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ごめんなさい。あともうちょっとだけ小学生編続きます。
今の父親に入れられた私立小中一貫校。
その空き教室にこっそり入って、周囲を見回す。誰もいない、と思って息を吐く。
そこで舞香はギリと親指の爪を噛み締め、血の味がして傷ができているのに気付いて不快そうにそれをティッシュで拭った。
(円様に嫁ぐのだもの。傷を作ってはいけないのだったわ)
愛しい推しの顔を思い浮かべて気分を落ち着けた。柔らかな笑顔が自分に降り注ぐ、その瞬間は甘美だ。そう、好きな男であるのならば余計に。
けれど、それはそれ。
ヒロインとして当然手に入るべき“攻略対象”が悪役令嬢のものになっているというのは受け入れ難い。諒太に至っては知らないモブに微笑みかけていた。
けれど、近づくことさえできない。
“何故か”的確に邪魔が入るのだ。
声をかけようとした瞬間に親から電話が来たり、稽古の先生に呼び止められたりした。円が本命だからこそ、舞香はそれらを邪険にはできない。
それにしても、焦がれるような雪哉の視線の何と美しいことか。
キラキラと輝くものの中に嫉妬と愛憎が燃えている。抉り取ってアクセサリーにしたならば、どんなにか素晴らしいものになるだろう。
彼女の中では攻略対象の男たちは全て自分の所有物だった。それが悪役令嬢やモブに奪われているというのは気持ちのいい話ではない。
一番欲しいものが手に入っている。そう思っているから我慢できているだけだ。
「高校生になったら」
返してもらうわ、と愛らしい声で彼女は囀った。
「返してもらうも何も、おまえのものなんかなぁーんもあらへんやろうにねぇ」
気分を持ち直して出て行った彼女を見送って、一人の少年がぐっと背伸びをした。
赤い髪は長めで気怠そうに窓の外を見た。
あくびをして、「今日もえらい夢みがちなこと言うとったなぁ、夢子ちゃん」とのんびりと口に出した。
呆れた顔で頬杖をつく。
彼は嵐山家の嫡子だ。
死んだ前妻の息子。
色仕掛けしか取り柄のない義母と男の趣味が悪い義妹にうんざりとしてはいたが、彼にとってそれらはどうでもいいことでもあった。好きな相手というものは一人いれば十分なのではと思ったけれど。
「うーん。夢子ちゃんはどうなろうが構わへんのやけど、巻き込まれんのは嫌やなぁ」
いっそのこと、薫子を籠絡できれば彼女は好いた相手の他に目移りするようなタイプではなさそうなので良かったかもしれない。けれど、相手のいる人間に対してどうこうしてもメリットは薄い。
(それに、円クンはなんや知らんけど、えっらい執着しとるっぽいしなぁ)
椿という少年との仲をぶち壊したいと思っているのは見ていればわかる。アイツ頭おかしいんちゃうか、と思ったことは一度や二度ではない。
ふむ、と一つ頷いて彼は「よし、俺向こうに付こ」と言ってスマートフォンを取り出した。
先程も思ったが、父親やあの女たちがどうなろうが自業自得だが、自分はそうなりたくない。きっとそういう嫌なところが父親似なのだろうと思いながら文面を打ち出す。
「ま、自分に似とる子が保身を考えへん…なぁんて、──思っとるんやったら引退どきやろ」
もう一度、あくびをして再び資材の間に身を隠すように寝転んだ。




