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環は元よりとち狂ってるので…
本当に読めない小娘だ、と環は絵を見ながら溜息を吐いた。
その絵に描かれているのは一人の少女だ。
一見彼の愛しい女にも見えるその絵は、しかし彼女には似合わない陰鬱な青い背景の中に描かれる。
泣いているようにも、落ち込んでいるようにも。そして、絶望感を抱えながら笑っているようにも見える。
妻がなぜこんな絵を好きだと思えるのか、と環は怪訝な顔をする。
「ああ。それ、なかなかイカしてるだろ?娘本人からはそこそこ好評だったんだけれど、弟夫婦からは大不評だったんだよなぁ」
呑気な声でこれを描いた画家が不思議そうにそう言った。続けて、「あの子の底知れない感じが良く出てると思うんだけどねぇ」と首を傾げた。
なるほど、桜子とこの男が混ざればあの少女が生まれるだろうと妙な納得感がある。
「それで、お前の娘は本気で桜子を閉じ込めることができるだなんて思っているのか?」
「いやぁ、薫子のお陰で桜子さんと仲直りできた人の言葉とは思えないなぁ」
睨む彼に一瞥もくれず、郁人は湯呑みを両手で持って、ふーふーと中身を冷ますように息を吹きかける。
郁人には既に桜子に対する興味がない。かつては憎みもした人だけれど、自分の事を棚に上げてとやかく言うのもなぁ、という気持ちと怒りを持続させる気力も薄かったため、その興味関心は今少しだけ娘に向かっている。ただ付け加えるとしたらそれが父性かと言われると疑問が残る。どちらかといえば被写体としての興味が大きいようである。
「うん。でもまぁ、薫子は結構根に持つタイプに見えるからやるんじゃないか?」
郁人自身も薫子にはチクチクとやられている。
かつて恋した女は今頃、どんな顔をしているだろうか。そんな事を考えて薄ら寒くなるような笑みを浮かべた。
僅かとはいえ、好きな女性と暮らせたことに変わりはない。だがそれはあくまでも郁人の感情であって、薫子の心情には関係がない話だ。
「引き入れた人選も悪かったね」
その点で言えば、円の地雷の踏み抜きっぷりは本当に狙ってやっているのでは、と思うくらいだ。
そんな風に二人で話していると、使用人が「用意ができました」と二人の前に絵を数枚並べた。
「……あまり褒めたくはないが、見事だ」
複雑な顔を見せながら環が呟く。
これならば確実に桜子は舞い上がるだろう。もしこの先に待つのが罠だと知っていてもなお飛び込むだろうと確信ができた。
「薫子が定期的に内容を変えたり、別の画家の作品も入れろと言っていたよ」
薫子のアドバイスは非常にシンプルで金のかかるものだった。四季神がお金を持っているのが前提の提案ともいう。
桜子は絵に非常に強い興味関心を持つ。ならばいっそ、住居に美術用の部屋を用意してしまえば家から出る理由は大方なくなるだろうということだった。
ついでに、もう手に入らないはずの郁人の絵と初版の画集を渡しておけば機嫌が取れると薫子は環にそれを渡していた。
(悔しいことに、効果があった)
環はそのお陰で少女のように喜んで、頬を染めながら「ありがとう!」と抱きつく妻の姿を初めて目にした。
目を奪われるほどに美しく、愛らしいその姿を見た環は弟の未来を切り捨てて薫子という名の悪魔に魂を売った。
「桜子のためであれば何を犠牲にしても構わない」
環がそう言って絵画の資料をなぞると、少し遠くに控えていた少女が、そっと目を細めた。
「だから、アレは好きにしてもいい」
その一言に少女は一瞬息を呑む。
少女の望みのために、その言葉は何より大切なものだった。