ある夏祭り
書きたかったのは 日本の夏祭りの原風景
そして微エロ
温泉で火照った身体を冷まそうと浴衣のまま二階の窓を開けた。
夕刻から一頻り降った雨のお陰で気温がぐっと下がっていた。空気に籠った不快な湿気を雨が綺麗に地面に洗い流してくれたのか、カラリとした風が心地良い。このところの猛暑が嘘のようだ。
下を見るとそこはひなびた温泉街の大通り、恐らくは町の目抜き通りと目される道をちらほらと浴衣姿の人たちが同じ方向に向かって歩いていた。
はて、どこへ行くのかと目線を道の先へと向けてみるが、良くわからない。ただ鮮やかな橙の色に染まった空を背景に、背は低いがやけに裾の広がった山が見えるだけだった。
チン シャラ トントン
チン シャラ トン
風に乗って彼方から鐘と太鼓の音が幽かに聞こえてきた。
祭りだろうか。
と、思っていると障子が開く音がした。
振り向くと旅館の仲居さんが夕食の膳を携えて入ってくるところだった。
その仲居さんと目が合うと、人懐っこい笑みを浮かべ、ひょっこりと会釈をした。
ほとんど反射的に会釈を返す。返した後に、なぜ日本人はお辞儀をされると、かくも無自覚にお辞儀を返すのだろうかと訳もなく恥ずかしくなった。
「ねぇ、どこかで祭りでもやってるのかね?」
半ば心の動揺を隠すように聞いてみた。
すると彼女は、少し首をかたむけ、妙な間を開け、はい、はいそうですね、と答えた。
「雨で順送りかやとか騒いでおりましたが、良い案配に止んだものだから、すこうし遅らせてやることに決まったようです」
「名前は何て言うの?」
「へっ?私の名前ですか?」
「いやいやいや、お祭りの名前だよ。ほら祇園祭とか御柱祭りとかさ、祭りの名前」
全力で仲居さんの勘違いを否定するのも失礼かと思いつつも自分の聞きたいことを伝えた。
「そんな大層なもんありゃーしませんが」
と彼女は笑いながら言った。
「昔から夏祭りとしか、わたしらは言いませんわ」
名も知れぬどこかの小さな夏祭り。
心の中で小さく唱えてみた。
そして、そのフレーズがなぜだか妙に気に入った。
夜の七時を大分過ぎた頃、浴衣に下駄という出で立ちで旅館を出た。夏といえどもこの時刻になるとさすがに空は藍色のベールに覆われていた。
祭りの主会場は鎮守の社のところと教えられたが、さて、その肝心の鎮守の社がどこなのかがわからない。
まあ、人が歩く方向へついていけば着くのだろう程度の考えで、私は歩き始めた。
カラン、コロンと小気味良い音を立てながら、二階から眺めていた目抜通りを歩いていくとやがて左右の建物がなくなり視界が開けた。
左右両側は青々とした田んぼが広がり、正面には例の背の低い山がでんとそびえていた。その山の中心に向かって目抜きの道が真っ直ぐと伸びていた。
目を凝らすと伸びた道と山の接続点には米粒ほどの光が点々と灯っているのがわかった。
さてはあそこが目的地だろうと、一本道をずんずんと進んでいった。
目的の山の頂上より少し右手から真ん丸の月が顔を出し、進む一本道を銀色に照らしていた。
田んぼの蛙たちの合唱の合間合間に、さっき旅館で聞いた鐘と太鼓の音がゆらゆらと聞こえてきた。
チン シャラ トン
チン シャラ トン
チン シャラ トン トン
グワァ グワァ グワァ
なんとも奇抜で愉快な演奏を聞きながら一本道を行進する。なぜだか気分が大きくなった。
道は田んぼを突き抜け、広場につながった。
広場の円周沿いに色々な屋台が並んでいた。
広場の玉砂利、既にこの広場は神社の境内なのだろう、をジャリジャリと踏みながら屋台を物色する。
みたらし、お好み焼き、たこ焼き、たい焼き、綿菓子、リンゴ飴。お馴染みの食物の屋台がずらりと並び、合間合間にラムネやジュース、ビールなどの飲み物を売る店が入っていた。
食べ物、飲み物の屋台以外もある。お面売りや怪しげなおもちゃを広げている店があるかと思うと射的、輪投げも健在のようだ。風船釣りや金魚すくいが少ないのは時代の流れなのだろうか。
ついさっき夕食を食べたばかりではあったが、たこ焼きとビールを買った。
特に食べたかったからではない。祭りに当てられたせいだろう。
食べながら、広場の奥にやや上っている道を見つける。人の流れはその坂道を進んでいる。わたしも流れに逆らわず進んだ。
宿屋を出る時に、鎮守の社の拝殿の前で祭りのメインが開かれると聞いていた。なにやら神女が舞いを披露するらしい。
その神女は、わたしが泊まっている宿屋の娘さんとのことだった。
なので宿の名前を言えば良い席をあつらえてくれると耳打ちされたので少し期待していた。
坂を上がっていくと中休めのような広場にぶつかった。先の広場の半分ぐらいの広さだろうか。
出店は無い。
代わりに白装束の人たちが陣取り、お守りとかを売っていた。
そのお店の奥に思いの外大きな鳥居が見えた。鳥居の先には急勾配の石段があった。石段の両脇はすぐに背の高い木々の黒い森だった。石段はまるで巨大な山を切り分け、天に至る一筋の細き道に見えた。
わたしはなんの気構えもなく、鳥居を越えた。すると、
鳥居をくぐると空気が変わった。
なんと表現したら良いのだろう。人のざわめきや祭りの喧騒が急に希薄になった気がした。そういった薄汚れた世俗のものが石段の両脇の黒い森に吸い込まれ洗い清められているかのようだった。
