ギン・シノハナ(1)
一人の復讐者の話をしよう。
彼の名前は花菱銀。花菱家の一人息子として生を受けた少年だ。
性格はよくも悪くも普通。消極的なところはあるが基本的には優しい、けど友人と集まっていると勢いでバカをやらかす。そんなどこにでもいる普通の少年だ
ただこの普通は現代においては非常に稀な存在である。なにせ今の世界は歴史上の偉人たちによって散々弄ばれて荒れに荒れているのだから。
そんな世界にまともな人間が育てる環境なんて殆ど存在しない。大体の人間が今その瞬間を生き抜こうと必死だ。他人を慮る余裕なんて誰にも無い。
けど彼は実に幸運だった。彼の生まれた花菱家はとても裕福な一族で、所謂貴族階級というやつだった。人の上に立ち富と権力を持った生まれながらの勝ち組。彼はその一員として生まれたのだ。
富と権力に囲まれると自然に人は堕落するものなのだ。しかし当時の花菱家の当主、つまり彼の父親はとても厳格な人物で。ノブレスオブリージュ。その思想を体現せんとする今の世界においては非常に貴重な尊敬すべき立派な人物だったそうだ。
そんな人物の下に生まれたことで彼はまともな道徳を身に着けることができ、幸せな生活を送っていた。
……あの日までは。
その日は社交界パーティが開かれていた。それはその時丁度10歳になるギンの社交界デビューの日でもあった。
その社交パーティーには何故か隠居していたはずの祖父も来ていた。何でも孫の社交界デビューと聞いていても立ってもいられなかったとか。その話を聞いた父には呆れられていた。
祖父は顔だけ見るととても厳つい人物だが、とても優しい人物だった。自分が生まれるより前、花菱家の当主をしていた時は凄い暴れていたらしいが父に家督を譲り隠居してからは前の面影はどこへやらといった様子で一気に落ち着いたようだ。
偶に会ってはよく剣の稽古をつけてくれる優しいお爺ちゃんだ。
さてそんな優しい視線に囲まれながらギンはズボンの下で軽く足が震えるくらいには緊張していた。
一通りの礼節やマナーを叩き込まれたとは言え所詮は年端もいかない一人の男の子。周りにいる知り合いは両親だけな上に独特の重さがあるパーティの空気に包まれて萎縮してしまったのも仕方の無いことだ。
誰かに話しかけようにも殆どが大人で、無論子供もいたがギンから見れば明らかに年上だろうと思われるような子達ばかりだった。
(やっぱり怖い。飯だけ食って時間を潰してよう)
そんな風に適当に時間を潰そうとしていた時だった。
「貴方がギン君?」
ギンが声のした方を向くとそこには恐らく同世代くらいであろう女の子がいた。
「初めまして。メアリー・テスタロッサと言います」
ここに来る途中でギンは父からある話を聞いていたことを思い出していた。
ギンと同い年の女の子も丁度今日、社交界デビューするそうだから仲良くしてやりなさい、と。
「こちらこそ初めまして。花菱銀と言います。もしかしてキミが同い年の子だっていう?」
「ええそうよ。フフッ、同い年の子がいてくれて助かったわ。お父様とお母様以外に知り合いがいなくてとても困ってたの」
「僕もだよ。そうだお近づきの印にこれでも食べるかい?」
「フフフ、貴方が作ったものじゃないのに。何だか可笑しいわ」
そこからは二人してさっきまでの退屈な時間を取り戻さんとするかのようにはしゃぎ回った。
社交パーティーではしゃぐだなんてマナーがなってないと思う人もいるかもしれないが、やっぱりそこは子供なんだなと諦めてほしい。
何度か怒られかけて二人してヒヤッとしたが。その後は二人して大口開けて笑ったりもした。
……今にして思えばその瞬間こそが人生で最も楽しい一時だったのかもしれない。
それはギンの故郷に古くから伝わるという遊びである“かくれんぼ”をして遊んでいる時に起きた。
隠れる側になったギンは会場の端のほうにあった、上に何も置かれていない白いクロスの掛けられた机の下に潜り込んだ。
