不運
! 児童虐待の表現があります。
いやだ!
強く握りしめたやわらかい手はいつものように握りかえしてはくれなかった。
なんで! いやだよ! やだ!
必死の思いは言葉にならない。智春の口からはうめき声のようなものしか出てこなかった。胸が苦しくなり目の前が白くぼやけてくる。息をつめていたことに気づいて意識して息を吸いこんだとたん、全身が小刻みに震えだした。耐えがたい痛みに襲われる。
「おい、しっかりしろ!」
耳元でだれかが叫んでいた。騒然とする群衆、どよめき、救急車のサイレン――とりまく音が頭のなかでわんわん反響している。あたりが急に暗くなり、なにもわからなくなった。
1
目をあけている感覚はあった。でも頭のなかに言葉はなかった。戻ったのは視覚だけだ。ここはどこだろう、とか、なにがあったんだろう、などという疑問はまったく浮かんでこない。
つかの間、ただぼんやりと天井を目にうつしていたが、智春はすぐに深い眠りについた。
そんなことをひたすらくりかえすうちに、やがて暗闇の底からゆらゆらと言葉が浮かび上がってきた。
……体が……重い。
まるでぶ厚い鋼鉄の小箱に、魂だけが閉じこめられているようだ。手にも足にも力が入らない。
ぼくの体は、ちゃんとぼくにくっついているのかな……。
すこし考えただけですぐに疲れる。
目を閉じると引きずりこまれるように、智春はまた眠りに落ちた。
目をあけて、そして眠るということを一週間ほど続けると、ようやく体の感覚が戻ってきた。
痛い……。
最初に感じたのは苦痛。どこが痛いのかはっきりとはわからないが、どこもかしこも痛いような気がする。
……なんでぼく、こんなとこにいるの?
記憶はまだ混乱していて、現実にはそう簡単に戻れない。
毎日のように回診をしてくれる若い男性の医師はとても優しかった。ちゃんと智春と視線を合わせて、ゆっくりと話してくれる。
「そのうち自然に思いだすからね。思いだせないのは、いまはまだその時期ではないってことなんだよ。だから、ゆっくり治していこう。あせらないで」
看護師さんたちも、医者と同じことを言った。
しかし苦痛が過ぎ去り、体が回復するにつれ、なにも覚えていないことがどうにももどかしくなってきた。
さくらいともはる。六歳。
それは覚えている。
でも、どうしてぼくはここにいるんだろう? わかんない。覚えてない。なんで忘れちゃったんだろう……。
智春は自分の胸に手をあてた。
ハート形の心臓。その半分が欠けた状態で体に埋めこまれているみたいで、心もとない。不完全なハートは危ういバランスを保っている。このさき、なにかを思いだしても思いだせなくても、それが壊れる運命なのは変わらないような、そんな気がした。
さらに一週間が過ぎると、智春は目に見えて元気になった。
「子どもの回復力は目をみはるものがあるね。でも油断はできないな。まだ記憶が戻らないし、なにより頭を打っているからもうすこし様子をみよう」
医者は慎重だったが、智春は早く動きまわりたかった。
看護師さんたちはいつも優しいが、そうそうかまってくれるものでもない。まだケガは治りきっていないので、ベッドからおりることも許されていなかった。
だから智春が唯一できることは頭を使うこと、それだけだった。
記憶はほとんど戻っていない。
記憶がないというのは、自分がどこかで迷子になっているようで不安なものだった。だから智春は、思いきってあの日のことを、最初からなぞってみることにした。
まず思い浮かんだのは、道を歩いている場面だった。
あの日、ぼくは一人で歩いていた。
……そうだ、ぼくは怒ってたんだ。だから地面をにらみながらずんずん歩いていた。どうして怒っていたんだろう? ……それはわかんない。
それから、大きな道路に出たところで、だれかがぼくに追いついてきて……後ろから声が聞こえたんだ。
『……トモちゃん』
おかあさん!
いきなり胸がズキズキと痛みだす。
「うっ」とうめいて、智春は丸まって胸を押さえた。
苦しい! 痛いよ!
――そうだよ、苦しい思いなんてすることないよ。べつに思いださなくてもいいじゃない。
どうやら心のどこかで、もう一人の自分が思いだすのを阻止しているらしい。
――いやなことまで思いだしたらどうするの。
怖い……怖いよ、だけど。
涙がにじんでくる。
――まだ子どもだから甘えていいんだ。忘れちゃってもだれにも怒られないよ。
智春は歯をくいしばる。
なくしたものは大きいと、頭のどこかではとっくに理解しているのかもしれない。でもそれを認めてしまったら、自分がどうなってしまうのか想像もつかない。だから本能的に記憶が戻るのを拒否しているのか。
でも、それでも、どうしても思いださなければならない。大切ななにかを。
それもまた本能が知らせている。
どちらにせよ、記憶の再生は心と体に負担がかかる苦しい試みには違いない。
でも思いださないきゃダメだ!
智春は半分やけになっていたのかもしれない。どのみちこんな状態になっても、自分を心配してくれる大人はだれもいないのだから――と。
家族がお見舞いにも来ない、と看護師さんたちが話しているのを聞いて、智春は父親の顔を、あの優しい笑顔を思いだした。でもどういうわけか、母親のことはなにも思いだせなかったのだ。
唇をかんだまま、智春はぱっと目をひらいた。
『トモちゃん』
おかあさんだ! おかあさんがぼくを追いかけてきたんだ。そして――。
「痛い!」
叫んで頭をかかえる。釘を打たれたような鋭い痛みに智春はうめいた。頭がスイカのように割れるのではないかと不安にかられる。涙と鼻水が口に入り、しょっぱくて咳が出た。こんこんと咳をすると、さらに胸まで痛んだ。
しばらくの間毛布に顔を押しつけ、そのまま動かずに呼吸を整えた。
頭の痛みがゆっくりと引いていくのとひきかえに、おぼろげな女性の姿が脳裏に浮かんできた。
ぼくの……おかあさん。
『トモちゃん。一人でいっちゃ危ないよ。コンビニいくなら私も一緒にいくから』
そう、ぼくは頭にきてたんだ。
ぼくはなんにも知らなかった。
だけどシュウくんは知っていた。ぼくだけが知らなかった。ぼくの家のことなのに……。
だからシュウくんが嘘をついていると思った。
ぼくはものすごく怒っていた。
ぼくの家の秘密をばらしたシュウくんに。
シュウくんの言ったことは間違っていないと認めたおかあさんに。
そして、なんにも知らずにいた自分自身に――。
『ごめんね。でも、いつか、トモちゃんがもうすこし大きくなったら言おうと思ってたんだよ』
ぼくは本気で怒っていた。
『なんで逃げるのよ。危ないから走らないで』
うそつき!
ぼくがそう言うとおかあさんはとても悲しそうな顔をした。
おかあさんなんか大キライだ!
『……わかった。だけど、私はトモちゃんのことが大好きだからね』
その直後のことだ。いきなり強い衝撃を受けて、二人の体ははじき飛ばされた。
トランポリンではねたように、体がぽーんと空中に放りだされる。空間がゆがんだような奇妙な感覚。わずか数秒のことなのにやけに長く感じた。そして、魔法がとけたようにいきなり地面に叩きつけられる。
智春はうめいた。けれど気を失ってはいなかった。
なにが起きたのかわからないままあたりを見まわすと、すこし先に母親が倒れているのが見えた。
立とうとしたが足に力が入らない。すぐにあきらめて夢中でそばまで這っていき、その体にすがりついた。ゆり動かしたが反応はなかった。手を握っても握りかえしてはくれない。頭の下の赤いものがみるみる広がっていく。
「ああああーー」
ベッドの上で智春は叫んだ。力の限り叫び続けた。声が枯れても、咳きこんでも叫び続けた。もう死んでもいいと思った。心のなかはからっぽで真っ暗だった。
智春はベッドの上でむちゃくちゃに手足を動かし暴れまくった。ベッドから転がり落ちても痛みなど感じない。顔を切って血を流しても、泣きながら暴れ続けた。
でもそれは長くは続かなかった。
騒ぎを聞きつけた看護師たちは手慣れていた。容易に取り押さえられた智春は、注射を打たれてすみやかにベッドに戻された。
2
それからずいぶんと時間がたつうちに、ようやく智春は落ち着きを取り戻した。
「あ、起きた」
あるとき目をあけると、見覚えのある顔が智春をのぞきこんでいた。
目鼻立ちがやたら整っている顔がほころんだ。天使のように優しい笑顔――そう女性たちに噂されている顔が目の前にあった。
「俺のこと、わかるか」
聞かれて小さくうなずいた。
「ちょっとしゃべってみ」
ゆっくりと口を動かしていく。
「……お……とう……さ……」
かすれた声が出た。
「なーんだ。もうだいじょうぶそうじゃない」
真司がふっと笑う。
智春は無表情のまま真司をじっと見つめた。
「なに? なんだ」
意識的に目をそらさなかった。
真司の眉間にしわが寄っていく。天使の顔はとてももろい。あっという間に崩れさる。
「……なんだよ。なんか言いたいのかよ……なんだよその目は、なあ、おい!」
真司の声が徐々に大きくなっていく。
「どうかされましたか」
けげんそうな顔をして看護師が病室に入ってきた。
「いや、なんでもないです。こいつ、目が覚めたばっかりで、ちょっとぼーっとしてるようだから」
にこやかに対応する。取り繕うのはお手のものだ。
「無理もないですよ。まだ小さいのによくがんばったわ」
中年の看護師は智春に笑顔を向けてくる。
「小学校の入学式には間に合うって先生が言ってたわよ。もうちょっとの辛抱だから、がんばろうね。じゃあまたあとで、検査のときにきますから」
「よかったな智春。小学校には通えるってよ」
おとうさんはなにも変わってない……。
真司のわざとらしい笑みに智春はがっかりした。
看護師が出ていったのをしっかりと確認すると、真司は智春に顔を近づけた。
「梨沙は死んじゃったよ」
わかってるよ! そんなのわかってるよ!
智春は心のなかで叫んでいた。
本当は声に出したかった。大声で叫んで真司に当たり散らしたらどんなに楽だろう。
でも、できない。
真司がけっして自分の味方ではないことを、智春はじゅうぶんにわかっていた。
『うそつきになりなさい』
梨沙にくりかえし言われたことを忠実に守ろうと思った。
「梨沙もおまえも運が悪かったな。あのときあの場所にいなければ、巻きこまれることはなかったのに……。でも俺がかたきをとってやる。相手から引きだせるだけ引きだしてやるからな。心配すんなよ。こっちは歩道を普通に歩いていただけだ。おまえが飛びだしたわけでも、こっちに落ち度があったわけでもない。あっちが酒飲んで運転してハンドルを切りそこねたんだ。バカなヤツだぜ。むこうは保険に入ってるだろうしな。だいじょうぶ、ふんだくれるさ……ま、退院したら祝ってやるからな」
黙ってうつむいている小さな背中をぽんとたたいて、立ち上がる。
「じゃあな」
言いたいことだけを一方的にしゃべり、その性格と同じ軽薄な足どりで真司は帰っていった。
一人きりになると、智春の両目から大粒の涙があふれだした。
あのときあの場所にいなければ――真司の言葉が胸に突き立った。
きっと、ぼくのせいだ。
おかあさんが死んだのはぼくのせいだ。
あのときぼくがコンビニにいくなんて言ったから、おかあさんは心配してついてきた。ぼくは酷いことを言った。おかあさんなんて大キライって。こんなことになるなんて思わなかった。優しかったのに。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
智春はしゃくりあげた。どうしても抑えられなかった。頭の芯がしびれるように熱くなる。胸がおしつぶされそうに苦しい。涙も鼻水もぐちゃぐちゃにまじって口のなかに入ってくる。大声をあげたかった。叫びだしたかった。でもそれをこらえる。
看護師に見つかれば真司に連絡がいくかもしれない。わずらわせれば真司の機嫌が悪くなる。
毛布にくるまり、握りこぶしに歯をあてて、智春は必死に声をこらえた。
退院の日、病室に現れた真司は晴れやかな表情で荷物をまとめていた。
「やっと退院だな」
機嫌がよいということは、お金が入ったということだ。真司の感情のバロメーターはお金に直結している。お金があるかないか、ただそれだけだ。わかりやすいが、親子関係を維持するのはなかなかにむずかしい。
智春はまだ小学校にも上がっていない。日々の生活のなかで真司を怒らせないようにすることは、神経をすり減らすような大仕事だった。しかもそれをうまくカバーしてくれていた梨沙は、もういない。これからは自分だけでなんとかしなければならなかった。
真司の顔を見ながら智春は重苦しい気持ちになる。
言わなくちゃ。
どうしてもはっきりとさせたいことがあった。たとえそれが真司の機嫌をそこねる結果になったとしても、今後の生活に影響があるとしても、聞かないわけにはいかなかった。
緊張で動悸が激しくなったが、持てる勇気をふりしぼり、智春は思いきって言葉を出した。
「ねえ、……おかあさんは、ぼくの本当のおかあさんじゃないんでしょ」
真司の手が止まる。目つきが鋭くなった。
「だれから聞いた」
「シュウくんだよ。シュウくんのママがそう言ってたって」
「あんのクソババア」
吐き捨てるように言ったあと、目を細めてなにかを探るように智春を見た。
やっぱり本当のことだったんだ……。
智春の体から力が抜けていく。
本当のおかあさんだよって、嘘ついてくれればいいのに。だっておかあさんはもう死んじゃったんだから……。
大人ってバカだ。
どうしてよけいなことを言うんだろう。人の家のことなんて放っておけばいいのに。知らなければぼくはそのまま平和に過ごせたのに。聞いちゃったらもう知らんぷりはできない。
ぼくは不安になって、でもそれ以上に怒りたい気分で、それでおかあさんに当たった。大キライって言った。本当はそんなこと言いたくなかったのに……。
シュウくんもバカだ。ちょっとケンカしたからってそんな重大なことをいきなり言うから、ぼくはつい殴っちゃった。
シュウくんのママはぼくのおとうさんが怖いから、シュウが悪いってぼくをかばったけど――もとはといえば、シュウくんにそんなことを教えたシュウくんのママが一番悪いじゃないか。
本当にクソババアだ。
「……おとうさん。ぼくの本当のおかあさんはだれなの」
「知りたいか」
「うん」
真司は目を閉じた。
ごくりと、唾を飲んで智春は真司の言葉を待った。
「……っていうか、実は俺もおまえの本当のおとうさんじゃないんだけどな」
「え……」
予想外の答えに頭がついていかない。ただ真司の顔を見ること以外、智春はなにもできなかった。
「……なにその顔。おもしれえ」
いきなり真司が笑いだす。
「嘘だよ、うーそ。安心しろよ。おまえと俺はちゃんと血がつながってるから」
最悪だ……。
安心なんてできるわけがないじゃないか。こんなヤツと血がつながっているなんて。
その心の声はけっして表情には出さないように気をつけた。
「ぼくのおかあさんはだれなの?」
「どこのだれだかわかんなーい」
そんなわけないじゃないか。
「教えてよ」
「本当に、わかんねえんだよ」
「どこにいるの?」
ちっ、と舌打ちをして、真司はふてくされたように横を向く。
なにか変だなと智春は思った。
智春を置いて家を出ていったのなら、真司のことだ、きっと悪態をつきながらもはっきりとそう言うだろう。もし、病気とかで死んでいるのなら、梨沙のときと同じように「死んだ」と告げるだろう。
言えない、言いたくない、なにかべつの理由がきっとあるに違いない。さらに智春が口をひらきかけたとき、いきなり真司の貧乏ゆすりがはじまった。
智春は真司をよく観察していた。
「知らねえものは知らねえんだよ。そんな目で見るなよ。いねえもんはいねえんだから、さっさと忘れちまえよ!」
これ以上は無理だと思った。
貧乏ゆすりが、スイッチが入るひとつの合図になっている。この話を続ければ間違いなく真司はキレる。
あきらめて、智春はまだ口のなかに残っていた言葉を飲みこんだ。
「あれー、まだ用意できてないの?」
声に二人がふりむくと、病室の入り口に背の高い女性が立っていた。
花柄のやけに短いワンピースから、細く長い脚が伸びている。
「ああ。こいつがいきなり変なこと言いだすからさ」
「へえー」
ヒールの音を響かせてベッドの脇までくると、彼女は腰を折って智春に顔を近づけた。
強い香水の匂いがむっと押しよせ、智春は思わず顔をしかめた。
「可愛い顔してんじゃん。真ちゃんとは違ったタイプだけど、でも成長したら超イケメンになるよ。真ちゃんよりモテるかも」
「うるせーよ」
彼女は笑いながら真司をうながした。
「ねえ、早くしてよ。店にもいくんでしょ?」
「ああ、そうだったな。おい智春、こいつは美知佳。これからおまえの面倒を見てくれるってよ」
どういうこと?
