まってこう言うのだ。
『「お兄ちゃん、二人乗りしよ!」』
思い出が肉声を持って、まったく同じ台詞を、今の巳月が繰り返す。
頭の中の奥にあった、あの時の幼い喋り方を、今の巳月がしている。
昔よりずっと大人びた声で、セーラー服を着た高校生が、ピンクっぽい茶色に染めた長い髪を翻す。化粧っけのない短い黒髪だった頃とは何もかも違っている。
あまりの異質さに、陽馬は背筋が寒くなった。と同時に、妹の身にいったい何が起きているのか、ひとつ思い至るところが出来た。
「二人乗りはやめとこう。お兄ちゃん、ちょっと疲れちゃった」
「え~! でもちょっとだけ!」
「少し休憩してからね。そうだ、ジュース飲む? 好きなの買ってあげる」
「え! いいの? じゃあ~ファンタのオレンジがいい」
「いいよ。じゃあ自販機んとこ行こう」
思った通りだ。ここ最近の巳月は無糖のレモンティーをよく買っていたが、今の巳月なら昔と同じようにオレンジジュースを選ぶだろうと思った。
「あんまり一気に飲んじゃダメだぞ? すぐおしっこ行きたくなっちゃうんだから」
「んー」と喉を鳴らすだけの返事。
まるで話を聞いていない。子供は我慢を知らないし、食べる飲むを始めたらそれだけに一辺倒だ。陽馬はその様子を横目にスマホを取り出してグループラインに何かしらを送信した。
結局、五〇〇ミリ缶のファンタオレンジはほとんど間も置かず飲み干された。巳月の雰囲気から見てまだブランコで遊びたそうだったので、二人乗りを思い出される前に別の興味を提示する。
「何か食べに行こ。巳月は何が食べたい?」
「ポテトがいい。シャカシャカするやつ!」
「あ~、あれなぁ……まだやってんだっけ? 期間限定とかじゃなかったかな、まーいいか」
巳月はもう「マック、マック!」と自転車に乗って出発する気満々だ。
立ち漕ぎはパンツが丸見えになるから止めなさい、と行儀を窘めたりしながら早めのランチに向かった。シャカシャカポテトはなかったが巳月は機嫌を損ねることなくLサイズのポテトを一本ずつ食べていく。
そうやって食べると長い間食べられていいそうだ。同じ人間でも仕草と表情が変わるだけでここまで別人のようになるのだな、と陽馬は巳月が無心でポテトを食べる様子をみて思った。
帰宅してネトフリでクレヨンしんちゃんの映画をかけていると巳月は大人しく見入っていた。ヘンダーランド→ヤキニクロード→嵐を呼ぶジャングルと見続けていたら途中でインターフォンが鳴る。
ようやく援軍が到着したのだった。
巳月が玄関を気にするが、特に取り合わず陽馬がソファから立ち上がる。
「そのまま見てていいよ、俺が出るから」
ほとんど寝そべるように三人掛けのソファへ深く座っている巳月、来客への興味は既に削がれ、テレビに意識が向いている。
玄関を開けて目に映った面々に対し陽馬に驚きはない。
さきほど公園で彼自身が呼びつけていたのだ。
内容は『緊急招集、巳月の様子がおかしい。力を貸して欲しい』だった。
面子は当然、桃花、やま子、新名、すず子だ。
「まさかハルくんからお家に呼んでくれるなんて」と桃花の媚びた発言は、
「この人数で呼んでも喜んでくれるなら甲斐があるよ」と、さらりとした物だった。
新名が「それで巳月ちゃんはどうしたの?」と心配そうに聞く。
「……多分なんだけど、幼児退行してる」
桃花と新名が「ヨージタイコー?」と声を合わせた。
「人間の防衛本能として、強い心理的ストレスを受けた時、自分の心を守るため無意識で働くのが幼児退行らしい。幼児退行は楽しかった頃の昔に戻って、欲求の不満を満たして心を回復させる反応……って、スマホで調べたら出てきた」
加えて、いつもの巳月なら絶対にしないが、幼い頃はよく好んでいた趣味や習慣がそっくりそのまま昔の状態と一致していることを伝える。
「ファンタのオレンジもポテトもブランコも、全部、小さい頃に戻ったみたいな反応しちゃってる。……まあ、取りあえず上がって様子を見てみて欲しい」
ぞろぞろとリビングに上がってきた陽馬以外の四人を見て、巳月は警戒を露わにしている。先ほどまでリラックスしてテレビを見ていた姿は、ソファの上で三角座りになっていた。
「巳月、挨拶は?」
返答なし。
落ち着かなさそうにソワソワとした後「お兄ちゃんこっち来て」とだけ言った。
どうするか少しだけ考えてから陽馬は巳月の傍に行く。
「挨拶するまで行かないよ」と答えようかと思ったが、今の巳月をあまり刺激するのも良くない気がして止めておく。
傍に来た兄を自分のところに引き寄せ、盾にして隠れるように四人と距離を作り、陽馬の脇にすっぽり収まる陣取り方をした後は動かなくなった。
「……とりあえず、こんな感じなんだよ」
四人を立たせたままでは巳月も落ち着かさなそうなので座るように促しながら説明する。
「巳月は普段、俺のことをお兄ちゃんとは呼ばない。いつからだったか忘れたけど、基本、名前で呼んできてる。それから自分のことを妹って言うのもメチャクチャ嫌ってた。他の人から言われるのもそうだし、俺がうっかり言ったらとんでもなくキレてた。……今は、こういう系の話をしても耳に入って来ないようになってるのか、まったく反応なし。昔の状態が今になって引き出されてるわけだから、記憶の齟齬が起きて受け付けなくなってんのかも知れない」
「いつからこの状態?」と、やま子がじっと巳月を観察しながら聞く。
「今日の朝、起きたらこうなってた。昨日ちょっと喧嘩みたいになって、思わずブラコンって言ったんだけど、そこから様子がおかしくなって……それがきっかけかな」
すず子が顎に手を当て、考える素振りのまま口を開く。
「竜崎さんが竜崎くんに強く執着しているのは見ていてわかったけど、その発言だけでここまでの状態になるかしら?」
「俺もそう思う。……たしかに最近、桃花ちゃんと新名先輩、それからやま子とすず子のおかげで忙しくて巳月に構えてなかった。それでストレス貯めてんだろうなってのも見てて分かったけど、そろそろ兄離れにちょうどいいかって、そう思ってた」
巳月はピクリとも動かない。壁際にあるソファ、その端っこ、陽馬と壁の隙間で落ち着いているのか、はたまた闖入者たちを警戒し身を隠しているのか。
「私たちを呼んだ理由は、竜崎さんを元に戻して欲しい、ということですか?」
すず子が本題を口にする。
「ああ。療法と、それから原因が分かるなら知りたい」
両陣営を見ながら陽馬が言う。
「科学と魔術の両面から、何でこうなったか調べてくれ」
すず子が苦笑いしながら頭を指で掻く。
「調べてくれなんて随分と丁寧で心のこもった頼み方ね。もう上司気分なのかしら」
「未来じゃ王様らしいし、前借りってことで許してよ」
悪びれなく笑う姿は、すず子までならず、やま子もヤレヤレといった様子だった。金のツインテールを指でくるくるやりながら言う。
「まー別に断る理由ないし、いいけどね」
「ありがとう、何か方法ある?」
「白化の炙りっていう術がある。人の夢や記憶に入り込んで何があったか探る術なんだけど」
何だかいよいよ本格的になってきたな、そう思い、唾を飲む陽馬だった。