ふと、神社の神様は神社に住んでいるのではないという話を思い出した。神社の本殿、拝殿は単なる玄関に過ぎず、神様は本殿の裏に広がる広大な山々に住まう、というのをどこかの本で読んだことを思い出したのだ。
すると、この石段の両脇に広がる森こそが神様の住まう場所であり、今、神聖なものに、じっと見られているのではないかと思えてきた。先程までの少し弛緩した、それでいてどこか浮きたつ雰囲気から一変した姿を見せられ、わたしは急に神妙な思いにとらわれた。
背筋を伸ばし、そろりそろりと石段を上る自分にわたしは気が付いた。気にもならなかった下駄の音が、今はしきりに煩わしく思えてくる。
わたしは、なるべく音が立たないように神経を使いながら長い石段を進んだ。石段を登りきると再び鳥居があった。鳥居の手前の左に手水舎があった。
普通、手水舎というと水受け場に雨避けの屋根がついたものを思い浮かべるが、ここは巨大な板のような岩が二枚そそり立ち、その間から水が涌き出ている自然味溢れるものだった。
一方、それを一目見た瞬間、とても怪しからんものをわたしは頭に思い浮かべてしまった。すぐさま、バチが当たると思いつつ頭の中からその妄想を打ち払う。
見れば、幾人もの人たちが、その湧き水を柄杓で受け、手を洗っていた。
順番を待って、柄杓に水を受ける。
左右の手を清め、水を手で受け、口も漱ぐ。最後に柄杓を立て、残り水で柄杓の柄を洗った。
恐らくは神の住まう山からの湧き水なのだろう。水は凛とした清らかさと冷たさを持っているように感ぜられた。
我ながら暗示に弱いと思いながらも、わたしはアイロンをかけられたワイシャツの面持ちで手水舎を後にした。
鳥居の先は鎮守の社の社殿が立ち並ぶ広場になっていた。すぐ右側には細長い建物。恐らくは社務舎。奥に拝殿がある。しかし、拝殿を見ることはできなかった。何故ならば、拝殿の前には人だかりができていたからだ。恐らくはここが舞いの催される場所なのだろう。
わたしは社務舎の方へと行くと、自分の泊まる宿屋の名前を告げた。すると、中へ入るように言われた。
社務舎の中を通され、二階に案内された。
その時、わたしは一人の女性とすれ違った。
白に金色の刺繍が施された着物を着て、頭には金細工の宝冠をかぶっていた。顔は白粉で雪のように白く、眉は弓のように優美な弧を描いている。黒く縁取りされた両の眼に、朱をさされた目尻が妖しい美しさを漂わせていた。
これが舞いを披露する神女なのか、とわたしは思った。年の頃は二十半ば位だろうか。
娘と聞いていたが若女将と言った方が適切だと感じた。
神女はすれ違う時、横目でわたしを追いかけてきた。
わたしは呆けたように見続けていたことを咎められたのかと慌てて目をそらした。
神女はなにも言わずにしずしずと横を通りすぎた。そのほんの一瞬、わたしは今一度神女の様子を見ようと視線を動かした。
神女の紅を入れた蕾のような唇は少し開き、そこから白い歯が覗いていた。
そして、その歯の間で苺の先のような舌がチロチロと蠢いてた。
確かにその神女は舌嘗めずりをしていた。
それがわたしを意識したものか、それとも全く関係ないのか分からなかった。
ただ、その凄惨とも感じられる色気に思わずわたしはぞくりと体を震わせた。
神女と別れたわたしは社務舎の二階へと案内された。その窓際から拝殿とその前の、どうやら縄で群衆を仕分けている、空間が一望できた。なるほど特等席とはこの事かと思った。
しばらく窓際で下を見ていると、シャン、シャンと鈴の音が始まった。
シャン シャン シャン シャン
鈴の音は規則正しく鳴り、少しずつ大きくなっていった。
そして、拝殿の扉が開くと先程の神女が両手に持った鈴を振りながら現れた。
シャン シャン シャン
シャン シャン シャン
神女は右に左に鈴を振り、くるり、くるりと体を回す。思ったよりも軽快で激しい動きだ。
神女は踊りながら拝殿の前の空間へ移動する。その神女の後を御輿が続く。御輿には石が乗っていた。岩と言った方が良い大きさだ。しかし、驚くべきは大きさではなく、その形状だ。平べったい板状の岩の真ん中に縦に筋が入っている。この主題は先程の手水舎でも見た。いわゆる女性のそれだ。あの時はまさかとは思ったが、なるほど日本の土着の信仰ではこういうものもあると思い至る。
産めよ殖やせよ 地に満ちよ
全く和の祭りを見ながら、わたしは舶来由来の言葉を思い出す。多産の願いは万国共通なのだろう。
御神体の載った御輿は広場の真ん中に置かれ
、その前で神女はくるり、くるりと踊り続けた。
不意に神女が桜色に変わる。
上に羽織っていた着物を脱ぎ捨て、下に着ていた着物が露になったのだ。歌舞伎などで良くある手法ではあるが、不意を突かれて驚かされた。神女は舞いを続け、御神体をゆっくりと一周する。
と、神女が帯を手解き、投げ捨てる。
群衆が歓声を上げ、神女は桜色から鮮やかに深紅に変じた。
正直に白状しよう。わたしはその時、すれ違ったあの神女の艶かな姿が思い出され、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
御神体に身を寄せ、くねくねと体をよじらせるその姿は、天鈿女命を思わせた。
と思うと御神体も天岩戸に見えてくる。
聖なるものと性なるもの。およそかけ離れた存在を同一視してしまうのはどうしたことか?