その疑問を見すかしたように真司が答える。
「梨沙のかわりだよ」
梨沙の名前が出たとたん、智春は体をかたくした。
「えー、いやよ、面倒なんて」
「そんなこと言うなって。俺の頼みはなんでも聞くって言ったじゃねえか」
美知佳は長い髪を指先でもてあそびながら、甘えるような声を出した。
「まあね。真ちゃんの頼みだからさあ、いいよって言っちゃったけどさあ……」
「んじゃあ、頼むからこいつの面倒をみてくれよ」
真司がやわらかい笑顔をつくった。
「もうー、しょうがないなあ」
すこし頬をふくらませながら、美知佳は智春に手を差しだしてきた。長い爪が、きらきら光る石や小さいリボンでごてごてと飾りたてられている。梨沙とはまったく違う手だ。幼稚園で見たほかの子のおかあさんたちも、誰一人としてこんな爪はしていなかった。
智春はその手をただ見つめるばかりだ。
「ほらー、握手よ、握手」
美知佳の声に反応しない智春を見て、真司がいらだった。
「いいかげんにしろよ! 梨沙はもう死んだんだ!」
悲鳴を無理やり押しこめたように唇を強くかみ、智春は反射的に美知佳の手を取った。しかし梨沙とはまったく違うその感触に、涙が出そうになる。
「よろしくね。でも、あたしはあなたのことを子ども扱いはしないから。ちゃんとした一人前の男として扱うからねー」
「なんでもいいよ。とにかくよろしくな」
真司がにやりとする。
「これからは美知佳と一緒に住むんだからな」
「一緒に住むだけだからね。……ねえ、あたしのことをママだなんて思わないでよね。見てのとおり、あたしはまだ若いんだから」
赤く縁取られた唇が、にっと笑う。
それを見て智春は吐きそうになった。
3
病院を出ると、智春たちはタクシーに乗りこんだ。
到着したのは以前の家ではなく、はじめて見るマンションだった。
「今日からここで暮らすんだ」
智春はそびえたつ建物を恐ろし気に見上げた。
以前住んでいた五階建てのマンションとは違い、ぱっと見ただけでは何階建てなのかも数えられなかった。
建物のなかはひんやりとした空気と静寂に包まれている。
不思議なことに生活の匂いがまったくしない。床や壁はつるつると光り、歩く人影をぼんやりとうつしている。
まるで宇宙船に乗っているみたいだ、と智春は思った。
エレベーターで十三階まで上がる。
住民は多いはずなのに、部屋にいくまでにはだれとも会わなかった。
黒いドアをあけると、真司は智春に入るようにうながした。
廊下の突き当たりは広いリビングになっていた。部屋は三つほどあった。そのうちのひとつをあけると、真司が言った。
「ここがおまえの部屋だ。着るものとかは前の家から持ってきてもう置いてある。それ以外は全部処分したからな。たりないものがあったら美知佳に言えよ」
あてがわれた四畳半ほどの部屋には、フローリングの床に段ボールが二つ積んであり、その横には真新しい布団が置いてあった。
「それから、学校だけどな。おまえはいかなくてもいいから」
「どうして?」
おかあさんはぼくの入学式を楽しみにしてた。
『なに着ていこうかなあ。そうだ、ランドセルも買いにいかなくちゃね』
医者からも学校に通っていいというお墨付きをもらっている。なぜ急にそういうことになったのか。
おそるおそる聞いてみる。
「……なんでぼくは学校にいかなくてもいいの?」
真司の頬がぴくりと動く。
「だっておまえは、病院にいかなくちゃならないんだし。それにな、小学校って行事がたくさんあるんだよ。幼稚園のときだっていっぱいあったけど、でもそれは梨沙が全部やってくれたからよかったんだ。でもな、美知佳がいやだって言ってるんだからしょうがないだろう。おまえのママじゃないから学校にはいかないって。おまえのことでわずらわせるのはかわいそうじゃないか。こんないいマンションに一緒に住まわせてもらうんだからさ、おまえもそのくらい我慢しろよ」
「ランドセルは」
「学校にいかないんだから、いらないよな」
「でも……」
「聞き分けが悪いぞ!」
真司が声を荒げる。
智春は首をすくめた。
「あと、インターホンが鳴っても出るなよ」
「……出ちゃいけないの」
「そうだ。出たらまずいことになるかもしれないからな。おまえのせいで俺たちに迷惑がかかるんだ。いいか、絶対に出るなよ」
「うん」
「それからおまえは外にも出ちゃだめだ。病人なんだから」
「外にもいっちゃいけないの」
「だから――また事故にでもあったら大変だろう? おまえのことが心配なんだよ」
「でもぼく、病院にいかなくちゃ」
「それなら心配するな。バイト雇ったから」
「バイト?」
「ああ、美知佳の弟が送り迎えしてくれるってよ。だからそれ以外は一人で出歩くな。そうだな……隣のコンビニならいってもいいぞ。ただし、一日に一回な。午後の早い時間なら変に思われないだろうから、そのくらいの時間にいけよ」
「ねえ、そろそろ時間よ」
着替えて化粧を濃くした美知佳が立っていた。
「いまいくよ」
一度店に顔を出してから夕飯に間にあうように戻ってくると言って、二人は出かけていった。
真司の職業を智春は知らない。でも普通の会社員ではないことは知っている。
『世の中にはね、自由業っていう職業があるんだよ』
困ったような顔で、梨沙はそう答えたことがある。
自由業がなんなのかはわからなかったが、真司を見ている限りまともな職業だとは思えなかった。
家に帰ってくるのは週に何度かだったし、それも深夜とか早朝のときもあり、時間がまちまちだった。しかも真司が帰ってくると、部屋のなかに煙草と酒の匂いが充満して気持ち悪くなる。
ずっと帰ってこなければいいのに……。
梨沙だけいれば智春はじゅうぶんだった。梨沙と二人きりの生活を邪魔されたくはなかった。
でも一番叶えてほしい子どもの願いは届かない。智春はもう、それを願うことさえできなくなった。
その日も言葉どおりに、七時半前に二人は帰ってきた。
「退院祝いしようぜ」
「お寿司買ってきたよ」
二人は酔ってご機嫌だった。
美知佳はデパ地下あたりで買いこんできた惣菜を、そのままテーブルに並べていく。
「退院おめでとう!」
クラッカーを鳴らして、三人で乾杯をする。
この楽しい演出は智春のためではない。だから気を抜いてはいけないと、智春は自分を戒めた。
それから二人はもう智春を気にとめることもなく、楽しそうに会話をしている。
会話にはもちろん入れなかったし、子どもが口をはさむような内容でもなかった。だから智春はテレビを見ながら、黙々と料理を口に運んでいた。
「そんだけ食えればもうだいじょうぶだよなー」
ウィスキーのグラスを片手に、真司が隣に座っていた智春の頭に手を置いた。
緊張して体がびくりと反応したが、それを気取られないように深く息を吸いこんだ。そっと真司の顔をうかがうと、どうやら酔ってなにも気づいていないようだった。ほっとしたら、急にトイレにいきたくなった。
イスから立ち上がった智春に美知佳が声をかける。
「あーもうこんな時間。ねえ、ついでにチャンネルかえてくれる」
「うん」
リビングのテーブルに置いてあるリモコンを手にして、ふと画面を見た智春は硬直した。
大写しの自動車。歩道に乗り上げ、フロント部分がぐしゃりとつぶれている。
「――本日午後4時過ぎ、乗用車が通行人をはねる事故がありました。運転をしていた男性は――」
智春は小刻みに震えだした。
おかあさん……。
あのときの感覚が鮮明によみがえる。
流れる血、蒼白な顔、まだ暖かい手――。
自分ではどうすることもできなかった。ズボンの前が濡れていき、床に水たまりができていく。
「ねえ、どうかしたの」
固まっている智春を不審に思った美知佳が近寄ってくる。
智春は動けなかった。
「やだ! なにしてるのよ!」
ヒステリックな声に反応して、真司がゆっくりと立ち上がる。
「なんだあ?」
智春がなにをしでかしたかがわかると、真司は大きく舌打ちをした。
「あーあー、きったねえなあ! 漏らしてんじゃねえよ!」
真司は手を振りあげる。
智春は唇をわななかせ青ざめていた。
「おい、美知佳」
「なによ?」
真司は冷えた目で智春を見下ろしながら、美知佳に聞く。
「おまえ、こいつのカベ、やるか?」
「カベ? なによ、それ」
「こいつのかわりに、おまえが殴られるかって聞いてんの」
「なんであたしが真ちゃんに殴られなくちゃならないのよ!」
「だよなー。梨沙は変な女だった。こいつのかわりにいつも殴られてたんだぜ」
「ばっかみたい」
「俺もそう思う。まあ、子守りとしちゃ役に立ったけどな」
「子守りなんて、あたしには無理だよ」
「わかった。おい智春! これからはおまえが悪いことしたら、ちゃんとおまえが罰を受けろよ!」
パン! という音とともに智春は倒れた。頬に衝撃はあったが、痛みは感じなかった。
「ちゃんと掃除しとけよ。気分悪いから、外で飲み直そうぜ」
真司は上着を持って出ていった。美知佳はキッチンから雑巾を何枚か持ってくると、智春の目の前に置いた。
「あとはよろしくー。じゃあねー」
そう言って真司のあとを追いかけた。
床に転がりながら智春はぼう然としていた。
不思議と涙は出てこない。じんじんとしびれて感覚のない頬に手をやり、なぜか梨沙の言葉を思いだしていた。
『おとうさんの前では、怒ったりにらんだりしちゃだめよ。あの人は自分のことだけが可愛いの。トモちゃんが泣いたりわがままを言ったりしたら、きっとキレるから。そうしたら、なにをされるかわからない。でも、おかあさんの前ではなにをしてもいいのよ。怒っても泣いても……本当のトモちゃんを見せていいんだからね』
だから智春は真司の前では感情を読まれないように、顔の表情をできるだけ変えないようにと、普段から心がけていた。そして真司の機嫌が悪いときは、梨沙が智春を守ってくれた。
だがその梨沙はもういない。
智春はゆっくりと親指を口にふくんだ。無性に梨沙が恋しくなった。
4
窓とカーテンがあけ放たれた明るいリビングに、軽快なメロディがくりかえし流れていた。テレビの画面上ではスタートボタンが点滅している。
智春はコントローラーを持ったまま、ぼんやりと座っていた。
ふいに壁にあるインターホンが鳴った。
体がびくっと震える。
得体のしれないものを見るようにこわごわとインターホンのほうを向いたが、智春は動こうとはしなかった。
やがて玄関のドアがあく音がした。
「トモー、いるー?」
その声を聞いてほっとする。
リビングに現れたのは美知佳の弟の亮二だった。
短髪を金色に染めて、耳にはピアス、よれよれのジーンズにTシャツ姿だ。
「はよー」
この姉弟はあまり似ていない。美知佳は目鼻立ちがはっきりして、化粧映えのする派手な顔だ。しかし弟のほうは髪色こそゴールドだが、ほっそりとした顔立ちはごく平凡だ。黒髪で大学生の集団に紛れたら、おそらく見つけるのに苦労するだろう。
「なんだよ朝からゲームかよ。のん気だなあ。用意はできてるか?」
「うん」
立ち上がって、脇に置いてあったキルティングの手さげ袋を手に取り、亮二に渡す。
「保険証と診察券と……」
カバンの中身を確認していく。
「おし。じゃあいくか。そらよ」
亮二は背中を向けると、智春の前でしゃがみこんだ。
「いいよ。もうちゃんと歩けるから」
「そうか。じゃあ、ほら」
差しだされた手を見て、智春は戸惑った。
大きい手だ。真司と同じくらい、大きな手だ。
「……いいよ。だいじょうぶだから」
「ふーん。まあいいけど」
亮二は気にすることもなく、そのまま智春を車に乗せて病院へと向かった。
いまのところ通院は月に一度のペースだ。検査結果がよければ、三か月や半年に一回の通院になるだろうと医者は言っていた。
送迎は亮二の担当だった。
『姉ちゃんから頼まれたんだ。ちゃんとバイト代ももらってるから、遠慮しないでなんでも言えよ』
言葉をそのまま素直に受け取ることもできずに、智春はしばらくのあいだ用心していた。
『俺、いま浪人中。こう見えて、医者を目指してんだよね。頭悪そうに見える? そう、頭悪いんだよ。だから裏口から入ろうと思って、金ためてる最中』
嘘や冗談ともつかないことを一人でしゃべりまくる亮二に、智春はようやく安堵した。
すくなくとも彼は敵ではないということがわかったから。
午前中いっぱいかかった検査を終えてようやく解放されると、亮二は思いきり伸びをした。
「あーやっと終わったか。体力がないと病院にも通えないよなあ」
検査を受けている智春より、ひたすら待たされる亮二のほうが疲れた顔をしていた。
「さあー、昼ごはん食いにいこうぜ。トモはなにが食いたい?」
「特にないよ。亮二さんの好きなものでいいんじゃない」
