54話 白崎家
ここから章が変わります。
それが夢だと言うことは気がついていた。
自分たちがもう、そこに戻ることができないことも理解していた。
でも今だけは、その夢に醒めてほしくなかった……。
「元気な女の子ですよ。おめでとうございます。
母子ともに、元気ですから安心してくださいね」
手術室の廊下で無事を願っていた篤紫は、看護師のその言葉でほっと胸をなで下ろした。
出産が帝王切開のため、立ち会いをすることができなかった。
初めての出産。手術室に入って行った桃華は、いつも通りの笑顔で手を振っていた。
こんな時、男は何もできないんだな。
手術室の前の廊下は、とても静かだった。手術中を示すランプが、やけに長い間点灯していた気がする。
ポケットから取りだした折りたたみ携帯を開くと、思いの外時間が経過していなかった。
手術室のドアが開くのを見て、安堵のため息を漏らした。
「ただいま、篤紫さん。元気な女の子よ」
ベッドに乗せられて、桃華が手術室から運ばれてきた。篤紫はとびっきりの笑顔でそれに応えた。
「お疲れさま。二人とも無事で安心したよ」
「あのね、産まれた子の名前、決まった?」
医師から説明を聞いた後、病室に行くと、桃華が産まれた子を抱きかかえていた。桃華の腕の中では、我が子が小さな寝息を立てている。
頑張ってくれた桃華の頭に、そっと手を置いた。
「この子の名前は、夏梛。かな?」
「ふふふっ、なにそれ。もしかして私を笑わせるつもり? いまお腹を縫ってあるから、笑うと痛いのよ」
「あ、いや、ごめん。そんなつもりはなかったんだ」
篤紫は鞄の中から手帳を取り出すと、そこに名前を書き込んだ。
「ほら、この字で夏梛って書くんだ」
「女の子の名前の一番候補ね、いいんじゃないかしら?
あとで、みんなにも報告しなきゃね」
名前はいくつか候補をあげていた。
姓名判断の本を買って、男の子と女の子をいくつか書き留めた。少なくとも、子どもが大きくなって結婚するまでは、運命の力で守ってあげられるように。
「よし、それじゃあ、夏梛。俺たち二人の間に産まれてきてくれて、ありがとう。これからよろしくな」
「元気いっぱい、笑顔いっぱいに育ってね。夏梛」
我が子――夏梛に話しかけて、二人で顔を見合わせた。幸せの笑みが自然に溢れる。
ジ……ジジ……。
一瞬、夏梛が紫色に光った気がした。光は一瞬だったため、慌てて見たときには、もう夏梛が寝息を立てているだけだった。
「いま、夏梛が光らなかったか?」
「ちょうど篤紫さんの顔を見ていて見えなかったけど、夏梛がふわっとあたたかくなったのは分かったわ」
「そっか、不思議なこともあるんだな」
「名前、喜んでくれたのかしらね」
生まれたてにもかかわらず小さな頭には、髪の毛がしっかりと生えていた。
手を伸ばしてそっと撫でると、柔らかい感触と温かい体温が伝わってきた。
「おとうさん。いまね、あそこに白いものが飛んでいたよ」
桃華が仕事を抜けられず、代わりに保育園に夏梛を迎えに行ったとき、空を見上げて夏梛が指さした。
「ほら、あそこにも飛んでる。あたしに手を振ってくれているよ」
雲一つない青空に、夏梛の目には何かが映っているのだろう。
篤紫はしゃがむと、腕の中に夏梛を抱き上げた。
「俺には、それは見えないかな。でも、夏梛に見えるのなら、間違いなくそこにいると思うんだ。
大人になると、それが見えなくなるんだよね」
そう言いながら、夏梛の顔を覗き込んだとき、一瞬、瞳が赤くなった気がした。夏梛が気がついて、顔をこっちに向けてきた。
「あのね、白い女の人だったよ。おとうさんとおかあさんが、元気でいられるようにって、お願いしておいたよ」
「そっか、ありがとうな。
でも本当は、お願いとかしちゃ駄目なんだよ」
「うん、わかった」
いったい夏梛には、何が見えているのだろう。
もう一度見上げた空は、やっぱり透き通るように青かった。
目が覚めると、隣で夏梛が寝ていた。夢を見ているのか、目から涙が溢れていた。
