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これで小学生編終了
振袖を身につけると身の引き締まる思いだ。
薫子はそんなことを思いながら着付けてもらう。鏡には結い上げた黒髪がどこか艶かしく、未完成だからこその壊れそうな美しさが映る。
紅を差した唇が少年の名を呼んだ。嬉しそうにそれに応える少年はその少女に手を差し出すと愛しいとばかりに彼女を見つめる。
「薫さん」
大切なものを口にするように名を呼ぶ彼の声は前年に比べて低くなった。甘くもなった気がする、と思いながら薫子は瞳を合わせる。
「椿さん。今日の私はどうかしら」
「とても綺麗です」
「ありがとう。あなたもとても格好いいわ」
そう言って薫子はそっと椿の頬へと手を伸ばした。椿は少しだけ驚いた顔をして、それから蕩けるような甘やかな微笑みを見せた。
新年早々胸焼けしそうだ、と後ろの紀行は胃のあたりを摩った。砂糖が飽和してなおさらに砂糖をぶち込んだジャリジャリのコーヒーを無理矢理飲まされている気分である。
(彼女もいない人間にはキツいな)
そう思いながらも目は逸らさない。その間に何かあっては後悔しかできない。
薫子に近い立ち位置にいることには違いないためか、彼にも見合いの話などは来るが断っていた。家同士のバランスや、春宮にとって害にならないかなど考慮すべき点が多い。今選ぶのは旨味が少ない、という判断に妹の相手選びとはえらい違いだなと彼は思っている。
「お嬢、坊っちゃん。ご当主様方がお待ちですよー」
いちゃついているように見える二人に声をかけると、薫子は照れもせずに「はい」と言って笑った。反対に椿の頬は赤い。
椿に手を引かれて向かった先では保護者同士の挨拶が始まっていた。
「薫子さん、よく似合っているわ」
「ありがとうございます、おばあさま。おばあさまもとても綺麗です」
それから、椿の両親や柏木一家と新年の挨拶をする。来年からは中学生だからより一層努力するようにとのお言葉付きだが、元正なりの激励と取った薫子はにこにこと「はい、おじいさま」と返事を返すと、彼にしては珍しく笑顔で「うむ」と返した。孫娘は違うものなんだなぁ、と藤孝も微笑ましげに見つめているが、課せられている教育は相応だし普通に厳しくもされている。
(それにしても、桜子さんに似ているとは思っていたけれど)
基本的に薫子は母親に似ている。しかし、目元が父親譲りであったり雰囲気の違いから感じる印象は全く違うものだ。
中等部で人が増えるからこそ、薫子にのめり込む人間がいるのではと少し不安になる。
美しく、時に愛らしく、薄れはしたけれどどこか儚げで清廉な雰囲気である。そういう存在を汚したいと思う人間もこの世にはいる事を大人たちはもう知っている。
実際の薫子は清廉などではないが、実際の本人のことなど現実を見ない人間には関係のない話なのだ。現実の薫子だからこそ欲しいと手を伸ばされるのも厄介だが。
「薫ちゃん!あけおめことよろー!」
「諾子!!」
砕けた言葉で新年の挨拶をする諾子とそれを叱る彼女の母が目に入って藤孝は思わず笑みを溢した。
変わらぬ日常というのは何より尊いものだ。歳を取るにつれ強く感じる。変わらぬものはなく、日々は移り変わっていく。
数年後には椿たちの関係も変わっているかもしれない。妻と顔を見合わせて、そっと手を繋いだ。
より良い未来になれば良いね、と願いながら微笑みあった。