「……おまえなあ、そんな他人事みたいに『いいんじゃない』なんて、大人びた口聞いてんじゃねえよ。まだちっちぇガキのくせして。生意気なこと言ってっと、激辛ラーメンにするぞ!」
「いいよ、それでも」
「言ったなあ。よし、覚悟しろよ。泣いてもしらねえからな!」
国道沿いに、赤いノボリに〈激辛〉と銘打ったラーメン屋があった。亮二はそこの駐車場に車を入れた。
「本当にいいのか? やめるならいまだぞ」
「いいよ」
「いいのかよ。強情だな。辛いぞ。泣くぞ。本当に入るからな」
亮二は念を押す。
智春は大きくうなずきかえした。
そこはカウンターだけの店だった。行列はできていないが、席は七割くらい埋まっている。
「ほら、ここ座れ」
食券を買い終わった亮二が、智春をイスに座らせた。
店員に食券を渡す。
智春はめずらしそうに店内を見まわした。カウンターだけの、ちゃんとしたラーメン屋に入るのははじめてだった。ラーメンを食べにいったことはあるが、それはいつも商店街にある中華料理屋だった。
「はい、おまち」
出されたラーメンを見て、智春は意外そうな表情になる。
「……ちっとも辛そうじゃないよ」
テレビで見た〈激辛〉とつく食べ物は例外なく赤い色をしていた。だが目の前にあるラーメンは薄いしょうゆ色だ。
「あたりまえだろ。普通のチャーシューメンだからな」
亮二のラーメンも同じものだ。
くりくりとよく動く目で智春が亮二を見つめる。
「なんで?」
「子どもに激辛なんて食わせられるかよ。それに――俺は辛いのがダメなの! 激辛なんか絶対ムリ!」
知らずに智春の頬がゆるんだ。
こんなに心が軽くなったのは、退院してからはじめてのことだった。
退院してからしばらくのあいだ、智春は真司の言いつけどおりにマンションから一歩も出ることはなかった。
外に出たくなると、智春はベランダで風にあたりながら遠くをながめた。
立ち並ぶビルと行きかう車しか見えなかったが、なぜか心が落ち着いた。でも穏やかな気持ちになっても、さびしさはつのっていった。
あのビルにはどのくらいの人間が入っているのだろう。
車に乗っている人たちには行き先があって、みんなどこかに向かって走り去っていく。
ぼくはここにこうしてずっといるのに、だれも気づいてくれない――そんなことをとめどなく考えていた。
そして毎日すこしずつ気温が上がっていき、いつの間にか汗ばむ季節になった。
季節はとどまることを知らず変わっていくのに、智春だけはなにも変わらない。どこにもいけないままだった。
ぼくは一人だ。
取り残された物悲しい気持ちはますます強くなっていった。
以前と同じように、ここでも真司はあまり帰ってこなかった。美知佳も仕事があるといって帰ってこない。たまに帰ってきても智春と話をしようなどとは思わないらしく、部屋に閉じこもって寝てしまうか、服を着替えてすぐに出ていくかのどちらかだった。
そのうち美知佳はテーブルの上にお金を置くようになった。
「ねえ、ご飯なんだけどさ――いちいち買いにいったりするのが大変なのよ。だから、自分で好きなのを買ってきて食べてくれない? これでたりるでしょ」
智春は黙ってうなずいた。
それからは日に一度、コンビニにいくようになった。
惣菜もパンもおにぎりもお弁当も、どれもこれも特に食べたいと思うものはなかった。仕方がないので、端から順番に買っていくことにした。
なにを食べてもおいしいとは思わない。
時計を見て、時間になると食べ物を口に入れる。そんなことをくりかえして智春の一日は過ぎていく。
チャーシューを口に入れると、お腹がぐうと鳴った。
「なんだ、そんなに腹がへってたのか」
智春はお腹を押さえる。
「わかんない……」
「……おまえ、ちゃんと食べてるのか」
「うん。食べてるよ」
「やせっぽちだもんな。ちゃんと食わないと成長できないぞ」
麺にふうふうと息を吹きかけ、じゅうぶんに冷ましてからすすった。
「おいしい……」
食べ物をおいしいと思ったのは久しぶりだった。
「あちっ」
レンゲにスープを入れて飲もうとしたが、熱くてあわてて離す。
「気をつけろよ。火傷しちゃうぞ。ゆっくり食べていいんだからな」
「うん」
汗だくになりながらラーメンを食べ終えると、上気した顔を亮二に向ける。
「おいしかった!」
「そりゃよかった。……じゃあ、いくか」
「うん」
智春の足取りが軽くなったのを見て、亮二は笑みをもらした。
5
車に乗りこみながら、亮二が何気なく話しかけてくる。
「おまえのそんな顔、はじめて見たよ。……おまえさ、あの父親にちゃんと面倒を見てもらってんのか」
顔が、一瞬にしてこわばった。
「だよなー。……なあ、おまえ真司のこと好きか」
正直に言おうかどうしようか迷った。
「……あのさ、おまえにだから言うけど、俺ね、真司のことが嫌いなんだよ」
驚いたような表情のまま固まった智春を見て、亮二は苦笑いをする。
「じゃあさ、俺のことは、その……ちょっとは好きか」
こくりとうなずく。
「そうか、うん、よかった。……俺の姉ちゃんはさ、男運がないっていうかダメ男が好きっていうか、まあいつも変な男とつきあっちゃうんだけどね。でもいつも、そう長くは続かないんだ。だから、姉ちゃんが真司と別れたら、……俺はもうおまえに会いにいく理由がなくなるんだよな」
「……会えなくなるの?」
「うん。だって俺、バイトだもん」
鼓動が激しくなった。また置いていかれてしまう、一人になってしまうという不安が胸に広がる。
あからさまに肩を落として、智春はうつむいた。
「トモ――こっち向いて」
顔を上げると、亮二のまっすぐな目とぶつかった。
「俺はトモのことを気に入ってる。これきりにしたくないんだ。――だから、俺たちは友だちにならないか? そうしたら、姉ちゃんたちのこととは関係なくいつでも会える。バイトじゃなくて友だちだからな。どうだ?」
智春の目が大きく見ひらかれる。
「友だち?」
「いやか」
ぶんぶんと首をふる。
「よし! じゃあ俺たちはいまから友だちだ」
亮二が目の前にこぶしを突きだすと、智春は自分のこぶしをそれに合わせた。
顔を見合わせて、にっと笑う。
「じゃあ、願いごと言ってみな」
「願いごと?」
智春はきょとんとした。
「友だちは、友だちの願いごとを叶えるためにいるんだぜ」
「そうなの? 知らなかった」
「さては、おまえ友だちいなかったな。無口だもんな」
「……うん。友だちいなかったかも」
「気にすんなよ。友だちなんて、つくろうと思えばいつでもつくれるんだからな」
「うん。……あのさ、願いごとって、なんでもいいの」
「いいよ。……おまえさ、俺に会うたびに言おうかどうしようかって、なんか迷ってなかった? 俺になんか言いたいことがあるんじゃないのか。それとも、頼みごととか。言ってみろよ。友だちになったんだから、もう心配とか遠慮なんてしなくてもだいじょうぶだからさ」
願いごとならたったひとつ。
でもそれを亮二に言っていいものか。会ったのは今日で五回目だ。亮二のことはよく知らない。でも友だちになってくれたのだから、きっと味方になってくれるのだろう。それに、こんなふうに智春の願いを聞いてくれる大人なんて亮二のほかにはだれもいない。
言ってもいいのかな。
だけど、本当に言ってもいいのなら――。
思いきって顔を上げると、智春ははっきりと声にした。
「おかあさんに会いたい」
亮二が目をまたたいた。
「は? おかあさんって、亡くなった梨沙さんっていう人?」
「うん」
「えー……っと」
亮二は頭をかきながら横を向く。かなり困っているようだった。
「……そうきたか。いや、俺はイタコじゃないし、降霊術もできないし」
「イタコってなに?」
「死んだ人の霊を口寄せするんだよ」
口寄せがなんなのかはわからない。でも亮二が困っていたので、それ以上聞くことはしなかった。
「そうだよなー、母親に会いたいって思うのは、子どもにとってあたりまえのことだよな。でもどうしたらいいんだ。錬金術か? いやダメだ。バカな俺にはわからねえ」
亮二が頭をかかえた。
どうやら亮二は、なにか勘違いをしているようだ。
「違うよ」
「え? なにが」
「おかあさんが死んじゃったことはちゃんとわかってる。もう一生会えないのもわかってるよ。ぼくは、おかあさんのお墓にいきたいんだ」
「お墓……なんだ、そういうことか。あーびっくりした。危なく禁忌の術に頼るところだったぜ」
亮二がほっとしたように言った。
「……そうか、トモは入院してたから葬式にも出てないんだよな」
智春はうなずく。
「おとうさんに言っても、連れてってくれるかわかんないから」
「なるほど」
機嫌のいいときの真司に言ったとしても、外に連れ出してくれる可能性は低い。だったら亮二のほうがまだ実現する見込みはあるだろう。
「で、場所は?」
「知らない」
「はあ? なんで」
「お墓参りなんて、いったことないもん」
「あー、今度はそうきましたか」
亮二は腕を組んで目を閉じた。
「んーと、……じゃあ、しょうがない。俺が真司に聞くしかないか」
「だいじょうぶ?」
「変に細工するより、直球で勝負したほうが早いと思うんだ。……そんな心配そうな顔すんなよ。俺はそんなに頼りないか」
智春は首をふる。
「とりあえず、家に帰って作戦会議だ」
亮二はエンジンをかけ、車を出した。
しかし、残念ながら作戦会議は失敗に終わった。というより、できなかったのだ。
「ただいまー」
だれもいないはずの部屋に亮二が声をかけると「おかえりー」と返事がかえってきた。
「うぇ?」
二人は一瞬顔を見合わせてからリビングにいく。
ソファにくつろいで、真司がテレビを見ていた。
「これはまた、ゆっくりとしたお帰りで」
「あ……真司さん、いたんすね」
「そりゃ、自分の家だかんな」
亮二は後ろにいる智春を気にしていた。
先ほどまでの顔つきとはまるで違っている。心なしか青ざめてもいるようだ。
意を決して亮二が言う。
「あのー、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「なあに」
真司はおどけて手を広げた。
「梨沙さんのお墓。……もうすぐお盆だし、こいつを連れてってやりたいんですよ、お墓参りに。いいですかね」
「なんできみが? ……智春に頼まれた、とか」
真司が目を細める。
「ち、違いますよ。こいつは無口で、ほとんどしゃべんないから。それに、事故のことも、たぶんまだこいつのなかで決着がついてないんじゃないかなーって思うんですよ。母親は天国にいったんだってこと、ちゃんとわからせないと、前に進めないって思うから」
「優しいんだね、亮二くんはー」
テーブルの上にあったウィスキー瓶の残りを見て、どうやら真司は酔って機嫌がいいようだと亮二は判断した。
さりげなく情報を引きだそうとする。
「で、お墓のある場所ってどこなんすか」
「あいつの実家の近く」
「梨沙さんの実家? あれ? 真司さんちの墓じゃないんですか」
「なんで俺んちなの」
「いやだって、普通はダンナの実家の墓に入るもんでしょう」
「違うよ。だって俺たち籍入れてねーもん」
「マジで? 子どもいるのに」
「そりゃそうだろ。智春は梨沙が産んだわけじゃないからな」
亮二が息をのんだ。なにか言おうとしてためらい、結局そのまま口をひらくことはなかった。
「墓はそんなに遠くないよ。X市からちょっと山んなか入ったところ。照山寺っていう寺がある。そこの墓地だよ」
「照山寺ですね。じゃあ俺が――」
「その必要はないかな」
「え?」
真司はポケットから鍵を取りだした。
「知り合いに借りたんだ。別荘っていうか、別宅の鍵だって。なんか海外旅行にいくから、お盆のあいだ俺に貸してくれるんだってさ。ぜひ俺にいってほしいみたいよ」
「別荘? 別宅?」
「そう。一人でのんびりしようと思ってたんだけどね。そいつにも一人でいってこいって念を押されたから。でも、そういうことなら、美知佳と智春も連れていくよ」
「トモと姉ちゃんを」
「そうだよ。まあラッキーなことに、照山寺はその別宅から歩いていける距離にあるんだよ」
「へ、へえぇ。なんだ……そうだったんですね」
すこしがっかりしたように言って、亮二は背中越しに智春を見る。
智春はうつむいたまま静かにそこにいた。
「……よかったな、トモ」
声をかけられ顔を上げる。その悲しそうな目を見たとたん、亮二ははっとした。
「あの――俺も一緒にいっちゃいけませんか」
「はあ? 悪いけど、それはカンベンして」
「ですよね……」
あっさりと断られ、ため息をついた亮二の後ろから小さな声が聞こえた。
「……だいじょうぶだから……ありがとう」
