17話 いくら何でもブラコン過ぎんだろ
何が飛び出してくるかと思って身構えるようなつもりで聞いていた陽馬だったが、答えを聞いた後の感情を言い表すのは一筋縄ではいかなかった。こめかみを親指で押さえながら聞く。
「えーと……。都合のいい女ですか?」
「そうだよ」
「えー……もっとこう、別の、何かしらの魅力で対抗するみたいなことじゃなくて?」
「都合がいいっていうのも魅力だと思うけどなあ。誤解して欲しくないのは、なまじ都合のいい女ではなく、最高に都合のいい女だからね?」
「いや、あの、そんな補足みたいに言われても……」
「考えてもみてよ。例えば今日、ワタシが竜崎くんだけじゃなくて、巳月さんを誘ったのも都合が良かったでしょ? ワタシの見立てじゃ巳月さんはストレスを溜め込んでていつ爆発してもおかしくないよ。ここ最近、ワタシと鷹司さんが君のことを借りっぱなしだしね」
それもまた分析というやつか。
言われた通り、そろそろ巳月のガス抜きをしないと怒り出すだろうとは考えていた。新名が巳月と会ったのはまだ数えるほどだったはずだが、巳月が陽馬に普段どれだけベッタリなのか、外では控えているそれを正確に読み取っていることに驚かされる。
「ワタシと居てくれたら人付き合いの大抵は円滑に回ると思うよ。加えて、いつでも竜崎クンを優先する都合のいい女で在り続ける。どう?」
「どうって言われましても……。都合のいいって言っても、実際どれくらいのこと言ってるわけですか? なんでも言う事きくわけじゃないでしょ?」
「何でもだよ、なんでも」
覗き込むように陽馬の顔を見てくる新名。
「君が望むなら毎日の食事から下の世話まで、何でも、全部、気が済むまで、どこまでも何度でも飽きるまで、ただひたすら君に捧げるよ。究極に都合のいい女になるって誓うよ」
どうして笑顔でそんなことを言えるのだろうか。その笑みから感じ取れる、どこか不健全で不道徳なところが強烈な印象を残す。
それではまるで奴隷ではないか、と陽馬が口の中で言葉を思いついたが、それが飲み込まれて体に溶ける頃には、確かに悪くないかも、と思い始めていたのだった。
新名は全てを陽馬に開示したかのように見せて、その実、伏せていたこともある。
それは竜崎陽馬の分析結果だ。ここまで言葉を尽くせば、彼が「奴隷」に近しい言葉を見つけることは読んでいた。
そして彼がその退廃的な存在と、それを提供すると言われた時、どれほど心に響くか、新名には想像がついていたのだった。
「まあ、竜崎クンに今日決めて欲しいって話じゃないからさ。ワタシを選んでくれるなら、そういうスタンスで居るよってこと」
「まあ……考えときます。色々と」
陽馬が悶々としたのは言うまでもないことだ。
別に奴隷を従えて享楽に耽りたいだとかそういった趣味はなかったが、まるで盟約に近いような関係の示唆は、彼の好みにおいて十分にツボを得ている。
そして、やはりシンプルに「都合のいい」といった存在をみすみす手放すのは勿体ないように思えた。打算的なところは無視できないのが人の性だろう。
どうしたものか、話を始める前までは、じっくり考えたことはないまでも、桃花の真っ直ぐした好意に惹かれていたのは事実だった。
だが、ここまで投げ打って腹を見せた新名の深みに思わずハマってみたくもなる。
巳月がようやく帰ってきて、難しい顔をする陽馬にワケを問うた。
「なにその顔、なに考えてんの?」
「……いや、昼飯……どうしよっかなー……って……」
「噓つき、そんな超真剣な顔して悩まないでしょ。何となく、わたしがムカつきそうなことで悩んでそうな気がしてムカついてきた」
女の勘というやつだろうか。妙に冴えた直感に内心では驚いていた。
「出会い頭の事故みたいなムカつきかたしてんじゃねーよ」
程なくして科学館を後にする。
この後は特に何も決まっておらず、遅めのランチを食べて駅で解散となった。このあっさりしたところは桃花と比べて大きく違いのあるところだ。
