1万6000トンの敗北
「1万6000トンの敗北」
-2019.8.11-
1942年8月──。
太平洋戦争が幕を開けてから1年と半年が経過した。
この2ヶ月前、日本海軍はミッドウェー海戦に敗北。米太平洋艦隊根拠地のあるハワイ方面への攻勢を諦めた。
代わりに推し進めたのが南太平洋海域での攻勢計画────米豪分断作戦だった。その作戦の要旨は、ソロモン諸島を島伝いに占領し、航空部隊を進出させ、その戦力でもってアメリカ〜オーストラリア間の海上連絡線を寸断。オーストラリア、さらには英連邦諸国自体の連合国からの脱落を意図したものだった。
その最初の進出拠点に選ばれたのが、ガダルカナル島だった。日本海軍は航空基地の建設を進め、今月に第1飛行場が完成する予定──だった。
その予定が狂ったのは、8月7日未明に行われた連合国軍のガダルカナル島への奇襲上陸だった。彼らは日本海軍の攻勢意図を重く受け止め、予防的な反撃と、来年以降に予定されている反抗計画の前進拠点の占領を兼ねて、上陸作戦を実行したのだ。
驚いた日本海軍はすぐに反撃を計画。ラバウルを根拠地とする第8艦隊は主力である巡洋艦7隻による「殴り込み作戦」を発動する。
作戦参加艦艇は以下の通り。
○第8艦隊
・艦隊旗艦:重巡洋艦「鳥海」
・第6戦隊:重巡洋艦「青葉」「加古」「古鷹」「衣笠」
・第10戦隊:軽巡洋艦「筑後」「名寄」
作戦計画は至極単純だった。
第1に、主目標を敵輸送船団に設定(揚陸作業には時間が掛かると見込まれた)。出てくるであろう連合国軍海軍の護衛部隊は従目標とされた。
第2に、単縦陣による一航過での襲撃に限定する。これは、ソロモン海域の狭さや、共同演習の不足などから、複雑な艦隊運動は難しいと思われたからだ。
第3に、日が昇るまでに空襲圏外へ避退する。先のミッドウェー海戦のような、航空攻撃での艦艇損失を免れるための措置だった。
作戦計画はすぐに策定され、旗艦「鳥海」で作戦会議が行われた。
「本作戦の主目的は水上部隊による夜襲により敵輸送船団を撃滅することにあります」
第8艦隊の作戦参謀、神重徳中佐の説明に対し、各部隊指揮官からは懸念の声が相次いだ。
曰く、
「敵輸送船団の撃滅とあるが、敵も有力な護衛部隊を擁しているのではないか」
「よしんば敵護衛部隊を撃破し、輸送船団を攻撃することが出来ても、避退行動に移る頃には夜が明けているのではないか。敵機動部隊の位置が掴めていない以上この作戦は投機的ではないか」
といったものだった。
神参謀も、第8艦隊司令長官三川軍一中将も、その懸念は確かにあった。
しかし、その懸念を払拭するような一言がある人物から発せられた。
「小官は本計画に賛成する」
それは、第10戦隊司令官、野柄景少将だった。
「本計画に対する懸念は小官も理解している。しかし、敵軍の視点から考えれば、我が軍の反抗は戦力──特に機動部隊の到着を待ってから行うと考えるだろう。このように仮定するなら、本作戦における早期夜襲は奇襲作戦として妥当であると考える」
さらに野柄少将はこう提案する。
「先の海戦での敗北以降、次の決戦に向け、可能な限り損害を抑制することも作戦要請上必要である。したがって敵護衛部隊への攻撃を6戦隊が担当し、我が10戦隊でもって輸送船団を襲撃する。これでどうか」
この提案に、作戦室にいた一同は度肝を抜かれた。それは発案者の神参謀も同じであった。
護衛部隊への攻撃はまだわかる。重巡洋艦5隻の集中火力で圧倒することも可能だろう。奇襲なら尚更のことである。
しかし、輸送船団の攻撃を10戦隊が引き受けるということは、この作戦の最大の懸念──空襲による喪失のリスクもまた引き受けるということなのだ。1番最後に避退するであろう10戦隊への攻撃は苛烈を極めると予想された。
このような危険な任務の遂行を野柄少将が提案したのは理由があった。
野柄少将の率いる第10戦隊の軽巡洋艦「筑後」「名寄」は──本来ならこの世に生を受けるはずのなかった艦だった。
ワシントン海軍軍縮会議によって、時の日本海軍の大建艦計画──八八艦隊計画は、列強間での会議の結果としてその多数が机上で撃沈された。改川内型として計画されていた筑後型軽巡洋艦もまた、建艦が一旦白紙に戻された。
しかし、この結果に反発した海軍は「1万6000トン死守」を掲げて建艦計画の再討議を要求。