亮二は唇を引き結んで天井を見た。残念だけどもうここに残る理由がなくなってしまった。
勢いよくしゃがみこんで、智春と目線を合わせる。
「じゃあ、またな」
そして小声でつけくわえる。
「友だちだからな」
智春は力強くうなずいた。
「じゃ真司さん、俺帰ります」
「ああ、ご苦労様」
ソファに寝転がった真司がだるそうに答えた。
6
用事があるから先にいっててくれ、と真司に言われ、美知佳はしぶしぶと承諾した。
智春を連れて目的地の最寄り駅まで電車でいき、そこからはタクシーに乗りこんだ。
タクシーはくねくねとした山道を延々と走っていたが、到着した場所は山のなかとは思えないほどひらけた場所だった。
道の両脇に並ぶ家はどれも敷地が広くとってあり、まるでどこかの外国や観光地にでも来たかのような雰囲気だった。
タクシーをおりると、サングラスをずらして、驚いたように美知佳があたりを見まわした。
「へえー、知らなかったなー。山のなかに、こーんな別荘地があったんだ」
「いらっしゃいませ」
いきなり二人の後ろから声がかかった。
「だれよ! いつの間に……」
背広を着た見知らぬ男が、背筋をぴんとのばして立っていた。
美知佳が驚いたのも無理はない。タクシーをおりたとき、まわりにはだれもいなかったし、近くに人が隠れるような場所もなかった。声をかけた人物は、この場にこつ然と現れたのだ。
「はじめまして。私は大橋と申します。この家の管理を任されております。こちらの持ち主のかたからご連絡をいただきまして、お待ちしておりました」
智春は背の高い男を無言で見上げていた。
「ですが――」
首をかしげながら、男は美知佳と智春を交互に見る。
「うかがっていたのは、男性お一人様とのことだったのですが」
「……ああ、それならその予定だったけど、あたしとこの子も来ることになったのよ。ずいぶん広そうな家だし、二人増えたからってどうってことないでしょう。なんか問題でもあるの?」
大橋は困ったように眉根をよせて、智春を見た。
「お子さまはちょっと……」
「なんで」
「ええ、まあ。この時期に限ってのことなんですが。お子さまには向かないかと」
「でもさ、このあたりって子どもが喜びそうな田舎じゃない。夏休み中の子どもとかがいっぱいいるんじゃないの」
「いえ、それは一般的な田舎ならそうでしょうけど、ここは違うんです。お盆の時期はお子さまにとって、とても危険な場所なんですよ」
「危険? どういうこと」
「風土病といいますか、まあインフルエンザのような病気が流行るんです。ですからご遠慮いただいておりますが」
「やだー、それならあたしだってそんなに丈夫なほうじゃないのよね。去年もインフルエンザにかかっちゃったし」
「いえいえ、成人のかたはなんの問題もございません。あくまでもお子さまに限って、ということになります」
美知佳は小さく舌打ちをする。
「……でもねえ、この子を一人で帰らせるわけにはいかないし」
「もしよろしければ、わたくしどもの託児サービスがございますが」
「託児? なによそれ」
「見たところ、こちらのお子さまは小学一年か二年くらいですよね」
「そう。一年生」
「それですと、サマースクールみたいなものがよろしいと思いますが」
「サマースクールねえ」
「はい。まあ自然とふれあいながら、ちょっとしたお勉強もできるというカリキュラムになります。夏休みの宿題にももってこいかと」
美知佳は脇にいる智春をちらりと見て、考えるような素振りをした。
「……ねえ、それっていくら?」
「無料サービスでございます。本日はこのままこの家にお泊りいただいて、明日の午後、タクシーでお迎えにあがります。明日から三日間こちらでお預かりして、四日目にはご自宅のほうへお送りいたしますが」
「あら、いいわね。じゃあそれお願い」
それを聞いて智春はあわてた。
「お墓は?」
「今日いけばいいじゃない」
智春は大橋を見上げて聞く。
「照山寺にいきたいんだけど」
「照山寺? どういうご用があるんですか」
「お墓参り」
「そうですか。照山寺は、まずこの道をまっすぐいきます。そうすると小学校があるんですが、その学校の裏山にあるんですよ。そうですねえ、子どもの足だと一時間以上かかりますね。いまからいくのは非常に危険です。帰りが遅くなる。どうでしょう、明日の朝、出かけてみては?」
「そうしなさいよ。朝出れば午後には戻ってこられるでしょ」
智春は大きな目でじっと大橋を見つめていた。
なんか、この人……ヘンだ。
どこがどう変なのかはわからなかったが、なにかが違っていると感じた。
大橋はその視線をしっかりと受け止めていた。口の端だけで笑みをつくり、軽くうなずいた。
「……わかるんですね」
その口調には非難はまじっていなかったので、智春はほっとした。
ヘンだけど、たぶんこの人は敵じゃない。味方かどうかはわからないけど……。
「なにかございましたら、こちらにご連絡を」
大橋は美知佳に名刺を渡した。
そして腰をかがめて智春に念を押す。
「明日の午後二時にタクシーが迎えにきます。それに乗ってください。いいですか、必ずですよ」
智春はうなずいた。
さっそく家に入り、美知佳と一緒になかを見てまわった。
玄関を入るとすぐに広いリビングがある。リビングからはサンデッキに出られるようになっていた。デッキにはパラソル付きのテーブルやイスが置いてある。
「すごーい! バーベキューができるじゃない!」
デッキから美知佳の明るい声がする。
泊りがけでどこかにいくなんて、智春は生まれてはじめての経験だった。もしかしたら美知佳も、真司と旅行するのはこれが初めてなのかもしれない。はしゃいでいる美知佳を、智春はリビングから静かに見ていた。
二階のベッドルームは大小取りまぜて四部屋ほどあった。
「あたしたちは一番大きな部屋を使うから、あなたは好きなところを使っていいわよ」
部屋なんてどこでもよかった。だから適当に、階段から一番近くにある小さな部屋を選んで、智春は自分の荷物を置きにいった。
次の日の朝、智春は出かける支度をしてリビングにおりた。
美知佳はまだ部屋から出てこない。きっと寝ているのだろう。
テーブルの上に置いてあったビニール袋に、菓子パンがたくさん入っていたのでそれを食べた。冷蔵庫をあけると牛乳があったのでそれも飲む。
そっと二階に戻り、美知佳の部屋の前で耳をすませたが、起きてくる気配はなかった。
智春はそのまま玄関に向かう。
靴をはいて静かにドアをあけて外に出た。
あまりのまぶしさにとっさに目をつぶった。空気はすがすがしいのに、日差しがかなりきつい。
空を見上げる。
広くて高い空だ。
こんな空を見たのはいつ以来のことだろう。もうすっかり忘れてしまっている。
目の前の道を見た。まっすぐに伸びている道。体がうずうずした。
智春はいきなり走りだした。
走るのは久しぶりだったので、すぐにばてた。そのあとは歩いたり走ったりをくりかえしながら、小学校には十分足らずで到着した。
息があがって、校門の前で座りこんでしまう。
いまは夏休みのはずなのに校門があいていた。すこし休んでから立ち上がると、智春はそのまま吸いこまれるようにふらふらと、なかへ入りこんだ。
校庭を横切って校舎に向かう。
校舎の入り口の扉は閉ざされていた。教室の窓も全部閉まっている。人の気配は感じられなかった。
夏休みだから……やっぱりだれもいないよね。
引きかえそうとふりむくと、智春のすぐ後ろに男の子が立っていた。
「わあ!」
悲鳴をあげて、後ずさる。
男の子は顔をしかめた。
「だれ? なに?」
問いには答えず、じっと智春を見ている。
「あの……ぼくもう帰るから」
気味が悪くなり、男の子をよけるようにしてすばやく歩きだす。
「……おまえ、なにしにきた」
すれ違いざまに、男の子がたずねた。
立ちどまって、あらためて男の子の顔を見る。よく見ると同じくらいの年恰好だった。
警戒心がすこし薄れる。
「ぼく、お墓参りに……あの、この小学校の裏山にお寺があるって……ごめん、門があいてたから、入っちゃったんだ」
しどろもどろに答える。
「帰れ」
「え、うん。もう帰るから……」
「そうじゃなくて。いますぐに、この街から出ていけ」
「それは……えーと、お墓参りしたら、午後にタクシーが来てくれることになってるから」
「ダメだ。いますぐだ」
智春は首をかしげる。
「どうして? 病気のことなら聞いたよ。子どもはうつるから危険だって。だから今日中にほかにいくよ」
「違う。そうじゃなくて……おまえの……が……そう言って……」
だんだんと声が小さくなっていく。
「なに?」
男の子は唇をかんだ。そして智春をキッとにらみつける。
「わかったよ。しょうがないな。じゃあ寺にはおれが連れてってやる」
「えっ、いいの!」
声が弾んだ。
男の子は意外そうな顔になる。
「……おまえ、うれしいのか」
「うん」
智春はにっこりした。
7
子どもとしゃべるのは久しぶりだった。
「一緒にいってくれてありがとう」
智春はもともと人見知りをしない社交的な性格だ。だれとでも、それこそ知らない人とでも、気後れすることなく話をする。そういうところが心配らしく、梨沙にはよく注意された。
『知らない人に自分から声をかけちゃだめよ。怖い人に連れていかれちゃうかもしれないから。トモちゃんは可愛いんだから気をつけてね』
でも相手は子どもだ。そんなに心配することはないだろう。それに道案内をしてもらえば、迷うことなくちゃんとお墓にいって、帰ってこられる。
「ねえ、お寺まではけっこう歩く? 山道だよね。あのさ、きみはこの小学校に通ってるの? 夏休みだから建物のなかには入れないんだよね。残念だなあ、ぼく、なかを見たかったんだけど」
気兼ねなく話せる相手に出会えてテンションがあがり、智春の口がなめらかになる。
「……おまえさ、……いや、いいや。時間がない。いこう。こっちだ、ついてこい」
ぶっきらぼうにそう言う男の子について、小走りに校舎の裏手にまわりこむ。そして学校の敷地をぐるりと囲うフェンス沿いに歩いた。しばらくいくと、フェンスがずれて、子どもが通りぬけられるほどのすきまがあいているところがあった。
「ここから、山に入るんだ」
男の子は器用に体をすべりこませ、フェンスのすきまをサッとくぐり抜けた。
「こいよ」
「うん」
見よう見まねでどうにかフェンスの向こう側にいき、その先に広がるうっそうと茂る木々の暗い景色を見たとたん、智春の足が止まった。
なんだろう。ここはなんか違う。
「怖いか」
「……うん」
正直に答えた。
全身がぞくぞくする。
ふりむくと、夏の日差しを浴びた校舎が明るく輝いていた。でも山に目を戻すと、そこはひんやりとした暗い空気がただよっている。
フェンスを境に、まるで違う世界が隣りあっているようだった。
「帰るか」
智春は首をふった。
「いくよ。どうしてもお墓参りにいきたいんだ」
「ふーん、べつにいいけど。おまえ……すこしはわかるみたいだから言っとくけど、この山はほかと違うんだからな。絶対におれから離れるなよ」
「わかった」
木々の間をぬって奥へと進む。
急斜面ではなかったが、けものみちすらなかった。見えない道を辿るように、男の子はずんずん進む。目印などなにもないはずだ。あるとしても、智春にはわからなかった。ここではぐれたら一生帰れないと直感した。
男の子の背中を追いかけることだけに集中して、夢中で歩く。
どのくらい歩いただろうか。
ふいに男の子がふりむいて、手を差しだしてくる。
「登ってこい」
ためらうことなくその手を取ると、男の子は智春を引っぱりあげた。
目の前がいきなりひらけた。
切り立った崖のような場所に出る。
青い空。連なる緑の山々。眼下には先ほどの小学校が見えた。
「すごい!」
「街の全部は見えないけどな。けっこういい景色だろ」
「高いなあ」
「おれはこの場所が気に入ってるんだ」
「ぼく、山に登ったのなんてはじめてだ」
「そうなのか」
「うん」
「おまえ、体はなんともないか」
「うん、平気。どうして?」
答えずに、男の子は急に鼻をひくつかせて空を見た。
「早くいこう。雨になる」
「えっ、天気いいじゃん」
「降るよ」
智春は天をあおぐ。青一色の見事な晴天だ。
「……そうなの?」
「墓なら、こっちだ」
いきなり走りだした男の子を反射的に追いかける。
二人は境内の裏手にある林のなかから出てきた。
お墓は本堂の右手側にあった。山の斜面を利用して、段々畑のように墓石が並んでいる。
「名前は」
「ぼく? さくらいともはる」
「おまえのじゃないよ。お墓の」
「ああそっか」
そこではたと気づいた。
おかあさんの名前はなんだっけ?
