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知らない匂い

作者: geil

夜勤明けの朝六時。

 約一日ぶりに帰った我が家には、芳香剤の匂いの中に、微かに私の知らない匂いが漂っていた。




 私の知らない匂い。女性が使う香水の匂いだと思う。

 初めて匂いがしたその日を境に、私が夜勤から帰ってくると、必ず知らない匂いが混ざっていた。

 その匂いは段々と我が家に馴染み始め、日常に溶け込んでいった。

「今日は夜勤だから、夜ご飯は食べて帰ってきてね」

 そう言ったときの夫の顔は、とてもいい笑顔をしていた。まるで、私が夜勤なのを喜ぶように。

「うん、わかった。夜勤で大変だと思うけど、頑張ってね」

 その笑顔で怒りが爆発する寸前、その怒りは夫の言葉によって抑えられてしまった。

 そんな何気ない一言で許してしまう自分の甘さが、

「そっちもお仕事、頑張ってね」

 とても嫌いだ。




 夜勤から帰ってくると、珍しくあの匂いがあまりしなかった。

そのことに私はとても安堵し、嬉しくなった。たまらず寝ている夫の隣に陣取った。顔の近くにあって邪魔だった夫のスマホを手に取り、避けようと思ったそのとき、見えてしまった。

 知らない女からのメッセージだった。


今日は行けなくてごめんね

次は絶対に行くから楽しみにしててね!


 そんなメッセージだった。

 今日は相手の都合で来れなかっただけだったという事実。もう耐えられない。

 もう一度夫のスマホを見る。

 すると、ロック画面には私と夫のツーショット写真。

 今より若く、今より楽しそうな新婚の二人が写っていた。

 そして、私のスマホのロック画面には同じ写真があった。

 そのまま夫に抱き着き眠りについた。




 俺は不倫をしている。

 酔った勢いで家に同僚の女性を連れ込んでしまった。そのままずるずると関係は続き、半年近くが経過していた。

 妻が夜勤で次の日の朝まで帰ってこない日を狙い、不倫相手を家に招いて、日が昇る前にタクシーで帰らせるということを繰り返していた。

 罪悪感がないわけではない。でも、妻にばれていないのならいいんじゃないかと最近は思い始めている。

 こんな生活が当たり前になってきて、いつものように相手を家に招いていたとき、それは起きた。

 きっと俺は、半年もばれずに済んでいたことで、過信してしまったのだろう。

 妻が帰ってきたのだ。




 本当はもう、わかっていた。

 香水の匂い、メッセージのやり取り、他にも証拠はいくらでもあったはずだ。

 しかし、それらは自分の甘さによって、心のうちに隠していたはずだった。

 でも、駄目だった。

 いつかはこうなってしまうとどこかで気づいていたはずなのに。

 目を背けていた真実を目の当たりにしてしまった。

 悲しかった。悔しかった。吐き気がした。目眩がした。

 夫はばれていないとでも思っていたのだろう。私を見る目は驚きと焦りを抱いていた。

「ち、違うんだ!こ、これには理由があって……」

「そんな言い訳聞きたいわけじゃない」

 私の言葉で黙り込む夫。その隣にいる女を睨み付け、いろいろな感情をぶつけた。すると、その女は口の端を上げた。まるで、私を嘲笑うように。

 殺してやる

 そんな気持ちが脳をよぎった。しかし、自分にそんなことする覚悟はないし、何より、そんなことを思った自分が怖くなった。

 思わず、その場から逃げ出した。

 夫の引き留める声が聞こえるが、きっと今あの顔を見たら取り返しのつかないことになってしまうだろう。

 そうして私は、仕事の服装のまま家を飛び出し、何も考えずに走り出した。




 妻にばれてしまった。

今までうまくやって分、油断してしまった。

 慌てて言い訳を考えたが、意味はなかった。

 どうすればいいか必死で考えていると、妻が彼女の方を向いた瞬間、ものすごい顔になった。そして、妻は家を出ていった。

 引き留めようとしたが、駄目だった。

 どうしようかと思って隣を見ると、彼女は俺を誘惑するように笑っていた。

 俺は妻のことなんか忘れたかのように、彼女におぼれていった。




 走り続け、息が上がってきたところで着いたのは思い出の場所。夫と二人での大切な場所だった。

 出会いの場所でもあり、結婚を決めた場所でもあった。

 他にも数えきれない日常の思い出が残っている。

 無意識的にたどり着いてしまったのだろう。

私はまだ、夫がそんなことするわけないと思っていたのだろう。

甘すぎる。

たしかに、夫は追いかけてくるだろう。私がここにいるということも、わかっているはずだから、迷いもせずにここに向かってきてくれると思う。

遅かれ早かれ、ここに来るのだ。それまでに覚悟を決めよう。自分の甘さを切り捨ててしまおう。そうしないと、私のためにも、夫のためにもならないだろうから。




 どれくらい時間が経ったかわからないが、早かった気もするし、遅かった気もする。

 夫は私を抱き寄せ、

「ごめん。もう縁は切ってきたから。本当にごめん。もうしないって誓う」

 そんな言葉信じられるわけない。

「本当に?」

「本当だよ」

 本当に夫はあの女と縁を切ったの?

「本当の本当?」

「本当の本当だよ」

 私の覚悟は、あっけなく崩れ去ったのだった。




 それから、あんなことはなかったかのように、私たちの日常は戻ってきた。

 どこから見ても円満な夫婦だと思う。

 常に二人でべったりしていて、まるで、新婚のような生活だ。

 夫は私に心配をかけないようにと、報・連・相をしっかりしてくれるし、前よりも精を出して働いていた。

 私もそんな夫を見て、やっぱりこの人が好きだと改めて思った。

 この人のために頑張ろうと思った。

 あの件からしばらく控えていた夜勤の仕事に行くことにした。

 もう何も心配はいらないだろうと思ったからだ。

 そのことを夫に伝えると嬉しそうに、

「よかった……。お仕事頑張ってね」

 と言ってくれた。

 あのときのような、いなくなることに喜んでいるわけではないのがよく分かった。そのことに私はとても気分が良くなった。

「うん。頑張ってくるね」

 私は今、とても幸せだ。




 夜勤明けの朝六時。

 約一日ぶりに帰った我が家には、芳香剤の中に微かによく知る香水の匂いが漂っていた。

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