乱闘騒ぎ
気分は盛り上がっても酔いの回りはまだ序の口。
生還を祝して飲み明かそうじゃないかとラッドを煽っていると、妙な一団がズカズカと歩み寄ってきた。
その先頭にいた髭面の男はラッドの顔を確認するや否や、顔面に拳を叩きこんだ。
勢いで倒れ、酒で体を濡らすラッドを髭の男は怒鳴りつける。
聞いていると大体の事情は伺い知ることが出来た。
男の名はベルン、先の討伐任務で殉職した冒険者の兄。
そのような事があるとは考えたことも無かったが兄弟で転生を果たしたらしい。
あり得ない事ではないだろう、運が良いのか悪いのかは分からないが。
縁もゆかりもない地に新たに産み落とされるにしても、近親者と一緒であれば心強かったことだろう。
絆もより一層深まるはずだ、そんな中で弟を失った悲しみは察するに余りある。
だがその感情をラッドに向けるのは筋違いではないのかというのは当然の疑問だ。
混乱のままに暴力で感情を誤魔化そうとするベルンに何か言ってやるべきだと考え、止めに入ると突き飛ばされた。
随分と頭に血が上っている様子だ、顔が紅潮している。
そしてベルンと一緒にいた連中が俺を羽交い絞めにする、部外者は黙っていろと。
横暴な奴らだ。
同情の余地があるとはいえ、まるで自分たちだけが特権的に振舞う権利があるとでも言うような態度が頭に来た。
ベルンはひたすらにラッドを叱責し続けている。
お前のせいだ、というようなことを様々な言い回しで繰り返す。
固く握りしめた拳を震わせていた。
それは既に激昂しているように見えて、その実これでもまだ堪えている方だということを示している。
炸裂を待つ爆弾を見るような危うさが漂っていた。
ベルンの連れの一人が薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
肉親を失った悲しみ、仲間を死なせてしまった後悔。
争う二人から見て取れる感情とは明らかにかけ離れた異質なその下卑た表情は、俺に馬鹿な行動をさせるのに十分な怒りを湧きあがらせた。
自由にならない手の代わりに近くにある椅子を足の先で引っかけ、ソイツに向けて蹴り飛ばした。
コイツは他人の不幸を食い物にして楽しんでやがる。
まるでベルンの怒りが自分に伝染したかのように、思考が激しい怒りに染まっていく。
さほどの勢いではなかったが、しかし飛ばした椅子はしっかりとソイツに命中した。
大した痛みはないはずだ、だがソイツは下劣な楽しみを邪魔された報復に椅子を投げ返してくる。
飛来したそれは俺と、俺を羽交い絞めする男の頭部に同時に命中し、更に後ろの方で酒を酌み交わしていた客の卓上に落ちた。
これまで騒ぎを傍観していた無関係の客たちは俄かに色めき立った。
勇敢なものばかりではないとはいえここにいるほとんどが冒険者だ、己の力を頼りに生きている彼らが無礼を働かれて大人しく引き下がったとあっては面目が立たない。
どんな人間にもプライドがある。
例えそれが奴隷のような存在であっても、その誇りを無闇に踏みにじればただでは済まない。
相手がどれだけ強大であろうとも牙を突き立てようとする、そうしなければならないのが人の心というものだ。
言葉もなく、店内にいる者たちが集まってくる。
大声で怒鳴っていたのだから皆ベルンの事情は察していようが、それとてこうなってしまえばもう考慮されることは無いだろう。
謝罪して酒代を弁償するなりといった方向で事態を収めるしかない。
無言の圧力に取り囲まれたところでベルンはようやく会話が可能な状態になった。
ベルンは椅子を投げた男、クレインと呼んだソイツに革袋を渡してこれでどうにかして来いと指示した。
その中には沢山の金貨が入っている、妥当な判断だ。
だが肝心のクレインが横暴な態度のまま『金を払ってやるから静かにしていろ』などと言い放ったものだから始末が悪かった。
気分を悪くした一人が酒を浴びせかけたことをきっかけに殴り合いが始まった。
まずは怒り狂ったクレインが飛び掛かった。
それを止めようと俺を羽交い絞めにしていた男が離れたのをいいことに、揉み合いなっているところに踏み込んでクレインの脇腹を蹴り上げてやった。
うめき声を上げて転がるクレインへ馬乗りになって顔を殴りつける。
邪魔はされなかった。
クレインに飛び掛かられた男は俺を羽交い絞めにしていた男とやり合い始めており、その他のところでも興奮した男たちがそれぞれに争い始めている。
一帯は収拾のつかない狂騒に支配されていた。
誰一人として俺を止める者はない。
何度も殴りつけ、クレインの顔が腫れ上がっていく。
そろそろ終わりにするべきだという常識的な思考がある一方で、どうせ誰かに止められるのだからそれまで殴り続けようという打算もある。
コイツは邪悪な心の持ち主だ、二度とその下らない楽しみのために他人の感情を利用しないよう徹底的に痛めつけておかなければならないのではないか。
義憤に身を委ねて殴り、叩きつけ、打ち据える。