「……梨沙……」
「苗字だよ」
「……それが……おとうさんと結婚してなかったみたいだから……」
梨沙とは籍を入れていないと真司は言っていた。ということは、当然苗字が違うことになる。
どうしよう、せっかくきたのに。
今日を逃したら、もう二度とここへは来られないかもしれない。
「……わかんない」
「しょうがないな。ちょっと待ってな」
いまにも泣きそうな顔をしている智春をそこに残して、男の子は墓石を見てまわった。しばらくすると「こっちだ」と、声がした。
「ほら、ここだ」
墓石の横にべつの平たい石が置いてあり、そこに名前が刻まれていた。
「梨沙って名前はこれだけだ」
「すごい! よくわかったね」
尊敬のまなざしを向けたが、男の子は急に目をそらし、「ちょっとおれ、散歩してくるから」と小声で言って、そそくさと離れていった。
一人になった智春は、しばらくのあいだ、そこにじっと佇んでいた。
ここに梨沙が眠っているとわかっても実感がもてなかった。
しかもお墓参りはどうすればいいのかなんて知らない。智春にはだれも教えてくれなかった。
「……おかあさん」
墓石に向かって呼びかけてみる。
「おかあさん……」
事故以来、はじめてちゃんと口に出して呼んでみた。
「おかあさん……おかあさん……」
死んでしまうというのはどういうことなんだろう。
わからないことだらけだった。
智春が聞いたのは〈梨沙は死んだ〉という事実だけだ。事実以外のことを大人はだれも口にしなかった。
死ぬということがどういうことなのか、いなくなるということ以外に、もしかしてなにか、そこにはべつのなにかがあるんじゃないのか。お墓にくればひょっとしてその答えがわかるんじゃないかと、智春は思っていた。
ここにくれば梨沙とまたつながれるような、そんな淡い期待すらすこしはあったのに。
けれど、目の前にある墓石はなにも語らない。
どこにいても結局、智春は一人きりだった。
「おかあさん……」
世界中のどこを探してももうどこにもいない。二度と抱きしめてもらえない。
それだけが揺るぎない事実。
涙がほろりとこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん……なさい……」
しゃくりあげながら、ひたすら謝り続けた。謝ることしかできなかった。ほかにどうしていいのかわからない。ただ悲しかった。本当はずっと悲しかったが、悲しんでいいのかもわからなかった。心がいくら悲鳴をあげても、丸くなってじっとこらえてきた。
真司が『忘れろ』と言ったら忘れなければならない。それが絶対的なルールだから。ルールを外れれば罰が待っている。
痛かった。体よりもずっと、胸の奥のほうが痛かった。
梨沙がいなくなってから、智春ははじめてその恐怖に気がついた。
「……守ってくれた……痛いのに……ぼくのかわりに……」
生きてるうちにありがとうをたくさん言えばよかった、と智春は後悔した。
「……ごめんなさい……」
それ以外の言葉は、やはりどうしても見つけられなかった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
ちょうど涙がかわいたころ、「……ちょっといいか」と遠慮がちな声が聞こえた。
「……うん」
真っ赤になった目を向ける。見たくないものを見たように、男の子ははっとして顔をそむけた。
「……もうすぐ昼になる」
「えっ、もうそんな時間」
「そう。迎えのタクシーは何時だ」
「二時って言ってた」
「じゃあそろそろ戻らないと間に合わないな。おりるほうが神経使うし、時間がかかるんだ。もういいか」
「うん……」
「じゃあいくぞ」
智春はふりむいて墓石を見る。
さようなら――。
今度はいつ来られるかわからない。
「さようなら」
別れの言葉を口にする。
そして智春は男の子の背中を追いかけて走りだした。
帰り道もどこをどうやって通ってきたのか、さっぱりわからなかった。それでも約束どおりに小学校まで送ってもらい、智春はほっとした。
「ぼく一人だったらきっと迷子になってた」
「そうだな」
「ありがとう」
「なあおまえ、ちゃんとこの街から出ていけよ」
それだけ言うと、男の子は素っ気なくきびすをかえした。
「うん。本当にありがとう」
男の子の後ろ姿が小さくなるまで見送ってから、智春は朝来た道を引きかえした。
玄関のドアをあけると、美知佳の怒鳴り声が聞こえた。思わず身をすくめたが、一向に姿を現さない。どうやら矛先は智春ではないらしい。
そっとリビングをのぞく。
「――信じられない! うそでしょ、もういいわよ! こっちにも考えがあるんだから!」
荒々しく電話を切って、髪の毛をかき乱す。
「もう! バカバカバカバカ!」
その場で地団駄を踏む。
そしてぶつぶつ言いながら、カバンに荷物をつめこみはじめた。
「……ただいま」
智春に気づいた美知佳は、唇の片側を上げて薄く笑った。
「あんたのおとうさんって最低ね。これ絶対、女だわ。あんたをあたしに預けて、自分は他の女と遊んでるのよ! もう信じらんない」
家の前にタクシーの止まる音がして、クラクションが聞こえた。どうやら迎えがきたらしい。
美知佳はカバンを持ったまま智春を見すえた。
「ちょうどいいわ。あのタクシーで帰ることにするから。食料とかは買ってあるから、一人でもだいじょうぶよね? 出歩かなければ病気がうつることもないと思うし。もし病気になったら、真司を恨みなさいよ。じゃあね」
美知佳がタクシーに乗るところを、智春は家のなかから見ていた。最初のうちはなにやら運転手ともめていたようだったが、美知佳は強引に車に乗りこんでしまった。しばらくすると、観念したようにタクシーはゆっくりと走りだした。
あーあ、いっちゃった。
一人には慣れている。べつにかまわない。美知佳といるよりは気楽だった。
智春はキッチンにいって冷凍食品や缶詰などの食料品の確認をしてから、裏庭に出てみた。
うーんと伸びをしてから、芝生に寝ころんだ。
マンションでは味わえない外の空気と地面の土の匂い。
久しぶりになんだかうきうきして、芝生の上をごろごろと転げまわった。
日差しはきついが、めまいがするほど暑くはない。心地よくてすぐに眠気に襲われる。
すくなくとも今日はもうだれにも、なんにも気遣うこともない。
気持ちも体も、羽がはえたようにふわふわしている。
このままずっと一人でここにいられたらいいのに。
そんなことをぼんやりと考えていたら、顔に冷たいものがあたった。
雨。
晴れているのに、空からぱらぱらと水が落ちてくる。
すごいや。
あの子が言ってたとおりに雨が降った。
あの子はいまごろどうしているだろう。智春が帰らなかったと知ったら、怒るだろうか。
気になって、お尻のあたりがむずむずしてきた。
勢いよく上半身を起こす。
いまから学校にいってみようか、とも思ったが、あれだけ『帰れ』と言われたあとではやはりばつが悪いのでやめた。
山の上から見た景色を思いだしながら、智春はいいことを思いついた。
ひとりでに顔がゆるむ。
あの子はぼくと友だちになってくれるかな。
このときばかりは無意識に楽しいことだけを考えていた。
お墓参りができたことで、智春の心に余裕が生まれたようだ。
梨沙が死んだのは自分のせいだと責め、ずっとうつうつとしていた。謝りたかったが、どうしたらいいのかがわからない。なけなしの頭で考えたのは、お墓の前で謝るということだった。それしか思い浮かばなかったし、いまの自分にできることはそれだけだとも思った。
その願いが叶って、すこしだけ肩の荷がおりた。心が軽くなったぶん、まわりのことに興味を持つことができた。同じ年ごろの子どもが気になったのはずいぶん久しぶりのことだった。
その日の夜、智春は梨沙がいたころのように、本当に安心してぐっすりと眠ることができた。
8
朝、すっきりと目覚めた智春はいきなり布団をはねのけた。
時計は八時。
智春はどうしようかと迷っていた。予定では今日、真司が来ることになっている。来たときに自分がいないのはまずい。本当はすぐにでも学校にいきたかった。あの子のことが気になっていた。あの子にまた会いたいと思った。でも真司の顔を思いだして慎重になる。
お昼までは家にいよう。
そう決めて、テレビをつける。
結果的にその判断は正解だった。
お昼を過ぎたころ、家の外にタクシーが止まった。
気づいて、智春はタクシーのところまで出ていった。ちょうど真司と美知佳がおりたところだった。
「よう智春。留守番ご苦労さん」
機嫌のいい真司の吐く息は酒臭かった。真司の腕にからみつくようにしていた美知佳も酔っているようだ。
「あたしの勘違い。女じゃなかったの。ごめんね、さびしかった?」
「お話し中すみません」
タクシーの運転手がおりてきて真司に話しかける。
「昨日お迎えにあがったのですが、お子さんをこちらでお預かりするということで話をうかがっているのですが」
「なんのこと?」
真司が眉間にしわをよせる。
「あ、それね。昨日ここの管理人っていう人に頼んだのよ。サマースクールみたいなのがあるんだって。無料だったし、なんかここ、子どもがかかるとヤバイ病気みたいのがあるんだって。だから、いいかなーって思って」
「おまえ、なに勝手なことしてんだよ」
美知佳をひとにらみして、真司は運転手に顔を向ける。
「あー悪いけど、それ、いいわ」
「えっ、やめるってことですか」
「うん、そう。こいつは手がかかるから、ここにいさせるよ」
「でも」
「べつに俺たちの勝手だろ」
運転手は腑に落ちないような顔つきになったが、反論はしなかった。
「んじゃあ、そういうことで」
真司は美知佳と連れ立って家に入りながら、後ろに怒鳴った。
「智春! 早く来い」
「仕方がないですね……かわいそうに」
運転手のつぶやきとため息が、背中越しに智春の耳にまで届いた。
それから丸二日間、智春は家から出なかった。
二人は買い物などに出かけていったが、智春は留守番をさせられていた。
せっかく遠くまで来たのに、昼間は部屋にこもりきりで、さらに真司や美知佳が常に家にいる状態ではさすがに息がつまった。
「……外に、いってもいい?」
真司の機嫌がよさそうだったので、三日目にそう聞いてみた。
「いいよ。あんまり人通りもないし、田舎だから車も通らないしな」
あっさりと外出の許可がおりた。
「えーいいの? 病気になったらどうするのよ。あたし、面倒見ないからねー」
不満顔の美知佳と視線が合い、智春は下を向く。
「病気って、インフルエンザみたいなもんだろ。ひどくなったら入院させりゃあいいよ」
「……まあ、それならいいけど」
「いってきます」
智春は急いだ。
いつ真司の気が変わるかもしれない。その前に家を出たかった。
いったん自分の部屋に手さげ袋と帽子を取りにいき、そのまま玄関から飛びだした。
照りつける太陽がまぶしかった。
あわてて帽子をかぶった。あたりには、さっきまでしていなかったセミの声が響いている。まさに夏休みという感じでわくわくした。
このあいだと同じように走ったり休んだりをくりかえしながら、小学校の校門までくると、膝に手をあてて乱れた息を整える。
いるかな?
顔を上げて校舎のほうを見たが、人影はない。がっかりしたとたん、
「おい」と、後ろから声がした。
ふりむいて、智春は笑顔になる。
反対に男の子は眉間にしわをよせ、険悪な表情をした。
「なんでおまえがいるんだ」
「だって、しょうがないよ。迎えにきたタクシーにはあのひとが乗ってっちゃったし、おとうさんがサマースクールを断ったんだ。ぼくのせいじゃないよ」
「おれは、おまえに出ていけって言ったんだぞ」
「だから、ぼくだってそのつもりだったよ。けど、ぼくにはどうすることもできなかったんだ」
「いいわけするなよ」
「……ねえ、そんなことよりさ、ほら、お菓子持ってきたんだ。一緒に食べようよ」
持っていた手さげから、たくさんのお菓子を出して見せる。男の子はあきれたようにため息をついた。
「おまえ、どうするんだよ」
「どうするって? べつにどうもしないけど。ねえ、遊ぼうよ」
「……無邪気だな」
「あのさ、学校のなか見たいんだけど、いいかな。入ってもいい?」
「……ああ、いいよ。どうせもう――」
男の子は途中で言葉を切り、智春の顔を見ながら、これみよがしにため息をついた。それから校舎に向かって歩きはじめる。
入口の扉に鍵はかかっていなかった。
興奮している智春には、建物のなかは別世界のように感じられた。
校舎はしんと静まりかえっていて、長い廊下のひんやりしている空気が心地よい。
近くの教室に入ってみる。
「わあ、教室って広いんだね」
「学校なんてどこもそんなに変わらないだろう」
「黒板、大きいね」
「べつに普通だと思うけど」
「机がたくさん並んでる」
そのはしゃぐ様子に、男の子は首をひねった。
「おまえさ――」
「あのね、ぼく、学校にいってないんだよ」
「なんで?」
「ぼくはいかなくてもいいんだって」
顔をしかめて、男の子は智春に近寄ってきた。
「ちょっとこっち向いて」
智春と向かい合うと、男の子は智春のシャツを勢いよくめくりあげた。
「あっ……」
やわらかい白い肌にはまだらな模様がついている。赤、紫、青、黄色――。
「……車に……あたって……」
声が震えた。
できたばかりのあざもある。事故の傷ばかりではないことは見ればわかることだった。
「そういうことか」
気まずくて男の子の顔が見られない。
うつむいたまま、智春は無言でシャツを元に戻した。
恥ずかしかった。隠しておきたい秘密をさらされたのに、どうしてか怒りたい気持ちはなかった。とにかく見られてしまったことが、とても恥ずかしくてたまらなかった。
「おまえは学校に通いたかったんだな。わかったよ。じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言って教室を出ていき、すぐに戻ってくる。
「これ、使えよ」
智春は目をみはった。
男の子が手にしているのは、新品の黒いランドセルだ。
「……なんで」
「学校に通いたいんだろ。この学校はタダでランドセルをもらえるんだ。だからこれはおまえのランドセルだ」
智春はおずおずと手をのばす。
「……もらっても、いいの?」
「ああ。重いぞ。教科書も入ってるからな」
手渡されたずっしりと重いランドセルをぎゅっと抱きしめる。
「すごい。本物だ」
「本物もニセモノもないよ。だけど、それはそうやって抱きしめるんじゃなくて、背負うもんだぞ」
「うん」
不器用に背中にもっていき、なんとか背負うと、智春は満面の笑みになる。
「ありがとう! うれしい」
「そうか。よかったな」
「……おかあさんにも、見せたかったな」
「おかあさんって、あのお墓の」
「そうだよ。あっ、そうだ。今日もこれからお墓参りにいっていいかな」
「だめだ」
「どうして」
「もうはじまってるから」
そう言って視線をさげると、男の子の長いまつげが目の下に暗い影を落とした。
「この街は特別なんだ。この時期にはあることが可能になるように仕組まれている」
男の子がなにを言ったのか、智春は理解ができなかった。
「……ごめん。わかんないよ」
「昔からずっと、ここは特別なのさ」
男の子はゆっくりと顔を上げ、天井をあおぐ。
「聞こえるか。外で鳴いてるあのセミの声」
「うん」
「セミが鳴きはじめたら、もうだれもこの街に入ってこられない。それだけじゃない。だれもここから出られない。だからおまえも、この街から出られない」
「そうなんだ」
どのみちどこにいたとしても、智春の生活が変わるとは思えなかった。
「べつにいいよ。ここにいても」
男の子の顔がゆがんだ。
「この街から出られない……それは最悪、死ぬってことなんだぞ」
「死ぬ……って、ぼくが死んじゃうの?」
あっさりとうなずかれて、智春は戸惑った。
この街にいると死んでしまうということだ。やはりなにか子どもがかかるとまずい病気のせいなのか。
「……病気になるの?」
「違う」
「じゃあどうして」
それには答えず、男の子は目を伏せる。
智春はため息をついた。
「……でもね……ぼくは、病院で事故のことを思いだしたとき、死んでもいいって思ったんだ。ぼくのせいでおかあさんが死んじゃった。きっとぼくは人殺しなんだと思う。だからぼくなんか――」
「違う!」
大きな声でさえぎられた。
「違うぞ! 梨沙って人が死んだのはおまえのせいじゃない」
思わずかっとなる。
「なんでわかるんだよ! おまえにわかるわけがないじゃないか!」
「わかるよ」
「うそだ! 知らないくせに! なんにも知らないくせに!」
二人はにらみあう。
「……丸顔でショートカット。唇の下にホクロ。髪の毛で左の頬を隠しているのは、そこに殴られたときにできた傷が残っているから」
智春はよろめいた。気を失うかと思ったが、なんとか持ちこたえた。
なんで? なんで、なんで……なんで知ってるんだ……。
「……見えるんだ」
口を半開きにしたまま、智春は後ずさる。
「……おれが怖いか」
そう言いながら、一歩近づいてくる。智春は後退する。
そのおびえた顔を、男の子は悲しそうな目で見ていた。
「……死ぬのは、もっと怖いぞ」
そのとおりなのだろう。体が暴力に耐えられなくなったらたぶん死ぬ――それは、ぼんやりとではあるが智春も感じていたことだ。死ぬのも怖いが日常もまた恐怖だ。永遠に続くように思えるつらい痛みにもいつかは終わりがくるはずだ。でもそれが、死ぬということかどうかはわからなかった。
「おまえは本当に死んでもいいのか――」
智春の意思なんて尊重されたことは一度もなかった。本人のあずかり知らぬところで、なにごとも勝手に決められていく。ただ流されるだけだ。子どもだから仕方がないとあきらめて、受け入れるしか道がなかった。そうやって一日一日をやり過ごしてきた。梨沙がいなくなってからはマンションの一室で。だれもいない部屋で。一人きりで、ずっと……。
「おまえは――死にたいか。生きたいか」
びっくりして、智春は目をみはる。
はじめてだった。目の前に選択肢が示されたのは。
急に膝ががくがく震えだし、尻もちをついた。
「おまえはどうしたい」
男の子が迫ってくる。
この子は人間じゃない! きっとお化けだ!
