1話 法律に同意した覚えはない
「わたし、綺麗?」
黄昏時、太陽が地平に沈むその間際、唐突な問いかけをされた。
竜崎陽馬は稽古へ行った帰りだった。
誤って着替えをダメにしてしまったので白い道着のまま帰路につき、家から最寄りにあるコンビニへ寄って帰ろうとしていた。
一瞬、呆気にとられたが「あぁ、まぁ綺麗」と返す。
口裂け女だとすぐに思いついた。この後、マスクを外した女の口が裂けており、わぁビックリというのがこの有名な都市伝説のお決まりだがはたしてどうか。
口裂け女の姿は、上は黒のヌプシジャケットで下はグレーのスウェット姿にマスク、髪はピンクっぽい茶色のロングヘアーという現代の申し子かというような怪異がゆるりとマスクを外す。
そして言った。
「これでも、綺麗?」
「巳月、お前……。そのまんまじゃねーか。せめて何かメイクとかしてんのかと思ったわ」
「そんなんするわけないじゃん。めんどくさいし」
竜崎巳月。陽馬の双子の妹である。
「続き……。これでも、綺麗?」
余所行き用の、カメラを向けられた時のような笑顔を作って返答を待つ巳月。
綺麗か、と。ふと陽馬が思い出したような気分でまじまじと巳月の容姿を観察する。
よくよく考えれば巳月の顔をちゃんと見るのはそれなりに久しぶりかも知れない。同じ家で生活し、同じ学校で学んでいる我が妹、彼女によほど関心でもない限りは日頃からじっくり観察したりはしないだろう。
さて、綺麗かどうかと問われれば、それは間違いなく綺麗だと言える。
もちろん人それぞれ好みはあるだろう。ツリ目がいいとかタレ目がいいとか、だが、そういった些細な好みを置きざりにして『綺麗』という言葉を万人に引き出させるほどに彼女の容姿はずば抜けている。
「あらためて見てみると、我が妹ながらめちゃくちゃ綺麗な顔してるなぁという反面で、なんか自分のこと言ってるみたいでちょっと今のキモいな、とも思った」
「ま、同じ顔してるしね、あと妹って言わないで」
巳月には妙に凝り性なところがあり、陽馬から妹扱いされると怒るのだった。
最近では陽馬が巳月を見て『妹』という単語を出すだけで機嫌を悪くするほどだ。なんでも「妹って言われるとなんか無条件に下って感じが出てヤダ」と言っていたが、いまいち陽馬にはピンと来ない。
男女で生じる骨格や筋肉の差を除けば陽馬と巳月は非常によく似た双子だった。朝の洗面所で歯磨きのタイミングが被った時なんかは「やっぱり兄妹なんだなぁ」と瓜二つどころか割らずそのままの顔が同じように目を細めて鏡に映っている。
特に、陽馬が道場に通う前の小学校低学年時代では、彼の当時の線の細さも相まって何度もお互いを間違われたほどだ。ちなみに、お揃いの服を着て登校し、お互いのクラスを交換、つまり入れ替わりで授業を受けるという悪戯をしたこともあった。
「それで? 今日は俺に何を奢らせるわけ?」ご機嫌取りに話題を変える。
陽馬が歩き出せば巳月もちゃんとついてくる、向かう先はコンビニだ。稽古のあとは晩飯まで腹が持たないのでいつもここで何か軽く買い食いして帰るのが日課だ。
「ん~、今日はウメェ棒の気分かな」
「ああ、くっそウメェですわね棒、か」
ドレスに身を包んだお嬢様が庶民の駄菓子を食べ、感銘を受けシェフを呼んでいる様子が描かれたパッケージのお菓子。多くの人が知っている棒状スナック菓子だ。
ふいに陽馬がガマ口財布から小銭を一枚取り出し、指で弾いて巳月に渡す。ウメェ棒の代金だ。巳月は人差し指と中指だけでピタリとそれをキャッチしてみせた。
別に二人が異様な身体能力を有しているわけではない。たまたまだ。現に、キャッチして数秒が経過した後で陽馬と巳月は大いに沸いた。
「みた今のすっご⁉」
「達人かお前、宮本武蔵かよ!」
「宮本なにが武蔵⁉」
「いや、武蔵が箸でハエを摘まんだっていう逸話があんのよ」
「えっ? きたなぁい」
「え、いやコレそういう話じゃなくって」
「でも汚くない?」
「まあ、そら、まぁ汚いけどもな」と、そんな調子だった。
ウメェ棒の「おテリヤキハンバーガー味」をボリボリやりながら家を目指し歩く二人。
