56話 桃華さん迷子になる
桃華さんがお出かけする……迷子ですか
窓から空を見上げると、透き通るような晴れ空だった。
鏡を見ながら、先っぽがちょっと癖毛な髪を梳かした。ドライヤーの代わりに、手から暖かい風を流し込んだ。初歩の生活魔法だ。
今日は絶好の散歩日和、朝から準備万端。
水筒にはお気に入りの紅茶を入れて、ランチバッグには色とりどりのサンドイッチを詰め込んで、お留守番のキャリーバッグに放り込んだ。
壁に掛けてあった、大きめの麦わら帽子を、浅く頭に被った。
お気に入りの桃色のドレスを着た桃華は、お散歩に出かけた。
「確か、新しいスワーレイドの街は南だって言っていたわね」
自宅である白亜城の東口から出た桃華は、そのまま、東に向けて歩き出した。
爽やかな風が吹いている。
ダンジョンであるコマイナの中は、非常に広いため、地域によって気温や湿度が様々に変化する。街中の気温は、年中通して二十度程度の過ごしやすい気温だ。
「確か、三十分くらい歩かないと、都市の入り口に着かないって話よね?
まだこの辺だと、誰もいないのかしら」
白を基調とした建物が、たくさん建ち並んでいる。
桃華のイメージするヨーロッパの街並みが、そのまんま再現されている。確か、スペインかギリシアだったかしら、インターネットで検索するたびに、いつかは行ってみたいと思っていた。
大通りをゆっくり歩きながら、桃華はいつも通りキャリーバッグを喚び寄せた。中から水筒を取り出すと、キャリーバッグをその場に放置した。
動かないキャリーバッグは、石畳の路上にぽつんと取り残された。
歩きながら、桃華は水筒のお茶を飲む。
水筒のお茶は、まだ温かかった。再びキャリーバッグを喚びだし、水筒をしまって、再び放置した。
「夕飯のおかずは、魚にしたいわね。この間、シズカさんに連れて行ってもらった魚屋さん、確か新スワーレイド湖の近くだったかしら」
唇に指を当てながら、てくてくと歩いて行く。
この時点で既に、桃華は自分がどこにいるのか全く気にしていない。当の本人には、迷子になっている自覚はなかった。
――チチチ、チチチチッ
鳥の声がした方向を見ると、通りの先に公園があった。
桃華は何の気なしに、公園に向けて歩き出した。
噴水から噴き上げた水が、水しぶきになっていた。
ベンチに座って、キャリーバッグを喚び寄せる。中から、ランチバッグを取り出した。
「いいお天気ね、そろそろお昼かしら?」
腰元のスマートフォンをたぐり寄せて、時間を確認する。いつのまにか十一時になっている。
出発したのは、確か九時だったから、思った以上に時間が経過していた。
「日差しも暖かいし、ちょうどお昼を食べるのにいい場所ね」
タイル敷きの公園は、周りに緑がいっぱい繁っていた。
小鳥が噴水で水浴びをしている。
ランチバッグからサンドイッチを取り出して、ゆっくりと口に運んだ。
パンにハムとレタス、それにトマトをはさんだシンプルなサンドイッチ。お手製のマヨネーズもかけてある。
「夏梛を連れてくればよかったかな。さすがに多く作りすぎたわ」
お腹がいっぱいになって、口から小さなあくびが漏れた。
目尻に涙が溜まった。
「いけないいけない、今日はお魚を買うために出かけたんだったわ」
横に置いてあった麦わら帽子をかぶり直して、公園の北側にある出口から通りに出た。
通りを歩いて行くと、徐々に建物の色が茶色っぽくなってきた。
「あら、ここはまた違った風情の建物が建ち並んでいるわね」
壁が、白壁からレンガ作りの街並みに変化していた。桃華は嬉しくなってスキップを始めた。
白壁のヨーロッパ建築も好きだけれど、レンガ作りの街並みも大好きだった。篤紫との新婚旅行で、レンガ作りの街並みを見るために、わざわざ九州まで行ったことを思い出した。
「あの時は楽しかったわね。
はしゃぎすぎて、途中で熱を出しちゃって、篤紫さんに車までおんぶしてもらったんだっけ……」
もう、あそこには行けないんだ――。
さすがの桃華も、少し寂しくなった。確かに同じような街並みがあるけれど、こう人が居ないとやっぱり違いを感じてしまう。
……あれ、そういえば、どうしていつまでたっても、人が居ないのかしら?
桃華は歩みを止めて、その場に立ちすくんだ。
「……あれ?」
視界の端に何かが見えた気がして、桃華は目をこすった。
見えたのは紫色の――しっぽ?