でも、ぼくは――お化けなら怖くない。
床にへたりこんだまま、智春は男の子の目を見すえた。
「……死んじゃうのは怖いよ……でも、それよりも、毎日が怖いんだ……どうしていいかわからないから。……おとうさんはぼくに『死ね』なんて言わない。けど、わかるんだ。いらない、って。いつぼくがいなくなってもかまわないって……わかるんだよ。おかあさんはぼくを守ってくれた。本当のおかあさんじゃないのに、守ってくれた。ぼくはちっとも気づかなかった。……痛いんだ……ものすごく痛いんだよ……だから謝りたかった……それでお墓参りにきたんだ。……ねえ、死んじゃうのはしょうがないことなんでしょ? だったらぼくは……もういいよ。死んだらおかあさんに会えるかもしれないし……」
「それが、おまえの本心だな」
智春はうなずいた。
「……じゃあ、今度は梨沙って人の本心を聞いてみろよ」
すうーっと身を引いて、男の子は智春から離れた。
すこし距離を置いた場所に立ち、両腕をだらんとたらした。一度、がくんと首が落ち、そこからゆっくりと顔が上がっていく。目つきが違っていた。雰囲気ががらりと変わっている。
口をひらき、ややあってからしゃべりはじめる。
「……トモ……ちゃん……」
……おかあさん?
「……トモちゃん……」
おかあさんなの?
心臓の脈打つ音が、耳のなかでうるさいほど響いた。
「……ごめんね。謝るのは……私のほうだよ……」
おかあさん? どうして……。
智春は無意識に立ち上がる。
そのまま吸い寄せられるように男の子のほうへと近づいていった。
「……死んじゃってごめんね……」
目の前にいるのはたしかにあの男の子だ。でもその口からは、梨沙の言葉が紡がれていく。
「……おかあさんなの?」
「トモちゃん……トモちゃんが無事でよかった……」
智春の顔が崩れた。
「……おかあさん!」
首にしがみつく。
「……泣かないでトモちゃん……」
「だってだって……ごめんなさい……」
「謝らないで……私は……だれよりもトモちゃんが好きだった……」
「……ごめんなさい……」
「……ねえ……私のお願い、聞いてくれる……」
智春はうなずいた。
「……死なないで……」
うなずいた。
「死んじゃだめよ……」
梨沙の声が小さくなる。
「……生きて……お願い……」
声はどんどん遠ざかっていく。
智春は何度もうなずいていた。
9
「……重いんだけど」
耳元で聞こえた声ではっとわれにかえる。
巻いていた腕をゆっくりとほどいていく。
男の子は智春から離れると、肩をこきこきさせた。
「……おかあさんは?」
あたりをきょろきょろと見まわしたが、この場には二人しかいなかった。
「いないよ」
姿は見えなかったが、あれはたしかに死んだ梨沙だった。死んだ人と話ができるなんて思ってもみなかった。そんなことができる人間なんて聞いたことがない。やはりこの子は人間にしか見えないが、人間ではないのだろう。
でも怖くはなかった。この子は智春に危害を加える気はないようだし、なにしろこのあいだから親切にしてもらっている。それに、年恰好が同じくらいに見えるからだろうか、どちらかというと親しみを感じていた。
「おかあさんは、生きろって言った。死んじゃだめって」
「そうだな」
「ぼく、生きられるの?」
「おまえ次第かな」
「ねえ、助けてよ」
「おれが?」
「うん。このあいだも助けてくれたでしょ」
智春は真剣なまなざしを向ける。
「どうでもいいって思ってたらぼくのことなんか放っておいたよね? でも『帰れ』って言ってくれた。それからランドセルもくれた。ぼくが死んじゃったらかわいそうって思ってくれたんでしょ」
男の子は気まずそうに、ふいと横を向く。
「……おまえを見たとき、あの梨沙って人が見えた。必死だったんだよ。早くこの街を出ろっておまえに言ってた」
「だから、伝えてくれたんだね。ありがとう」
「お礼を言われる筋合いはないよ」
「そう? でもぼくが言いたいんだ。おかあさんには言えなかったから。こういうのは生きてるうちに言っておかないとダメなんだよ、きっと」
「……まるで、おまえかおれが死ぬような言い草だな」
「ぼくは死んじゃうかもしれないけど、きみはお化けだからだいじょうぶなんだよね」
男の子は目を丸くした。
「おれはお化けなのか?」
「そうなんでしょ」
腕組みをして考える。
「……まあ、そうだな。お化けみたいなもんだな」
「やっぱりね」
「……おまえはおれが怖くないんだな」
「うん。ぜんぜん怖くないよ」
男の子はすこしだけ窓の外を見つめていた。
「……しょうがないな。じゃあ、とりあえず、そこに座れ」
背負ったままだったランドセルを机の上に置き、智春は教壇の前の席についた。
「いいなあ、机。ここで勉強するんだね」
にこにこしながら、机をなでる。
「緊張感がなさすぎるな。状況はかなり悪いんだぞ」
そう言いながら、男の子は教壇に上がった。
「最初に言っておく。おまえがおれの言うとおりに動いたとしても、生き残れるかはわからない」
「うん。……死んじゃってもしょうがないんだね。わかったよ」
「ほんとか? そんな簡単にうなずきやがって」
「できればおかあさんのお願いを叶えたいけど……そう簡単に叶うなんて思ってないよ。ぼくのお願いなんて、叶ったことは一度もないから」
「……まあ、やってみるしかないな。どのみちおまえはもう元の生活には戻れないんだから」
「元の生活って?」
「つまり、おまえが住んでいた家には戻れない。父親にももう会えない」
「どういうこと?」
「……生き残るっていうのはそう簡単じゃないんだよ。いろいろなものをなくさなければならないんだ」
智春はじっとなにごとかを考えていた。
「……でも、でもさ……同じじゃないかな」
「なにが」
「だって死んじゃったって家には帰れないよ。おとうさんとも会えない」
「んー、まあそうだな」
「ならいいよ。ぼく、生きてみる」
「……軽いな」
「だって、考えてもよくわからないから」
「そりゃそうか」
男の子はチョークを持ち、黒板に向かった。
「おまえ、ひらがなは読めるな」
「うん。漢字もすこしなら。おかあさんが教えてくれたから」
「じゃあ、いまからおれが黒板に文章を書いていくから、それを覚えて。でも絶対に声に出しちゃダメだからな」
「わかった」
いまからさんねんまえ、しょうざんしょうがっこうの、いのせんせいが、ほごしゃからりふじんなくじょうをいわれて、おんがくしつでくびをつった。せんせいはじょうぶつできていない。だからせんせいは、よなかになると、おんがくしつにぴあのをひきにくる。きょくもくは、れんしゅうきょく、だいじゅうにばん、はたんちょう、かくめい。
「よし、と。じゃあこれを全部覚えろよ。すこしくらいなら違ってもかまわない。意味なんか気にしなくてもいいから、とにかく丸暗記だ」
すでに智春は黒板をにらみ、ぶつぶつと口のなかで言葉をとなえている。
男の子は口をひらきかけてやめた。おそらくまわりのものが一切目に入っていないだろう。ものすごい集中力だった。
「……覚えたよ」
まだ五分もたっていなかった。
「うそだろ」
「本当だよ。言ってみようか」
「ダメ! 言葉に出しちゃいけない!」
そのあわてぶりに智春は驚いた。
「わかった、言わないよ」
男の子は黒板消しで自分の書いた文字を雑に消した。
「じゃあちょっと書いてみて」
チョークを目の前に出されて、智春の目が輝いた。
「黒板に書いていいの?」
「……好きなだけ、書けよ」
「うん」
うれしそうにチョークを握り、丁寧に文章を書いていく。書きあがったものは先ほどのものと一言一句違ってはいなかった。
「すごいな」
男の子が感心する。
「そう? 覚えるのは得意なんだ」
外から救急車の音が聞こえてきた。
「なにかあったのかな」
「気にするな。これからもっと多くなる」
「病気が流行るの?」
「違うよ。おまえはそんなことに気をとられるな。いちいち気にしてたら身がもたない」
「うん。あのさ、これ覚えて――」
「ストップ! 一切の質問はなしな。おれのことが信じられないのなら、やらなくてもいい」
出会ったばかりの子だ。それなのに生きるか死ぬかなんてとんでもない話をしている。全面的には信じられないという気持ちが勝っているのはたしかだ。智春が死んでしまうという理由がまったくわからないのだから、それもしょうがないだろう。むしろ、だまされている可能性のほうが高いかもしれない。全部信じろというほうが無理がある。でも、智春をだましたところでなんになる?
それにこの街に来てから、不思議なことばかりがおこる。それは夢のように醒めることなく続いている。しかもどうやら夢ではないらしい。
お化けの男の子は現実にこうして目の前にいる。智春の前に居続ける。
梨沙のことだって、とても嘘だとは思えない。あれは間違いなく梨沙だった。それだけは信じられる。
だったら、この子を信じてみてももいいんじゃないか。
「……ぼく、信じるよ」
「よし。なら、次にいこう」
「うん」
「いまからおまえの父親たちのところへいくんだ。そしてさっき覚えた文章を二人に言って、ここへ戻ってくる。できるか?」
どうしてそんなことをするの、と聞きそうになって智春はあわてて口をつぐむ。
質問は一切なし。
「……おとうさんたちに、あれを言ってくればいいんだね」
「そうだ。二人に最後まで聞いてもらって、ダッシュで戻ってこい。いいか、ちゃんと最後まで聞いてもらうんだぞ。途中までだと意味がないからな。どんなに怒られてもここに戻ってくるんだ。絶対に捕まるんじゃないぞ」
「わかった。やってみるよ」
「死ぬ覚悟でいって、ちゃんと帰ってこいよ。戻ってくるまで、おれがここでおまえのランドセルを見ててやるから」
「うん。いってくる」
智春はこわばった顔でうなずいた。
校門から出て、歩きながら考える。
たぶんおとうさんはぼくの話なんか聞いてくれない。どうしよう。どうにかして最後まで全部聞いてもらわなくちゃ。
智春は外から家の様子をうかがった。
どうやら、二人はリビングで酒を飲んでいるようだ。
「ただいま」
声をかけながら、リビングに顔を出す。
「よう、もう帰ってきたのか」
「子どもは元気に外で遊びなさーい」
二人ともかなり酔っているようだ。
「ねえ、お寺の人からおとうさんに言いなさいって、頼まれたんだけど」
「お寺の人? なんだよそれ」
首筋に汗が伝った。顔は暑いのに、体の芯が冷えていくのがわかった。
「あのね――」
つばを飲みこんでから一気にしゃべりはじめる。
「いまから三年前、照山小学校の伊野先生が、保護者から理不尽な苦情を言われて音楽室で首を吊った。先生は成仏できていない。だから先生は夜中になると音楽室にピアノを弾きにくる。曲目は練習曲第十二番ハ短調、革命」
早口でまくし立てると、きびすをかえした。
「なんだよ! 智春! おい、ちょっと待て!」
怒鳴る声が追いかけてくる。
「いたずらか! わかってんだろうな!」
捕まったら酷い目にあう!
「戻ってこい!」
心臓がどきどきしすぎて足がもつれて玄関ですっころんだ。
早く! 早く! 家を出なくちゃ!