横並びで歩くと隣からチラチラとした視線があることに気付いた。
「なに見てんの?」
「んふぁるふぁおドーギ……んっ。陽馬の胴着ってなんか変わってるよね。てか何で道着のままなの? 着替え持ってくの忘れちゃった?」
「いや、着替え忘れたんなら家出る時から道着姿じゃねえかよ。それは気付くだろ。あと食い終わってから喋れ」
「あーハイハイ」
「着替え持ってたけど、稽古終わって顔洗う時にミスってびしょびしょにしちゃってさ、だから道着で帰ってきた」
「ふーん。変な道着だよね、特に帯がなんかすごい」
ああこれね、と陽馬が言われて帯に手をやる。象形文字とでも言えばいいのだろうか、陽馬の腰を巻いている帯には十二の文字らしきものが刺繡で入れられている。
「この帯の文字ひとつが段位なんだよ、いま俺は十二段。稽古とか組手とかしてていい感じだったら先生に呼ばれて急に昇段すんの。次に昇段したら十三段で、いまちょうど刺繡が帯をぐるっと一周したから今度は空いてる隙間に十三個目のが入る。今思うとこれめっちゃ変わってんな」
「へー、そんな謎システムなんだ。全部で何段あるの?」
「二十四段、いまちょうど半分」
へー、ほーん。と自分で聞いておいて大して興味のない様子がありありだった。
だらだらと話しているうちに日が完全に落ちた。
ここから先は夜、月の登る時間だ。
「明日から二年か」ぼんやりと陽馬が言った。
「そだね」と巳月も続く。
暦の上では春だというのに、朝晩はまだまだ冷えるのが四月というもの。
だが、息を吸い込めば季節は感じられた。花には詳しくない陽馬だが、どこかの庭で芽吹いた草花が今年の新しさを届けてくれているのだろう。肺に満ちた新鮮さに何かを期待したのか前向きな希望を口にする。
「高校もはや二年生、今年は何か変わりそうな気がする」
春一番はもう終わったが、風が返事をくれるように一陣、駆け抜けていった。
「それ去年も言ってたよ」
「やる気を削ぐなよ」
別に気を持つくらい良いではないか。
陽馬とて二年に上がれば劇的に何かが変わるなど、そんなことは思っていない。
「ま、別に平和で変わんない日常が続いてくれれば、それでもいいんだけど」
巳月の曖昧な相槌が返ってくる。
家に着く前の最後の横断歩道を渡ろうとして、信号が寸前で赤に変わった。反射的に足を止めたが、この横断歩道は裏道に近くてほとんど車は通らない。とは言っても意識くらいは持つべきだ。
「巳月、ノータイムで信号無視すんな」
「わたしは法律に同意した覚えはない」
出た、と陽馬は思う。
巳月のモットーのような、思春期が故の反骨精神なのだろうか。
ちょこちょこ似たような台詞を吐くのだ。
「信号守れとか、廊下を走るなとか、税金納めろとか、まあ税金は消費税くらいしかまだ払ってないけど、サインした覚えのないルールを守るのって意味わかんなくない?」と、
いつだったかヒステリー気味に言っていたことを思い出した。
まあ、多少分からなんでもない。
「私はね、変わらないで欲しい物もあるし、でも変えなくちゃならない物ある、と思うよ」
意味深、なような気がする。だが巳月はどちらかと言うと感情とその場の空気で喋るほうなのであてにはならない。
兄としてはもう少し女の子らしい可愛げを磨くべきだと少しは心配もしているのだった。
「巳月は、もうちょっと丸くなった方がモテると思うよ?」
「は? 急になに言ってんの? 馬ぁ鹿! アホ! 帰れ!」
「いま帰ってんだよ家に」
「えウザっ、急にちょっと上手いこと言うのむかつく」
今日はえらいカリカリしてんなぁ、とも思うし。
まあいつもこんな物だったかな、とも思う陽馬だった。
「そんなキレんなよ。帰ったら一緒に野生動物の森やろうぜ」
「えっ、うん。やる。ぶつ森するの久々じゃない? 陽馬の家たぶんゴキちゃん沸いてるよ?」
ちょろいなコイツと思う陽馬。
『変わらないで欲しい物もあるし、でも変えなくちゃならない物あるよ』と、巳月は言ったが、我々兄妹の仲の良さくらいは変わらないで欲しいものだ。
一人で何となくオチをつけたような気分になる陽馬であった。