こどもたちのはなし 4
変わったのは家庭教師だけではない。
「あれ、いつもの先生は……?」
「おや坊ちゃん、儂では不満か?」
「い、いえっ」
ハリーの剣の稽古にはずっとヒューゴの部下が来ていた。
前回は、杏奈も同席してフロリアーナと一緒に声援まで送ったりして、師範役の部下も珍しく張り切ったところを見せていた。
次の稽古が楽しみで仕方ないと言って、惜しみながら将軍家を後にしたのに。
明けて今週、筋肉を誇る若者に代わって将軍家に現れたのは、髭が長くハリーよりも背の低い、好々爺といった風体の爺さんだった。
「あの、聞いていなかったので、驚いて……すみません」
「いやいや、儂も急に話を振られたしな。くっく、あのヒューゴが悋気とは……可愛いところがあるじゃないか、なあ?」
引退した儂を引っ張り出すとは、と面白そうに口元をほころばせる爺に、ハリーは呆気にとられたままだ。
「なに、見た通りの老いぼれだが、教える分にはまだまだ現役だ。どれ、まずは握りと構えから見せてもらおうか。どうせ、ろくな指導もなしに剣を振り回しとるんだろ?」
きらん、とシワに隠れた瞳を輝かせた爺に、ハリーは言い返せない。
たしかに、先日までの教師は師範役とは名ばかりで、ただ力任せに剣を振らせるだけだった。
ドナリーと名乗った老師は、骨っぽい指でコツコツとこめかみを叩く。
「目と頭も養わなくては、強くはなれんぞ」
「はい……よ、よろしくお願いします!」
「おお、その意気だ」
ほっほ、と楽し気な笑い声とは裏腹に、これまでで一番ハードな稽古が始まるのだった。
次の将軍の帰宅時。夕食のあとの夫婦の部屋で、不在時のあれこれを楽し気に報告する杏奈の話を、ヒューゴは無口無表情で、だが内心では大いに頷きながら聞いていた。
「そういえば旦那様。ハリーの剣の先生が変わったのですね」
「……ああ」
避けたかった話題を指摘されたヒューゴの眉がギクリと上がる。
知らない人が見たら、睨まれたと震えあがるような形相だが、杏奈はおっとりと微笑み返すだけ。
「前の方はどうかなさいました? もしかして怪我で来られないのだったら、お見舞いに行ったほうがいいのでしょうか」
「その必要はないっ」
心配そうな表情に変えて部下の安否を気遣う杏奈を、ヒューゴは大急ぎで否定した。
ほぼ怒鳴り声になってしまったが、やはり杏奈は怖がりもせずにきょとんとしている。そんな妻が、将軍は可愛くて仕方がない。
「旦那様?」
「ピンピンしてる! むしろ訓練でもっと追い込んでやりたいくらいだ」
「じゃあ、どうして……やっぱり私が稽古の邪魔を……?」
それなら申し訳ない、と杏奈は落ち込むが、宿舎に戻った部下が「いやあ、将軍の新しい奥さんが可愛くってー」とにやけ顔で漏らした一言が理由だとは、まさか考え付かないようだ。
杏奈が原因ではあるのだが、それよりも「夫のいないところで妻が若い男と会う」シチュエーションに、遅ればせながら気付いた将軍のヤキモチが盛大に優先された人事異動なのである。
杏奈が浮気をするとは疑っていないが、愛妻の近くに見目の好い若い男がいるという事実が気に食わない。もっと言えば、ほかの男の目になど触れさせたくない。
だが、それを正直に言えるはずもない。
遅ればせながらの初恋男子のプライドは大変デリケートなのだ。
「いや、なんだ……ドナリー翁は自分の師匠で……理屈っぽい爺なのだが、その辺の若いのよりも強いし、ハリーには合っていると」
もとからそのつもりだったのだ、そろそろ師範を変えねばと思っていたのだ、と将軍は自分にも言い聞かせる。
事実彼は、若い頃のヒューゴの脳筋を叩き直した恩人でもあり、鬼師範でもあった。