「てめえ、智春!」
あせって靴のはきかたがわからない。靴を抱きかかえ、智春は裸足で玄関を飛びだした。夢中で走る。心臓が爆発しそうだ。とにかく前だけ見て走り続けた。
かなり遠くまできてから、ようやくおそるおそるふりかえる。真司も美知佳も追いかけてはこなかった。
ほっとして腰がくだける。全身汗だくだ。シャツをまくって顔をふく。すこし息を整えた。
もう一度ふりかえったが、だれも来る気配はない。でも油断は禁物だ。気を取りなおして智春は靴をはいた。
「痛っ」
足の裏はところどころ皮がめくれて血が出ていた。でもそんなことを気にしている場合じゃない。立ち上がり、つま先をとんとんと地面に打ちつける。
早く学校に戻ろう。
脇腹を押さえながら智春は走りだした。
10
教室で待っていた男の子の顔を見るとほっとした。
「おかえり」
今度こそ腰が抜けて、智春は床の上にひっくりかえった。
「ちゃんと言えたか」
荒い息で声が出せない。うなずくのが精一杯だった。
「すこし休んだら続きをしよう」
智春は差し出されたコップの水をぐいぐい飲んだ。
「――続きって、同じことやるの?」
「そうだ」
ポケットにハンカチがあったことを思いだし、取りだして乱暴に汗をぬぐった。
「いこうよ。もうだいじょうぶだから」
「もういいのか」
「うん、平気だよ」
「よし。じゃあ今度はランドセルを背負っていこう。そのほうがあやしまれない。小学生だと思って相手が油断するから」
ランドセルを背負うと智春は無意識に笑顔になった。
「近くまでおれも一緒にいく」
「うん」
連れ立って歩きだした。
「裏道を通ろう。こっちから入るぞ」
広い道をさけて、林のなかに入って歩いていく。
「ほら、ここから見えるあの家。今度はあの家の人にさっきの話をしてくるんだ」
白い二階建ての家を指してそう言った。
「あの家だね。わかった」
「それから大事なことがひとつ。もし、あの家の人に『話を聞いてくれ』って言われても、絶対に聞くなよ」
「聞いちゃいけないの」
「ダメだ。絶対に」
「うん」
「そうだな……耳をふさぐか、大声を出して話をさえぎれよ。とにかく、おまえの話だけを聞いてもらうんだ。おまえは人の話を聞いちゃいけない。わかったな」
「うん、わかったよ」
「よけいなことも言うなよ。なんか聞かれても適当にごまかすんだ」
うなずいて、智春は一人で林のなかから出ていく。
玄関の前に立ち、チャイムを鳴らした。
しばらくするとドアが薄くひらいて、女の人の顔がのぞいた。用心しているようだったが、智春を見ると安心したらしく、小首をかしげてドアを大きくあけてくれた。
美知佳ほど派手ではないが、あかぬけた値の張りそうなワンピースを着ている。こんな田舎には似つかわしくない身なりだ。智春と同じように外から来て、この街から出られなくなったのかもしれない。
「どうしたの、ランドセルなんて持って」
いきなりの質問だったので、一瞬の間があいた。
「……今日、登校日だったから」
うつむいたまま、智春は帽子の下から小さな声で答えた。
変に思われたらどうしよう。
だがそう心配することもなく、子どもに警戒することはないと判断したようで、女の人は玄関先に出てきてくれた。
「それで、うちになにか用があるのかな」
腰をかがめて、顔をのぞきこむようにしてたずねてくる。これ以上なにかを聞かれる前に、さっさと話を聞いてもらいたい。
智春はすぐに本題に入った。
「聞いてほしいことがあるんです」
「いいよ。聞いてあげる」
ほっとして顔を上げると女の人と視線が合った。優しそうな人だった。
「あの、あのね」
早くしゃべろうとしたが、気がせいて言葉がうまく出てこない。
「ちゃんと聞いてね」
「うん、わかった」
一度、深呼吸をしてから口をひらいた。
「いまから三年前、照山小学校の伊野先生が、保護者から理不尽な苦情を言われて音楽室で首を吊った。先生は成仏できていない。だから先生は夜中になると音楽室にピアノを弾きにくる。曲目は練習曲第十二番ハ短調、革命」
どうにか言い終えると、智春はあっけにとられている女の人にはかまわず、大声をあげながら走りだした。
林のなかに入ってから、ようやく口を閉じる。
「うまくいったらしいな」
「……うん……なんとか」
肩で息をしながら答える。
「じゃあ、このまま次にいくぞ。この近くにもう一人いるんだ」
二人でまた林のなかを進み、やがて次の家に到着した。
三度目となるとなんとなく慣れてきた。
だが今度の家はいくらチャイムを鳴らしてもだれも出てこない。ぐるっとまわりこんでリビングをのぞいてみると、おじいさんがソファに座っているのが見えた。
窓があいていたので声をかけるが、ふりむいてもくれない。
耳が遠いのかもしれないと思い、窓をたたきながら「すいませーん!」と大声を出すと、ようやく気づいて近づいてきた。
智春はおじいさんの耳元に口をよせて話をした。うなずくだけで、ちゃんと聞いてくれたのかはわからなかった。念のため、もう一度同じ話をくりかえしたが、やはりおじいさんはうなずくだけだった。これで戻っていいのか不安になり、助けを求めるように後ろをふりかえった。
林のなかから男の子が手招きをしている。
「じゃあ、ぼく、帰ります!」
「……ご苦労様です」
おじいさんは丁寧にお辞儀をした。
智春は小走りで林のなかに戻った。
「ちゃんと話を聞いてくれたのか、よくわからなかったんだよ」
「うん。あれでいい」
「ほんと? よかった。じゃあ、次は?」
「今日はもう終わりだ。あとはずっと隠れるんだ」
「隠れるの」
「そうだよ。だれにも見つからないようにする。明日になったら続きをやろう」
また遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
校舎一階の奥に畳敷きの部屋がある。そこは六畳ほどの広さで、窓がなかった。ドアを閉めると密室になり、すこし湿り気のある地下室のような空間だった。
「まずは……足を見せてみな」
男の子が救急箱を持ってくる。
「えっ、なんでわかるの」
「血の匂いがしてたから……しみるよ。ちょっと我慢な」
「痛……」
目にうっすらと涙を浮かべながら智春は耐えていた。
男の子は手際よく手当てを終える。
「お腹すいただろう」
小さなテーブルの上にはサンドイッチやおにぎりが置いてあった。でもずっと緊張していたので、お腹がへったとは感じなかった。
男の子はポットから急須にお湯をそそいだ。お茶とは違う、独特の香りが部屋に広がっていく。
智春のお腹が鳴った。
「すごくいい匂いだね」
目の前に置かれた湯のみから立ちのぼる香りを、智春は胸いっぱいに吸いこんだ。
「味もいいと思うよ」
「そうなの」
ふうー、と冷ましながらすこし飲む。
「おいしい! なにこれ」
「……漢方みたいなもんだよ。疲れがとれる。ほらこれ、好きなんだろ」
皿にのった卵のサンドイッチは市販のものではなかった。
「だれがつくったの」
「……ヒマなやつがつくったんだ。おまえが持ってきたお菓子はそいつらが食べた。だから、もうないぞ」
「べつにいいよ。そいつらって、きみの友だち?」
「まあ、知り合いだ」
「ここにいるの」
「いまはいないよ。ここにいるのはおれとおまえだけだ」
この子の友だちはやっぱりお化けなのかな。
そんなことを思いながらサンドイッチを一口食べてみて驚いた。
「おかあさんの味だ!」
そのまま夢中で口に運ぶ。
「おかあさんの味だよ! これ」
「違うよ」
「絶対そうだって!」
「手作りなんてみんな同じような味だろ」
「違うよ。おかあさんのは卵が甘いんだ。いつも間違えて砂糖をいっぱい入れちゃうから」
「でもこれは違うんだからな」
男の子はかたくなに否定する。
智春はむきになった。
「ぼくにはわかるんだ!」
「……わかったよ。じゃあそういうことにしておこう。とりあえず、食べちゃいな」
智春が食べ終わると、男の子は押入れの襖をあけた。なかに入っていた布団を引っぱりだす。
「疲れただろう。すこし眠れよ」
その言葉を聞いたとたん、どうしたことか強い眠気に襲われた。敷かれた布団にごろんと横になると、智春はすとんと眠ってしまった。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。それも一台ではない。複数のサイレンが交差しているのがわかった。
みんなどこにいくんだろう……。
眠っているはずの意識の下でそう思った。
すこし覚醒したらしくぼんやりと目が覚めた。智春は自分がどこにいるのかわからなかった。寝ぼけまなこでゆっくりと体を起こす。
あたりを見まわした。部屋は薄暗い。
「……もうちょっと寝てなよ」
部屋の隅の濃い暗がりから小さな声が聞こえた。
「……うん」
なぜかほっとして、智春はまた枕に頭をうずめた。
『……トモちゃん』
おかあさんの声がした。
『つらいことばかりかもしれないけど、生きていれば絶対にいいこともあるから。私がトモちゃんと出会えたようにね……』
これは夢だと智春にはわかっていた。
このまま目が覚めなければいいのにと、そう切に思う。永遠に夢のなかで生きていきたいと願うのは悪いことだろうか。
智春の頬に涙が伝った。
「……そろそろ起きなよ」
ゆり動かされて、智春は布団のなかでもぞもぞと動いた。しかし布団から出ようとはしなかった。
「……寝起きが悪いな」
布団をはがされたので丸くなる。そのまま動きを止めた。
「……子どもにはもっと睡眠時間が必要なのかな……しょうがない。もうすこしだけだよ」
はいだ布団を智春にかけ直して、男の子が立ち上がる。
「ちょっと出かけてくるから。おまえはこの部屋から出るなよ」
そう言って男の子は出ていった。
布団にくるまり、智春はその声をまどろみのなかで聞いていた。
「――いいかげん、起きなよ」
布団にもぐりこんだまま、智春はまだぐずぐずしていた。
「生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、緊張感がなさすぎるぞ」
「……だって、出たくないんだもん」
布団のなかからくぐもった声がする。
「起きろ!」
今度こそ完全に布団をはがれ、敷布団も抜き取られた。
「目、覚めたか」
「……うん」
男の子は智春の前にあぐらをかいて座り込む。
「もう時間がないんだ」
「時間? そういえばいまは何時なの」
部屋に時計はなかった。窓もないので時間がまったくわからない。
「……もう昼を過ぎた」
「えっ、ぼく、どのくらい寝てた」
「ほぼ丸一日」
「うそっ」
「そんなことはどうでもいいんだ!」
めずらしく男の子はあせっているようだった。口調にも余裕が感じられない。
「……いま外に出たら危ない。黙って話を聞いてくれる人も、もういないだろう。だから――」
男の子は唇をかんだ。
「――おれに話せ」
「は? なんできみに話すの。だってあれはきみが教えてくれたのに」
「仕方がないんだ」
不吉なものが胸をよぎる。
『一切の質問はなしな』
そう言われたからぼくはちゃんと考えなかったけど――ぼくの話を聞いた人はどうなるんだろう……。
たしかめずにはいられない。
「あのさ……あの話を聞いた人は――」
「時間がないんだ!」
真顔で怒鳴られて、智春は頭が真っ白になる。
「おれに話すんだ」
「……うん」
言われたとおりにしよう。ぼくにはそれしかできないから――。
話し終えると、耳の奥でパチン! となにかがはじけるような音がした。急に景色がゆがんで気が遠くなり、智春はその場に倒れこんだ。
11
だれかの話し声が聞くともなしに耳に入ってくる。
そういえば前にもこうやって、だれかの話す声を子守歌がわりにして眠ったことがあった。
なつかしいな。あれはいつのことだったかな……。
「……馬鹿なことを」
聞こえてきたその冷たい口調にはっとなり、智春は甘ったるくて心地よい場所から引きずり出された。
ぱっと目をあけ、声のしたほうを見る。
あたりはほの暗い。先ほどまでいた部屋のなかとも違うように感じた。
離れた場所に二つの影があった。
目をこらして見る。
男の子の背中が見えた。あとひとつは――。
「――気づいたようだよ」
そう言ったのは狐だった。
智春は飛び起きる。
「……そのあわてぶり。ひょっとして見えているのか?」
狐が近づいてきた。その毛色のせいなのか、体全体がほんのりと銀色に発光しているように見える。
「ひっ」
智春の顔に鼻づらを近づけてくる。
「運がないな……どうやら呪いが残ってしまったようだぞ」
「それくらいは仕方ないよ。こうして生きているんだからさ」
男の子が答えた。
呪い?
狐が鼻をくんくんさせた。
「でもこの匂いは嫌いじゃない。それに子どもはもともと勘が鋭いからな、いろいろと見えるようになったところで、どうってことはないと思うが」
「そうだね。それよりもさ、……人間の子どもはだれかが面倒をみないと死んでしまうんだ。さて、これからどうするか」
「生かしておいて死なせるなんて、そんな酔狂なことはしないだろう」
「まあね」
「じゃあどうする」
「……一応、こいつの意見も聞かないと」
男の子が智春の前に立った。
智春はその顔を見て違和感を覚えた。髪があきらかに伸びている。
「よかったな。生き残ったぞ」
長い前髪が左目を覆っていた。さっきまではそんなに長くはなかったはずだ。
「……髪の毛、伸びてる」
「これか? 持っていかれたんだ」
そう言って長い前髪をかきあげる。
左目のあったところには暗い穴がぽっかりとあいていた。
智春は悲鳴をあげる。
「なに驚いてんのさ。おまえのせいだよ」
狐が冷たく言い放った。
「身もふたもない言いかただね」
かきあげた前髪を元どおりにたらして目を隠しながら、男の子が非難めいた口調で言う。狐は、ふんと鼻を鳴らした。
「本当のことを言ったまでさ」
「……ぼくのせいなの?」
小声でたずねる。
「まあ、そうなるかな」
「ごめんなさい……」
「おまえにも呪いが残ったし、おれの見通しが甘かったってことだから、気にするなよ」
気にするなと言われても、そんなわけにはいかない。自分のせいで、この子は片目をなくしたのだから。
「で、おまえはこれからどうしたい」
「どう、って?」
「どうやって生きていくのかを聞いてんだけど」
「……ぼくはもう、死なないの?」
「死ぬよ。人間だからな。人間は全員死ぬんだ。でもおまえは、いまは生き残った。だから、これから死ぬまでのあいだをどうやって生きていくのかって聞いているんだけど」
「……ねえ、どうすればいい?」
「それをおれに聞くのかよ」
「だって友だちでしょ」
狐が笑いだした。
「前に聞いたよ。『友だちは、友だちの願いごとを叶えるためにいるんだ』って」
「……聞いたことないな」
「だって、きみはなんでも知ってるし、ぼくの味方になってくれたし、きっと、ちゃんとぼくのことを考えてくれると思うから」
狐は転げまわって笑いこけていた。
「ちょっと……気にさわるんだけど、その笑い声」
男の子はちらりと刺すような視線を狐に投げ、むっとした口調で言った。
「だって、こいつ面白い」
「子どもだからだろう」
「人間の子どもだって個性があるさ。この子は面白い。おまえのことをすっかり信じちゃっているもの」
男の子と狐のやり取りは智春の耳を素通りしていった。
生きていく――。
おかあさんには『生きて』って言われたけど、どうやって生きていくのかなんて考えたこともなかった。どうするのが一番いいんだろう。おかあさんならなんて言うかな。もう一度会って聞いてみたい。
「……あのさ、おかあさんにもう一度会わせてもらえないかな」
「梨沙っていう人? ちょっといまは無理だな」
「そうか。……あのさ、ぼくは前の生活に戻れないんだよね。もうおとうさんにも会えないんだよね」
「そうだな」
「でもそれって変に思われないかな。だっておとうさんのところから急にぼくがいなくなっちゃうってことでしょう。だれかが気づいて、きっと変に思うよ」
「えーと、おまえはなんか勘違いをしてるな」
「勘違い?」
「うん。だって、おまえの父親は死んだんだから」
死んだ……死んだ?