オルフェナが夏梛に抱えられたまま、窮屈そうに眠っている。
「日本に、帰りたい……か」
そっと手を伸ばして、頭をゆっくりと撫でた。
桃華から話を聞いたとき、さすがに言葉が出てこなかった。
でもおそらく、ここは日本なのだろう。
物語のように神様がいて、全く違う世界に飛ばされたとすれば、もしかしたら帰る手立てがあったのかもしれない。
でもここは、この世界は、地形が地球と全く一緒。
恐らく帰る場所は、ない……。
「お……とうさん?」
部屋は魔石灯でうっすらと明るい。
いつからか、真っ暗が怖いと泣き出した夏梛のために、寝るときも明かりを落とさなくなった。
「どうした夏梛? 何か、夢でも見たのか?」
「あのね、夢の中であたしは石だったんだよ。紫色の真ん丸い石。
それでね、おとうさんがおかあさんに、石のあたしを渡すときに、気がついたんだと思うの」
コアの世界で再現された、子ども時代の自分たち。
そうか、あそこには既に夏梛がいたのか。
「おかあさんと一緒に帰ったんだけど、ずっと泣いてたの。
あたしも悲しくなっちゃって、おかあさんに大丈夫だよって、手を伸ばしたら、おかあさん中に吸い込まれたの。
それで、いま目が覚めたの」
「そっか、夏梛。産まれてきてくれて、ありがとうな」
「えっ、なによいきなり。おとうさん、変だよ」
二人で顔を見合わせて、声を抑えて笑った。
そうか、この子はずっと待っていてくれたんだな。
夏梛がすっと起き上がった。
桃華は、まだぐっすり寝ているようだ。
「あのね、あたしやっぱり日本に帰れなくてもいいよ」
窓から月明かりが差し込んできて、部屋が明るくなった。
ちょうど逆光になって、夏梛の顔が見えない。
「日本に戻っちゃうと、魔法、使えなくなっちゃうよね?
あたし、一生懸命魔法の勉強してるんだ。だから、いまから魔法が使えなくなっちゃうと、困るかな」
「うん。夏梛、頑張ってるもんな。
魔法の才能も、すごくあると思うよ」
「ほんと? やった、嬉しいな。
もっと魔法を上手に使えるようになって、おとうさんとおかあさんを守ってあげるからね。絶対に守るから」
篤紫はハッとした。
慌てて、夏梛を抱きしめた。腕の中で、夏梛が震えていた。
「絶対に守るからね」
「ああ」
「絶対に、絶対にだからね」
「ああ、わかったよ」
「だから……もう、あたしの前から……いな……」
声が徐々に小さくなっていく。
寝息が聞こえてきたのを確認して、夏梛を布団に寝かせた。
掛け布団をそっと掛けると、篤紫は部屋を抜け出した。
『月の明るさが、異常だな』
白亜城のテラスで、篤紫は月を眺めていた。
満月だった。地球で見ていた月よりも、いくらか大きい気がする。
「この世界と地球って、繋がっているのかな」
『完全に別の世界だろうな。
ただ同時に、全く同じ世界だ、とも言えるだろう』
篤紫が座るデッキチェアのもとに歩いてきたオルフェナを、隣にあるデッキチェアに乗せた。
『これは憶測だが、世界線が変わっただけではないかと考えている。単純な異世界転移ではないのだろうな。
地理的には、完全に地球と一緒だな。ただそこに魔法があって、文明の根幹が魔法で構成されているだけだ。
星を安定させたら、世界を旅して歩くのだろう?
自分の目で見て、答えを出すのが一番だろうな』
「でもその前に夏梛が、壊れちゃわないかな?」
一番の懸念だった。この世界は、けっして平和じゃない。
大人なら、覚悟を決めさえすれば何とかなるだろう。でも夏梛に耐えられるのだろうか……。
『夏梛が一番、覚悟を決めているように感じるぞ。
魔法の腕だけなら、既にレアーナすらも越えておる。子どもの成長はあっという間だ、篤紫の知らないところでものすごい努力をしておるよ。
案ずるな、我が見ている』
「そうか、ありがとう」
『それにだ、篤紫は勘違いしておるが、地球が安全とはとても思えないな。
むしろ、地球の方がよっぽど残酷な地域が多いぞ』
言われてみれば、そんな気がする。
見上げた月は、やっぱり大きかった。
少しずつ、みんな成長しています