いや、そもそも豊穣多産こそは我々人が神に願う原初の祈りではないのか?純朴に五穀豊穣、子孫繁栄を願い、舞いを奉納する。
子孫繁栄とはすなわち性の営みである。そもそも分けて考えることがおかしいのだ。性を恥ずかしいもの、卑しいものと考える現代人の思想こと歪んでいるのではないのか?
この名も無き夏祭りはそれを雄弁に語ってくれている、とも考えることができよう。
そんな風に思いを馳せているうちに、舞いは、その名も知れぬ夏祭りは終わった。
□□□
次の日の朝。
鳥の声と共に目を覚ました。
昨夜のように窓を開け外を見た。人の気配は疎らだ。自転車が重そうな荷台をふらつかせながら道を行くのが遠くに見えた。
昨夜のどこか浮き立った雰囲気は微塵に感じられなかった。耳を澄ましてみても、鐘の音も太鼓の音も聞こえない。夏祭りは終わったのだ。ハレの日は終わり、また穏やかだが退屈な日常であるケの日が始まっているのだ。永遠にハレの日は続かない。当たり前の話だが少し寂しかった。
朝食は階下の大食堂とのことだったので、気だるい体のまま、階下に降りる。
「おはようございます!」
食堂に入ると、思いもよらぬ大声で迎えられた。見ると一人の女の子がニコニコと笑っていた。
髪をポニーに結わえ、白いTシャツに紺のエプロン。安物のサンダル。少し陽に焼けた肌からは若さがはち切れんばかりだった。年の頃は高校、いや、中学生だろうか。まだどこかあどけなさが残っていた。
「どうぞ、空いてる席の好きなところに座ってください。すぐ用意します」
まだ、朝も始まったばかりなのにテンションが高い。
ここの宿屋の下の娘か?昨夜の神女の妖艶な姿を思い出しながら、心の中で苦笑いをしながら、席についた。
すぐに炊きたての白米と味噌汁。卵焼きに鮎の塩焼きが出てきた。
鮎を箸でほぐしながら、わたしは少女を盗み見た。
食堂にはわたしと少女しかおらず、少女は手持ちぶさたそうにしていたが、ついに空いている席に腰をおろし、大きなあくびをした。彼女もまた昨日の夏祭りで夜遅くなったのであろうか。昨夜の夏祭りが思い出され、無性に昨日の神女に会いたい気分になった。
神女は昨日の大役を終えて、まだ眠っているのかだろうか。それとも厨房で立ち働いているのだろうか。
「昨日、夏祭りを見に行ったんだけど」
ご飯をおかわりするついでに、少女に向かって声をかけた。
「お姉さん、綺麗だったね」
茶碗を受け取った少女は、「お姉ちゃん?」と不思議そうに聞き返した。
「そう。昨日、夏祭りで踊ったのってここの娘さんて聞いたよ。お姉さんなんでしょ?」
突然、バチンと少女に肩を叩かれた。
「イヤだなぁ、お客さん。あれ、あたしだよ。
あ た し !」
少女はケラケラと笑いながら、両手を左右に振ってみせた。確かに昨夜の踊りであった。
「綺麗だなんて、照れる~。
あんまし誉めると卵焼きもう一個サービスしちゃうよ」
わたしはあっけにとられて少女を見つめた。
いくら見つめても、昨夜の松明の炎に照らされて踊っていた妖艶な神女と朝の光の下で快活に笑う少女が同一人物とは思えなかった。
開いた口が塞がらない。
げに恐るべしは女の仮生か。
なんと表現するべきか
聖なるものと性なるもの
妖艶な神女と無垢なる少女
違っているが繋がっている
そんな不思議を実感した、名も知らぬ夏祭り
そう言うことで 今日のところは筆を休めるとしよう
2019/07/22 初稿
2020/06/26 誤字訂正