「……死んじゃったの? 病気で」
「違うよ。おまえの話を聞いたからだ」
どくん、と心臓が大きく波打った。
「……どういうこと」
「あの話には続きがあるんだ」
「続きって……」
「――この話を二十四時間以内にこの街の人五人に言わないと、あなたは不幸な死にかたをします――。つまりおまえの話を聞いたら、だれか五人に言わなくちゃならない。話を聞いたあの四人はそんなこと知らないからな。タイムリミットが来れば、とある大きな力が働いて死ぬようにできているんだ。前に言ったろ。この街はこの時期にあることが可能になるように仕組まれているって。そのあることっていうのが、殺人なんだよ。人を殺せる。この時期に殺したい人をこの街に入れてしまえば、ほぼ確実に殺すことができる。この街はそういう街なんだ」
智春は口をあけたまま、ぼんやりとあらぬ方向を向いていた。
「……おい、だいじょうぶか、この子ども。ちっとも動かなくなったぞ。どっか壊れたかな」
狐が智春のまわりをぐるりと一周する。
「おかしいのは最初からだったよ」
「壊れたおもちゃを拾ったってわけか」
「なんか気になったから」
狐が薄く笑った。
「ふふっ、おまえは変わってるな」
真司が死んだと聞かされても実感はなかった。梨沙のときとは違う。死んだところを見たわけじゃない。だから本当に死んだのかと疑ってしまう。話を聞いたくらいで人が死ぬなんて聞いたこともない。でもこのお化けの子は、智春と知り合ってからずっと嘘をついていない。すくなくとも智春は嘘をつかれたとは感じていない。
ぼくの話を聞いて、おとうさんは死んだ――。
熱が出る前触れのように、背筋がぞくぞくした。
「……ぼくは、人殺しなんだね……」
智春はため息にのせて小さくつぶやいた。
「いまさらなんだよ。『ぼくのせいでおかあさんが死んじゃった。きっとぼくは人殺しなんだと思う』って言ってたじゃないか」
「……そうだけど」
「それくらいのことで落ちこむなんて」
「それくらいって……人を殺したんだよ!」
「甘ったれるな! 言っただろ。生きるためにはいろいろなくすって」
「でも……」
「いいか。バカでなきゃ、そのオツムでよーく考えてみろよ。おまえの父親はどうしてこの街に来ることになったんだ?」
「それは――」
亮二が梨沙のお墓の場所を聞いたとき、真司はあの家の鍵を借りたと言っていた。
知り合いに借りた。一人でいってこいって言われた――たしかにそう言っていた。
「――知り合いに家の鍵を借りたって言ってた」
「じゃあそいつだ。その知り合いがおまえの父親を殺すつもりだったんだ」
「一人でいってこいって、念を押されたって」
「おまえとあの女が一緒に来たのは想定外ってことだな。おまえたちは運が悪かったんだよ」
「でも、運が悪かったってだけで死んじゃうなんて……」
「なに言ってんだ。運が悪くて事故にあって、あの梨沙って人は死んだんだぞ」
そのとおりだ。
でも、運が悪かったというだけですまされるのは、なんだか割り切れない思いがした。
「……あの話をぼくから聞いた人は、みんな死んじゃったんだね……」
「そうだ。おまえの父親に関しては、その知り合いっていうのがきっかけをつくった。一緒にいた女は運が悪かった。二件目にいった家の女は、おまえの前にべつのやつから違う話を聞いている。三軒目のじいさんは、おまえで三人目だ。だから、全部が全部おまえのせいってわけでもないんだよ」
ふと気づいた。
「ねえ……きみは、どうして平気なの」
智春は顔を上げて男の子を見る。
「ぼくは、最後にきみにあの話をしたんだ。それなのに、なんで生きてるの」
「たぶん……おれがここにこうしているのは、〈人間として生きている〉ってこととは違うからだろうな」
「……お化けだからってこと?」
また狐が笑った。
「うふふ。お化けだってさ。おまえはお化け以外に人間じゃないものの名前を知らないのかい」
「知ってるよ。妖怪とか怪獣とか魔女とか」
「絵本の世界だね。本当に子どもなんだなあ」
「からかうのはおやめよ。いいじゃないか、お化けで。どうせ本当の名前なんて知れやしないんだ。おれたちは勝手に人間がつけた名前で呼ばれているだけだろう。なら、お化けでもなんでもかまわないさ」
「まあ子どもだしな。仕方ないか」
男の子は智春に目を向ける。
「おれが死なないでここにいるのはお化けだからだよ。それにおれは話を〈まく〉ほうだったからな」
「まく?」
「元の話をだれかに教える役目だったんだ。おれ以外にもそういうやつはいたけどね。おれは最初からこっち側にいたんだよ」
「それでぼくにあの話を教えたんだね。……だれでもよかったんだ……」
智春はがっかりした。男の子はいまでは智春にとって特別な存在になりつつある。
狐が大きなため息をついた。
「なあ子ども。こいつに感謝しろよ。おまえを生かすためにこいつは馬鹿なことをした。片目っていう大きな代償を払ったんだ」
左目にぽっかりとあいた穴を思いだす。
智春は唇をかんだ。
狐の言うとおりだ。この子は智春のために自分の身を犠牲にしてくれた。理由はわからないがそれは事実だ。
「……ごめんなさい。それと……ありがとう」
「気にするな。――それで、おまえはこれからどうする」
ぼくが決めなくちゃならないんだ。
ぼくのことだから。
「人のいるところで暮らしたいなのら、そうしてもいい」
「人のいるところって? でもおとうさんが死んじゃったから、ぼくはどこかに預けられちゃうんじゃないの? 親戚とかいるかはわかんないけど」
「うーん、まだわかってないようだな。あのな……〈さくらいともはる〉は死んだんだ」
「えっ」
今度こそ本当に智春は言葉をなくした。
「おまえも死んだことにするんだよ。つじつま合わせのためにね。そうしないと面倒なんだ。役所の手続きとかが」
生きているけど、死んだことにするなんて……。
生きるためにいろいろなくすというのはこういうことだったのか。家も家族も友だちも捨てる。一瞬、亮二のことが頭に浮かんだが、いまさらもうどうしようもない。亮二の姉の美知佳は死んだ。智春のせいで死んだ。いまさら亮二に合わせる顔もない。
そして、智春もここで死んだ。
自分がいかにとんでもないことに巻き込まれたのかと、あらためて思い知らされた。
「おまえはこれからべつの名前で生きていく」
「べつの名前?」
「そう。あの梨沙って人の戸籍が残ってるからそれを使う。苗字は梨沙って人と同じにして、で、名前は――ハルでいいか」
「おかあさんの苗字、もらっていいの」
「いいって言ってたよ」
「……そう。なら、それでいいよ」
新しい名前にはあまり興味を示さず、智春はうつむいた。そんなことより、もっと大事な話がまだ残っているというような表情をしていた。
「……ねえ、きみはおかあさんが見えたんだよね」
「梨沙っていう人?」
「そう。でもほかにも……見えない? もう一人、見えなかった?」
「……どうして、そう思うんだ」
「あのね……思いだしたことがあるんだよ」
12
退院した日。
あの日病院で智春は真司に、梨沙が本当の母親ではないことを知っていると言った。そして、本当の母親のことを聞いた。
『いねえもんはいねえんだから、さっさと忘れちまえよ』
真司はそう言った。
なにかが引っかかった。古い木のささくれに着ていたものが引っかかってしまったように、智春は一瞬立ちどまった。そして考えた。記憶を掘りおこすには時間がかかる。けれど長い猶予は与えられなかった。そのあとはそれどころではなくすぐに忘れてしまったが、それでも頭のすみっこには残っていたのだろう。いつだったか、ふいに真司のその言葉がよみがえったのだ。
やっぱり前にも同じことを言った。いつ、どこで聞いたんだろう……。
ひたすら考えて、そしてついに思いだしたのだ。
たしか事故のすこし前、ちょうど寒くなりかけたころのことだ。
智春は道で子猫を拾った。
それは箱に入れて捨てられていたわけでもなく、なにかの動物に追われて逃げてきたわけでもない。アスファルトの道の真ん中に、ただぽつんといたのだ。
智春は自分の歩いていく先に、小さな毛玉が置いてあると思った。近づいてはじめて、それが生きている子猫だとわかった。
白と茶色の毛が丸まっている。抱きあげるとみゃあみゃあと鳴きながら指を思いきりひらいて爪を出した。智春は爪を気にもとめずに体中を調べたが、子猫はどこにもケガをしてはいなかった。
あたりを見まわしたが人気はない。道の両脇は工場や会社の敷地で、植えこみやコンクリートの壁が続いている場所だ。猫を飼っていそうな民家はなかった。
智春はそのまま猫を抱いて家に戻った。
「わあ、子猫!」
梨沙がうれしそうに智春から抱きとる。子猫は素直に梨沙に抱かれていた。
「どこにいたの?」
智春の説明を聞いて梨沙も首をかしげる。
「猫を飼ってる家なんてないしね。会社とかじゃ子どもなんて産めないよね。あとは……最近は猫とか犬を車で捨てにくる人もいるって聞いたことがあるけど……」
小皿に牛乳を入れて、子猫の目の前に置く。
「可愛いね」
子猫が皿の牛乳をなめとる様子を見ながら、智春は梨沙に聞いた。
「飼っちゃだめ?」
「いいんじゃないかな。トモちゃんの猫にしちゃっても」
梨沙と相談して、真司の機嫌のいいときを見はからって「飼ってもいい?」と聞くと、「いいよ」と簡単にオーケーがでた。
「この子はオスだから、トモちゃんの弟だね。名前はどうする?」
「じゃあ……春の次だから、ナツ」
もちろん智春も梨沙もナツを可愛がったし、気に入ったのか真司もわりとからかって遊んだりしていた。
だが十日もたったころ、ナツがいきなり姿を消した。
朝、智春が目を覚ますと、バスケットでつくった寝床にナツがいなかった。
「おかあさん、ナツがいないよ。どこいったの?」
「えっ、うそでしょう。外には出してないよ。やだ、ほんとだ。いつの間に……」
からのバスケットを見て、梨沙の顔がくもる。
「ぼく、探してくる」
智春は家を飛びだした。
「待って、私もいくから」
二人で探したが、ナツはどこにもいなかった。どこをどう探しても見つからなかった。
「おうちがわかって帰ったのかなー。それとも、可愛いからだれかが連れていっちゃったのかもしれないね」
梨沙はそうなぐさめた。
でも智春はあきらめきれなかった。名前までつけて可愛いがったのに、こんなに簡単に消えてしまうなんて許せなかった。
ぐずぐずと泣きながら家に帰ると、真司が舌打ちをした。
「いつまでも泣いてんじゃねえよ。いねえものはいねえんだから、さっさと忘れちまえよ!」
それから智春は泣きつかれて眠ってしまった。
夢のなかで声がする。
智春は二人に背中を向けて寝ているのに、なぜか梨沙と真司の姿が見えた。夢だからこういうこともあるんだと、そう思った。
「ねえ、本当に知らないの」
ふてくされた顔で真司が腕をまくりあげ、梨沙の前に突きだした。腕には赤い引っかき傷が残っていた。
「引っかかれたんだ」
「そのくらいで……で、どうしたのよ」
「公園」
「捨ててきたのね」
「そんなことはしねーよ」
「じゃあどうしたの」
真司がにやりとする。
「ちゃんと埋めてきた」
梨沙の顔色が変わったが、なにも言わなかった。
その夢のなかで智春は考えていた。
寝ているはずなのに妙に頭がさえていた。
埋めた、埋めた、埋めた……。
生きたまま埋めたのか。それとも死んだから埋めたのか。もし生きたまま埋めようとしたら、ナツは死に物狂いで抵抗するだろう。引っかくどころか、かみついたりもするに違いない。そうしたらあの程度の傷ですむわけがない。なら、死んでいたのを埋めたのか。だとしたら、どうして死んだのか。逃げようとして車にはねられたとか、高いところに上って落ちたとか、それとも――だれかが殺した、とか……。
ナツはもういない。
もうあきらめるしかない。
怒るとなにをするかわからない人だから。
だから、ぼくは、これからも気をつけなくちゃいけない――。
「――ぼくの、本当のおかあさん。もしかしたら、きみ、見えたんじゃないかと思ったんだ」
「見えたよ」
やっぱりそうだった。
「……死んじゃったんだね」
「そうだな」
「病気だったのかな?」
「病気でも事故でもないよ」
そうか、やっぱり……。
「……おとうさんだ」
智春にはわかる。
それが真実だと思った。
おとうさんはぼくのせいで死んだ。もういない。悲しくはない。なんとも思わない。涙も出ない。けれど――。
ピシッ。
半分になったハート形の心臓にひびが入る音がした。
「おとうさんは人殺しだ。悪いことをしたら罰を受けるのは当然だよね。だからおとうさんは死んだ。ぼくに殺された。ねえ、それでいいのかな?」
智春のすがるような目を、男の子は悲しそうに見た。
「さあ、どうかな……。おまえ自身のことだから他人には決められないよ。おまえがそれでいいって思えば、それでいいんじゃないのか」
「……自分のことは自分でなんとかしろってことだね」
これからどうやって生きていくか。もう、ぼくのことはぼくが決めていいんだ。
智春は男の子をまっすぐに見る。
「ぼくは――きみと一緒にいたい」
「えっ、おれ?」
「ずうずうしい子どもだね!」
狐が口をとがらせる。
「代償まで払わせて、そのうえ飼ってくれっていうのかい」
「きみといたい。ぼくと友だちになってよ」
「うーん」
男の子は腕組みをしてうなった。
「あーまったく、子どもってなんてわがままなんだろう! 人間の子どもがずっとお山で暮らせるわけがないだろう」
「でも一緒にいたいんだ」
「またずいぶんと懐かれたもんだね」
狐が尾を震わせてあきれたように言う。
「しょうがないな。じゃあ、おれがお山をおりるか」
「甘い! 甘すぎるよ! おまえは、また――」
「だってもうひん死だよ、この子。それに、さっきおまえも言ってたじゃないか。生かしておいて見殺しにするなんて、おれはそんなにねじけてないし。それにね、おれだって、たまにはお山をおりるのもいいかもしれない」
「たまにはって……」
「たぶん、そう長くはないよ。……今回はね」
「……おまえがそう決めたのなら、好きにするがいいさ」
狐の声がしずんだ。
「悪いな」
男の子は狐の頭を優しくなでる。
智春に顔を向けると、男の子が言った。
「おまえと一緒にいてやるよ」
智春は目を輝かせた。
「本当に?」
「うん。ただし、小学校はここに通ってもらう。ここのほうがなにかと便利だからな。お山をおりるのはそれからだ。それでいいか」
「いいよ。きみと一緒にいられるなら。……一人は、もう、イヤなんだ」
「わかった。おまえには呪いが残ったけど、かえって運がよかったな。まっさらな人間じゃないから、しばらくここにいても問題ないだろう。こいよ」
男の子は手を差しだす。
智春はあのときのことを思いだした。
お墓参りに連れていってもらったあの日も、こうして手を差しだしてくれた。智春を引っぱりあげ、山の上から広がる景色を見せてくれた。
この手を取ったらなにが見えるんだろう。
それは怖いものかもしれない。また怖い目にあうかもしれない。不安はある。いつもあった。生きていくだけで不安だらけだ。
智春は男の子の手を取った。
しっかりと握る。
欠けた心と傷ついた体のままで。それでも梨沙の願いを叶えるために――生きてみよう。
「よろしくな、ハル」
智春はにっこりする。
それは見るものをなごませる天使のような微笑みだった。
了