せっかく休日に家から出てきたのだから、と名残惜しさを覚えつつも半分くらいは楽でいいと身の軽さを実感する。
陽馬にとっては本当に何とも悩ましいところだ。
帰る道すがら、今日はどうだった、と巳月に聞けば気のない返事が返ってきた。
「別に、フツー」
展示の楽しみ方が小学生級だった輩がフツーとは何事かと言いたくなる。
「どう見てもお前が一番楽しんでただろ」
「は~? どこが?」
「ペットロボット買おうとしてた奴が言うかね」
「あれはそういうギャグだから! 陽馬にはちょっと難しかったかなぁ~?」
「ハイハイ。ま、久々に一緒に外出てスッキリしたろ? 最近おまえ妙にイライラしてんだもんなあ。先輩には感謝しといてくれよ?」
「……久々にって、こんなんノーカンでしょ」
「なんだよ、まだ遊び足りなかった?」
「そういうことじゃないし、別に伝わんないだろうからいい」
妙に感じが悪い。もともと愛想の良いほうではないが。
「伝わるかどうかは巳月の努力次第だろ、何のこと言いたいのか分からんけど」
「だから、別にいいって」
「……別にいいって言う時の感じじゃないと思うけど?」
「しつこい。もう、うるさいから黙ってて」
「こわ、へいへい。黙っときますよ」
機嫌の悪い時は触れないに限るが、ここ最近で起きた変化はひとつの兆しかも知れないと思った。
一般的に兄妹が生涯を共にすることは少ないだろう。生まれた場所からあまり動かない大昔ならともかく、現代人であれば大学に進学する頃には親元や兄弟と離れそれぞれの進路を行くものだ。
将来は南極に国を興すらしい陽馬であれば尚更だ。
同じ人から生まれ、隣り合う保育器に入り、一つ屋根の下で育ちここまで来た。
だが、いつまでも同じ道を歩くことは出来ない。
「いつまでも一緒ってわけにはいかないからな」
そんなこと、わざわざ言われるまでもない。巳月とてそう思っただろう。けれど陽馬が口にしたそれは、寂しさを含んだ優し気な声をしていた。
巳月は何も言わない。
不貞腐れているのか呆れているのか。
はたまた陽馬と同じように、いつか来る別れの日に気付いてふと切なさを覚えたのか。
そのまま巳月が黙ってしまったので陽馬も無理に話しかけず、二人は静かに帰宅したのだった。二人それぞれの自室に籠り、陽馬がスラムダンクの単行本を読んでいたら巳月がゆらりと入室してきた。
一瞥し、また漫画を読み直す。
いつまで経ってもウンともスンとも言わないので痺れを切らして口を開く。
「どした?」
「……いつまでも一緒にいられないって、どういう意味?」
漫画から顔を上げずに返す。内容は頭に入って来ないがページをめくる手は止めない。
「そのまんまの意味」
「……そっか」
「たぶん、大学とかで別々になるだろ」
巳月は立ったまま、何を言おうと考えているのか。部屋の入口から動かなかった。
「どこの大学?」
「どこだろな。まあ国立はしんどいし、都内の私大で受かった一番いいとこかな」
「……陽馬が受ける大学、わたしも受ける」
ページをめくる手が止まった。
「無理あんだろ。だいぶ勉強がんばんないと間に合わねーぞ?」
「じゃあ、がんばる。勉強おしえてくれる……?」
「……おまえなぁ……いくら何でもブラコン過ぎんだろ」
つい口を突いて出た失言にハッとして顔を上げた。
妹と言われただけで怒り出す巳月に対してこの言い方は不味い。
再び話しかける前に巳月はもう部屋から飛び出していた。
「……クソ。ミスったな……今のは……」
追いかけて声をかけるか考えたが、立ち上がりかけて止める。
いつか離れ離れになるなんて普通のことだ。
行きたい大学を兄が居るから選ぶなんて馬鹿げている。大学の先はどうするのか、まさか同じところに就職するわけにいかないだろう。
桃花と新名が現れたように、人間関係も日々変わる。いつまでも一緒に居られるお兄ちゃんというわけにはいかない。
妹と呼べば怒るのならあえて逆撫ですることはないが、それでも事実は事実だ。