できれば二度と近づきたくないと思っていたのだが、背に腹は変えられない。
「ハリーのために! 嬉しい、あの子には理論も教えたほうがいいと私も思ったんです」
本音は、同じ男でも爺ならなんとか我慢できたからだ。
苦し紛れに取ってつけた理由だが、杏奈が納得したから問題ない。抱き着いて感謝まで言っているのだ、まったく問題ない。
「でも、旦那様」
「な、なんだ」
抗議を込めた上目遣いをされると、やはり隠しきれなかったかと内心でドキリと焦る。
相変わらずの強面で表情には全く出ていないが、やたら速く打つ心臓を見破るかのように、杏奈はそっとヒューゴの胸へと指先を当てた。
「……ときどき、お父様が見てくれたら、もっと上達すると思います。私も、息子に稽古をつける素敵な旦那様を応援したいです」
「ぐふっ」
かっこいいだろうなあ、とダメ押しのようにうっとりされれば否やはない。
今まで、家に帰らなすぎだった将軍の帰宅回数が増えるのは、すぐなのだった。
【おまけ】
杏奈と結婚してから、将軍は自宅に帰るようになった。
強面の上長の常在に疲れていた軍の部下たちや、主人不在に不安を覚えていた屋敷の使用人たちは非常に歓迎しているのだが、そうでない者が一人いる。
不満顔で朝食のパンをちぎるフロリアーナに、ハリーは声をかけた。
「なんだよ、ずっとムスッとして」
「……おとうさまなんて、かえってこなくていいのに」
なにか、とんでもない言葉が聞こえた気がする。
慌てて周りを見回して聞こえなかったふりをし、ハリーは妹を窘めた。
「こら、フロリアーナ」
「だって、おとうさまがかえってくると、あさ、アンナおかあさまがおこしにきてくれないのだもの! きょうも、そう!」
「ブッ」
後ろにいた使用人が、何かを堪えて吹き出した。
目の前の兄も飲み物が変なところに入ったらしく盛大にむせているが、フロリアーナにとってそんなことは関係ない。
すっかり杏奈と打ち解けた現在、兄妹のことは使用人ではなく杏奈が起こすようになっていた。
カーテンを開け、寝台を覗き込み、頬を撫でて「おはよう、朝ですよ」と歌うように声をかけて……実際、歌っている時もある。
それが嬉しくて、起きているのに寝たふりをして待つことも少なくない。
だが、父がいる日の朝は、杏奈は子どもたちを起こしにこない。それどころか、午後になるまで姿を現さないこともしばしばだ。
多分、いや絶対に今日もそうだとフロリアーナは断言できる。お気に入りのリボンを賭けてもいい。
「おひるまだって、いっしょにあそべないのよ」
「あー……」
「おとうさまばっかり、アンナおかあさまをひとりじめして、ずるいの!」
そう言って、フロリアーナはぷうと頬を膨らます。
まだ小さい娘にとって、母と呼べるようになった杏奈の不在は、ほかの何より重要案件なのだ。
「おにいさまだって、そうおもうでしょう?」
「いやまあ、それは……でも」
多少は事情が分かる(気がする)ハリーは赤い顔で言葉を濁し、しっかり事情が分かる使用人たちはすっかり下を向いてしまった。
「……わたし、おとうさまに、もうかえってこないでください、っておねがいしてくる」
「お、おい、待てって!」
ぴょんと椅子を飛び降りたフロリアーナに、ギョッとした使用人たちと共に慌てて駆け寄り、すんでのところで部屋を飛び出すのを引き止めた。
とたんに、フロリアーナはぽろぽろと涙をこぼして泣きじゃくる。
「だ、だって、だってっ……!」
「あー、うん」
妹を落ち着かせながら、さてどうしようかと最近ちょっと賢くなった兄は頭を巡らすのだった。




