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秋風が吹き、肌寒くなってきた頃、有栖川郁人は一人で部屋に立っていた。
置き手紙には探さないで、という言葉と離婚届が置かれていた。ご丁寧にも親権は要らないと書かれている。彼女は娘を持て余し「自分一人ならどこででも生きていける」、とそれを捨てた。乾いた笑いが口から出る。
舞香は我が儘で人の言うことなど聞きもしない。そもそも、本当に自分の娘なのだろうか──そう考えて首を左右に振った。
今もなおあれが欲しい、これをしたいと騒ぐ娘に与えられるものはもうない。血の繋がりも、かつての恋も信じられなければ、何を信じればいいのか。いや、もう何も信じてはいけなかったのだろうか。
もう一人の娘は、一切の関心を向けてこなかった。まるで初めから春宮の当主夫妻のところにいたように、有栖川なんて知らないというように何も言ってこない。
「いっそ恨み言でも言ってくれれば……いや。そんな資格もないか」
有栖川が営んでいた諸々の商いに関しては被害が大きくならぬうちにと畳んだ。郁人の妻だった女は話が違うと騒いでいたが、弟の鑑がいるのであればともかくとして郁人に経営の才はそれほどない。徐々に経営状況が悪化して知らぬうちに破産が関の山だろう。
(僕が継ぐのはどう思う、と相談したらみんなやめておけと口を揃えるのだものな)
プロの意見を元にそれを決めれば妻には逃げられ、我が儘しか言わない娘だけが残った。自分の価値はそこそこの企業の跡取りだということだけだったらしい。そのことに思い至って苦いものが込み上げる。
優秀な弟にコンプレックスを拗らせていた学生時代、その心を癒してくれた女性はもういない。
さて、どうしようかと思案すると舞香が部屋に飛び込んできた。
「パパ!公立に転校しなきゃいけないってどういうこと!?兎月は白峰に入ってるし、せめて今いる学校くらいのレベルじゃないと張り合えないじゃない!!」
「言っておいただろう?僕たちは今後質素に生きなければまともに生きることはできない。借金を背負う気はないから、家も全部手放して一から始める必要があると」
元々の郁人はどちらかというと石橋を叩いて渡るタイプ、コツコツと確実に努力を積み重ねるタイプだ。
それなりの上流階級で生きてきたからこそ、桜子に気に入られるくらいには話があったし、顔は良かった。
(そういえば、桜子だけだったか。僕に才能があるなんて戯言でも言ってくれたのは)
桜子は今思い返しても、郁人にとって最悪の女である。薬は盛られるし、我が儘をきかないとキレる。部屋は煙草の臭いが充満していて近寄りがたく、娘の相手などした事がないのではないだろうか。
(ただ、僕にとって最低ではなかったのかな。彼女なら少なくともこの状況でも僕を蹴飛ばして笑いながら“働け”と言っただろうね)
そんなことを考えていると、「そんなだからママに逃げられんのよ!役に立たない!!」と叫ぶ舞香が目に入る。
その言葉に、この娘をどうしようかと思案する。
(まぁ、恋というものにはすでに裏切られているし僕には親としてああしてやりたいとかいう感情は希薄なようだし)
横暴に振る舞えば振る舞うほどに郁人の感情は冷え込んでいく。
ふと、かつて桜子に「女の趣味が悪い」と言われたことを思い出した。
背中を向けて扉を思い切り閉めた舞香を見送って、郁人は頷いた。
「血が繋がっていたら仕方ないから成人までは育てよう」
そう口に出した彼の表情は久々に晴れやかなものだった。
そして、勝手に出されないよう丁寧に離婚届を隠し金庫に入れた。
有栖川の当主は説得できた。鑑がいてこそ郁人でも何とかなるか、みたいなところがあったので。
舞香ママは郁人がどうとでもするとなめくさって娘を置いていった。
舞香は自分で地雷をぶち抜いていくスタイル。