ベルンによって引き剝がされるまで、俺は攻撃を続けた。
のしかかられる形で自由を奪われてから、ようやく周りの様子がおかしいことに気付いた。
さっきまで暴れていた冒険者たちの視線が向けられていた。
そこには恐怖か、あるいは嫌悪といった感情が籠っている。
さっきまで一緒になって暴れていたくせに。
ラッドの言葉を借りるようだが、結局のところ彼等はリスクを負わずに暴れたいだけなのだろう。
少しでも危険を感じれば尻込みしてしまう、何の覚悟も持たない卑怯者だ。
クレインへ向けていたはずの怒りがそのまま周囲への憎しみとなって心に満ちていく。
もしもベルンがいなかったのなら、俺は衝動のままになんの謂れも無い冒険者たちに殴りかかっていた事だろう。
興奮が冷めるまでベルンは忍耐強く俺を拘束し続けた。
もう、ラッドに理不尽な感情を向けるような余裕はなかったはずだ。
喧騒が止み、ベルンはそれを見計らって店主と交渉を始めた。
クレインに渡していた革袋を広げ、これで足りるかと。
それはこの場にいる全員が朝まで飲み明かしても余るほどの額だった。
渋々了承したという体裁でそれを受けた店主だったが決して悪くはない取引だったろう、客足の鈍かった今日の売り上げは盛況時にも勝るものになったはずだ。
その恩恵で騒ぎを起こした俺たちも邪険にされることはなく、ベルン一行が去ってから飲みなおすことが許されたほどだ。
酒を注がれたカップを持つ手がヒリヒリと痛んでいる。
強靭な体に生まれ変わってから体験することのなかった体の損傷が新鮮な感覚を呼び起こす。
農園の仕事をしている限り痛みなどとは無縁の体だ。
慣れない刺激を受けたせいで酒の回りが良くなく、作業的に酒を干していく。
俺に合わせることは無いと言わなければラッドはひどい二日酔いを味わうことになっただろう。
ありがとうと、酩酊状態にあるラッドは言った。
俺の行いが彼を助けるためのものだったと感じたらしい、実際はただキレてしまっただけだが何も言わずに黙ってその言葉を受け取る。
ベルンの激情を諫める気持ちがあったのも確かだった。
それからラッドは酔いに任せて、自分の第二の人生ともいえる転生後の世界への不満を吐露し始めた。
自ら投げ出したくなるほど辛くはなかったが執着するほどのものではない生活を送っていた前世は俺と同じだが、新たな命を授かったラッドは希望に満ち溢れていた。
転生者がこの世界において諸手を挙げて歓迎されるような存在ではないことなど意にも介さず、冒険者としてシビアな状況に身を置くことに何の躊躇も無かった。
それこそが真の自由だと考えていたからだ。
他の冒険者と自分との間にある人生観のズレは最初こそ気にならなかったものの、勇猛果敢と好評だった自分の行いは危険を顧みない迷惑なものだと言われるようになっていった。
これまで一度も名前を変えたことはないラッドの冒険者としての評価は金等級、そこに到達したのは随分昔の事だが杜撰なギルドの管理ではそれ以上の進むべき道は示されていない。
停滞の中でラッドは自分の中にあった人生への希望が輝きを失っていくのを感じた。
まるで世界中が自分の死を望んでいるようだった。
どんな強力な魔物が相手だとしても力を合わせて立ち向かえば打ち倒すことが出来ると思っていたし、実際それは正しかった。
危険な依頼をいくつもこなし、生き残ってきたのがその証明だ。
だというのに、ギルドは賞味期限の切れた食べ物を廃棄するかのように、ろくな調査も行わずに危険な任務へと冒険者を送り出し、消費していく。
そんな状況の中で本来なら背を預ける存在であるはずの他の冒険者たちは心を腐らせていき、運命に立ち向かう気概を失っていってしまう。
そんな有様では拾えるはずの命だって簡単に失われてしまう。
負の循環なんだと、ラッドは力ない笑みを浮かべた。
自分ももう先は長くないだろうと。
ラッドは各地を回っては見どころのある者に声をかけて、生き残るために結束するパーティーを作ろうとしていた。
討伐で死んでしまったベルンの弟はその候補の一人。
等級は低かったが共に生きるための戦いを続けていこうと考えていた友人だった。
力をつけるため危険な任務に彼を誘ってしまったことで彼は狼を仕留めきれず手負いにさせてしまい、死に繋がった。
ベルンがラッドを責めたのはそういった理由があったのだ。
今から冒険者になるつもりはないかとラッドが言ったのは店内の客がほとんど宿に戻って、店主が俺たちにも帰ってもらいたそうにし始めた時だった。
俺はもう若くない、今更そんな死にに行くような決心はできない。
冗談だと受け取って話半分に聞いていると、ラッドは急に真剣な口調になった。
――この世界に神はいない、それは俺たちを体のいい奴隷にするために作られたペテンの偶像だ
その言葉は怠惰な安寧に身を委ねて生きる俺の心を撃ち抜いた。
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