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その日の舞香は機嫌が良かった。
帰る途中で「煩いの」を車から蹴り出してやったからだ。
久しぶりの自由時間に心弾ませながら彼女は家に戻った。これでアレも反省するだろう、なんていう的外れな事を考えながら稽古事へと向かった。
舞香がそうやって非常にヤバいやらかしをした日のことである。薫子は珍しく一人で春宮の車に揺られていた。諾子と椿は今日は家の用事があるとかで各々の家のお迎えが来ている。なので久しぶりに薫子と運転手だけの下校である。
シートベルトをしっかりと締めた薫子はたまには外の景色を見るのも良いか、と思いながら窓の外を見つめていた。
けれど、ある地点で薫子は慌てた声で車を止めてもらった。そして、運転手に一緒に降りてもらって真っ赤な顔で倒れている同じくらいの年齢の少年を保護する。
問いかけると反応はあるけれど、それも弱々しいものだった。気温が高い夏の時期に外に放っておくのも、と車に移動させて団扇で仰ぐ。
運転手が救急に通報して少年の様子を細かく伝えると、おそらく熱中症だろうということと、すぐに救急車が向かうことを告げられるが、ここから運んだ方が早いと近くの病院を探してもらって運び入れることになった。怪我もしているようだし早い方がいいだろう。
ぐったりとした少年を出迎えた医者に引き渡して、ランドセルの中に入っていた連絡先に電話をかけてもらう。そこに見えた名前に少し驚いたけれど、彼自身に恨みはないしと黙殺した。
少年は有栖川兎月。
薫子の父方の従兄弟である。
まさかの初対面でコレとはいかに、と薫子は何とも言えない気持ちになった。
連絡してすぐに駆けつけてきたのは血縁上の叔父である。
お礼はしっかりとしながらも余裕のない、必死の形相で病室へと向かっていった。
「私、良いことをしたのよね…?」
「もちろんですとも」
薫子自身の倫理観と道徳心に基づいて病院に運んだけれど、春宮的にどうなのかしらと思っていたらちゃんと大人からも認められてホッとした顔をした。
そっと覗くと、彼の母親らしい女性が泣きながら夫にブチギレている。
「もう有栖川なんて知りません!!これ以上この子が犠牲にならなければいけないと言うようで有れば、私はこの子を連れて実家に帰らせていただきます!!」
離婚よ!と叫ぶ彼女を宥めながら、「君と兎月以上に大切なものはないよ」と青筋を立てている叔父らしき人に少しだけ「良いなぁ」と思いながら、「そろそろお家へ戻りましょうか」と運転手に声をかける。
運転手と一緒に車に戻ろうとした薫子は、叔父夫婦に見つかって頭を下げられた。
「息子を助けてくれて本当にありがとう」
涙声の叔父に戸惑いながら頷くと、少しだけ躊躇ってから自分は薫子の叔父だと名乗る。
「僕は有栖川鑑、君の叔父だ。こちらが礼香さん。僕の奥さんだよ」
目線を合わせて名乗ってくれた鑑に薫子も自己紹介をすると、その表情を和らげた。
礼香も運転手の後ろから顔を出す彼女に一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、義兄達の行いが薫子につけた傷を思い複雑な心境になる。今になって、あの我が儘は愛されていないと知っていた少女が必死に関心を惹こうとした結果であると思い至る。
「君が助けてくれた男の子は、君の従兄弟なんだ。僕たちは君にこの恩を返したい」
「別に、元気でいてくれればそれで構いませんけれど」
小さな声で返された言葉に、欲のない子だと内心で呟く。
(兄さんや桜子さんが興味を持たないから、最後には諦めたようだと言われていたが)
有栖川に関連する人間との縁を彼女が諦めていることを察して少しだけ悲しい気持ちにはなる。確かにすぐに泣き叫ぶ少女だったけれど、それでも彼女は優しくされると戸惑いながらも笑顔で応えてくれる女の子だった。こんなにも警戒心の強い少女ではなかった。
そうしたのは兄であると知っているからこそ、薫子が当然に得られるはずだったものを奪い取ってなおさらに多くを求める舞香を思い出すと怒りが募る。
「けれど、それでは僕たちの気が済まない。春宮の祖父君に近いうちにお礼とお詫びに向かう件を伝えて欲しいのだけれど、構わないかい?」
おずおずと頷いて、鑑から渡された名刺を受け取ると、再び運転手の後ろに隠れてしまう。
「すまない。僕たちの言えた義理ではないが、薫子さんをよろしく頼む」
「言われずとも、主人より申しつけられておりますので」
家に帰ると、薫子は何も言わずに祖父母の間に座ってその袖を掴む。
伝言を受けた彼らは何かを察したのか夜もずっと彼女の隣を離れなかった。