中は煌びやかなシャンデリアから降り注ぐ光が白い布で少しだけ遮られて落ち着く暗さになっていた。ちょっとした秘密基地のようだとその時ギンは思っていた。
途中、メアリーは部屋の隅で目立たないこの机に気づくだろうかと少し怖くもなったが。そもそもパーティ会場で隠れられる場所なんて窓のカーテンの裏か机の下くらいしか無いのだからきっと見つけてくれるだろう。
そんなことを考えていた時だった。
バチッという音と共に世界が闇に包まれた。
その音が停電により明かりが消えたことを示すことにまだ幼いギンには思い至らなかった。
そして惨劇の幕が開いた。
今度はガラスが割れるような大きな音がしたかと思うと銃声が鳴り響いた。その音は聞いたことがあった。父に連れられていった貧民街で治安維持部隊が撃っているのを見たことがあるから。そしてその音を皮切りに悲鳴と怒号の不協和音が奏でられ始めた。
散発的に鳴り響く銃声と誰かのくぐもった声。停電により開かなくなった大扉を必死に叩く音。金属と金属のぶつかり合う音。
悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
白い布の向こうで繰り広げられているであろう惨劇にギンは目の前の机の脚に捕まって声も出せずにひたすら震えることしか出来なかった。
それからどれほど時間が経ったのか最早自分の感覚では分かなかった。既に先程の喧騒は消え去り代わりに暑さと何か唸り声のような音が聞こえていた。
顔は涙と鼻水に塗れてズボンは恐怖による排泄で不快感の塊になっていた。動こうと、そう思っても中々机の脚から身を離すことが出来なかった。
それでもこの不快感から脱するために脚から手を離しどうにか机の下から這い出ると、自分の想像を超えた地獄がそこにあった。
いつの間にか炎が燃え広がっており煌々と照らされている部屋の中には倒れた机と散乱した食べ物、そして床に横になって焼かれている人々が見えた。焼かれて臭いが無くなったことと炎の煙に苦しめられていたことで少なくとも嘔吐せずにはすんだ。
誰かいないのかと辺りを見渡すがここにはただ炎と死体と死体と死体とシタイとシタイとシタイトシタイトシタイトシタイト……。
恐怖に立っていられず四つん這いになると右手に何かが当たった。
そこには敬愛する父の頭だけがあった。
……気づけば言葉にならない叫びをあげていた。
喉が焼き付くくらいにただ叫び続けた。本能がただ叫ばせ続けた。
何時間叫び続けか分からない程、いや多分子供の体力を考えると数分間の出来事だったのかもしれないが、叫んでから力尽きて床に倒れた時にギンはそれを見た。
炎の揺らぎの切り目、月夜の光を背景に窓から去ろうとしている翼のようなものを両手に持った鳥のような顔をした人物の姿を……。
その後のことはよく覚えていない。次に目が覚めたら病院のベットの上だった。
その後の顛末をギンは頭に包帯をして腕にギプスを嵌めた祖父に聞いた。
祖父はその時偶々外に出ていたこと。気づいた時にはすでに会場の館全てに火が回りきった後だったこと。それでもどうにか生存者がいないか探した結果ギンだけは見つかったこと。……ギン以外の生存者は誰一人見つからなかったこと。
その時ギンが思ったことは祖父が生きていたことより、父が頭だけになって殺されていたことより、仲良くなったメアリーが死んでしまったことよりも。気絶する間際に見た、あの黒い鳥のようなまるで鴉のような男のことをずっと考えていた。
それが何故なのかはその時はさっぱり分からなかった。
そして目の前で大勢の死を見て茫然自失になっているように見える、実際には自分の感情に困惑していただけなのだが、ギンには酷と分かっていながらも祖父はそれでも一つの道を示してきた。
「ギン……復讐をしたくはないか?」