兄から離れる時期が来たのではないか。これもいい機会かも知れない、と陽馬は思ったのだった。
その後は二人で会話こそなかったが、陽馬としては普通に過ごしていた。途中で置いたスラムダンクを読み直し、ベッドに寝転がってユーチューブを流し見して、家族四人で夕食を食べ、風呂に入ってから寝た。
何かと理由をつけて部屋に上がり込んだり、もしくは部屋から引っ張り出そうとする巳月がやって来ないのはリズムが狂ったが、これは陽馬自身にも言えることで、妹離れの時期なのかも知れない、と自嘲気味に笑った。
眠気が来るまで適当な動画を見ながらベッドで横になっていると、最小限の音で部屋のドアが開いた。
いくらこっそり入ってきたところで気付かないわけがない。
シトラスの香りがしたので風呂上りの巳月だと分かった。
陽馬は壁を目の前に、つまり巳月に背を向けていたのだが、何をしでかすのかそのままベッドに潜り込んできたのだ。
「おまえ何して……おい髪も乾いてな……」
さすがの陽馬も易々と受け入れられない領域に阻止しようとしたが、たまたま触れた顔に、指先に感じる濡れた髪ではない湿り気にぎょっとして固まる。
泣いているのだ。触れてすぐ分かるほど涙を流している。
どうしたものか迷った末、狭いベッドの中で顔を突き合わせているのも気まずく、反転してまた壁を前にする。
「どうしたんだよ……」
返事はない。鼻を啜り上げる音と、背中に感じる巳月の体温。
最後に妹と言ったのはいつだったか、中学二年くらいに「妹って言うな」と怒られてからか、もう二年以上は名前で呼んできている。
「なあ巳月……だいじょぶか?」
大丈夫じゃないという意味なのか、Tシャツを引っ張られる。
「そんな泣くことねーだろ……。ごめんって」
ブラコンと言われたくらいで何も泣くことはないだろう。
陽馬としてはそう思うしかなかった。
確かに前々から言うなと言われていたのは事実だ。
「するな」と言われていたことをしてしまったので、それについて形式上は謝るが、別に本当に悪かったと思っているわけではなかった。
「……別にいい」
ようやく涙声が返ってくる。
「……良くなさそうじゃん」
「いいって言ってるからいいの! さっき泣ける系の映画見たから泣いてるだけだしベッドも寒いから入っただけだから別に全部ちがうからいいの! 陽馬が分かるわけない無いもん」
本当に強情な奴だな、と頭を抱える。理由を聞こうにも口は割らないだろうと思った。
「わかった、分かった。お前がいいんなら別にもう聞かねえよ」
背中をドンと小突かれたが「それでも聞けよ」なのか「それでいいんだよ」なのか皆目見当がつかなかった。
「……とりあえず、落ち着くまではそこ居ていいから。もうあんまデカイ声出すな。父さんと母さんがビックリしちゃうから、な?」
「……うん」
これはどうやら正解だったらしい。
そのまましばらく陽馬の背中に丸まってくっついている巳月。
飛び飛びだった息が徐々に落ち着いてくる。
過呼吸の一歩手前くらいまで泣きじゃくっていたのだが、今は深く息を吸えている。
「落ち着いたか?」
まだ駄目だったようで、背中に爪を立てられる。
いつまでこうして居れば巳月の気が済むのだろうか。
次第に陽馬にも眠気がやってきて気が遠くなっていく。
もう歯も磨いたしこのまま寝てしまってもいいのだが、妹と同衾したままというのは……と倫理観が働きかけるが、睡眠欲の本能には抗いきれず、徐々に意識を手放していく。
意識が途絶える少し前に「お兄ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてきた。陽馬のことを兄と呼ぶのは珍しい。それこそ、妹呼びを怒り出すずっと前から、ふと気が付けば名前で呼ばれていた。
小学生のいつだったか、その時はまだ今のように「お兄ちゃん」と呼ばれていた。
いつだ? なにかきっかけがあったのか?
まどろみの中の思考が過去に思いを馳せさせる。
そうして分からぬまま眠りに落ちていくのだった。