「鳥さん以外が街にいるのは珍しいわね。
あっ……消えた」
建物の陰に見えていたしっぽが、フッとなくなった。
まるで誘われるように、桃華は慌てて、建物の方に走り出した。
「あっ、なんで逃げていくのかしら」
建物の角を曲がると、また次の建物の向こう側に、しっぽだけが揺れていた。何となく、狐のしっぽにも見える。
桃華が見ているのを確認しているのか、同じようにまた、フッとなくなった。
「……」
桃華は考えた。
「そうね、諦めましょうか」
そのまま、しっぽが消えた建物の陰を通り過ぎて、ゆっくりと散歩を再開した。
しばらくして、何となく振り返ると、道の真ん中に紫色の狐がこっちを見ていた。桃華はやっぱり無視して、散歩を続けた。
「あら、どうしたの?」
紫色の狐が、桃華の前に駆け出してくると、ひっくり返ってお腹を見せた。これは、服従のポーズかしら?
『キャー』
「あら。狐って、コンコンって鳴くわけじゃないのね?」
『……キャー』
桃華はしゃがみ込んで、柔らかいお腹をそっと撫でた。
気持ちいいのか、狐が目を細める。
「あのね? 人に用があるときは、ちゃんと前に出てきて、顔を見てお話ししをしないと駄目なのよ」
『キ……キャァ……』
「それで、私に何か用があったのかしら?」
『キャーキャー』
狐は、桃華の周りを一周回ると、さっき消えた路地の方に少し歩いて、立ち止まって振り返った。
桃華は、小さくため息をついた。
「着いて来てって事かしら。わかったわ。着いていくから、案内お願いね」
『キャー』
狐に先導されて、桃華は街を歩いて行く。
何回か路地を曲がり、無人の大通りを渡って、行き止まりの通路に案内された。不思議と、危機感は感じなかった。
狐が、その場で宙返りをする。
紫色の光とともに、壁に扉が現れた。
「この扉を開ければいいのね?」
桃華が扉を押すと、少しの隙間から狐が中に入っていった。
そっと、扉を閉めた。
『キ、キャー! キャーキャー!』
扉の向こう側で、狐が鳴いている。慌てて扉も掻いているのか、カリカリと音が聞こえてきた。
桃華は思わず苦笑いを浮かべた。
「わかったわ、今開けるから。せっかちさんね」
扉を開けると、狐の耳が心なしか垂れていた。
扉をくぐると、中は紫色の木々が生えた、不思議な森だった。
目の前には、たくさんの紫色の鳥居が、森の奥まで続いていた。
狐に先導されながら、紫色の世界を進んでいく。
「ねぇ、ここがどういう場所なのか、教えてもらえるかしら?」
『キャー……』
やっぱり、意思疎通が難しいわね。
桃華は諦めて、狐の後を着いていくことにした。
たくさんあった紫の鳥居が切れると、目の前にはまた紫色の神社が建ってていた。
桃華は、思わず眉間を押さえた。
「困ったわね、どうも道に迷ったみたいだわ」
桃華さん、今さらです。
「それで、私をここに案内して、何か意味があるのかしら?」
『キャ』
短く答えるように鳴くと、狐は社の中に入って行った。
桃華は思案する。
ここは、帰るべきね。厄介ごとの匂いがプンプンに匂っているわ。
そもそも私は、夕飯のためにお魚を買いに行かないといけないのよ。こんなところで、油を売っているわけにはいかないわ。
桃華は、歩き出した。
『お待ちください――』
かまわず、鳥居の道に足を踏み入れる。
『あの――、もうし……訳ありませんが、お話だけでも――』
もちろん、振り返るわけがない。
後ろを振り返らず、ただ進む。
鳥居を抜けて、最初の扉の前まで来たところで、首だけ振り返った。
案の定、追いかけてきていた。
巫女装束を着た狐耳の少女が、息を切らして、鳥居を抜けたところで跨がっていた。少女は白い肌以外は、全身が紫だった。
ほら、厄介ごとじゃない。
桃華は、扉を開け、閉まらないように、扉に停止の魔法をかけた。
退路の確保。これでやっと、対等の立場ね。
生活魔法以外に、唯一使える時の魔法――桃華の最大の武器だ。
「それでは、お話をしていただけるかしら」
キャリーバッグから取りだした椅子に座り、テーブルに肘を付けた。
上を見上げると、紫色の太陽が白い光を放っていた。
桃華は紫色の少女に、戦いを挑んだ(違
作者は思う。どうしてこうなった……。
イレギュラーなんだけどな