海軍がこうした要求をした背景には、後に続く軽巡洋艦が1隻もなくなるからだった。建艦期間の空白は設計ノウハウの致命的な低下をもたらす。また、既存の5500トン型(川内型)では、恐竜的進化を遂げる艦艇史において、早晩能力不足に陥る可能性があった。そのため、基準排水量8000トン2隻、計1万6000トンの死守が望まれた。
日本側の執念の交渉努力が実った結果、生まれたのがこの「筑後」「名寄」だった。
野柄少将は第10戦隊司令官に就任する前、海軍省や軍令部の要職を歴任。艦隊計画と日米開戦のプランの計画策定に関与していた一人だった。
ミッドウェー海戦以降、日本海軍の優位は急速に薄れつつある。ならば、その優位のあるうちに戦局を挽回する必要がある──第10戦隊の2隻はいわば「棚からぼたもち」的存在だから、存分に使い倒せるのではないか──と、野柄少将は冷静に考えていた。
これだけ見ると大局を見て小局を切り捨てる非情な指揮官にも見えるが、野柄少将にも勝算はあった。
野柄少将は、大方の予想とは違い、敵機動部隊による空襲の可能性は低いと予測していたのだ。
なぜか。
これは、ミッドウェー海戦の教訓からだった。
空母機動部隊は、発艦や着艦の際1番無防備になる。現にミッドウェー海戦では、日本の空母機動部隊は発艦寸前を襲われたことによって空母3隻を一挙に失った。
ソロモン諸島北部、特にラバウルには日本側の有力な航空部隊が配置されているから、敵は航空攻撃を恐れて深追いをしないのではないか──ということだ。
かくして、作戦は承認された。
8月8日深夜──。
第8艦隊の7隻は、ガダルカナル泊地に向けて突撃を開始した。
旗艦「鳥海」を先頭に、第6戦隊の重巡洋艦4隻が単縦陣で航行。そしてそこから30海里ほど離隔して第10戦隊の軽巡洋艦2隻が航行、という陣形だった。
「鳥海」以下重巡部隊は襲撃に成功。ガダルカナル沖海上では、あちこちで敵艦が燃えていた。
この重巡部隊の襲撃で、連合国軍の護衛部隊は壊滅的被害を受けていたのだ。
「よく燃えているな」
作戦中止の報告が上がっていないこと、敵味方の通信状況、そして眼前に広がる鉄の松明。これらの情況から野柄少将は作戦通りガダルカナル泊地の輸送船団めがけて突撃を開始した。
「これより突撃。主砲撃ち方始め」
野柄少将は麾下2隻に下令。
15.5センチ3連装砲3基9門、2隻合計18門の砲弾が輸送船団に殺到する。
ある輸送船は、ガソリン燃料を積んでいたのか、砲弾の直撃で大火災を起こす。またある輸送船は、真ん中からポッキリと折れて沈没する。ガダルカナル島沖合はさながら地獄のような有様となった。
運の悪いことに、輸送船団の指揮官であったターナー中将が、乗艦する船ごと撃沈させられ戦死。これにより指揮系統が麻痺した輸送船団部隊は統一した抵抗が出来ず、そのほとんどが撃沈または擱座した。
8月9日午前3時40分──。
燃え盛る輸送船団を背景に、第10戦隊も避退を開始。
結局、懸念されていた空襲はなく、無事にラバウル港へ帰還。
これは、敵機動部隊のフレッチャー中将が、避退する敵艦隊の攻撃よりも、燃え盛る輸送船団からの溺者救助を優先した為だった。
そして、連合軍はこの手痛い損害を受けて作戦を中止、1週間後には、ガダルカナル島沖合から連合軍は姿を消した。
ソロモン夜戦と命名されたこの一連の海戦は日本の大勝利に終わったのだった。
そしてこの海戦の殊勲艦である第10戦隊の2隻は、太平洋上での死闘を繰り広げ、終戦まで生き残ることになる。
後世の歴史家は、ソロモン夜戦をこう総括する。
──この海戦の日本の大勝利は、言い換えれば、ワシントン軍縮会議で撃沈し損ねた、連合国各国の10数年越しの敗北と言える──
──ワシントン海軍軍縮会議で連合国は2隻の軽巡洋艦を撃ち漏らした。その代償は2万人の勇敢なる米兵の血によって贖われたのである──
(了)
*筑後型軽巡洋艦
1920年代、八八艦隊計画で計画されていた改川内型軽巡洋艦がルーツ。8000トン型とも称される。
14センチ連装砲4基8門の火力で、敵前衛を排除、駆逐艦の突撃を支援する構想だった。
1940年、余った最上型軽巡洋艦の15センチ3連装砲を流用、3基9門とする。ソロモン夜戦等で日本海軍夜襲部隊主力艦として活躍する。
同型艦「筑後」「名寄」。
*本作品はフィクション、創作です。似たような名前があっても、現実の人物、団体、史実、固有名称等々には一切関係ありませんので、ご了承ください。
──あの戦争で、未来、栄光、名誉、そして守るべきものの為に散っていった全ての人々へ、鎮魂の祈りを捧げます──
2019年8月11日